アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

日清戦争についてですが、
清国の方が、金も有り、装備も良く、人口も遥かに多く、しかも戦地である朝鮮半島とは地続き、
たとえ日本が錬度が高く、近代的な軍編成をしていたとしても清国が敗れるのは不可解です。
清国が敗れた原因は何なのでしょうか?
又、清国が敗戦を回避する方法は無かったのでしょうか?

A 回答 (8件)

軍事の点から見ると、当時の清国は日本のように各地に鉄道が引かれていません。

つまり地続きといいますが、上陸時のリスク以外で見れば、海運のほうが量もスピードも速いのです。そういう状況で海戦で主力艦船に大損害を受けました。さらに傷ついた艦船を修理するにも、清に近代設備を持った港は、旅順しかなく、そこもすぐ日本に攻められてしまいます。制海権を取られたままでは、日本はいつでも清国の沿岸部に上陸作戦ができますし、清側はすみやかにそれに対応して兵を陸送できません(鉄道がないため)。国を焦土と化して陸戦する覚悟があるならまだまだ戦えますが、清にはそこまでの覚悟もなければ、北京近くで戦闘したり、北京に砲撃が加えられることさえ嫌がっていましたので、講和を結んだのです。

 平壌攻防では、激しく抵抗する前に清側が撤退しました。清側は海戦も有利と考えていたので、引いて補給線を延ばし時間稼ぎすれば、いずれ自分らに有利に働くという考えがあったと思います(士気が低いのも確かですが)。優勢に思えた自国海軍が見事に叩かれたのが敗因ともいえるでしょう。
    • good
    • 4

国と国が存亡をかけた総力戦ではなく、国の統治さえ怪しくなっていた清国から見れば、僻地の属国での局地戦を行ったに過ぎません。


島国の日本と違い、大半が陸続きの中国においては、国境守備兵力は置いておかなければならない為、数の多さは必ずしもそのまま力に反映されるものではありません。
当時言われたように「眠れる獅子」状態であったから、日本が勝ったという結果があったので、後の朝鮮戦争の中共の様に総力を挙げられたら負けていたでしょう。
    • good
    • 1

戦争の数年前、清の軍艦が日本の港に寄港(真の狙いは威嚇)したそうです。

当然、海軍の関係者は視察に行きます。清の軍艦は日本海軍の軍艦より巨大で最新型だったそうですが、清の水平は大砲の上に洗濯物を干していたそうです。それを見た東郷平八郎は、清に勝てると考えたそうです。そして実際、数と質に勝る清に海戦で勝利しました。やはりそういう精神面もあったんでしょう
    • good
    • 1

前の人たちのが合っていると思います。


私は、学校の授業(めちゃくちゃ単純な授業)で「宣戦布告してないのに攻めたから」と習いました。いきなり攻められたからということらしいです。そんなに単純な問題じゃないと思いますが少し参考にして下さい。
    • good
    • 1

清は軍の近代化に失敗し、有能な将がいなかった事が敗北した原因だと思います。



清の軍隊は80万を超えていました。数だけみれば大軍ですが、全部が近代化されている軍隊とは言えませんでした。
清の軍は4種ありました。支配民族である満州人からなり漢民族を支配する為の八旗。主に漢民族からなる治安部隊で、警察でもある緑営。過去の太平天国の乱などで組織された私兵集団である勇。過去のアヘン戦争や太平天国の乱で、八旗や緑営が能力不足である事等から新たに作られた練です。
この中で緑営等の主な装備は刀と矛であり、太刀と弓の上手さによって将校が採用されるという旧弊的な組織であり、とても他国と戦争できるような組織ではありませんでした。
その為、事実上、常備軍と呼べるのは勇と練でした。
勇や練は、合わせておよそ30数万人いましたが、装備が良好な者は10万人程度でした。
当時の清軍の編成では営という単位を基本にしており、練では歩兵が862営ありました。その1営の定数は500人でした。しかし、清は徴兵制をしておらず、開戦時には1営は平均350人程度しかいませんでした。戦争が始まってから不足人数を募集するというやり方でした。近代国家なら当たり前の動員計画さえなかったのです。
また、部隊には服役年限もなかった事から老人さえいた部隊も珍しくはありませんでした。
そして、1営500人のうち銃を装備していたのは平均約150人ほどであり、あとの残りは太刀と矛が武器だったのです。
つまり常備軍の練にしても武器や訓練が万全と言えるような軍隊ではなく、それどころか戦争時には未訓練の兵士が多くいたのです。
また私兵集団である北洋軍も、その指揮官は能力よりも地縁・血縁を重視して採用されるという組織でした。
また、清軍の指揮系統には近代国家の軍にはかかせない参謀本部などはなかったのです。その為、作戦立案、補給、軍の移動・統制、連絡等の体制が、他国に比べ非常に劣っていました。
そして、そうした軍の中で朝鮮に直ちに派遣できる軍の規模は約3万人程度でしかなかったのです。
それに比べれば日本軍は装備も組織も訓練も、将校・指揮官の質も清に比べ劣っているどころか優れているという状況でした。
清の北洋大臣であった李鴻章もその事を悟っており、敗北する恐れがあるので開戦を止めようとしましたが、果たせず戦争に突入したという経緯もあります。
つまり清は洋務運動により西欧から武器は入手しましたが、その武器を生かせる軍の組織を作る事に失敗していたのです。
さらには西太后の浪費がありました。西太后の還暦祝いの為の万寿山の大庭園の建設費用は、海軍の近代化の為の予算を流用して作られたものだと言われています。こうした浪費が軍の近代化の足を引っ張る一つの要因になったのでしょう。
そして戦場に行った清軍の兵士の士気は高いものではありませんでした。アヘン戦争、第二次アヘン戦争、清仏戦争など、清は敗北し領土を失い、利権を失い、多額の賠償金を払うという負け続けの歴史でした。その上、清朝の役人も腐敗し堕落している者が多数おり、市民を苦しめていました。それどころか、そうした役人と結託している将校も珍しくなく、腐敗した社会に辟易していた兵士達の士気は上がらないものだったのです。

作戦から敗因を考えると、指揮系統の一本化と統帥権の確立に問題があった事がありました。
平壌に清軍が続々と到着した時、出撃して日本軍と戦うか、平壌でさらなる援軍を待つかという方針を巡って、将軍達の間で対立が起きています。指揮官に任じられた葉将軍は、平壌を守る方針を採りますが、後になって迫りくる日本軍に危機感を募らせ、北方への撤退を打ち出します。この方針転換に納得のいかなかった左将軍が葉将軍を監禁し、以後、他の将軍達も勝手な行動を取り始めます。
内部で揉めていては勝てる道理がありません。

清が敗戦を回避し勝利するには・・・。
作戦で言えば平壌での攻防戦の時、極めて小さいですが、なくもありません。日本軍は典型的な分進合撃で平壌に迫っています。これを好機と見なし、出撃して速攻で日本軍の各部隊を各個撃破できれば、あるいは勝てたかもしれません。しかし、日本軍の動きを見ると、各個撃破されないよう各軍を動かしているようですし、清軍の能力もその様な作戦を遂行できるか疑問なので、余程の幸運が無い限り難しいでしょう。
あとは指揮系統を完全に一本化し、統帥権を確実なものとして、鉄の意思を持って平壌を死守し、日本軍の補給線をゲリラ攻撃で苦しめ疲弊させれば、あるいは状況は変わったかもしれません。補給が途絶すれば、いかに優れた軍隊でもたえられませんから。しかし、これも清軍の能力を考えると、非常に小さな可能性でしかないでしょう。

後は他国を頼みとするしかありませんね。ただ、その代償が問題になるでしょうけど。だから難しいでしょう。
    • good
    • 2

当時の清国は人口の中核を占める漢民族中心の民族国家では無く漢民族化した女真族が支配する王朝であり、清国の軍隊である八旗は基本的に皇帝に仕える私兵であって国民の為に戦う意識が希薄でした。

さらに彼等の多くは長い平和な時代の内に貴族化しており、丁度日本の幕末に於ける江戸の旗本や御家人のような状態になっていたのです。
実際に最も良く戦ったのは李鴻章が組織した私兵集団である北洋軍ですが、李鴻章にとってこの北洋軍は国内政治の重要なカードでもあり、そのような性格上兵力の損耗を極端に嫌う傾向があったので死力を尽くして戦うよりも不利な状況ではすぐに撤退する傾向が強かったようです。
要するに、政府や軍隊が国民と乖離していたのが清国の敗北原因です。
    • good
    • 0

当時の清は、英国を始め列強諸国から圧力をかけられていました。


その中で、皇帝の求心力は落ち国自体がバラバラの状態でした。
逆に日本は、西洋に学び西洋に追いつけ追い越せで挙国一致体制が出来上がっていました。
兵士の錬度や士気での面で、大きな開きがありました。
戦争ではしばしば、量よりも質がモノを言う場合があります。
特に精神面での差は、そのまま勝敗に直結します。
戦争に勝つには、まず精神力で勝つことです。(そして、国や指揮官は精神力を高める事が大事です)
日清戦争はまさにこのパターンでした。
    • good
    • 0

指揮官や兵士の質の差があります。


日本側は国のために戦うという気概がありましたが、清国側はカネで集めただけのならず者やいやいやながら無理やり集められた者が多く、国のために戦うということはありませんでした。
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!