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伊勢神宮の第1回内宮式年遷宮は690年で社殿・鳥居が取替えられたとあるのですが、
その20年前に現在の社殿様式(神明造)が採用となり「新築」されたのでしょうか?

A 回答 (3件)

答えがないようなので、浅学ですが意見を述べます。


「太神宮諸雑記」によれば1431年に第39会式年遷宮が行われました。   (ただし次の第40回遷宮は31年後の、1462年まで出来ませんでした)   これを基礎にするとほぼ740年前の690年の持統天皇による遷宮は第2回遷宮になります。
つまり神宮側は1974年天武天皇の大伯皇女が、斎宮として伊勢に下った時を第1回遷宮と考えているという事です。
その時大規模な造営が行われていますが、社殿については大層立派になったようですが、改築か新築かは判っていません。
しかしこれが第1回遷宮に当たるなら、その時の様式が引き続いていると考えられます。   
太神宮諸雑記につては1100年の少し前に編集が始まったので、その後の信憑性は高いのですが、大分古い時期のものは信頼性に欠けるというのが定説です。
ただし20年式年遷宮については「延喜式」にありその前の800年位には確立していますから、ほぼその通り実施されたと考えられます。

しかし第40回遷宮のあと費用がなく、120年余り後にやっと第41回遷宮が行われたので、建築技術の継承が途切れた可能性はあります。
外見は継承されましたが、  建築の詳細については研究が必要でしょう。
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伊勢神宮の正式名称は「神宮」ですが、「伊勢」に鎮守するために「伊勢の神宮」と呼ばれています。


この事から分かるように神宮は各所に存在し、伊勢の神宮と区別するために一般に「古伊勢」「古神宮」と呼ばれ(現在も)鎮守しています。
何故、近畿地方及び近隣地域に「古伊勢」が存在するのでしようか?
日本書紀などの古文書によると、九州から大和地方へ向かった天皇一族(神武東征)は各地で「地元の支配者」(神話では地神)の大きな抵抗を受け大和へ直接入る事が出来ませんでした。
そこで、「大和近隣地域」から征服を開始したのです。
その征服した地域に、氏神である「天照大神」を祭る神宮をもうけました。
以後、征服が完了すると神宮も移動したようです。
伊勢に落ち着くまでに、(確か)6箇所程移動しているはずですよ。
大和地方が(移動の)最終地でないのが不思議ですよね。
(興味があれば、調べてみると面白いですよ)

>第1回内宮式年遷宮は690年で社殿・鳥居が取替えられたとあるのですが、

これについて、科学的根拠はありません。
従って、第1回内宮式年遷宮以前の様式も不明です。
(天皇・天皇家に関する科学的調査は、宮内庁が一切禁止しています)
ただ、先に記述した通り神宮が伊勢の地に落ち着くまでは転々としています。この事が、「遷宮」という神事に変わったとの説もあります。
事実は、どうなんでしようかね?
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こんにちは。


神宮の式年遷宮は天武朝で発案され持統天皇四年にはじめて行われたとされていますので、その二十年前に何かあった訳ではありません。
それ以前の建物がいつ建てられたかは諸説ありますが、内宮が現在の地に遷されてきたのは三世紀末とみるのが有力なようです。その後第一回の式年遷宮までの間に内宮を建て替えたという記録はないと思います(途中外宮が遷されてきましたが)。
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