プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

先生一人みんなを見渡せる場所v.s.多くの生徒が椅子に座って黙って講義を聴く。

というような、教育制度はいつ頃からどのような思想において生成してきたのでしょう?その歴史が知りたいです。


国民国家の問題と関係があるのでしょうか?
画一的で高度な教育を効率的に国民に対し行うことにより、富国強兵を図る。
また、画一的な道徳的規範を国民に植え付けるなど。


思いつくとおりに書きましたが、このことに関する意見をお聞かせください。

A 回答 (8件)

いわゆる「座学」はソクラテスや仏陀やイエスの時代(あるいは原始宗教)からのものと考えます。


生徒や信者に知恵を授ける、つまり一人の知恵者が複数の(受身の)人間に新たな思想を伝える、という意味では、学校教育も宗教も同じ機構だと考えます。
この偉人たちは、「対話や問いかけによってモノを考え、答えを導き出すこと」を現在の教育者より、もう少し考えていたと思います。それはその後のカントなんかも同様だと思います。(もちろんすばらしい教育者もなかには居るのでしょうが・・・
。)
宗教と政治は密接に繋がっています。統治者が宗教を利用した例は世界史上では枚挙に暇がありません。

まったくの私見ですが、Evianusさんの求める回答になってますか?
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この回答へのお礼

返答ありがとうございました。

そんなに昔から、このようなシステムがあったとは。考えてみれば、それが一番手っ取りばやいんですけどね。

お礼日時:2002/06/26 16:09

この「高度な構造化」は 国民性なのかは あまりよくわかりません。



もちろん 明治維新以降 富国強兵には、「高度な構造化」は必要だったと思います。(軍隊は 「高度な構造化した組織」ですよね)
でも 江戸時代も 一般町民や農民はわかりませんが、城の中は 構造化度が高かったのでは??(そうでなければ 250年も安定していないでしょう)

狩猟民族にくらべ 農耕民族は もしかすると 構造化しやすいのかも知れません。

なにを書いているのか 自分でわからなくなってきました。
ごめんなさい
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

参考にしたいと思います。

お礼日時:2002/06/27 18:12

はじめまして



答えになっていないと思いますが 関連があるかもと。
現在の日本の学校の教室は 「高度に構造化」していると思います。
(生徒の領域 教師の領域がきまっているし、向きも配列も決まっている)
USでは 机が碁盤の目のようになっていなかったり 教師が生徒に囲まれていたりという「構造化の低い」授業光景を良く目にしました。
===================
また先日「笑う犬」の「ほりけんダンス」をUSでやってました。「構造化」と無理矢理関連付けて分析すると、
・日本のほりけんダンスは、幼稚園レベルでも「しっかりならんでおり 教える側教えられる側の向きまで 決まっているのがわかる」(高度の構造化)
・USでは もう ぐちゃぐちゃで また 「ほりけん」がやっているダンスと明らかに違うダンスをし続けている者もいる。(低度の構造化)
となります。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございました。

日本人は昔からそんなに几帳面で、「高度に構造化」した民族だったのですかね?

お礼日時:2002/06/26 16:06

勝手なことをいってしまうのですが、支配者のエゴが大部分ではないのでしょうか?



今の世の中みたいに昔ほど力のある人間がいなくなり、みんなが接近してきたら、お互いが自己主張するようになりますよね。ひとは、結局楽なほうに生きたいのではないでしょうか?

特に昔は貧しいので、食物もなければ考える力もない。そうなると人を戦争のころみたいに「お国のために戦争に行け」などと思い込ませるのは、簡単なことだと思います。

私自身、食物が少ない貧乏なころは、おかしな考え方に染まってしまうこともしばしば。。。

参考URL:http://www.amazon.co.jp
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この回答へのお礼

返答ありがとうございました。

お礼日時:2002/06/26 16:09

 一人の教員に大勢の生徒が対面状態で座り、教員の話を聞くというスタイルは、だんだん前々世紀の遺物になりつつあると思います。


 150年前とか、200年前とかは、パソコン教材もない、インターネットもない、ケータイもない、テレビもない、ビデオもない……とにかくなんにもないわけで、本なんかも一般庶民が自由に買えなかったでしょうから、そんな時代に全国的規模で子供への教育をするとなれば、教員免許制度を新設して若い教員を速成的にたくさんつくり、対面状態で教壇から教えるなんていうことが、とうぜんのようにおこなわれたと思います。

 21世紀の今、このスタイルは歴史的使命を終えました。
 といっても、部分的にはこのスタイルが効果的に機能することが、こんごも続くとは思いますが、教育や学習の大部分は、生徒自身が、いろんなIT機器を駆使して、自主的にべんきょうするような形になるでしょう。

 こんなに情報化社会が進み、いろんな手段であらゆる情報を自分で積極的に得ることができるようになると、一人の人間(教員)がしゃべることをだまって聞くなんていうことは、生理的にとても苦痛なことになってきたんじゃないでしょうか。学級崩壊も、しぜんの時の流れという気がします。

 私も、インターネットその他のIT的情報収集に習熟し、かんぜんにはまってしまいましたから、それがどんなに有益な話であっても、机に座って黙って人の話を聞くということには、とても耐えられなくなりました。5分で眠くなってしまいます。
 成人式などで、若者が有名人の話でもなんでも、黙って聞くなんてことに耐えられず、騒ぎたてるというのも、よくわかるような気がします。

 かってなことをいろいろ書いて、すみませんでした。とにかく、いちど作ってしまった制度は、それが時代に合わなくなっても、制度が自己目的化して、いつまでも存続するのが、人間社会の(日本社会の?)通弊なんでしょうね。
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この回答へのお礼

返答ありがとうございます。

あまり社会が早く変わりすぎるのもどうかと思いますが、
変わるべきところは早めに変わるべきだと思います。

(本論とはずれますが)ですが、過去の遺産を全てだめ。
と言うのはちょっと違うと思います。
やっぱり、慣行は尊重しないと。


大学の授業にコンピュータが導入され、ますます効率化されてゆきます。
数年後にはまったく違った世界がたち現れているのでしょうね。

お礼日時:2002/06/22 12:55

吉田松陰の松下村塾でも、既に、そのような形式で門下生に教えています(椅子はありませんが)。



寺子屋でも、同様です。

意図は分かりませんが、生徒の顔を見ながら教えれば、反応が分かることと、生徒も先生の声が聞こえやすいなども、大きな理由の一つでしょう。
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寺子屋の時代からあったんじゃないでしょうか・・・。



江戸時代の徳川幕府は儒教の考え方を擁護したそうですから、その辺と関係があるのかも・・・。
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 米人スコットが師範学校の教師として着任し、学級編制による一せい教授の方法が試みられ各地の小学校の校舎が整うとともにこの方法が全国に普及したとのことです。

この方法が教育制度をあまねく普及させるのに最良の方法だったと思われます。資料につきましては、下記HPに記載があります。

参考URL:http://wwwwp.mext.go.jp/v100nen/index-4.html
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