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終戦直後あちこちの都市にいた戦災孤児。靴みがきや金属拾いなどでたくましく生きていた様子が当時の映像資料などで見ることができます。
しかし皇太子殿下御成婚や、東京オリンピックの頃には当然その姿は見かけないようです。
あれから彼らはどのような人生を歩んだのでしょう??
・アメリカ人の養子縁組などで海外に出た
・栄養失調、伝染病等のために一般人より寿命が短かった
・愚連隊、ヤクザ稼業を歩んだ
・仕事を持ち、一般人の社会に溶け込んだ

おそらく今でもご存命の方々はいらっしゃると思います。
体験をお聞かせ頂ければ幸いです。

A 回答 (4件)

今年70になった私の叔父は、戦災孤児です。

というと変な言い方ですが、実は私の父やもう一人の叔父(父の弟)とは血がつながっていないのです。私の祖母が、東京大空襲の翌日、飯田橋(不思議なことにその一角だけ焼け残ったそうです)という所で近所の子供が焼け出され、孤児になったのを不憫に思って家に連れてきたのだそうです。戦後、養子縁組だか何だかをして(終戦後のどさくさですから)、自分の子供として育てました。祖母は女手一つで3人の子供を育て、全員を大学まで出しました。実は、3人兄弟の中で、一番の出世頭は、その叔父です(笑)
私の父は生前、酔っぱらうと、「あいつは、血が違うからできが良いんだ」と叔父のことをほめて?いました。別に隠すこともなく、普通にそんな話をする兄弟だったようです。
祖母も父もとっくに亡くなっていますから、何でそんなことをしたのかは分かりません。ただ、その叔父は、今でも祖母(本人からすると義理の母)に深く感謝しています。
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一般的にはエリザベスサンダースホームが知られていますが、東京にはそれ以外にも養護園がありそれぞれ、義務教育を受けて住み込みのできる就職先に就職したようです。

私が知ってるのは、鷺宮のオデリアホームですが、今現在は離婚で子供がどちらも育てられないなどの理由のお子様が多いようです。もちろん海外に養子にも行きましたがごく一部です。又地方にもカトリック系の養護園ありましたが、今はやめているところも多いようです。ずいぶん昔に感じますが、乳・幼児の受難のようなこと多かったですよ。でも、今の子捨て、子殺しのような理由ではなかったです。貧しいとか、母親が病気など理解範囲のことでした。いまは、遊びに行くのに邪魔、新しい彼氏と一緒にいたい、など支離滅裂なわからない理由ですよね。ただ、「親に捨てられた」という思いはなかなか癒せない傷です。ただ、母親も親に暴力を振るわれたなどとの理由で自分もついなどは腹立ちます。自分がされて辛かったから、わが子にだけはそうしないというのが母性、父性でないかしら。新聞もニュースも聞きたくないことばかり多くなりましたよね。
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日本については、そういう人の話を確か毎日新聞で読んだように思うのですが、ちょうど施設を出て中学を卒業したころが、中学生が「金の卵」と呼ばれて集団就職した時代に当たったようで、ほとんど普通の労働者になったようですね。

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日本国内での戦争孤児は、「仕事を持ち、一般人の社会に溶け込んだ」人が多いようです。


国連・インド・スリランカ・アメリカ各国から、食料の援助がありました。
食料については、政治組織が残っていたので順調に分配可能でした。

ベトナム国内では、「(ベトナム戦争時)ベトナム人従軍慰安婦と韓国軍人」との間に生まれた戦争孤児(15000人前後)は、無国籍のまま仕事を持ち、一般人の社会に溶け込んだ人が多いです。
今でも、韓国政府の謝罪・賠償も無く質素な生活をしているようです。

両国の戦争孤児も、全員が生き残った訳ではありません。
栄養失調・病気で死亡したり、喧嘩で死亡したりする孤児も少なくありません。
ただ、外国人の養子になった孤児は少ないようです。
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