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靖康の変で、金は宋に対して盟約違反を理由に侵攻を開始とありますが、宋はどんな違反をしたのですか??
調べても出てきません。
教えてください。

A 回答 (3件)

宋は契丹族の遼を滅ぼすため、遼から独立した女真族の金へ、「毎年援助する(歳幣)から、共同で遼を滅ぼそう」と申し出ます。


ところが、いざ開戦してみると宋はほとんど進軍せず、遼を攻めているのは金のみ、という状況になりました。宋軍が弱かったからなのか、遼と金の共倒れを狙ったのか。金では後者と理解したようです。
そして、いざ遼が滅亡すると、宋は約束の歳幣を出し渋ったばかりか、契丹族による金からの独立運動を支援しました。

完全に滅ぼされていたとしても、文句はいえませんね。
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この回答へのお礼

分かりやすかったです!
ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/09 23:05

満州東部にあったツングース系で半農半猟の女真族は、初め遼の支配下にあったが、1115年、族長の阿骨打に率いられて独立し、金を建国した。

これを知った宋の徽宗は、従来遼に与えていた歳幣を金に送り、両国で南北から遼を挟撃することを提案した。金はこれに応じて大軍で遼を攻撃して大打撃を与えた。しかし、宋軍の戦果は微々たるものだった。宋軍が弱体であったためだが、宋側は伝統的な「夷を以て夷を制する(夷以制夷)」という考えから遼と金がともに弱体化することを期待して遼攻撃が消極的になっていたのである。だが、金が<<宋の約束違反>>を責めたことから、宋は歳幣の額を大幅に上積みしてこの場をしのいだ。金は1125年、今度は西夏と同盟して遼を滅ぼした。

[編集] 金、宋を滅ぼす

その後、宋は、約束の歳幣額を支払わなかっただけでなく、金の内紛を助長してその弱体化を図ったため、金は軍を南下させ首都開封に迫った。万事休した徽宗は「己を罪する詔」を発して退位し、帝位をその子の欽宗に譲った。欽宗は首都を包囲した金軍と、領土の割譲、賠償金の支払いなど屈辱的な内容の講和を結んだ。しかし、これに反発する主戦派により講和が守られなかったため、金軍は総攻撃を命じた。40日間余りの攻防戦の結果、ついに1126年11月、開封が陥落した。この年が靖康元年であったため、これを「靖康の変」と呼んでいる。
上記、ウィキペディアですが
 文中で概略は大丈夫と思いますが・・・・
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この回答へのお礼

ウィキって詳しいですね(笑)

ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/09 23:04

この説明は参考になるでしょうか?



参考URL:http://www.ns.kogakuin.ac.jp/~b198022/sub_07.html
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この回答へのお礼

参考になりました!

ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/09 23:06

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