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素朴な疑問です、徳川家はどうして秀忠より家光の方が実験が強くて慶安の御触書や参勤交代、キリスト教の禁止などをできたのですか?
更に将軍になるまで家康に可愛がられていたとか
家康の死後は家光が日光東照宮を家康の墓として建造させたとか
乳母の春日局が家光の実力で乳母(育ての母、養母、教育係)として大奥を支配したとか
孫とはいえ息子の秀忠より孫の家光の方が可愛がられていたのですか?

A 回答 (3件)

まず、家光が秀忠より力があったわけではありません。


秀忠の場合、家康が最後まで権力を維持していたため、秀忠が独自に力を発揮できる期間が少なかったことがあると思います。
また、秀忠ははじめから家康の後継者ではなかったこと、家康自体がはじめから天下人ではなかったことがあります。そのため、他の大名との関係が比較的に近かったことがあげられます。
それに対して、家光は祖父も父も将軍であり生まれたときから将軍家の嗣子でした。その上、祖父、父からよい近臣をそば近くにおいてもらい一緒に育ちました。
また、家光の治世は必然的に徳川3代の総まとめの時期であり家康や秀忠が出した決まりを整理していっております。
そういうところで、秀忠より家康が目立ち、権力もあったように感じるのでしょう。
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秀忠の将軍在籍期間18年に対して、家光28年と長いのですが、


実際は家康も秀忠も大御所として院政を執っていますから、
親の死後の期間で見ますと
家康の死後、秀忠が亡くなるまでの期間=16年
秀忠の死後、家光が亡くなるまでの期間=19年
という風に実権を握っていた期間はあまり差がありません。
では何が違うかというと秀忠は豊臣政権下から世に出ており、
関が原等の戦乱期を家康の庇護の下で過ごし、実際に幕府体制が
整ったのは家康晩年ですから、秀忠の将軍在位期間の大半は
家康の成果として語り継がれているわけです。
それに対して家光の時代は最初から幕府体制が整った上で
幕藩体制という国内統治の仕組みを確立しつつある時期で、
幕府の財政も安定していた時期でしょう。このため成果として
家光の時代のほうが後代につたえられるようになったんじゃ
ないでしょうか。
同じ時期にあった加賀前田家も初代利家、二代利長の時代は
まだ混乱の時代で三代になってようやく加賀百万石の安定期に
入ります。このため利長に比べて三代利常のほうが名君と
伝えられているのも同じような環境かなぁと思います。
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家光には2歳下の弟徳川忠長がいました。

その忠長を2代将軍の秀忠と妻ができ愛し、将軍に推す動きがありました。

戦国時代は決して長男が家督を継いだわけではありませんが、世襲制を敷き、徳川家の安泰を図りたい家康はお家の災いになると、春日局とともに長男の家光をかわいがり、天下に跡継ぎと公言しました。

家康が長生きし、秀忠が完全に実権を握ったのは短期間です。
家光は28歳で将軍につき、「生まれながらに将軍」として天下に号令をかけ、鎖国をはじめ、次々と政策を出しました。

上記が概略です。長男として世襲した秀忠、同じく長男の家光が3代将軍となる頃には、将軍家と諸藩の力関係は完全に決まり、諸藩は戦う力を完全に失った背景もあります。
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