プロが教えるわが家の防犯対策術!

福島県会津若松市で高校3年の男子生徒が母親を殺害し、切断した頭部を持って自首した事件の報道について、

男子生徒の通う高校は県内でも有数の進学校で、国公立大への合格者も多いなど人気は高く、
男子生徒は中学時代は学力優秀、県中学スキー大会のジャンプと複合でいずれも上位に入った実績を持つ、
まさに文武両道の生徒だったとのことです。

事件の内容のことはさておき、「文武両道」ってそういう意味なのでしょうか?

手元の国語辞典によると、文武両道とは「学問と武芸の両方の面」という意味にすぎず、
一般に言われているのは「文武両道に秀でる」の省略形のような気がします。

単純に、勉強と部活を両立しているという意味でよいのでしょうか?

ずいぶん前、法事でお坊さんが「学問をするためには武芸で鍛えられた体力や精神力が必要、
武芸をするためには学問により培われた知識や論理性が必要」というような意味のことをお説教されていた記憶があります。
(細かいことは忘れてしまいましたがありがたいお話でした・・・罰当たりですね 笑)

現代風に、学問を勉強や受験勉強、武芸を部活やスポーツに置き換えるところまでは許容範囲として、
そこから先の意味が一般用法と私の記憶にあるお坊さんのお説教とはずいぶん違う気がするのですが、
実際のところはどういう意味なのでしょうか?

もちろん、言葉は時代とともに変化するのは分ります。ただ、語源というか、元の意味合いを知りたいと思いました。

よろしくご教示のほどお願いいたします。

A 回答 (5件)

>単純に、勉強と部活を両立しているという意味でよいのでしょうか?



部活は運動部だけでなく文化部もありますね。「数学部」や「物理部」などが盛んな学校もあったりします。
それはさておき、
学校や生徒に対して「文武両道」という言葉をつかうときは、一般に「学力とスポーツの両方(を重視する・兼ね備える)」というような場面でしょう。
教育的観点からは両方とも重要ですが、両立はなかなか難しいし、両方を極めるのはもっと難しい。文と武が「◎×」「×◎」というのはありがちな話です。
そこで、「◎◎」でなくても、「◎○」「○◎」か、オマケして「○○」くらいなら、文武両道が一種の褒め言葉として使われるのでしょう。「○△」「△○」あたりだと、あまり褒めようがない(たぶん)。

「文武両道」のほかに、「文武二道」「文武二輪」という言葉もあります。「文武は車の両輪」とも言います。文と武は相まって偏るべきではないという訓えです。「右文左武」は、「文と武の両方を重んずること」「文と武とを兼ね備えること」の意味です。
「文」と「武」を合わせた「斌」という漢字もあります。「外面の美しさに内面の実質が伴ってよく調和している。ほどよくうるわしい。」こと(広辞苑)。

仏教用語として特別な意味を持つ「文武両道」があるのかどうかは知りません。もしあるとすれば先に挙げたような「両方が大切」という訓えでしょう。

ちなみに、こんな訓えもあります。
「譬へば文武両道を以て天下を治むるに、武を先とすべき時もあり文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷南蛮西戎北狄蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべきなり。」(日蓮『聖愚問答抄』)
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この回答へのお礼

詳細なご回答ありがとうございました。「文武二道」「文武二輪」「右文左武」「斌」という言葉は初めて知りました。いずれも含蓄のある言葉ですね。日蓮の教えも大変参考になりました。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/05/18 11:00

 侍(武人)の言葉ですからねえ。

「文」とは学問ではありますが、戦いにおいて作戦を立てる能力、たとえば孫子を修めているとか、その他の兵法を身につけたとか。ただ、作戦を立てても実行力がなければ絵に描いたもち、人もついてこない。だから必要なのが「武」、つまり実行・実践力。
 と、解釈しています。

 現代においても、善行をなすべき(善行であってほしい)計画力・知性・教養・良識とそれを実行しうる実践力こそが文武であると。学校で学ぶべきは(勉強や部活を通して身につけるべきは)その二つであってほしいと思います。
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 文武ともに中途半端で終わったダメ人間から一言。


 NO.1さんの完璧なご回答の中の
>「外面の美しさに内面の実質が伴ってよく調和している。ほどよくうるわしい。」
 ・・・文武両道とはこういうことなんだなと感じ入った次第です。
 中江藤樹は「文武一徳」と言っていたそうです。陽明学には「知行合一」という言葉もあります。
 その他、文武不岐や文武両全という言葉もあったようです。
 みんな文武の相互作用の重要性を言ったものだと思います。
 お坊さんのお話、これと同じようなことはひと昔前の体操の先生、武道の先生はよく言っていました。
 江戸時代からの朱子学、陽明学、武士道の流れを引いているものと思います。
 ところで、野球の王さんを見ていて思うのですが、この人については、武の道を究めたと万人が認めるところだと思います。でも文武両道とは誰も云ってくれません(せめて国立大学でも出ていれば別でしょうけれど)。
 しかし、そのお顔は>「外面の美しさに内面の実質が伴ってよく調和している。ほどよくうるわしい。」ものだと思いますねえ。
 東大や国家公務員の一番エライ試験に合格するのが「文」ではないと思いますね。もっと奥の深いものかなあと思います。
 まあ、質問者さん仰せの通り、「単純に勉強と部活を両立している」というもんじゃないと思います。問題を起こすスポーツ少年がいくら勉強が出来ても「文武両道」という言葉はチョッといかんでしょう。「文武両道」とはNO.1さんの「斌」のご解説の通りだと思います。
 以上はいつまで経っても風格なんて言葉からは程遠く、ますます醜怪な顔付きに劣化していく老人の妄言です。
 昭和の町並みの再現でわざと汚してそれらしく・・・時代劇の室内の柱など木材の黒っぽいのもそれなんじゃないかと思いました。みんながみんな築後100年以上の家に住んでいたわけではないでしょう。
 旗本家の座敷が、灯火や火鉢の炭火のススで汚れたりしたとしても、20年や30年であんなに均一に真っ黒になるとは思えません。
 江戸時代までは木材の再利用はよくやっていたと思います。鋸やチョウナで板一枚を作るのは大変な労力と技術が要ります(小生は角材からカマボコ板程度のものを作ろうと試みましたが、とてもとても・・・)。しかし、再利用でも真っ黒な材木はカンナをかけたり、灰汁洗いなどをしたりして仕立て直していたんじゃないかと思います。
 あんまり目くじら立ててもしようがないですが、こんなあらさがしをするから、嫌われるんでしょうな(苦笑)。 
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#2です。


ちょっと補足させていただきますと

> 今の高校野球の参加校は、昔は旧制中学だけだったので‥

戦前の参加校には、中学校(普通科)のほかに実業学校(工/商/農業科)も入っていました。しかし、甲子園出場は、普通科の中学校の比率が非常に高かったように思います。私の時代にも、進学率が県でトップの中学が、3県の代表として甲子園に行きました。
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この回答へのお礼

勉強不足でした。ご指摘ありがとうございました。

お礼日時:2007/05/18 12:49

昔は「形容詞」ではなくて「心構え」だったのです。

昔は、勉強のできる学校はスポーツも強いのが「むしろ当たり前」でした。ですから、学校や人につける形容詞としての必要性も少なかったのですね。
ところが、近頃は「勉強に自信がないからスポーツで行こう」という学校や個人が多くなって、「両立している学校や個人」が珍しくなったものですから、こんな形容詞が使われるようになってきたのだと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
>昔は、勉強のできる学校はスポーツも強いのが「むしろ当たり前」でした。
・どのくらい昔のことか分かりませんが、例えば戦前だと、旧制中学は地元のエリート校であり、今の高校野球の参加校は、昔は旧制中学だけだったので、選手は必然的に勉強もできていたからだと、ふと思いました。

>ところが、近頃は「勉強に自信がないからスポーツで行こう」という学校や個人が多くなって、「両立している学校や個人」が珍しくなったものですから、こんな形容詞が使われるようになってきたのだと思います。
・そうかもしれませんね。近頃は「文武両道」という言葉を安易に用いすぎるような気がします。個人的には、本来はもっと厳しい言葉の印象を持ちます。「文武両道」のインフレのような気がしてなりません。

お礼日時:2007/05/18 11:06

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