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公家や武家で、兄弟間で家督相続する例がしばしば見うけられます。
兄が急逝して弟があとを継いだ場合は良いのですが、兄が元気なう
ちに弟を養子として家督相続者に指名したり、兄がさっさと隠居し
て弟が養子として家督相続した場合、その弟は兄を「父上」と呼ん
でいたのでしょうか。
兄が「父上」ということになると、兄の正室を「母上」と呼ぶのは
良いとして、兄弟の父親がもし生存していたら弟にとっては父は
「祖父」に該当する呼び名(おじいさま?)になるのでしょうか。
同様に、兄弟の母親が同じ場合、母も「おばあさま」と呼んだので
しょうか。

どうでも良いことで恐縮なのですが、素朴な疑問です。
実例をご存知の方がありましたら、宜しくお願い致します。

A 回答 (3件)

武家社会の観念として、


「ある家の当主を継ぐのは、当主の血縁で下にある者(当主の息子、弟)」
という観念があったと思います。

旗本の一生を書いたような本を見ますと、当主が隠居する際には
「それがし年老いて病身につき職に耐えず、せがれ**に跡目を仰せ付けられたく」
といった趣旨の文書を出し、これが認められてせがれが跡を継ぐ、という形であったようです。これの「せがれ」を「舎弟」に置き換えるのが「兄が弟を跡取りにする」です。

「兄弟間の家督相続に対して、「兄の跡を継承」という表現と、「兄の養子として家督相続」という表現が使い分けられている印象をもつのですが、これも表現の違いか執筆者の概念の混同であって、実質的な意味を持たないという理解でよいのでしょうか。」
そういうことでしょう。現代の歴史家が本を書く場合にどのように表現するか、ということと思います。

いくつかの大名家では、「隠居していた先代が、息子の現当主の死を受けて当主に復帰する」といった例も複数あります。そういうことが、一般の武士のレベルで認められていたかは分かりません。

先の回答で「ある家の次男・三男が、息子のいない家の養子に入る」ケースですが、これは、先ほどの説明を当てはめれば「せがれも舎弟もいないので、せがれを他家から連れてくる」ことです。他家の次男・三男を養子に迎え、自分の血縁に組み込むことで、めでたく
「それがし年老いて病身につき職に耐えず、せがれ**に跡目を仰せ付けられたく」
という文書を提出できるようになります。

「妹が嫁入りする際に、兄の養女として嫁入りするケースがあります」
そういうケースが複数あるのですか?私は知りませんでしたが、差し支えなければ
「大名クラスの家で行われたこと」か「藩士や旗本など、一般武士の家で行われたこと」なのか教えてください。

この回答への補足

重ねてご教授いただき、有難うございました。

妹が兄の養女として嫁入りしているケースの実例を報告しますね。

仁孝天皇女御 新朔平門院 鷹司政熙の娘・兄政通の養女
徳川家定簾中 天親院   同上

※姉の新皇嘉門院も仁孝天皇女御で、先に入内していますが、こちらは政通の養女ではありません。姉妹の嫁ぎ先が同じで対応が違うこ
 とから、婚礼の時期(例えば当主の世代交代など)が関係しているのではないかと考えています。
 なお、関白鷹司政熙には多数の娘がおり、養女の肩書なしで他家に嫁いでいる娘が大半なのですが、上記2名の他に徳川(尾張)斉温室・
 伊達斉邦室の2名は近衛家当主(基前・忠熙)の養女として嫁いでいます。ここでも、姉妹で同じ家の養女の肩書を得ているのに、養父
 が世代交代しています。

兄妹ではないですが、前当主の娘では×で現当主の養女とした例として

九条幸教室 千姫 徳川(尾張)吉通の娘・徳川(尾張)継友の養女

※実父吉通・養父継友はともに藩主で、親子ではなく兄弟です。

なお、私が趣味で家系を調べる対象が公家や大名家、その子女の分家・入婿先・嫁入先ですので、一般武士についての知識は皆無に近い
状況です。同様のケースがあるのか否かもわかりません。ただ、分家筋に生まれた娘の嫁入にあたって、本家の当主の養女の肩書を
与えるという配慮?は、もっと下の階層でも行われていたのではないかと、勝手に考えています。

補足日時:2007/05/27 14:51
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上杉治広は上杉鷹山を父上と呼んでいたと記憶しております。


鷹山は重定の養子に入り、
重定1720-1798
鷹山1751-1822(1768、当主となる 1785年隠居)
治広1764-1822(重定 実子1785年 当主となる)

鷹山は、名君として有名ですが、同時代的に鷹山が偉いと言われていたのは、自分の実子がいるにもかかわらず、治広の世子に指定し、重定が存命中に当主にしているからです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとう御座いました。
養子の次に実子が家督相続する例、たまに見かけますね。
お家騒動や新家分立のネタとして事欠きません。私はこういう家系に
からむ騒動話が大好きでして‥ 人格疑われそうですが‥
ところで、鷹山の跡を継いだ治広は実父の重定を何と呼んだんでしょ
うね。鷹山は父上、重定もやっぱり父上のままなのでしょうか。
どうでも良いことながら、興味深いです。

お礼日時:2007/05/27 10:04

「兄が急逝して弟があとを継いだ場合は良いのですが、兄が元気なう


ちに弟を養子として家督相続者に指名したり、兄がさっさと隠居し
て弟が養子として家督相続した場合、その弟は兄を「父上」と呼ん
でいたのでしょうか」

この場合、「養子」ではなく、あくまで「兄の跡を弟が継ぐ」に過ぎません。ですので、兄は兄、弟は弟です。当主になった弟は、隠居した兄のことは「兄上」、兄嫁のことは「姉上」と呼んだでしょう。
○「兄が弟を跡継ぎにする」
×「兄が弟を養子にする」
です。

江戸時代以前は、今のような民法も戸籍もありません。戦国時代に長兄が戦で討ち死にした場合、未成年の息子がいればそれに跡目を継がせて弟や叔父などを後見役に指名する、息子がいなければ弟に跡を継がせる、弟もいなければ叔父などの縁者、さもなくば家中の適当な者に「名跡を継がせる」こともありました。いずれも「養子・養親」という観念ではありません。

太平洋戦争のときの連合艦隊司令長官の山本五十六元帥は、明治17年の生まれですが、元々は「高野五十六」でした。旧長岡藩士の息子です。長岡藩は戊辰戦争で官軍に降伏する際に「誰か責任者の首を差し出せ」といわれ、家老の山本帯刀が切腹して責任を取りました。山本家には男子がいず、明治時代になってから山本家の者は全て死んで絶家となっていました。

長岡藩関係者の間では、「長岡藩のために切腹し、跡が絶えてしまった山本帯刀家を再興させてやりたい」ということがずっと問題になっており、海軍士官となった高野五十六が大正時代になってから山本家を継ぎ、山本五十六と名を改めました。

高野五十六には「絶家となった山本家の名跡を継ぐ」という意識はあっても「山本家の誰か(明治維新の際に切腹した山本帯刀?)の養子になる」という意識は全くなかったはずです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E6%9C%AC% …
なお、現在の民法で「既に絶家となった家を再興する(既に死んだ人の養子になる)」ことは認められないと思われます。

江戸時代の武家社会での「養子」という概念は、
「どこかの家の次男・三男が、同じ藩内の別な家(同じ程度の地位・禄高、しばしば親戚)で息子のいない家の娘の婿になり、その家を継ぐ」
場合です。これなら、婿入り先で妻の両親を「父上」「母上」と呼ぶことになります。質問者様が例に出したような「兄弟間の家督継承」とは全く別のケースと考えてください。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。
若干腑に落ちない点がありますので、良ろしければ教えて下さい。
ものの本などによりますと、兄弟間の家督相続に対して、「兄の跡を
継承」という表現と、「兄の養子として家督相続」という表現が使い
分けられている印象をもつのですが、これも表現の違いか執筆者の概
念の混同であって、実質的な意味を持たないという理解でよいのでし
ょうか。
私は最初は、末期養子が禁止されていたことから、兄の急逝の際に
「早くから兄の養子(後継者)として弟の家督相続が決められていたと
言い逃れした」痕跡と理解していたのですが、調べてみると、「兄が
生前に弟を養子とした」という表記が色々と見当たります。
あと、便乗質問で恐縮なのですが、良ろしければ教えて下さい。
妹が嫁入りする際に、兄の養女として嫁入りするケースがあります。
○○家当主の娘と妹では家格としては何の違いもないのに、不思議な
話です。前当主の娘ではダメで現当主の娘としなければならない理由
が何かあるのかな‥と。

補足日時:2007/05/27 09:06
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