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はじめまして。

 少し前の話になるのですが、辻本清美元議員が鈴木宗男元自民党議員の証人喚問の際に彼を徹底的に非難していました。
 その数十日後今度は辻本氏が秘書給与疑惑によって、今度は徹底的に自民党の側から非難を受けていました。
 その席で辻本氏は同じような事件で辞職した山本譲二氏との類似性を指摘されたときに、「彼とは違う」と僕から見ればどう見ても言い訳にしか聞こえないようなことをいっていました。

 そういった様子を見ていて、結局人のことはガンガン厳しいことを言っても自分のことになるとみんなしどろもどろになるんだと感じました。
 そして、『人が人を非難することってできるのかな』と思いました。
 
 瀋陽(しんよう)の副領事館の対応だってほとんどの日本人は非難していますが、じゃあ、自分はきちんと対応できるのかといわれたときに自信を持ってできるといえる人がどれくらいいるでしょうか。
 まぁ、確かに『副領事館をやるんだったらそれくらいきちんと対応しなければならない』という人がいるかとは思いますが、日本の人事制度って上に立つ人が職に見合っただけの責任感を持っているとはとても思えないのですが。

 殺人にしたって「人を殺した。なんて悪いやつだ」と決め付けてしまって、その人がどういう動機で人を殺したのかを知りもしないで、っていうか、知ろうともしないで非難だけするのは不公平な気がします。
 たとえ自分勝手な動機であったとしても、その人のことをよく知りもしないくせに悪者だと(時には『鬼』とかいう表題が上ったりもしますが)いうのはおかしいのではないかと僕は思います。

 う~ん、なんか長くなってしまいましたが、つまり人が人を非難する場合はもっとその人のことをよく知ってからするべきじゃないかなと思うわけです。皆さんのご意見を聞かせてくれたらうれしいです。
 お願いします。

A 回答 (11件中1~10件)

「非難」とは、他人の欠点や過失をとりあげて、それは悪いことだと云って責めることを云いますが、政治の場における「非難」はまた違ってきます。


そもそも証人喚問は国政調査の一環として行われるもので、国会の不正や疑惑を解明するためのものですから、個人を非難するためのものではありません。
しかし、azariさんが感じておられるように、こいつがちゃんと機能してないんです。
相手の情報を週刊誌程度でしか拾ってこれない議員ほど、敵のあげ足取りに夢中になってます。(議員に強制調査権がないせいでもあるけれど)

たとえば欧米では、非難はその人の「行為」「思想」に向けられるものであって、その人の人格を傷つけるものではありません。
システムを改善するためには、このような「公の非難」は欠かせないのです。
ところが日本人はこの「公の非難」を苦手とします。
非難された者は、自分の人格、全存在を否定されたような気になります。
非難する者も、本来の役割を忘れ、相手の全存在を否定するために躍起になる人が多い気がします。
議論ができない日本人、ですね。

瀋陽副領事館と殺人のケースは、民衆が「私的な非難」を向ける端的な例かと思います。事件が起きたときに、それに憤りを感じる人間の気持ちはご理解されるでしょう。
その憤りを言葉として発することが、すなわち「私的な非難」だと思うのです。
庶民が娑婆で何を発言しようと何の責任も負いませんが、「道徳観念」という枠には制限されます。
azariさんが問題提起してらっしゃるのは、この「道徳観念」なのではないか、と感じました。

>人が人を非難する場合はもっとその人のことをよく知ってからするべき
これには私も賛同します。正論だと思います。
ただし人の心の働きは、残念ながらいつも道徳の枠にはまるものではありません。
誰かがとある権力によって不条理な目にあっている、そのことに憤りを感じる心は道徳心ですが、それがエスカレートして「相手をとことんやっつけ」ようと悪口雑言をまくしたてたり、プライバシーを侵したりすることは、道徳的ではありません。
「憤っても口にするな」というのは酷な注文です。ただ、
「憤ったら相手のことを知れ」というのazariさんのご意見は、道徳上有益な警句だなと思いました。
何も知らないくせに相手のことばかり非難している政治家さんたちに、実際私たちはうんざりしているのですもの。
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私は非難するされるというのは言論によるある種の戦いだと思うんです。

精神の持ちようで非常に難しいのですが、言論で戦う場合は自分(自分の意見でまたは主張)の事は「絶対に」肯定しなければなりません。わかりにくいですが、戦いですから勝たなければ敗北です。そのためには言論上どのような手段をつかってもよいのではないでしょうか。
つまり人はどんどん非難していいと思います。ただし非難する際に対抗意見としてしっかりした根拠のある意見をもって非難するのが言論上の騎士道でしょうが、戦いですから節操のない文明度の低い野蛮な戦いとなる場合もある事でしょう。それも有りです。何を発言してはいけないか、というルールがあるのもいいですが修行だと思えば差別用語&罵詈雑言なんでもきた方が私は好きですね。
戦いですから心で行う物でなく、頭脳のみで行うのが正しいやり方。良心に照会する必要は有りませんよ。正しいかどうかだれかに許可を頂く必要もない。
自分の事は絶対に肯定しきれていなければなりませんので、棚に上げた状態で正しいと思います。非難というのは意見を主張する行為です。自分が正しい、対象は間違っている、という前提で良いと思います。

マスコミなど、多くの人にばらまかれる内容で反論の場がえられないまま非難される場合はどう対処したらいいんでしょうね。アメリカだと問題を法で解決する社会ですから「名誉毀損」による告訴もできるんでしょうが、日本の場合、問題を法で解決せず慣習に頼る法の2元構造社会ですからこういった事で告訴する場合のケースとかあまりきかないですね。

知りもしないで、正しいかどうか考えずになにかを決め付けるのもテクニックの一つ。例えば「女性は育児家事に適している」。実際のことを良く知りもしないで頻繁に使われる表現です。ひょっとしたら差別かもしれませんが発言しても問題にはならないでしょ?
人をおもいどうりに扱い、落とし所に落とし込む場合のテクニックのひとつですよ。

いっていいんですよ。言論で「戦」って相手を支配下に置き制御するためには
相手の事など考えないのが正しいのだと思います。
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他人への不平不満を口にする時は結構自分を見失っている事が多いです。


「あんたが言うな!」と言う反感を買って当然です…

この事は私のここでの回答にも言える事で痛いです…
時に反感を買うこともありましたし…

でも、言わなければ何も変わらないわけで…
やっぱり誰かが言うしかないと思います…

ただ辻本議員を見ていて一つだけあれ?と思ったのは
某氏に向かって
「あなたは疑惑の○○と呼ばれていますけど疑惑の××ですよ!」
ぉぃぉぃ言い出しっぺあんたやん!という事でしょうか…

最近の国会関連のニュースを見ると足の引っ張り合いしかしていないような…
と、文句は言えても実際私が国会議員になって…と言う意思も無いし
おいそれとなれるほど国会議員になり難いのも事実なんですけどね…
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再び...



普段の生活で私は自分に非がある場合相手を非難することはなるべくしないように努力してます。その分非常にストレスが溜まります。もちろん愚痴程度はいいますがおおっぴらに文句を言うことは極力避けています。間違ったことは間違っているというべきだと周りの人にはいわれますが小心者なので言えません。

さて本題に参りましょう。
辻本さんはやりすぎだったと思います。たぶんそのせいであのようなリークがされたのだと思っています。もちろん辻本さんの肩を持つつもりは毛頭ありませんけど。

でも悪人だから人の間違った行為を指摘してはならないということはないのではないかと思います。清廉潔白な人が正当に人を「非難」するほうが説得力はあるでしょう。非難ということではなく間違った行為を指摘するのはどんな人がいったっていいんじゃないでしょうか。
報道されている非難をそのまま受け入れるのではなくご自分の考えで事実から真実を導き出せるのであれば「非がある人間が非難してはならない」などと考える必要もないのではないかと思います。

理想と現実は違います...。ご自分が非がない状態で非難をできる立場にいればよろしいのでは?
私は凡人中の凡人ですから無理ですが。
では。
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非難できます。


もしあなたの主張を取り入れると、「裁判官」「検事」「警察官」「議員」「知事」「先生」「社長」は誰も出来なくなり、社会が成り立たなくなります。
 
>『人が人を非難することってできるのかな』と思いました。
 >じゃあ、自分はきちんと対応できるのかといわれたときに自信を持ってできるといえる人がどれくらいいるでしょうか。
 >きちんと知ろうともしないで非難だけするのは不公平な気がします。
 >人が人を非難する場合はもっとその人のことをよく知ってからするべき
以上の主張は極端に考えれば「完璧な人間がいる」「情報は全て集められる」という前提があり、「完璧でなければならない」「自分に非があったら、他人を非難できない」「人を非難する時は完璧な情報を集めてから」「不公平は絶対いけない」ということになります。こう極端に考えればすぐに判ります。

「完璧な人間はいない」し「時間という制限があるので人間はある程度の不完全な情報で判断を下さなければならない」ので「たとえ自分に一部非があったとしても人を非難していい」のです。

もしあなたの主張を取り入れると、「裁判官」「検事」「警察官」「議員」「知事」「先生」「社長」は誰も出来なくなります。

たぶん、あなたは学生じゃありませんか?私の学生時代にもあなたのような理想に燃えた「純情まっすぐ君」がいました。社会人になって現実の生活を始めて、10年たっても同じことをいえますか?

非難される人は何らかの被害を他人や社会に与えたので、より良い世の中になる為に直接の被害者でなくても誰かが代理で責任追及をしてもよいのです。
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>人を非難する場合はもっとその人のことをよく知ってからするべきじゃ


>ないかなと
私は、何があったかとかどういう思いであったというようなことはよく
知ってからすべきだと思います。

例に出されている国会のことについては、何があったかを追及する場面で
あり、問われた議員は説明したり反論したりできるのですからあれでよか
ったと思います。辻本議員は徹底的には言われていなかったですね、優し
い声かけが沢山ありました。

副領事の件については、「自分はできるのか」と考えなくてよいかと思い
ます。なぜなら、人にはそれぞれ立場がありますから。立場に応じた責任
があります。

殺人については、例えば裁判では情状面も酌量されます。暴力を受け続け
ていた人が切羽詰って殺人を犯してしまったという人もいますから、そう
いう場合は強盗殺人などと同ようには非難できないですね。
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>>まず第一に、僕が問題にしようとしているのは『相手のことをよく知りもしないで、その人を非難することは正しいことか』といいたいわけです。



残念ながらマスコミというのは高等な機関ではありません。中立で正義感あふれる機関、とは程遠く、視聴率戦争や出版競争に巻き込まれ、どうしても視聴者や購入者の目を引くような中立性を離れた面白半分の記事に終始しがちです。そのようなマスコミの攻撃等から被害者を守るということは必要なことではあるのですが、結果的にみて鈴木氏の問題について特捜なり警察なりが関心をもちはじめ捜査を開始し、逮捕の1歩前まで行っていることを考えるとあながちマスコミの言うこと自体間違っているというわけではないのでしょう。
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「自分のことを棚に上げて何言ってんだ・・・」っていう感想はよくよく感じることです。

しかし・・・

*『人が人を非難することってできるのかな』について
人が他者を非難するにあたり、完全に自己に非がないことを要求するのは無理があります。
完全に「非」のない人間はなかなか居ないと思いますし、その確認もできません。逆に、完全に非を隠蔽した人に限って他者を非難することを認めている様なものです。
また、人の非はその非で完結しているのであれば、その非に関与していない他者はそれを非難する(その人に非があると主張する)事はできてしかるべきでしょう。
でなければ、自浄作用というものが無くなってしまいます。

つまり、感情論としては、非のある人の主張に信頼感は得られませんが、
その主張とその人の非は別個に検討する必要があるということです。
無論、自己弁護的な非難や、共倒れねらいの非難は見苦しいだけですが・・

*「その人のことをよく知りもしないくせに悪者だというのはおかしいのではないか」について
これはある種の正論ですが、現実問題として、完全な情報を得た人だけにコメントを要求することができるわけではありませんから、
短絡的、感情論的な結論が発せられるというのが現状なのだと思います。
もう少し、情報を租借してからコメントして欲しいところが多々ありますが、
そういう意味では、「程度の問題」といわざるえないところでしょう。

また、感情論的な結果などが人々の共感を得やすいため、
視聴率や販売部数などが伸びるメディアとしては、
そういう結論を載せたいというのはあるかもしれず、
それは需要者の好みに沿ってのメディアの対応なので、
それについてメディアを批判するのも難しいところだと思います。
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個人的な倫理観として、


「自分ができていないことを他人に要求するのは酷である」
という考えを持っています。

そういう意味ですと、辻元議員(元)が政治とカネの問題で
鈴木議員(こっちはまだ現役)を批判するのは、私の倫理観
からするとNGな批判でしたね。

ただし公職についている人は、例外だと考えています。
具体的には政治家と官僚ですね。
公職についている人は、そうでない人からの批判についてて、
一般常識と照らし合わせた上で謙虚に受け止めるべきでは
ないかと考えています。

その意味では、瀋陽の副領事については、避難に値するだ
けの醜聞が明らかになったのですから、国民から避難され
ても仕方がないかと思います。
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難しいですね。


確かに人が人を非難する理由はないかもしれませんね。
他人の気持ちをくみとろうとしないで一方的に相手を決めつけたり傷つけたりすることが私にもときどきあります。
そのような時は後になって非常に反省します。夜も眠れなくなります。

しかし非難せずに我慢できるほど私は理性のある立派な存在では、生き物ではないのです。

他の人も同じではないでしょうか。
政治家も、ここに来ている人達も、そしてマスコミの人達も少なからずスネに傷を持っています。欠点をもっています。他人を非難できるほど自分が正しいことをやっているとは言えない人達が人類の大勢を占めていると思います。
当然私もその中の一人であります。

ですから「人を非難するべきは人格的に完璧であるべき」などといわずに、またやってるなぐらいの気持ちで軽く流してもらえないでしょうか。
なぜならそのような汚い人間達(自分も含む)と一緒に共生しているからです。
地球は人間を非難する資格のない人達で埋め尽されています。ですがそんな心の汚い人間と付き合うのも、慣れれば
楽しいですよ。
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