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 いくつかに質問がまたがってしまうので、失礼かとは思いますが、順列を付けて質問させていただきたいと思います。

1,「院政」というのは、「白川天皇が息子の堀河天皇に譲位し、その実、実権は自分が握り続けたのが始まり」という認識は正しい認識でしょうか?

2,上皇・法皇のうち、「法皇(太上法皇)」とは、仏教勢力との繋がりや、ごますりを示唆するものでなく、「続日本紀の聖武天皇の東大寺大仏開眼供養の際に、そう自身が名乗ったことに由来する」。これも間違いないでしょうか?

3,「院政は、習慣化していた摂関政治に対抗するために、その間隙を縫って、その習慣自体を利用し、似たシステムを作り上げた」ということで良いでしょうか?

4,そもそも摂関政治が習慣化したことは、天皇自身が弓を取らなくなり(私の記憶が正しければ、持統天皇以降に天皇の実権が極端に弱くなっているので)、周りの貴族に実権が移ったからである。また、天皇が弓を取らなくなったのは、「死穢を嫌って」のことであり、金属製だった鎧が「動物の死体である革」に代わっていったからである。これはいかがでしょう?

 また、こちらは純粋にわからないのですが、桓武天皇以前の「軍団制」は中央・地方、ともにどのような形だったのでしょうか、お教えください。

  
 複数の質問で恐縮ですが、何卒よろしくお願いします。

A 回答 (1件)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%A2%E6%94%BF
にだいたい出ている。
1、3
前は、藤原摂関家に対する対抗上みたいな言い方をされていたが、最近は、天皇個人の自分の血統に皇位を継承させるための行為という説明が多いですね。
院政―もうひとつの天皇制 (新書)
美川 圭 (著)
などは、このスタンス。
2:単純に上皇が仏門に入ったので法皇となっただけで、仏教界との関係性はないようです。
4:天皇自身が弓を取ることが、権力構成にとって重要なことであるとすると、摂関家が権力を取ったことが説明できない。天皇家が弓を取らず、摂関家が弓を取ったので権力を握った…わけではないので、説明に妥当性がない。
摂関政治のキモもまた、自己の都合のいい血統に天皇を就かせること。ちなみに、摂関政治の最盛期と言われる道長は、関白になったこともなく、摂政になったのも一年ちょっとしかない。内覧は20年くらいありますが。
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