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足利尊氏は優柔不断な性格だったのでしょうか?
それともただ信心深いだけだったのでしょうか(天竜寺の建立)?
それとも頼朝のように辛抱強く待てる性格だったのでしょうか?

A 回答 (5件)

足利尊氏は男らしい性格で、物惜しみせずに部下に恩賞を気前良く分け与え、戦には命を惜しまずに勇敢に戦い、家族を大切にして慈悲深い性格です。


こういった性格は権力者としては失格で、頼朝や家康のように、身内にも冷淡で部下にも冷たくあたり、けちで臆病なくらい用心深く、粘液質な性格でないといけません。
その為、弟や養子に出した実子に裏切られて辛いことになり、部下が増長して幕府の権威が落ち、子孫も苦労することになります。
天竜寺も彼の性格からすれば、やむ得なくやったことなので、心を痛めており、夢窓疎石の勧めに乗ったということで、信心深いというより、自分が天皇に逆らったことを、一人の人間として悔いていたと考えるのが素直ではないかな。
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既に回答者さまのご指摘の前には、蛇足でしかありませんが、有名なざんばら髪の肖像画は、もうあきらめて、僧になろうと、髪をおろしかけたのを再び翻意して・・というのが、事実なら、ネバーギブアップの精神を持った男ということになりましょうか。


また、人物評として、頼朝の比較対照が平清盛や、源義経であるように、周囲の人物の評価も尊氏に対して、関わってくると思います。
特に、この人物に関しては、大人の事情による情報操作があったと思われますので、よく見極めることが、肝要と思われます。
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蛇足ですが‥



足利尊氏の性格って、けっこう話題性があるようですね。
行動が優柔不断というか一貫性がないという点、そして尊氏の「願
文」もいくつか残っていることから、専門の学者による講演などで
も、ときたま「尊氏の性格」が話題となっています。専門家による
歴史上の人物の性格分析って、他には滅多に見当たりません。

質問者さんが、もっともっと深く知りたい、ということであれば、
歴史学者の上島有や村井章介の講演や著述をチェックされるのも一
つの手です。以下、既に終了済みのものを紹介しても仕方のないの
ですが、どんな学者先生かという参考まで。

http://www.kairou.org/html/headlinenews/toujiin2 …
http://www.rikuryo.or.jp/tokyo/sokai/41/murailec …
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私の分析では彼は状況派だと考えています。

つまり、その時々で態度が豹変します。北条氏を裏切って鎌倉幕府を滅亡さてたり、その後、建武の新政に参加するも、すぐ離反。また、弟直義と対立した時は、南朝と和睦したりと。例を挙げればきりがありません。しかしこれは権力者にとっては必要な素質であり、彼は優秀な政治家だと思いまが、一方で理念のある政治家とはいえないかもしれませんね。あと、確かに彼は優柔不断なところもありますし、信仰心も厚いです。御指摘の通りだと思いますよ。
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No1さんの分析は非常に的を得ていると思います。


既に制度疲労を起こしていた鎌倉幕府を新田義貞等と共に潰したのは良いのですが、その後後醍醐天皇が始めた「建武の新政」は鎌倉幕府以上に時代錯誤でメチャクチャなものでした。少なくとも、当時の日本の「有権者」である諸国の武士はそう感じました。誰かが建武の新政を止めさせて武家政権を再建しなければならず、それができるのは足利家だけでした。

尊氏はもとの名前「高氏」を後醍醐天皇(尊治親王)から一字を頂いて「尊氏」と変えました。後醍醐天皇と正面から敵対し、彼を京都から追い出して自分の傀儡である北朝を立てた後も、後醍醐天皇から拝領した名前を変えていません。尊氏は、終生「本当の天皇は後醍醐天皇。無茶苦茶な建武の新政を終わらせるために止むを得なかったとはいえ、後醍醐天皇を京都から追放したのは臣下の道に反する」といった意識を持っていたのでしょう。

そもそも、南朝が拠る大和の吉野は、足利軍が全力で攻撃すれば攻略可能な場所と考えます。その場合、南朝関係者を全て捕らえて京都に戻り、身分の低い者は処刑、処刑できない皇族は脱出不可能な場所に分散して流刑し、適当に死んで頂くという、承久の変の事後処理のようなことも可能だったでしょう。尊氏はそれをしませんでした。

全国の武士の人望を一身に集め、とりあえず建武の新政の混乱を収拾して武家政権を再建したのですから、一流の人物であったことは間違いありません。ただし、No1さんの言われるように「良い人だが、政治家向きではなかった」と評価されても仕方ないでしょう。

IFの話になりますが、尊氏・直義兄弟の生まれる順序が逆で、直義が足利家の当主であれば、歴史はよほど単純な形になったでしょう。

* 建武の新政は短期間で終了
* 南朝は根絶やし
* 家来への恩賞は控えめで室町幕府の直轄領を増やす
と言った形で。直義は、尊氏よりよほど「実務的」、No1さんの言われる「政治家として必要な冷酷で粘着質の性格」を備えていたように思いますし、能力も十分にあったはずです。
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