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哲学者のスピノザについていろいろと詳しく教えてください

A 回答 (2件)

 


スピノザは、バルーフ・デ・スピノザと云い(ラテン語名は、ベネディクトゥク・デ・スピノーザ)、「明晰判明な判断」と「懐疑」の哲学者ルネ・デカルトと同じ頃の人です。

スピノザは、先祖がポルトガル出身で、オランダ生まれのユダヤ人で、若い頃から天才をうたわれ、ユダヤ神学界では、若きスピノザに期待するところが非常に大きかったとされます。

しかし、スピノザは独自の思索を続け、重ねて行くに連れ、伝統的なユダヤ教の教義や神学と、自分の思想が矛盾することを見いだしました。スピノザは、ユダヤ教の神の否定につながる主張を明確にします。

ユダヤ教指導者たちは、スピノザに様々に説得を試みますが、スピノザは態度や考えを変えることがなく、遂に、ユダヤ教指導者は、スピノザを神学教団から追放する決定をします。これは、当時たいへんな決定であったので、自己の存在基盤が、社会的に一切失われることをも意味します。

スピノザはオランダで、隠棲と思索の生活を続けます。社会的基盤をスピノザは失ったので、スピノザは、相当に生活に困窮したろうという考えがあり、貧困のなかで、レンズを磨いて(レンズを製作して)生計を稼ぎながら、思索を続けたという話が伝わっています。

しかしスピノザは、確かにレンズも磨いていたようですが、貧困とか困窮という状態ではなく、彼を評価する後援者や庇護者がおり、不断は慎ましやかな生活でも、結構、経済的に困らないだけの財産を持っていたとされます。

スピノザは、観照の思索を行う隠者のような人物の印象があるのですが、確かに、孤独で、深く思索を積み上げて行った人ですが、別に人間嫌いではなく、交友関係も国際的に広く、当時の哲学者や政治家たちとの交流も持っていました。

また彼は「行動の人」でもあり、その「倫理」の銘ずるところ、自己の生命を賭けても、ある災禍(戦争・内乱など)を防ごうと、単身、有力政治家に会見にでかけたこともあります。政治家が、目的とした場所にいなかったので、スピノザの活動は歴史に残っていませんが、そういう行動の人でもあったのです。

そこで、スピノザが築き上げた思索はどのようなものであったかと云うと、或る意味、この時代を超えていたとも言えます。デカルトは、中世哲学の「信仰」との調和を念頭した思考法を批判し(と云っても、彼が批判したのは、晩期スコラ哲学と呼ばれるもので、スワレスらが代表していた考えで、これは、13世紀前後の盛期スコラ哲学とは、相当に違うもので、デカルトは「中世」を乗り越えたつもりで、実は、晩期中世の思想に対峙していたのです)。

デカルトは、信仰の真理ではなく、「理性」の明晰判明な判断、論理的な理性的思索こそが、哲学にとって必須なものであるとし、「理性」の哲学、理性の世界認識の方法を提示します。これを、近世哲学の端緒とも見るのですが、デカルトはまた、ライプニッツらと共に、「大陸合理主義」の始祖ともなります。

大陸合理主義は、イギリス経験論哲学に対立して語られるもので、ヒューム、ロック、バークリーらが代表していた、イギリスのこの思想潮流は、その後、大きな意味を持ってきます。

しかし、そういう話ではないので、デカルトが「理性」を重んじたと同様、スピノザも理性を重んじ、論理学的に思索することが、至高の思索の方法であるとします。特に、「数学」は、論理のなかの論理で、数学こそ、理性の結晶であるとの考えを持っていました。

デカルトは、スコラ哲学の概念である「延長実体」と「思惟実体」を、純粋化してとりあげます。延長実体とは、広がりのあるもので、つまり「物質」のことです、思惟実体とは、意識や思考を持つ何かで、これは「精神」のことです。

デカルトは物質と精神を峻別します。それらは、それぞれ別の合理的法則でこの世にあるのだとします。しかし、物質と精神が完全に独立だとすると、何故、精神が物質の世界を認識できるのか、また何故、精神が物質の世界に影響を与えることができるのか分からなくなります。

デカルトは、精神と物質は独立した実体であるが、例外的に、人間の大脳のある場所で、両者が交差しているとしました。この辺りの話は複雑になります。

しかし、デカルトの合理主義では、善や倫理をうまく根拠付けることができなかったのです。合理論のカントは、理性には、実践理性があると主張し、あるいは「実践理性」を発明し、実践理性の原理には、善や倫理を志向する法則があるのだとします。

スピノザの思想は、最初から、この善や倫理の問題を、どう解決するかに関わっていました。彼の主著は、『エティカ』と云いますが、Ethica とは、「倫理学」という意味です。

「エティカ」において、スピノザは、世界を構成している物質や精神という「実体」についての考察・吟味から始めます。ここの辺りは、デカルトの考えに似ているのです。精神と物質という二つの実体があるのだ、という前提で話が進みます。

しかし、スピノザは「実体」という概念を、非常に厳密に定義します。スピノザの定義からは、精神と物質は、実は実体ではない、という結果になります。それは、根源の実体の二つの属性における「様態(モード), modus」であるとスピノザは主張します。

スピノザは、実体は、存在世界にただ一種類しかなく、それは無限の実体で、無限のモードを持った実体だとします。デカルトの合理論が、二元論なら、スピノザの世界合理論は、無限モード実体論ということになります。

無限のモードを持つこの実体を、スピノザは、「自然 Natura」と呼びます。人間には、何故、物質と精神しか認識できないかと云えば、人間が、モードにおいて有限で、精神と物質の二つのモードしか持っていないため、無限の実体である「自然」を真に知ることができないのだとします。

スピノザは、モードである物質と、モードである精神について、その法則を考察し、人間の感情や、価値意識や、精神の現象よ呼べるものを、整然と分類し、整理して行きます。

こうして、スピノザは、物質モードにおける自然の「必然法則」というものを主張し、また精神モードにおける自然の「必然法則」を主張します。しかし、この二種類の法則は、実は、「永遠の相のもと」では、「自然」の持つ必然法則の二つの側面でしかないのです。

スピノザは無限のモードを持つ唯一の実体を、「自然 Natura」と呼びましたが、またこの実体を「神 Deus」とも呼びます。世界の存在や現象は、人間の認識できるものもできないものも、一切は、この唯一の無限の実体にして「必然法則」を備える「神即自然 Deus sive Natura」の変容顕現だとします。

これがスピノザの「汎神論的一元論」です。この考察の結果として、スピノザの哲学では、「必然法則」に従うことが、倫理的法則に適い、かつ神の法則にも適い、これが人間の最高の「自由」であるとなります。

スピノザの思想は、必然であることが自由であるという「汎神論的一元論」で、それはまた「倫理学」でもあるのであり、スピノザは、彼の云う「神」に論理的信頼を置き、それは「神=自然」に陶酔しているようにも見えるので、スピノザを「神に酔える人」とも評します。

なお、スピノザの思想は、神秘主義的な面もあるのですが、彼自身は、理性主義で、合理的論理的であると確信していました。彼の汎神論的一元論は、「純粋論理」の思索の結果であると彼は考え主張しました。

「エティカ」の構成は、エクレイデスの「幾何学原論」と同じような体裁を取っており、無定義概念、公理、公準が並び、これらに基づいて、スピノザは、或る命題を一つ一つ、論証して吟味して行き、その結論が証明されたと最後に述べ、「QED」の文字を置きます。

一つ一つの命題を、彼は「定理」と呼び、彼の「汎神論的一元論」は、公理的・幾何学的秩序において証明されたものであると、スピノザは主張しました(彼の「エティカ」は、公理論的体系を持つ数学の本の形を取っているのです)。

スピノザの必然法則が自由であるという「一元論」は、彼の「神=自然」を、「物質」と置くと、マルクシズムの弁証法的唯物論の世界論とよく似ており、また、現代の物理学が構想する哲学的な世界論ともよく似ています。

スピノザの主張は、必ずしも純論理的ではなく、直観的でもあったのですが、スピノザの思想の重要性は、あらためて現代において見直されているとも云えます。
 
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この回答へのお礼

どうもです

お礼日時:2002/07/02 15:59

下記URLを参照してください。



参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/spinoza.htm, …
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この回答へのお礼

有難うございました。

お礼日時:2002/06/18 16:28

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