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幕末の優れた人物の中でも坂本龍馬が一番好きなのですがその暗殺を指示したのは誰なのでしょうか?

A 回答 (13件中1~10件)

では私は桑名藩主松平定敬で!理由は実際そういう証言があるのとそうだったら面白いなという希望です。

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坂本龍馬を近江屋に襲って殺害したのは、京都守護職を務める会津藩に附属する京都見廻組。


そして、龍馬は寺田屋において拳銃で伏見奉行所の捕り方を射殺し逃亡した、いわゆるお尋ね者の咎で殺されたのであり、指示系統は伏見奉行を務める上総請西藩主林肥後守→京都守護職会津藩公用方・手代木直右衛門→京都見廻組与頭・佐々木只三郎。
幕府の諜者から龍馬が近江屋に潜伏しているという情報を得たものの、寺田屋の轍を踏むことを恐れた林が、剣客揃いの見廻組に出張ってもらえるよう取り計らってもらいたいと手代木に要請したのだと、このように私は見ています。

なお、一部の自称研究家が妄信している薩摩の西郷、大久保黒幕説と、土佐の後藤象二郎黒幕説はあり得ない。

まず薩摩藩黒幕説ですが、これは大政奉還を実現させたことで武力倒幕の邪魔をされたことを西郷と大久保が恨み、龍馬を殺したというもの。
しかし、西郷と大久保は土佐藩の後藤象二郎が龍馬の「船中八策」を基に提言したとされる大政奉還に賛同し、「薩土盟約」を締結しています。

西郷と大久保が幕府を倒す決意をしたのは、薩摩のお膳立てによって行われた長州藩の処分と兵庫開港問題を議題とする四候会議が、徳川慶喜の政略によりぶち壊された慶応三年の六月ごろ。
とはいうものの、西郷と大久保がまず考えたのは、兵力を動員した政変を起こして慶喜を将軍職から辞職させ、一大名の地位に引きずり下ろすことであり、いわゆる討幕をしようとしたのではありません。
これは、西郷が語ったこととして会談をした長州藩士柏村数馬が書き記しているので、間違いないでしょう。

さらにいえば、土佐の後藤も兵力を備えて大政奉還を迫り、慶喜が拒否すれば、兵力を動員すると述べた。
だから盟約を結んだのであり、後藤が兵を連れて土佐から戻ってくるのを待っているのだが、もし土佐が協力しないようなら、「時期をあい定め、薩摩一手にてことを挙げ候心得に御座候」とこう言い切ったとも、柏村は書いています。

ところが、山内容堂が武力をもって威嚇することに反対したことで後藤は兵を連れてこず、「それならば」と、薩摩も盟約を解消。
薩長芸の三藩で出兵協定を結ぶのですが、土佐に対しては、「大政奉還の建白書を提出していい」と伝えている。
慶喜が大政奉還を拒否すれば、それを名目に挙兵がしやすく、最終的に土佐藩も仲間に引き込める公算が大きいと読んだからですが、出兵そのものに反対する藩士が多く存在しているという御家の事情により、薩摩は計画そのものをを練り直さざるを得なくなり、後藤の大政奉還策を積極的に支援することになるわけです。

そして龍馬は、「土佐は薩長と協調すべきである」というのがそもそもの持論であり、武力倒幕論者の板垣退助の役割が大きくなると考え、オランダから大量の鉄砲を購入して土佐藩の武力倒幕派に引渡し、「大政奉還が名目だけのものになりそうな場合は、江戸の銀座を京へ移すという難題を持ちかけて時間を稼ぎ、急ぎ土佐に帰り状況を容堂公まで報告し、兵を派遣する用意をせよ」という手紙を、後藤に宛てて出している。

つまるところ、西郷と大久保が龍馬を殺さなければならない理由そのものが存在しない。

また、後藤黒幕説も、龍馬の「船中八策」を基に大政奉還策を考えたことについては口をぬぐい、自分の考えであるように山内容堂へ説明した。
その結果、容堂から褒められ、千五百石加増という大ボーナスをもらい、「船中八策」を基にしていることに口をぬぐったのがバレるのを恐れ、龍馬を殺したのだと云われています。

これを発表したのは推理小説家の三好徹であり、後藤が龍馬のアイデアを基にしたということに口をぬぐって言わなかったのも、どうやら事実のようです。

しかし、よく知られているように、もともと容堂は秩序派であり、軽輩の龍馬などは顔を見たことがないばかりか、その名前さえろくに覚えていなかったぐらいなので、ここで龍馬の名前を出したりしたら、話がこじれた可能性が高い。
だから「船中八策」については口をぬぐって言わなかったのだと見るべきで、もし千五百石の大ボーナスが不意になるのを恐れたのだとしたら、佐々木高行などを含め、殺さなければならない相手は一二に留まらないはず。

なお最後に付け加えれば、近江屋事件の一次資料である、龍馬殺害の嫌疑によって兵部省と刑部省が取り調べた元京都見廻組組士今井信郎の供述書には、龍馬ともども斬られた中岡慎太郎の名前はひとつもありません。
しかも、龍馬がかつて松代藩士佐久間象山門下だったことを調べ上げたからでしょうが、近江屋を訪れたさい「松代藩とか認めあるの偽名の手札」を差し出したということが書かれている。
したがってターゲットはあくまでも龍馬であり、中岡は側杖を食っただけと見るべきではないでしょうか。
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龍馬の暗殺説って・・・みんな幕府とか・・・龍馬を『武士』的イメージで考えてる気がしますが、龍馬自身は『商人』だったのではないかと思ってます。


武器商人として、莫大な稼ぎを得ています。
天才的な商人です。

龍馬ファンからは大ブーイングを浴びそうな気がしますが、龍馬は日本を変えようなんていう立派な志を持った人間ではなかったように思います。

新政府の役職には誰を就けるか・・・という龍馬の書いた文書(案)には、今で言う首相の部分が丸印になっていて、名前が書かれておらず、龍馬は見せる相手によって、その部分に相手の都合のいい誰かの名前を入れて話していたのではと思います。

すごい駆け引き上手だったのだと思います。

龍馬というのは、いつも、みんなから慕われていたように描かれていますが、本当にそうだったのか?と、私は疑問に思います。

やはり、お調子者の龍馬に不信感を持った人間もたくさんいると思いますよね・・・。

でも・・・
龍馬を『商人』として考えてみると・・・

もし、龍馬があのまま生きていたら・・・
岩崎弥太郎さんは、あれだけの財閥となりえたのか?という疑問が出てきません?

同じ時代にあれだけの近い間柄に、2人の財閥が誕生したでしょうか?

龍馬が生きていたら・・・
岩崎弥太郎さんは、あれだけの成功をおさめられなかったのではないかと思います。

龍馬は『商人』でありながら、『武士』的なものに多少の憧れがあったように思いますが、岩崎弥太郎さんは本当に『商人』に徹していた気がします。

新政府に関わろうとした龍馬より、商人として取り入った弥太郎さんの方が、一枚上手だったのでは・・・?
そして、商人対商人で、どちらかが選ばれるとき・・・どちらかは、必ず不要な存在です。

・・・な~んて、ちょっと思ったりしました。
まったくの素人なので、笑って許してやってください。
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私は、近藤勇で決定です。

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山内容堂 + 後藤象二郎 で決まり

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後藤象二郎に一票!

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暗殺ということになっていますが、今、現在となっては真相は不明なので、いくつか解っている範囲で



1.本名:坂本 直就(なおなり)~韮崎 龍から龍の名を取ったとされていますが、「龍の馬」?
                 マゾっ気でも有ったのでしょうか? 姉コンプレックスは有った
                 ようですが・・
2.「幕末の優れた」~史実は、それ程「優れていない」ようです

3.坂本 某 は脱藩した浪人で、大政奉還 等、=勝 海舟=の存在無ければ、将軍に「お目通り」して進言など不可能ですね? また亀山社中・海援隊は共同発起人の連名に名が有るだけで、実際は何をしたのか・どういう役目に就いていたのか不明です 他の人も書いていますが、剣術は中級レベルとのこと

4.以前にも何回か暗殺されかけていますが、何故、この時だけ逃げられ無かったのでしょうか?
~私見ですが、しびれ薬か何かを一服盛られていたのでは? そして、この当時:「韮崎 龍」て女性に苗字が有るのは、学芸関係者か医師です(韮崎 龍は医師の娘ですが)

5.坂本 某は「英国派」で、師の勝 海舟は幕臣なので「フランス派」・・どういう縁で弟子入りすることになったのでしょうか? 相対する関係なのですが・・

以上、5点ほど 解っている&不可解な点を挙げました 失礼ながら「優れた、とは言い難く、行動が不明で 英国:グラバーのメッセンジャー(龍は英国王室の紋章・・馬:英国式乗馬etcは有名)のような行動が何かと目立つ・・過大評価され過ぎ!としか思えず 勝 海舟、この人(師ですから)のほうが 坂本 某より上のはず? グラバーの「ジャーディン マジソン(マッセソン)商会」は アヘン戦争の「死の商人」という点、、、これらを、どのように?」と思いますが?
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揺れ動いた幕末らしい事件ですね。

優れてたゆえに殺されたという感じ
します。改革派なのでしょうね。新しき時代ば読み動く人らしい坂本
さんですので旧幕臣の古い考えの方々でしょうね。壬生義士伝(映画)
で視てたら新撰組斎藤さんというのが斬ったらしかったです。指示は
やはり京都守護新撰組に命じた幕府側でしょうね。これもミステリー
です。27日から江戸東京博物館で竜馬展開催するのでまた新たな謎
を見て来ます。謎が多い程面白いのかもしれませんね。
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フリーメーソンが黒幕だそうです。



そしてその本には中岡慎太郎が切ったと書いてありました。
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史料が不足しているため、はっきりとはわかっていませんが、幕府内の高官もしくは京都守護職の松平容保あたりでしょう(見廻組は容保の配下です)。



最近は黒幕として薩摩藩を挙げる人が増えていますが、その説は歴史学界では相手にされておりません。いわゆる薩摩藩黒幕説・陰謀説を唱えているのは在野のアマチュア研究家や作家だけで、歴史学者の中にその説を採用している人は皆無です。薩摩藩黒幕説が最近では有力視されているという意見がありますが、それは単にその説を信じている人が世間で増えているだけの話で、プロの歴史家たちは相手にもしていないということを知っておいてください。

薩摩藩黒幕説を歴史家たちが相手にしない根拠はいくつかあります。龍馬暗殺に薩摩が関与したことが書かれている史料の記述に、信憑性が見出せないこと。また、薩摩藩黒幕説は史料に基づかない憶測で成り立っていることも、歴史家が相手にしない理由です。

それから、世間一般で言われているほど、薩摩藩を中心とする討幕派と、土佐藩を中心とする公議政体派の間に対立が強かったわけではないと、最近の研究では言われているからです(参考文献として、高橋秀直『幕末維新の政治と天皇』、家近良樹『幕末政治と倒幕運動』、佐々木克『幕末政治と薩摩藩』を挙げておきます。すべて吉川弘文館から刊行中です)。

大体、薩摩藩の中でも討幕反対論者の意見は根強く、徳川慶喜の大政奉還の後は、それまで討幕派の中心人物だった人間までが、慶喜を擁護する意見を主張するようになってきます(吉川弘文館の『大久保利通関係文書』1巻に収録されている、伊地知正治の意見書を参照)。要するに、薩摩藩黒幕説の「大政奉還を推進する龍馬は討幕派の邪魔だった」という意見は成り立たないのです。

参考として、桐野作人氏の「龍馬遭難事件の新視角」という文章を読むことをお勧めします。『歴史読本』2006年7~9月号に収録されています。
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