江戸時代の大名のお城、藩邸
江戸時代の大名には、数万石の小藩の大名から数十万石の大大名までいましたが、
地元のお城や江戸の藩邸は、石高によって、建物としての大きさや庭園などのお屋敷の格も、
相当な違いがあったのですか?
回答(4件)
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城マニアです (^o^;
>相当な違いがあったのですか?
はい、ありました。 オシマイ
では済みませんねぇ。武家は何重もの格式に縛られていましたからねぇ。
城絡みで言えば、「国主(国持)」「城主(城持)」「無城(領主)」の3種。無城格の殿様は城は持てません。「在所」に「陣屋」をおいて支配しました。江戸藩邸もこれに準ずる規模、華麗さでした。
庭園については細かい規定があったとは承知していませんが、「分を過ぎたる」という言葉をつけて懲罰されたケースはありましたので、分を過ぎた庭園を持てば懲罰の対象となったのではないでしょうか。
この回答へのお礼
分を過ぎた庭園はいけなかったのですね。
(そんなの個人の趣味だし、今なら放っておけよ、って感じですけど。)
お城を持てない殿様がいたとはびっくりです。
質素であっても、時代劇に出てくるようなお城は必ずある物だと思っていました。
どうもありがとうございました!
No.3ベストアンサー20pt
こんにちは。
江戸の大名屋敷は当初こそ所領の大きさや大名の格などによる配慮はなされていませんでしたが、慶長・元和・寛永と年代を経るに従って徐々に再配置がおこなわれました。
特に幕閣の重臣や将軍の側近的な存在には優先的に江戸城付近の屋敷が与えられたようで(無論官邸的な役割も兼ねてのことですが)、基本的に幕命があればいつでも屋敷を移転しなければならなかったそうです。
寛永の頃は将軍がしばしば諸大名の屋敷を訪れたことも手伝って非常に作りが華美になっていきましたが、明暦の大火を境に大規模な再配置がおこなわれ、以後は華美な作りは禁じられていったようです。
大名屋敷の面積は元文三(1738)年の幕府規定によると一~二万石で二千五百坪、五~六万石で五千坪、十~十五万石で七千坪という基準だったそうですが、実際にはこれ以上に広大なものも多いです。
城は基本的に元和の一国一城令の後に残ったものをそのまま使っていたので、その規模と石高や大名の格がリンクしているかというと必ずしもそうではありませんが、城主大名が城のないところに国替えになった際などには稀ながら築城が認められることがあり、そういった場合にはやはり石高なども考慮されたようですし、身上の小さな大名が移ってきた為に城を破棄して陣屋を築くようなことはよくあったと聞きます。
この回答へのお礼
ちょっと違うかもしれませんけど、奉行職も私邸と公邸(役宅)があったようですね。
華美が禁じられても、規模が凄すぎます!
どうもありがとうございました!
地元のお城は改築不可だったはずなので、どうこう言われはしないと思いますが、江戸の藩邸とかは石高に応じてそれなりの物を求められたのではないかと思います。
この回答へのお礼
幕府(でしょうか?)から、そういう風に求められるとは知りませんでした。
どうもありがとうございました!
No.1ベストアンサー10pt
格や、石高による違いは、ありました。
高い石高のほうへ、格式の維持を求め、干渉してくることは、あったようです。
少しでも、力を削ぐということでしょうか。
東大の赤門は、将軍家斎の娘が前田家に嫁いだときに、「門を作りなさい」と、言われて作ったものです。
現六義園は、柳沢吉保邸跡ですが、大きく作った分には、将軍様の可愛がりようということもあるでしょうが、多少のお目こぼしは、あったのでは、ないでしょうか。
この回答へのお礼
ありがとうございます。
干渉してくるとは幕府が、ということでしょうか。
自分のところで、威信をかけて立派な藩邸、お城を造っているというだけではなかったのですね。
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