プロが教えるわが家の防犯対策術!

先日、太宰治の人間失格を読んでなんとも言えぬ感情を味わいました。
しかし巻末の年表を見て本編以上の衝撃を受けました。
予備知識まったく無く読んだもので太宰作品も教科書で走れメロス、富岳百景の二作しか読んだ事がありませんでした。
議員の父、人妻との自殺未遂、麻薬中毒。この小説は太宰治の自伝なのだと始めてわかりました。
そしてこの小説を書いた直後に太宰治は人妻と心中しています。
そこで質問があります。もちろん皆様自身の考えで結構です。
なぜ太宰治は人生の最後に自分の自伝的な小説を書いたのでしょうか?
また人間失格で主人公は幸せとはいかなくても人生に絶望したり未来が見えないと言った終わり方ではありませんでした。
ではなぜ太宰治は死を選んだのでしょうか?
それとこれも心中の直前に書いた桜桃という小説についても意見をお願いします。
自分は太宰治を数作しか読んでなく、こんな質問をする資格はないかもしれないですがどうか教えてください。

A 回答 (6件)

ANo.5様、御立腹ですね。

。。でも私個人的に、こういう人も大好きですね、分かりやすいし、御気持ちには親しみ感じるんです。(笑)
まあ私自身もし男性だったら、「なんで、こういう鼻に付くヤツがセンセイセンセイって呼ばれて、そのうえ女にモテんだよ、こんちくしょう!」って思ったかも。(笑)
私個人も元々この作家に対しては好悪両面の印象を持っていました。私の父親が、ちょっとこんな感じの自堕落さを片面に持っていて、子どもの頃から嫌悪していましたし、自分自身に引き付けて共感を感じるところもありましたし。
でも、ずい分前に新聞でだったと思います、太田治子さんだったでしょうか彼女の生前の母上の思い出話のなかで、太宰先生のことを或る関係者に向かって語られたおりのことを述べておられたんですが、やはり相当の勉強家、努力家でいらっしゃったとの由。
そこで考えてみたんです。
「境界性ナントヤラ」か何か知らないが、もしも彼が、こうした屈折した内面を抱えていなかったら、彼の美質として数えられるところの「勉強家」「努力家」という面は、どのようなかたちで結実したのであろうかと。おそらく、こうした独特の作品世界には結び付かなかったであろう。
「勉強家」「努力家」という美質を備えている人は世のなかに、いくらもいる。同様に「屈折した」人も「境界性ナントカ」とやらいう人も、たくさんいる。
しかし、それぞれの質を持っているというだけでは彼独自の作品を産み出す契機とはならなかったに違いない。やはり彼なりの美質と、それとは逆と見做され得る質とが合わさってこその「太宰の世界」なのです。或る意味、彼は自分の「憎むべき」面をも上手に利用し得た人であると言うことができるでしょう。

さて私たちのいかほどが彼のように、自分の相反する両面から成り立った、時を越えて残る作品なり業績を残すことができるでしょうか。
彼は或る意味「やり手」なのです。「『走れメロス』のネタ元エピソード」に見られるように「自堕落さ」さえ武器にした(笑)そして本当に「自堕落」なだけのニンゲンは作品など残すこともできません。

なお「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」というあたり、やはり「パーソナル ディスオーダー」特有の感覚が窺えるように思います。 自分に対する憐憫の情が強いのでしょう。
ところで私個人は「待たせる身」のほうが或る意味、辛いのじゃないかと思います(笑)
私は太宰作品を読み始めた学生の頃から彼に対しては非常に「演技性の強い人」という印象を持っていました。まさに『道化の華』といったところでしょうか。
たとえば音楽のように突如、旋律が閃いて、それを写しとるといった正統的な?芸術活動とは違って、自らネタを拵え練り上げて作品に仕上げているというやりかたなわけですね。
ですから彼を取り巻いた女性たちは彼に作品の材料を提供した、命を懸けてモデルを務めた、とも言えるわけで(笑)だから彼の作品には死のにおいがプンプンする。死の魅惑にとり付かれていた若い日の私が引き寄せられた大きな理由の一つでしょうか。
もちろん、たいした才能もない者が才子ぶって実際に周囲の者を傷つけてまで何かの作品を作り上げようとしたなら、それは反発必至です。作品としての価値が低いのであるなら、傷を負わされた者にとって何の意義もない負でしかないからです。それは人道的な面においては特にそうなりますが、非難を招くのみでしょう。そこは詰まるところ、その「作品」に対する個々人の評価如何にもよるわけですが、尚且つ評価する側の力量も問われてくるわけですね。

でも、それだけじゃない、彼の作品には、やはりどうしようもなく滑稽味があるんですよ。そこが自分を憐憫してやまぬ、ただのナルシシズムに、どっぷり浸っているだけの凡庸なニンゲンと違うところだとも思うんです。ただ自己憐憫に浸っているだけのナルシストの言い訳だったら、それはタイクツでヘドが出るだけですけれど。
太宰先生の場合は芸術の奴隷にして商売上手、ってとこかな?

参考Urlは、このカテゴリで或るかたからの御紹介により知りましたが、芸術家の浅ましさ執念深さ、どうしようもなさが、よく描きだされていると思います。そして、これは作家の力量が問われるところですが、やはり、この作家の人間観察の辛辣なまでの鋭さ、性格描写の厚みと巧みさとを感じさせると思います。結局この力量がない者が無理くりつくった作品だと底が浅くて滑稽なだけのものしか出来上がらないと思います。

そんなに長い作品ではありませんので一度読んでみてください。

画家のモネが最初の婦人を亡くしたとき、その死の床で、刻々と変容していく彼女の相貌を憑かれたように描き続けたというエピソードを思い起こしました。

参考URL:http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/304_1 …
    • good
    • 2

私は太宰治が大嫌いです。

「走れメロス」のネタ元エピソードにしても、太宰のどうしようもない自堕落さが出ています。「待つ身が辛いかね。待たせる身が辛いかね。」 なんじゃそりゃ?からかってるの?ハラワタ煮えくりかえらんのかな友人は。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%B0%E3%82%8C% …

そして、何度も自殺未遂に女性を付き合わせて、女性の方だけ死なせているというのが、とてつもなくヘドが出ます。なぜ自伝的な小説を書いたかって?金になるからじゃないすか?自分の人生を省みて後悔の念を込めたなんて戯言は聞こえませんね。上記のような堕落を繰り返してる奴に、そんな言い分は必要ない。
なんでこんな作家が、批判もされず万人から尊敬されているのか理解できません。人を死なせようが、女を弄ぼうが、いい小説が書ければオールOK?それとも私は、太宰について無知すぎますか?
    • good
    • 3

すでに他の御回答者様からも挙がっていますが、一般に女性に多いとされる「パーソナリティ ディスオーダー」の特徴の一つである「見捨てられ不安」の傾向がみられたというのは私も近頃、何かで知りました。

「境界性人格障害」にも、いろんな分類があるそうです、飽くまで私の推察に過ぎませんが「演技性人格障害」に相当するような感じもします。
結局、「見捨てられる」のを非常に怖れる人は常に誰かに自分のことを注目し見守っていてもらいたい欲求が大変強いとのことで、そのため常に誰かしらを巻き添えにしがちなんですね。
このへんが周囲の人が一番、頭を抱えるところなんですが、或る面では、その依存心の強さから他者との絆を求める欲求が強く、そのため依存された人も「共依存」という関係に陥ってしまい易く、ズルズルと腐れ縁のような関係を続けてしまいがちなのだそうです。
心中というかたちを何度も繰り返したのも、上記のような動機から、注目を向けてもらうための「イベント」ともとれますし、誰かしらに自分に構ってもらいたい欲求が強いゆえ心中というパターンが最適だったとも言えましょうか。
また、お誂え向きにと言いますか太宰先生は或る種の魅力的雰囲気を備えていらっしゃいますから、なかなか女性におモテになって、お相手に、あまり御不自由なさらなかったろうかと思われます。(苦笑)
「パーソナリティ障害」の人は非常に感情が不安定でコントロールがききにくいそうですので、一般的な人よりも不快な出来事等に対して耐性が低いというかダメージを殊更受け取り易いということで余計に死へと傾いていき易かった、それには心中というかたちをとるのが好もしい面もあったのでしょう。
>なぜ太宰治は人生の最後に自分の自伝的な小説を書いたのでしょうか?

作家たるものは自伝小説が遺書代わり、みたいなものかもしれません。
作品のラストが決して暗い印象の終わりかたでなかったというのも、解釈は、いろいろかと思いますが、一つには「死にゆく」ことを思い定めた人特有の不思議な明るさなのかもしれません。或いは逆に、他の御回答者様からの情報によりますとおり、決して本気ではなかったからなのかもしれません。
太宰先生の作品には大概そんなイメージがあるような気がします。ズシーンと暗いというよりは、ペーソスと共に、どことなく自嘲の明るさがあるような。屈折した内面を抱えながらも同時に高い知性と教養を備えておられたからこそだと思います。感情の波に翻弄されつつも、どこかで、そんな自分を冷徹に見詰めている彼もいたのではないでしょうか。それだから、かずかずの名作をものすることができたと思います。

以前の過去スレですが御参考に、どうぞ。
http://personal.okwave.jp/qa1231940.html
    • good
    • 0

詳しい方もおられると思うので参考までに。


左翼運動に失敗したとか色んな原因があげられると思うのですが、この間面白い説を知りました。太宰治は精神医学的には境界性人格障害の疑いがあるそうです。境界性人格障害というのは、感情が非常に不安定で、いつも「見捨てられ不安」のようなものを持っており、他人から捨てられることを恐れ、自殺未遂を繰りかえしたりするのが症状らしい(簡単にいうと)です。(太宰は自殺未遂四回)
太宰の人間関係にも、境界性特有の、人に依存し、かと思ったら攻撃しだすと言う関係が窺えるそうです。薬物乱用なんかもこの病気の症状なのだとか。 (太宰は鎮痛剤の中毒患者)
ですから自殺未遂を繰りかえしているうちにマジで死んじゃった、、というのが本当の所なのではないか、と私は思っているのです。
    • good
    • 0

猪瀬直樹のその本によると、太宰は自殺するつもりはなかった。


自殺未遂のときも自殺に失敗したというより最初から未遂を意図した、いはば自殺ゴッコみたいなものだった。
玉川上水でもそのつもりだったところが、本気の山崎富栄に川に引きずり込まれて不本意にも心中してしまった。
ということらしいです。
    • good
    • 0

ピカレスク―太宰治伝 (文庫)


猪瀬 直樹 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%94%E3%82%AB%E3%83 …

これを読んでみてはいかがでしょうか。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す