歴史を学ぶにあたって、資料が少なく厚みにかけ、それでいて現代と状況が似通っていない
歴史を学ぶにあたって、資料が少なく厚みにかけ、それでいて現代と状況が似通っていない
戦国時代やローマ時代ばかり熱中して、
なぜ映像や新聞や書物や番記者がいたりして厚みや資料性の高い現代史は二の次
三の次なのですか??
エンターテイメントではなく、一般人が歴史から学ぶ!というにあたっては
現代の歴史、特に人間の心理の機微や営為が如実に表れる政治を克明に勉強したほうが
有益だと思います。
たとえばあんなに普通そうなのに総理にまでなった竹下登や角栄の心遣いとか周信を集める手法、
スピーチの内容などを
真っ先にほかのどんなことよりも優先させたほうが
会社員ははるかに有益なのではと思うのですが
それでもなぜ大昔の歴史にウェイトがおいてるのですか皆様は??
現代史よりメリットは少ないでしょう?
現代史があらかた終わって初めてそういうところにいった方が「歴史を学べ」るのでは?
エンターテイメントとして一般教養として接してるのではなく
あくまで「歴史から学ぶ」のであれば、ですけどね。
一般教養として愉しむことと「歴史から学ぶ」ことをごっちゃにしてるのであれば、
この質問は無意味ですがね。
政治や竹下、というのはあくまで例示列挙です。
他にも現代史には有益で質の高いものがありますよね
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#1です
>具体的に緻密に竹下登の人間性や、
>政治において離合集散を生み出してしまう人間というものの
>営為や心理について研究する際においては
>江戸から明治時代の歴史も学ばねば理解できないというのでありましょうか?
理解できない訳ではありません。
より理解できるようになると言っているのです。
それから、個人の人間性を学ぶことも、離合集散を生み出す人間の営為、心理を研究することは歴史学の領分ではありません。
どういう人間だったのかではなく、なにをした人間なのかを学ぶのが歴史学ですし、離合集散を生み出す人間の営為、心理を研究することは社会心理学の領分です。
>どうせ昔も現代も人間として同じ営みであるならば
>資料性の低さ、環境の異質さ、などからいっても
>まずは現代を極めたほうがよりよい人生を送るためには
>いいんではないですか?
>というのが質問であります。
歴史書の信憑性は低く、新聞などのメディアは信憑性が高いと言うのは安易な考えだと思います。
どちらも権力者の影響を受けるという点や、書き手、作り手の主観が入ると言う点は共通しています。
そもそも、歴史書の資料の信憑性や当時の環境というのはどうやって判断するのでしょう?
歴史をしっかり学んでいないとそれらは判断できないと思いますが。
根本的にわからないのが、なぜ「資料性の低さ、環境の異質さ」から「まずは現代を極めたほうがよりよい人生を送るためにはいい」と言う結論が導かれるのですか?
直接の当事者並びに当事者世代、その子の世代が生きている間は、歴史として語る・学ぶには利害関係が対立し冷静な分析がなされないため、深入りを避けざるをえないのではないでしょうか。
人の寿命が70~80年、子供が出来るのが20~30代とすると、ざっと100年近くは経たない限り歴史の関係者が残っており、感情論が出てきてしまいます。
高校時代に現某党首の息子と1学年違いでしたが、政治経済の授業において教師が特定の考えを教えると、大きく反発をしておりました。
特定の総理(故人)について言及したところ、彼の親はその総理の下で派閥のリーダ格として可愛がられており、某総理の考えは本来はそのようなそのようなものでは無く、直接聞いていた親父から何度も聞かされていると反論を受け返す言葉がなくなり、授業が中断した事件がありました。
当人からしても、実際に面識のある親や祖父母が当事者であったり、関与していた出来事であれば、当事者意識が働いてしまうのも無理はありません。
これらのこともあり現代史を歴史として見るのは難しいのだと考えています。
また例をあげると、新選組は明治から昭和初期に至るまで法に反した暴力集団であり賊であったと言われていましたが、戦後時間が経つに連れ歴史が見直され、当時は江戸幕府が政府であり、幕府から京都守護職を承った会津藩の配下で治安維持の為に活躍した、警察的な組織であったと見直されています。
結局これにも明治から前の敗戦までの80年近く、完全に名誉が回復されたのは100年近くが経ってからになります。
現在経営者として、近年(戦後)の経営手法や失敗の原因を学ぶため書籍などから知識を仕入れることはあっても、歴史を学んでいるとは思っていません。
あくまでもHowToを学ぶためであって、その行為が後の時代から見て正しかったのか間違っていたのかは将来の人々が決めることなので、今時分では確定されていないからです。
人間組織や心理についてテクニックを学ぶのであれば近年の出来事を、真理本質を学ぶのであれば歴史と思っております。
個人的には資料類の豊富さと歴史の確定時期から鑑みて、1800年代を学ぶことが一番望ましいと思っております。
既に回答は出尽くしているかと思いますが、少しだけ別の視点から意見を述べます。
歴史解釈は、現実の政治と密接な関係があります。
日中および日韓の歴史問題を見れば、一目瞭然でしょう。
そして歴史が現在に近くなればなるほど、その解釈にはイデオロギーが濃厚に混じります。
歴史は学問としての研究対象ではなく、現実の政治と絡みながら右派・左派の政治闘争の材料になっているのが実情です。
今の日本の状況では、歴史を比較的冷静に見れるのは、幕末まででしょう。
せいぜい日露戦争くらいまでかと。
(日露戦争を比較的冷静に考えられるようになったのは、司馬センセイの功績ですね。まあ『坂の上の雲』が全てではないのも事実ですが)
その後は、朝鮮併合がありますので、ここで右派・左派のイデオロギー闘争のネタになってしまいます。
簡単な話です。
誰も「何かの役に立てようとして歴史(ひいては学問)を学ぼうとはしていないから」ですよ。何のかんのと理屈をつけても、古今東西「学問は楽しむもの」です。学者を意味するscholar、学校のSchool、これは元々「暇」を意味していました。上流階級で、暇をもてあました人が手慰みに行うのが学問です。当然ですがそこに「有益だから」「役に立つから」という視点は本来あるまじき物です。
メリット?役に立つ?有益?
だからなんです?
本当に人が「歴史に何かを学んでいる」ので有れば「歴史は繰り返す」などと言う言葉は存在しないでしょう。なぜ同じ過ちを繰り返すのか?人が歴史を「楽しむために学んでいるから」です。何かの役に立てようとして歴史を学ぶ人はいません。
この回答への補足
誰も「何かの役に立てようとして歴史(ひいては学問)を学ぼうとはしていないから」
というのが根本にあるのなら残念ですがあなたとは
前提条件自体が異なります。
私は経営者やアッパークラスの者たちが「成功のためには歴史を学ぶ必要があるのだ」
と主張していて多くのものがそれに影響されて
実行しようとしていたり、同じようなことをしたり顔で発言しているものだと
いう前提があるのですから、
最初の最初で食い違うようですね。
あ、いやそんな人はいるわけないなんて反論はやめてくださいね。
水掛け論ですから。
それでは・・
私の個人的な見解なんですが・・・
1古今東西、人は馬鹿である。
人間の脳は実を言うとここ最近(数万年)変ってません。ですから心理は読めても思考は読めない。或いはその逆はいくらでもあります。
例えばとある武将と20世紀の将軍を探し出して比較したとします。二人とも部下の兵士に対する統率力はそれぞれの時代の人々を圧倒していたとしましょう。では方法に違いはあるか?とするとあまり違わないんです。より具体的には一般兵と同じ食事を摂り衣服や寝具も殆ど変らない事が兵士達の畏敬の念を持たせたとあります。その二人とは武将は古代中国の呉起とWW2のドイツ軍の英雄ロンメル将軍です。ロンメル将軍が呉起を調べて真似したという可能性は否定できませんが少なくともやり方は殆ど同じです。そして出した結果もね。
2形だけで真似する事の危険性
これはほぼ同じ状況で同じ言動で出たあまりにも対照的な結果について語りましょう。古代ローマでの話ですがユリウス・カエサルがある日部下の部隊が給料ベースアップについてストを起こしました。彼はどう対処したかというとそれまで部下に対し「戦友諸君!!」と呼びかけていたのを「兵士諸君!!」と変えたのです。カエサルは常に部下の先頭に立っていた為に戦友と呼ぶ資格がありました。それでいきなり他人行儀の兵士ですから部下も見捨てられたと思ってストを止めたそうです。時代は下って数百年後の帝政期にとある部隊がストを起こしました。でその時の皇帝はカエサルの故事を真似して戦友諸君!!と親しく呼びかけました。結果はどうなったか?兵士は首都で皇帝が贅沢な暮らしをしていると知ってましたから何が戦友だふざけるなとばかりにブーイングの嵐になったそうです。
少なくとも表面でしか捉えるだけならば思わぬ失敗をする良い例と思いますが?
3歴史とは連続している物
ローマは3度世界を征しました。一度目はローマ帝国としての軍事力で。2度目はカトリックの中心としての宗教的な権威として。そして3度目はローマ法体系として多くの国々を法律としてです。現在イスラム国家等は例外としても殆どの国の法律はヨーロッパの法体系を元にしてのアレンジと言っても言い過ぎではありません。日本もまたそうです。世の中全く関係無いと思ってる国や時代とも繋がっている例として挙げました。
4趣味としての歴史
私はミーハーで飽きっぽいですからその時々で嵌る国や時代が違います。あの頃の(WW1前後の)ソ連は良かったとか十字軍時代の中東は熱血だったとか共和制時代のローマはノリノリだったとかWW2時代のドイツ戦車は機能美の素晴らしさは世界遺産だとか・・・そんな感じで趣味として歴史を愉しんでいます。
この回答への補足
古今の人間がやることも現在の人間がやることも
大きく営為という点で見た場合、たいして差がないのだ、つながるのだというのはわかります。
しかし質問は、映像や音声やスクープを取ってくる雑誌や番記者を抱える新聞が存在するのを代表的として、
より資料性の高い現代歴史を極めないうちになぜ情報が少なく環境や生活習慣が違う古今に奔ってしまうのでしょうか?
といったものであります。
加えて、古今の歴史というのはおおかた戦争の歴史でありますから
政治家でない我々は現代よりもさらに学ぶ部分が薄れることは否めないのです。
戦争は特殊すぎます。
戦争以外の古代の歴史はあるといえばあるのでしょうが
マイナーゆえに我々一般人は手に入りにくいですし、
磨きに磨いた歴史観でないゆえただでさえ昔の歴史はそうだというのに
なおのこと信憑性に欠けます。
どうせ昔も現代も人間として同じ営みであるならば
資料性の低さ、環境の異質さ、などからいっても
まずは現代を極めたほうがよりよい人生を送るためには
いいんではないですか?
というのが質問であります。
その点について触れていただくと幸いです。
内藤湖南という有名な学者が今から80年以上昔の大正10年に
「応仁の乱に就いて」という題で講演し、「だいたい今日の
日本を知るために日本の歴史を研究するには、古代の歴史を
研究する必要はほとんどありませぬ。応仁の乱以後の
歴史を知っておったらそれでたくさんです。それ以前のことは
外国の歴史と同じくらいにしか感ぜられませぬが…」と述べています。
ご質問の趣旨とある意味では共通の問題意識を感じますが、それでも
古代の歴史はほとんど必要ないが、応仁の乱以後(ということは
戦国時代は含まれる)が重要だという考え方は大切だと思います。
温故知新といいますか、現代だけを見ていたのではかえって
現代のことがよくわからないということです。
中東情勢、とくにイスラエル関係は、古代史までさかのぼらないと現在の状況を正確に把握できない、と思います。
ある日突然に現在の状況が出来上がったものではありません。そこに至るまでの歴史の積み重ねがあるのです。
織田信長が何故排除されねばならなかったのか、結果的にそれが徳川政権を生み、鎖国に繋がっていきます。毛利(長州)と島津(薩摩)、長宋我部旧臣(土佐)から明治維新が勃興してきたことは「関ヶ原の合戦で敗れ、徳川幕府から敵対視された」ことと無関係ではないでしょう。
それが明治政府の骨格となり、現代にまで繋がっているわけです。
むろん、「歴史学」が「一般教養」あるいは「趣味」という面が強いこともまた事実です。
でもまぁそんなことを言えば「勉強」の大半がそうであると思います。
少なくとも「古語」の活用や三角関数、生物などが日常的に何かの役に立ってはいませんからね(^^;)
メリットを求めるのであれば、竹下登や田中角栄の手法を表面だけ真似しても、失敗するでしょう。その人物をある程度理解しないことには、真似すらできないかもしれません。
原因を探らないと、結果だけ知っても意味がないですし、「過去に一等が出た売り場だから、ここで宝くじを買えば当たるだろう」という考え方と同じ間違いにはまる危険もあるような。
ということで、歴史を学ぶ必要が生じてくるのではないでしょうか。そして戦後史を理解するには、まずは明治維新以降、さらには古代までさかのぼる必要が、やはり出てきます。「現代史」だけを独立させる考えは因果関係の否定なので、歴史とは相容れない考えかと。
そこまでやるなら、個人的には織田信長や徳川家康について調べる方が好きですね。虚実を判断する困難さは、あまり変わらないでしょう。
大学で日本史学を専攻した者です。
質問者さんが
>エンターテイメントとして一般教養として接してるのではなく
あくまで「歴史から学ぶ」のであれば、ですけどね。
とおっしゃっている通り、多くの方はエンターテイメントとして歴史を学ばれているのではないでしょうか。
そういう方は純粋にその時代が好きだから学んでいるのであって、役に立つか否かという損得勘定をされているわけではないと思います。
また、例として竹下登や田中角栄の心遣いや手法を挙げていますが、これらは歴史の領域からは外れた問題です。
これは一般人が学ぶ歴史からは少し逸れた話になりますが、歴史学とは、何か具体的な教訓を得るために研究されるものではありません。
私はローマ時代の事はよく分かりませんが、戦国時代の史料が少ないという事もありません。
古文書・古記録(日記)を始め多くの資料が残されており、それらを丹念に読み込んで個々の事実を積み上げ、その事実を基に何かを論じるという非常に地道な作業が歴史学の研究なんです。
竹下登や田中角栄は明らかに「普通そう」な人物ではありませんが。
歴史の意義は視野を広げることにあります。
「竹下登」や「田中角栄」といった個別の事例は大抵の場合そのままでは役に立ちません。
戦国時代が現代と「似通っていない」と a9820806jp さんが感じるように、「田中角栄」もほとんどの会社員と「似通っていない」でしょう。
別の時代、別の国の事例を研究することで、普遍的な教訓や法則を得ることで、はじめて役に立つ事柄を得るのです。
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