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教育界にはどんな不文律が存在しますか。
たとえば講義で説明してもうける必要があるため本には噛み砕いたわかりやすい内容のことは書かないと言うのは本当ですか。つまり本の説明は事実の羅列にとどめ説明は講義でするというパターン。初等教育から高等教育まで大体このようなパターンで教育がおこなれているような感じです。
ほかにも何かありますか。

A 回答 (3件)

小生が小耳にはさんだところですが。


・独身者は管理職に推薦されない。
・夫婦そろって教職の場合、夫が管理職になったら妻は退職すべき。
・他の都道府県の教員採用試験を受験するなら、最低3年は現在の都道府県で勤務すること。
などという話を耳にしたことがあります。
いずれもその当事者になったことがない&なるつもりもないので真偽は不明ですし、都道府県の違いによっても差のあることではないかな、と思います。
(あとまあ、X校とY校で担任を持てば管理職コース、とか、人事がらみの話は現場でよく耳にします)

ただ、例示されている教科書の例は、事情を知らない人々が抱きがちな予断・悪意を含んでいるように思えます。
社会科の例でいいますが、たとえば中学教科書だと実質200ページ前後(図版やコラム、調査方法の例示、索引や用語集などを除く)で日本史全体について記述しなけりゃならないわけでして、どうしても事実を簡潔に記述するスタイルにならざるを得ません。また、長年教科書とはそういう、簡潔な記述がよしとされてきた伝統も無視できません。
(あえて記述を比較的詳細にした扶桑社の教科書は(内容もさることながら)この点でも「つかいづらい」「現場を考えていない」と批判の対象になりました(当否はさておき))

ただ、このような伝統は長年の教師主導による講義型授業に最適化したものであるとは言えるにしても、それが「講義で儲けるため……」という理由はそもそも成立しえないと思います。
駆け出しのころ、「教科書「を」教えるのではない、教科書「で」教えるのだ」とはよく聞かされました。要は、教科書も数ある教材の1つに過ぎない、ということです。こうした観点からすると、簡素な記述の教科書のほうがありがたい、とはいえます。この点、悪意を持って解すれば質問者さんが挙げたような理屈が成り立つ余地はありそうですが……

生徒が教科書を自分で読んできて一定の理解を自分で得たうえで、教室では生徒がその内容について議論する形の授業が多い(という)アメリカの教科書だと、少なくともページ数は倍以上になります。言語の違いがあるので単純な比較はできませんが、教科書の厚さを(押さえている内容を増やさないように気をつける前提で)たとえば本文600ページにしてよいなら、アメリカ並みに「それ一冊読んだだけでわかる」教科書が実現できる可能性があると思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2007/06/02 10:29

初等教育から前期高等教育までは、教科書でもうけるのは教科書会社であって、教員は私立であってもまったく関係ありません。



それらのページ数が限られているのは、値段を決めるのが文部科学省ということが大きな理由と思います。
最近では、限られた中でも詳細な記述が研究されているように思います。

すぐに思いつく不文律は、
「教育委員会が視察に来たら、お見送りを全職員で行う」
「校長は職員全体の飲み会ではご祝儀を奮発する(民間でも同様?)」
「ただ働き同然(持ち出し)でも勤務時間外に部活を指導するのが当然」
「校長になるには(1)学校関係者向けの研究発表で実績を残す(2)部活で実績を残す(3)教育委員会と癒着している組合で実績を残すか教育委員会と対立している組合に打撃を与える、の3パターンある」
などです。
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教員の採用試験では、(1)親が教師であると優遇される.(2)なんとか教育大学卒の人が普通の大学より有利(京都なら京都教育大学)と聞

いたことがあります.ちなみに親が警察官だと警察官採用試験が有利というのは本当であると身内の元警察官が申しておりました.
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