プロが教えるわが家の防犯対策術!

大学生♂です。私は異常なほど正義感の強い人間です。そのせいで世の中の人間に嫌気がさしています。ちょっとした『非常識な行動』を見たり、聞いたりするととても憤りを感じます。常に人間を善と悪とで二分化してしまい、悪の方の人間は「しねばいいのに・・・」とまで思ってしまいます。色んな人間が見たくてサービス業のアルバイトを2年前から始めています。毎日老若男女のお客さんを相手にしているのですが、正直、「世の中ってこの程度の人間の集まりなの?」と思ってしまい、「こんな人間はいないほうがいい」とか「こんな人間に生きてる意味なんてあるのか?」とすぐに存在否定に繋がってしまいます・・・。

実際は上記に書いたことよりもひどいです。そのひどさが日に日に増し、人間不信に近づいていると思います。悩んで悩んで両親に相談してみたところ、「悪い人間もいるから世の中が成り立っている。良い人間ばかりになるとつまらない世の中になる」との納得のいかない答えでした。
私は病気なのでしょうか?
私には何が必要なのでしょうか?
アドバイスお願い致します。

A 回答 (35件中1~10件)

もしかしたら病気かもしれませんね。


一度病院でちゃんと見てもらった方がいいかもしれません。

でも自分で自分のことを客観的に見れてるのは素晴らしいと思います。
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反面教師ですかね。


私も正義感が異常に強く…『ああいう人間にはなりたくない』と思い続けて早ウン十年(*_*)
わかった事は、あなたの言う『悪の人間』に教えられている事です。悪の人間は日々、悪を行います。懲りる事なく。それを日々、善の人間は見ています。悪の人間の悪を見る、感じる、聞く事で善の人間が『ああいう人間にはなりたくない』と善行動をし、また逆に悪も善を見ています。善が悪になる事もあるのでは?人間、生まれながらに善と悪を知ってはいません。また、ふと善を忘れた時に悪を見て気づく事も。悪の人間が許せないのなら、あなたのその正義感を貫いてください。次第にあなたのまわりには善の人間のみが集まるでしょう。悪の人間は段々と去る事でしょう。それも悪くない。悪の人間に日々教えられている私の周りには善悪両方の人間が集まって、毎日とっても賑やかです(笑)
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私も歩きタバコやポイ捨て等色々腹がたつことがあります。


死ねとは思いませんが、そういう習慣や態度があるひとは
他のところできっと損をしているだろうな~と思います。
「バカだな~」と思います。
親がそうだと子どももそうなる可能性が高いし、
周りに不快感を撒き散らすとそれは結局自分に返ってくるからです。

飛び降りや硫化水素自殺に巻き込まれて亡くなった人がいたり
場当たり的な殺人で「誰でも良かった」と話す犯人を見ていると
死にたかったら勝手に1人で死ねばいいのに、と思います。
 
******************

saladdays様はご自分の快適な日常を阻害する者全てが
疎ましい、と感じているのでは?と思いました。
正義感というか、自分の快・不快の基準があって
それで判断して不快、となるものは自分の気分を害するものだから
そういうのを消したい、
安易な表現として「死ね」なのではないかなと。

現実的な解決にはならないかもしれませんが
海外を旅してみてください。もっと凄いところがあります(^^;)
何がいい悪いではなく、「そういう人もいる」と
考えざるを得なくなります。
「多様な価値観」「郷に入っては郷に従え」を体感します。
この前行った国は、
歩行者は赤でも青でも自分の身は自分で守らなければならなかったです。
↑車に「歩行者優先」という意識が全く無く、クラクションならしまくり
地下鉄でもどこでも携帯着信音は爆音で、かかってきたら大声で話すし。
降りるお客さん押しけて乗り込む客ばかりだし。

そういう場では「オレがオレが」にならないと損するばかりです。
勿論それがいいとは私は思いません。でも、社会は人で構成されていて
嫌でも何でも「存在している」のです。
なのでそれを受け容れるなり流すなり反発するなりの対処は
自分にかかっているのです。

大切なのは自分は自分の基準で生きることと
その基準とあう人と関わること(共感を得られると自信に繋がります)
自分の子どもにそれを伝えること、
このくらいでしょうか。
自分の基準に合わない人に消えてもらうのは無理だし
子どもでもないのに教育するのは労力もったいないです。
心地よい環境を作れば、それ以外で何が起こっていても
それを「快・不快」目線だけでなく違った観点からもみれる
心の余裕が出来ると思います。
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初めまして。

だめな大学生です...お手柔らかに。

 他人を過剰に存在否定しないためには、正義を全員が問われると思わない事。
 「他人の欠点を受け入れ、罪を憎む」というのは“人の社会的価値”と“命の尊厳”は別という事。

 「他人を存在否定...」存在価値と正義を混同するのは、規律を守る事でご自身の存在意義を肯定するからです。

 貴方は正義を都合良く解釈します。自分がどう生きるかだけを問題にするのはダメですか?自分に対して正義を守れば納得出来ると思います。ご自身の存在意義の肯定に懸けて、貴方は全員を正義に従わせたいのかも知れないです。



...と、思うのはどうですか?
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「しねばいいのに」と思うのが癖になってしまっているのでは。

最初は無理にでも、心の中で思う攻撃的な言葉の激しさを1段階くらいやわらげてみては?

「しねばいいのに」→「(神から)罰をうけろ!」くらいに。

私の仕事の先輩で、大切に思っている身内のかたを、車にはねられて亡くした人がいます。相手の運転手の不注意でした。そのときに、先輩は言いました。

「そいつ(運転手)、ぶんなぐってやりたい」

自分の身内を、言葉は悪いですが殺されたも同然のときに、「殺してやりたい」ではなく、「ぶんなぐってやりたい」です。私はその人の心に品格さえ感じました。

もちろん、心の中だけでひどいことを思うぶんには、だれにも迷惑はかかりませんが、心の中の言葉をひどい言葉でうめつくしていると、そのうち表にするりと表現されてしまうかもしれません。

「しね」という言葉は、激しすぎるほど存在を否定する言葉なので、ほんとによほどのことがないかぎり使うべきではないと思います。あまりにちょくちょく使うと、ひとつひとつの言葉の価値が下がる気がします。
(、、、といっても質問者さまは口に出してはいないようですが、、、)
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私も正義感(義理とか人情とかの点だけですけど)が強いとゆうか、いい歳になりましたが、質問者さんと同じように苦しむことが多いです。


昔、ちょっと法律の勉強をして、内容的に定かでありませんが、法の精神は「罪を憎んで人を憎まず」とあります。犯罪というものは不景気な時代に多く発生するようです。戦後などの、食べ物のない時期とかは、生きるために食べ物を盗んだりする犯罪が多かったと思います。そんな時代でも、飢え死にしても犯罪を犯さない人は犯さないと思います。ですが、時代が良ければ、一部の人間は犯罪を起こすことはなかったと思います。
また、「未成年のした行為は罰せず」ってな感じも記憶にあるのですが、小さな子供っていうのは、何が良いのか悪いのかもわからず、僕も、虫を平然と殺したり、人を苛めたりとか、学校で悪やったり、色々悪いことをしたことがあります。でも、今は、そんなこと、とても怖くてできません。それは色んなことを見たり・聞いたり・教わったからじゃないかと思います。大人になっても、そういうことをする人たちは、そのような環境に恵まれてなかったのではないかと思います。
あなたが考えてる憤り(悩み)をテーマに変えてみてはどうでしょう?
こんな非常識なことをしている人がいるけど、その人の行動をどうやったら改善させれるのかな?ってな感じ風に悩みの質を変えてみた方が少しは楽になれるのではないでしょうか?
あなたが生きている間に、あなたの望むような世界は訪れることはありえないでしょうが、そうしたいのであれば、自分が礎になって、何か行動を起こすことにより、ちょっとずつでも時代は良くなるのではないでしょうか?
また、私の実家でもサービス業を営んでおり、世の中の縮図ともうしますか、色んなお客さんが来ます。嫌な人もいますが、商売をやってる限り、そんな人にあたるのは当然のことで、憎たらしいとか、それ以上のことは思いません。余程のことがない限り、自分のお店に来てくれるお客様には感謝しております。(自分の店を慕って来てくれてますので)
知ってるお客様でも、殺人を犯した人が数名います。自分にとっては、とても良い人もいましたし、罪を犯したことにより、周りの目が冷たく、一生苦しんでる人もいます。魔がさすって言葉もあるように、良い人でも狂ってしまうことがあるんです。
そんな人に手を差し伸べて上げれる位の人間でありたいと、僕は思ってます。
ちょっと、文章を書くのは苦手なのなのと、自分も過渡期にあるのですが、質問者さんの心を軽くできることでもあればと思い、書いてみました。
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こんにちは。



他の方の回答。そしてお礼と全て読ませて頂きました。

私はあなた様の事を、変わっているとは感じませんでした。
勿論、病気だとも。
あなた様が感じていることは、多かれ少なかれ、
誰しも常々感じているものだと思うのです。

例えば、同じ職場にとても嫌な人がいる場合。
どんな人でも「辞めてくれないかな」と思うでしょうし、
非常識な人を見かければ「どんな育ちをして来たのだ??」と、
憤りも感じることでしょう(私も時々そう感じます)。

ただ、そういう人々に関して「死ねばいいのに」と、
心の中で思っているだけでは、何も変わらないと思うんですよね。

>私には何が必要なのでしょうか? アドバイスお願い致します。

なので、今度からそのような場面に出くわした時には、
あなた様が「お手本」となり、少しずつあっても、
世の中を変えて行く運動をなさると、建設的でいいと思います。

例えば、道端にゴミを捨てている人がいたら、
落ちたゴミを拾い、「落し物ですよ」とニッコリ笑顔で
渡してあげる(こうすれば角も立ちませんし)。

発券機に割り込みした人がいたら、
「列をお間違えですよ。最後尾はあちらです」と、
にこやかに教えて差し上げる。

これを読まれた質問者様は「どうしてそんな非常識な人に、
教えてやらなくちゃならないんだ?」と思われるかもしれませんが、
人というのは、ひょんなきっかけで、
それまでの行いが180度変わることが多々あります。
質問者様のような、物事に良く気が付き、正義感の強い方ならばこそ、
そのような方に「気付き」を与えることが出来ると思うのです。

「人のフリ見て我がフリ直せ」という言葉がありますよね?
「行いのよろしくない人を見て、自分にもそういう所があるな」と
我が行いを正す。といった意味だったかと思うのですが、
この言葉は、逆の意味でも使えると思うのです。
「あの人は素晴らしい! 自分の行いを正そう」という風に。

実際に、私自身も、垢の他人様の振る舞いにより、
己の言動を正した事が幾たびもありました。
或る時「ハッ」と開眼するのですね。気が付くのです。
どうか、そのような「お手本」として、
我が国日本を導いて欲しいなと思います。
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 あなた様のようなタイプは程度の差はあれ「若い人」に多いです。

これは多くの場合、若さゆえの社会経験の希薄さによってそうなってしまいがちです。

 というのは、正義感が強いというのが自分のなかで矛盾となっていることに気づかないのです。誰かを悪だとか、社会は腐っているという若者は多いのですが、それは自分が「誠実で、正しい」と思うことによって成り立ちます。

 こういうとたいてい「いや自分が絶対的に正しいとは思っていない」といいわけして自分の正義を見せるのですが(笑)、残念ながら、これは自分への盲目です。誰かを悪とするには、自分を正義とみなさないとできないのです。(悪が悪を批判するのは、心理的に難しいからです。)

 しかし、結局は自分のなかの悪を十分に自覚していないことが大きな原因です。確かに誰が見ても悪という人はいるのですが、ふつうの人は正義感は必ずしも働きません。なぜなら、その人が悪であると同様、自分にも悪があることを認めているからです。もちろん程度の差はありますよ。

 自分に悪があると無意識に認めている人は、他の人の悪に寛容になります。実はそれが大人になることといっても良いかもしれません。

 これは実際、自分への高慢です。確かにその人は悪かもしれませんが、自分がその人に悪であるといえるほどの人間なのかということです。あなた様は自分を絶対的正義であると確信をもって言えるでしょうか?そんなことは誰にもありえないことですよね。

 正義感があること自体は間違いではありません。誰しもそれなりに持っているからこそ、いろいろな物事に反応できますし、それが社会においても必要なことです。ところが正義感が強すぎることは、自己への盲目でしかありません。

 大きな原因は社会経験が不足しているということ。こういうとそれは言い過ぎだろうと思われるかもしれませんが、自分を暗黙的に善とみなすことは社会経験の不足であり、自分が良い意味で間違いをおかしていないからです。社会のなかで本当にもまれる経験をしていけば、自分の考えや見方に良い意味で自信を失い、他者を肯定することができるようになります。正確にいえば、寛容になります。

 私個人の考えでは、正義とは弱者に共感できる者のことです。あなた様の考える悪の者たちをあわれみ、悲しむ心をさえ抱けることです。

 本当の深刻な弱者であるホームレスや障害者をどう考えるでしょうか?ホームレスは悪でしょうか?もしそう思うなら、あなた様の見識は狭すぎます。本を読んできたかもしれませんが、不足しているか偏っています。

 少なくとも低レベルの哲学本や人生のノウハウ本は読んでいればやめましょう。こういうのは頭でっかちになり、中毒になるだけですから。
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>悪の方の人間は「しねばいいのに・・・」とまで思ってしまいます


>「こんな人間はいないほうがいい」とか「こんな人間に生きてる意味なんてあるのか?」とすぐに存在否定に繋がってしまいます・・・。

そんなことを思う質問者さんに憤りを感じる。
「しねばいい」はひどすぎる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>そんなことを思う質問者さんに憤りを感じる。
すいません。
>「しねばいい」はひどすぎる。
わかっています。だから相談しているのです。

お礼日時:2007/05/12 17:31

中年既婚男性です。


私もほんの1ヶ月前まで同じような気持ちになることが大変多かったです。
この何十年も、自分の思い通りにならない時イライラしていたのですが、そのような気分が払拭されると同時に、他人に対しても寛容になれてきた気がします。この1ヶ月の間に世の中の景色と私の中の心象風景が変わってきたことに大きな驚きを感じています。何が私にあったのか?特別なことは思い当たらないのですが、DV(家庭内暴力)をかつて妻に働いてしまい、現在別居中の私が、これまで克服するために努力してきたことが少し報われてきたのかもしれません。

これまでの私の場合、あなたのようにパーフェクトな人間ではなく、欠点も非常に多いので、そういった欠点の部分に関しては、他人からドンくさい、気のきかない人間と思われているかもしれないです。
それにもかかわらずそういった自分の欠点を棚に上げて、平気で不正を働く人間やマナーの悪い人間に非常に腹が立つことが多かったのです。(今でも腹が立つことは立ちますが「しねばよいのに」といった激しい感情は起きなくなりました。)
一例を挙げると、
・無灯・携帯利用・逆送自転車
・電車の中で周囲におかまいなく、余分なスペースを占領する人、食事・化粧をする人、携帯、音漏れウォークマン、酔っ払い、ジベタリアンなど
・やたらと音を立てる人間(食事後口の中でうがいをして飲み込む奴(これはあなたもおっしゃっていますね。)、シーとかハーとか口を鳴らすおじさん、独り言の多い奴(人前なのに英会話の練習でささやいている人も気になる。)
・並んでいる列に割り込む人
・要するに周りの空気を読めない人達
・「よろしかったでしょうか?」とか「お名前様」など変な日本語を話す人達
・注意すると逆切れする連中
・人の話を聞かず自分の言いたいことだけ一方的にしゃべる人。すぐ話題を変える人。人の意見に共感せず、否定ばかりする人。
・人との約束をすぐ破る人。ドタキャンする人。
・けちな人。当然するべきお礼や挨拶の贈り物を欠かす人。
・ああでもないこうでもない、と堂々巡りでなかなか物事を決められない優柔不断の人。
・自分の教育が悪いのを棚に上げて、子供の非行を全て学校のせいにする親達
・人を利用するだけ利用して自分の用が満たされたら、お礼や報告もしないで立ち去る人。このサイトで質問の建て逃げ(長期間お礼やポイント付与、〆切をしないで放置)をする人もこれに含まれます。
・・・・まだまだ山のように出てきます。よくもこれだけあると思うくらい!

まあ、企業の不正など社会の巨悪にも腹が立ちましたが、どちらかというと罪にもならない上記のようなマナーレベルの問題に腹を立てることが多かったのが私の特徴かもしれません。(あなたのように高邁な理想とは程遠いかも)

こんな私ですが、私は最近次のように思い、実行してきました。
1)人はそれぞれ自分の理想やこだわりがあり、何に対し価値を見出し、何に対し喜び、悲しみ、怒るかは、人によって異なる。だから私の価値観は素晴らしいとしても、それを全て人に当てはめたり、押し付けたりすることはできないことを知る。
2)腹が立つことがあったら、どうしてそういうことが起こるのか、人間の至らなさをシステムでカバーする方法はないか、などを考えることにしています。例えば、上記無灯自転車対策には、「夜間自動点灯ライトの標準装備化」、電車で席を占領する人には一人当たりのスペースの拡張など。
3)注意しても相手が切れないという確証がある時は、やんわりと、しかしはっきりと、どうしてそれがいけない行為か、ユーモアも交えて話す話法や説得法を常日頃研究する。その際気をつける話し方は、決して「おまえが悪い」と相手を名指しした話し方(相手を主語にしているのでこれを’You Message’と言います。)ではなく、「そう言った行為を見ると、俺は悲しく(苦しく)なる。」といった自分を主語にした話し方(自分を主語にしているのでこれを’I Message’と言います。)にする。
4)人がばかにみえるという心理状況を分析する為、本を読んだ。
速水敏彦著「他人を見下す若者たち」(講談社)
但し、この本は優秀な人間であるあなたの状況とは違うようですが、私とは少し当てはまる部分があったかもしれません。
5)とにかく人の話を最後までじっくり聞くことに注意した。
6)自分が悪いわけではないのに、人の行為に腹を立てて気分が悪くなるのは勿体無い、自分はそういう人々に比べてましなのだから、優越感を覚えればよい、と割り切れるようになってきました。
7)自分の精神状態がいいと、周りを許せるようになる傾向があると思い、最近は、早寝早起き、バランスの取れた食事、規則正しい生活をしているおかげか、最近は徐々に周囲を許せるようになってきた感じがします。
8)却って、そのような人々に怒りではなく、かわいそうという気持ちさえ目覚め、手をさしのべようかと思うくらいの余裕が出てきました。以前最も苦手だった「人(の弱み)に共感する」ことも徐々にできてきたようです。

あなたは他の回答者の皆様もおっしゃっている通り、素晴らしい感受性や正義感を持っている方だと思います。願わくは、その長所、エネルギーをそれが満たされていない所で、正しく発揮され、少しでも社会を生きやすくするようがんばって下さい。

そして一つ是非注意して頂きたいことは、あなたの正義感や完ぺき主義を、どうかやがて持つ家庭では、あまり過度に主張しないように。
「家事はこうあるべき」、「食器や衣類はきちんと片付けて清潔にすべき」、「子供はこのように育てるべき」といったことをあまりパートナーに求めすぎると家庭が息苦しくなってしまいます。倫理的に間違ったことは正す必要があるとは思いますが、それ以外の流儀や生活方法についてあまり細かく指摘することは、あなたの価値観の押し付けになりますので、注意して下さい。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
>あなたのようにパーフェクトな人間

私もパーフェクトな人間ではありません。きっと気づいていないだけで悪いことはしてるかもしれません。矛盾している自分も苛立ちは起きます。

>一例を挙げると、

私もその項目にほとんどあてはまります。しかし、「変な日本語を話す人」と「優柔不断な人」に「しねばいい」とは思いません。知識、性格的なものですから。私が苛立つのは意図的な犯行なのです。「並んでいる列にわりこむ人」、「注意されると逆ギレする人」といったもの。これらは本気で「しねばいい」と思います。

>こんな私ですが、私は最近次のように思い、実行してきました

1:まさに自分の短所です。自分の価値観を周りに押し付けています・・・。これは直さないとと思っております。
2:私にとって非常に難しいです。がんばってみます。
3:なるほど、自分では気遣っているつもりですが空回りかもしれません。がんばってみます。
4:その本は読んでないですが、本はよく読んでいます。
5:聞いています。聞き終わると「大したこと考えてないな」という気持ちがでてきます・・・。実際、大したこと考えない人が多い気がします。そんな自己中な自分も大したことないんですけどね。
6:もちろん比べて優越感は得ます。ただ、劣っている人間の「存在」に腹が立ちます。
7:これは一番重要であるかもしれませんね。肝に銘じ、規則正しい生活を送ってみます。
8:大変な進歩をなされたのですね。うらやましいです。

貴重な体験談をありがとうございました。

お礼日時:2007/05/11 21:05
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