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『尾張の織田家は元々は藤原氏、橘氏に連なるものであり、熱田神宮とも深いつながりがあったようです。
尾張の物流を司る津島神社の宮司家に連なる者であり、津島港を押さえていたため、尾張守護の斯波氏や尾張守護代の織田本家もうかつに手を出せない立場にあったようです。

尾張における海運の発祥は、日本武尊が東国遠征から帰ったあと婚姻すると約束した美夜受比売の兄、建稲種命。
この人が尾張水軍を率いてた人で、尾張氏。
藤原氏を中心とした物部連に連なる人です。
この美夜受比売がのちに日本武尊から預かった剣こそ、通称、「草薙の剣」と呼ばれる「天叢雲剣」です。
そして、その剣を収め、祀ったのが熱田神宮です。
今でも熱田神宮の奥には「天叢雲剣」が御神体としてあるらしい。
このように熱田神宮は常に、尾張の物流の根幹を握っていたようです。」

という内容を読み聞きしたのですが、本当に織田氏は藤原氏=熱田神宮に関係する家系なのでしょうか?
(信長が平氏を名乗ったのは知っています。)

A 回答 (7件)

『織田系図』・『織田家譜』では平重盛の子資盛の遺児、親真を祖とし、初めは近江国津田荘に、そして越前国丹生郡織田荘の織田剣神社の神官へ養子となり織田氏を称したとあります。


 しかし、永正15年(1518)に守護代織田達勝が円福寺に出した禁制では「藤原達勝」とあり、信長も天文18年(1549)に出した禁札に「藤原信長」と署名しています。信長が平姓を名乗ったのはご承知の通り天下統一に向けて、源氏である足利家への抵抗からでしょう。そのため、平氏の落胤に結びつけた系図を作成したというのが妥当ですね。

 ですから織田氏は、藤原氏であり越前国丹生郡織田荘を本拠としていたというのが、通説となっています。ただ信長が途中から平と氏を変えたように、「織田は藤原氏だった」というよりも、「織田は藤原氏を名乗っていた」ぐらいに見るのが妥当ではないでしょうか。昔は地方ほど無姓の者は「藤原」を名乗って、ステータスとしていた時代もあったのですから。それが大量に藤原氏の流れを汲む一族が生まれる一因となります。

 また藤原だったから攻めなかったというのも、後世の後付の域を出ない内容でしょう。今目の前にいる肉親ですら平気に争っていた時代に、そんな大昔の氏族つながりがどれほど意味があったでしょう。

「氏神というものは複数存在するものなのでしょうか」
氏神が本来の“氏の祖神、祖先を祀った神社、あるいは神”という意味ではなく、郷土の産土神や有力神を氏族の守護神としたものという意味で使われているのであれば、複数存在してもおかしくはないでしょう。それ以前に藤原氏であれば氏神社は奈良の春日神社ですが、藤原といっても鎌足や不比等の流れを汲むものではなく、ステータスとして名乗っていた藤原であれば、そほど意識はしないでしょうね。

 尾張氏(おわりうじ)は天火明命を祖神とし、本宗家は天武天皇13年(684)に姓(かばね:氏とともに朝廷より賜る称号)を連(むらじ)からより高いの宿彌(すくね)に改められます。

 熱田神宮は当初、尾張氏が奉斎していましたが、12世紀初頭からは藤原南家の熱田大宮司流が大宮司を勤めます。

『国史大辞典』吉川弘文館
『日本史諸氏諸家系図大辞典』講談社
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この回答へのお礼

詳しい説明をありがとうございます。要点をまとめると

1、織田家は藤原姓を名乗っていた。(信長が途中から平氏に変えた。)
2、熱田神宮の宮司は12世紀初頭からは藤原南家が務めた。
3、氏神は複数存在する。

という事実は存在するのですね。
貴重な意見をありがとうございます。
参考にします。

お礼日時:2007/02/21 22:24

私の学生時代の友人は大手の銀行に就職しましたが、結婚を機にユーターン。

  郷里、福井県の織田町の町長を四期勤めました。 任期中に、全国で信長にゆかりのある市町村を集めて『信長サミット』を開催して、町起こしに奔走していました。 

ずっと辿れば、どこかへ行き着くのでしょうが、正直言えば、みんな『馬の骨』ではないでしょうか。 

福井県の織田町(現在は越前町)って、行けばわかりますが、本当に田舎ですよ。 下克上で馬の骨が成り上がって群雄割拠。 それが戦国時代です。 武士の集団といっても、始めは野盗集団だったわけです。 
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この回答へのお礼

その可能性も高いですね。
松平(徳川)などはそのような集団だったと思います。
織田家はもしかしたら藤原氏だったのかもしれないと思っています。
平氏というのは嘘でしょうが・・・。
もしかしたら、藤原氏、橘氏に関係した、熱田神宮・津島神社の宮司家に連なる者だったのかもしれません。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/25 06:10

>>その作者によると、「物部連」という組織があったそうです。


>>物部氏とは関係ないそうですよ。
 物部氏(もののべうじ)の姓(かばね)は連(むらじ)です。
 姓は時代によって定義は少しずつ変わりますが、氏を尊んだ名で氏そのもの、あるいは氏の下に付ける尊称です。
 原始では彦(ひこ)・媛(ひめ)・守(もり)・君(きみ)などや、古代では公(きみ)・臣(おみ)・薬師(くすし)・県主(あがたぬし)など、出自、官職に関係する姓もあります。

 天武天皇13年に定められた姓は
真人(まひと)・道師(みちし)・朝臣(あそん)・臣(おみ)・宿彌(すくね)・連(むらじ)・忌寸(いみき)・稲置(いなき)
の八色(やくさ)が定められます。

この回答への補足

物部氏の連という姓(かばね)は高校の歴史教育で習ったので知っています。
その作者の言う「物部連」は組織の名称であって、物部氏の姓が連だということは関係ありません。
「八幡講」という組織に八幡氏が関係ないのと同じことです。
多少の影響はあったのかもしれませんが。

補足日時:2007/02/22 21:37
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この回答へのお礼

物部の連というのは高校の歴史教育で習いました。
「物部連」という名称の組織があって、鴨氏などが所属していたらしいですよ。
この組織は宗教的結束により団結し、京の吉田神社、伊予の大山祇神社を基点としていたらしいです。
これに対抗して源義家が作った組織が「八幡講」らしいです。
しかし、「八幡講」という組織は八幡氏(八幡氏は陸奥国宮城郡の領主で、その先祖は代々陸奥介を称していた。平姓。)とは関係ありません。
どこまでが真実なのかは謎ですが・・・。
わざわざありがとうございました。

お礼日時:2007/02/22 20:19

織田家はNo.1さんのいう通り、越前丹生郡織田庄出身で先祖は平の重盛という家系図になっていますが。

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織田信秀(信長の父)が勢力を拡大するにあたり、津島の港から得る関銭は生命線でした。

津島や熱田との関係を密にする必要は、当然あったでしょう。藤原姓を称したのも、それが理由だと考えます。
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熱田神宮は


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%B1%E7%94%B0% …

× 藤原氏と物部氏って関係あったかな?中臣氏と物部氏が関係あると言われちゃ、日本人全部が関係あるみたいになりゃせんかい?

○ 斯波家が、越前と尾張の両方の守護をやっていたので、越前の剣神社に関係する織田家も尾張に連れてきたということです。
こういった例は、畠山家にくっついていた遊佐家とか、上杉家にくっついていた長尾家とか結構、ありますね、守護代レベルの家系ですと。

この回答への補足

その作者によると、「物部連」という組織があったそうです。
物部氏とは関係ないそうですよ。
源義家が作った「八幡講」と同じような組織らしいのですが。
歴史は謎が多いですね。

補足日時:2007/02/21 00:53
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この回答へのお礼

三種の神器の一つの「草薙剣」は、やっぱり熱田神宮にあったのですね。
貴重な意見をありがとうございます。
現在、流布している三種の神器説は俗説だという確信が深まりました。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/02/21 00:57
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この回答へのお礼

なるほど。
「織田信長が氏神と崇め奉り、格別の信仰をもって、神領を寄進し神社を御保護しました。」と書いてありますね。

津島神社を調べてみたところ
「織田家の信長は、津島神社を氏神と仰いで造営その他に奉仕し、また信長につづき秀吉をはじめとした豊臣一門は、社領を寄進し造営を援けるなど信仰が篤かった。」
とありました。

氏神というものは複数存在するものなのでしょうか?
どちらの神社の言い分が正しいのかは謎ですね。

貴重な意見をありがとうございました。

お礼日時:2007/02/21 01:05

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