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先週、私の叔母が乳癌だということが発覚しました。かなり悪性で進行しているようで先生にもおそらくリンパまで達しているだろうと言われてしまいました。
叔母はリンパまで癌がいってしまったら助からないだろう。と決め付けています。
しかし、私は、癌は自分の気持ちしだい(副交感神経をつかうこと)(良く笑ったりリラックスすること)で克服できると確信しています。
そこで、癌(悪性なら尚良し)を克服した人、いたら体験談を聞かせてください。本屋に行けば癌克服体験談が売ってあるのですが、やはり真実味に欠けると思うので是非お聞かせください。
聞きたい事。
1.どういう状態から克服したのか
2.どのような治療で、手術はしたのか、抗がん剤は使用したのか
3.自分ではどのようなことを心がけたか、食事もしくはアガリクスなど
など なんでもいいのでお聞かせください。
叔母に癌は治る病気と思わしてください。

A 回答 (8件)

私は、今から約20年ほど前、33歳の時に悪性リンパ腫瘍にかかり、検査だけ大学病院でして、あとは札幌にある東洋医学の先生のところで治しました。


その経緯を紹介したホームページがありますので、よろしければご覧ください。ちょっと理屈っぽくて判りにくい所は飛ばしてください。
参考になれば幸いです。
http://www.vitaljapan.net/
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H6年11月定期検診でドクターより封筒をわたされ大学病院にいきました。


内科医が気管支内視鏡をやりたいといいだしました。チョッとあぶない検査です。
他にもいろいろ検査をしましたが、自覚症状もなく結果待ちで1ヶ月後電話があり
「わるいのがでています。ベットを予約します」愛犬をだきしめておおなきしました。(毎日話ができなくなると思うと)しかし、自覚症状がないので、希望もわいてきました。オペをすればなおるんだ。タバコ100本じゃ自業自得だろうと居直りました。わすれもしません。オペは地下鉄サリンの日8時から始まりました。
ICUでとなりをみるとう~うんうなっていました。「ガスでやられた」ときこえてきました。それから1週間後退院し、1ヶ月自宅療養をし職場復帰しました。

1.せん癌 ステージ(2) 遠隔臓器転移なし 左上葉切除 観察5年間(生存率50%) 検査機器 X線 ヘリカルCTスキャン シンチカメラ 気管支内視鏡 動脈採血(ガス検査)肺活量 負荷試験 造影 レッドミル 訓練(吸気)ドレン 採尿
 差額ベット代45万 手術料100万 保険還付で最終的に黒字
2.事前事後抗がん剤投与なし 他の内服薬、点滴もなし(モルヒネは使用)
 注射もなし 外科手術のみ(抜糸もなし) 内科医はのータッチ
  傷口は新工法でわきの下15cmでかくれています。

3.後遺症 自律神経失調とうつ病、不安 、頻脈 、不眠で2年間
  ルボックス、レンドルミンを精神科医より処方
  
4.プロポリス30mリットル/M飲用
   ○○薬局の漢方処方で持ち直す 保険外費用 2年間で50万

5.現在、会社の定期検査のみいまのところ再発なし 体重増加とストレスで○○と  ○○を口にるときがあり、また癌になるかもと悩んでいる。
  癌=くちから  人生交通事故みたいもので気にしていたらきりがない。
  参考にならんか~
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 補足です。


玉川温泉に行かなかった舅は、癌保険が下りたのを、自分の保険は死ぬまでに全部自分が使うと宣言し、医者に無理を言っては姑を連れて夫婦水入らずで、旅行に精を出し、今も元気に働いています。当初、姑はとにかくノイローゼになるほど思いつめ、遠方でしたが心配で毎日実家に電話していたのを思い出しました。舅は治療のつらさを姑に見せたくないあまり、部屋に閉じこもり、誰も入れないし、私達も少しでも情報を集めて報告し、とても殺伐とした空気の中で生活をしていました。そんな中、超マイペースな舅はそんな周りの空気を無視し、わが道を貫いたのでした。
今、思えばワタワタしている私達を見て逆に冷静にならざるを得なかったのかな、とか、とにかく私達と一緒にワタワタしなかった舅の強さに感謝かなとかおもいます。舅の為と思ってしたことも、ほんとはどうだったんだろうとおもいます。
今では、何もなかったかのごとく、定期検診には行ってますが、平和な毎日を送っているようです。
手術は癌組織の摘出、放射線療法もしました。姑があれやこれやと癌に効きそうな物は何でもせっせと食べさせていたようでしたが、舅はとても冷静でした。ポイントは、舅の冷静さと頑固に自分を押し通す強さでしょうか。旅行に行ったりしていた時の舅は、どうせ死ぬならもっとあちこち行ってからと言ってましたが、ホントに死ぬ気なんかなかったのでは?とも思えるこの頃です。
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kasumiyamaと申します。


病気のカテゴリー(No.303502更年期障害と薬の副作用とでかなりまいっています)で回答を寄せています。
それをお読みいただいてご質問等ありましたらお答えいたします。
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 病は気から・・・というのは確かにありますが、本人の性格という問題も大いにありますので、本人の性格を熟知したうえで、いかにコミュニケーションをとるかというのは、ポイントだろうと思います。


 病院の見立てというのは、可能性の問題だったり、治療法の選択の為の一つの基準だったり、医師は悪い方向に行かないようにするために、まずは最悪の状態を頭に入れて考えてる人もいるだろうし、結果的には、再発や転移で・・・といったことはありがちですが、それがいつになるかは医師には決めれないと私は思います。
友人の父は発見当時末期と言われ、最期は何度目かの再発でしたがそれは六年後のことでしたし、一時は半年の命と言われたこともありましたが、社会復帰まではたしました。最期のほうは痛み止めの麻薬の投与も拒否し、自分の信念を家族と供に信じて頑張っていました。玉川温泉での湯治で持ち直したした人もいました。その人も最期はやはり癌でしたが、医師の見立てを裏切る回復ぶりでした。
 その人、その人にあった治療やサポートができれば、納得のいく結果は望めると思います。宗教を得て精神的に持ち直し、病気も・・・という人もいますし、とにかく何が一番本人にあうのかを見つけてあげてください。
 という事で、一度、玉川温泉を検索してみて下さい。十年余り前に、テレビでやっていたのを見て、あわてて調べたことがあり、舅はいきませんでしたが、友達のおじいさんはいきました。効果はあって、みごと持ち直したと聞いています。その後、その方も亡くなりましたが、調べてみる価値はあると思います。今、昔ながらの湯治とは別に、ホテルもでき、そちらのほうでHPがあってリンクして調べることができるようになっているようです。ホテルは高いし、昔ながらの湯治の方が自炊になるので大変ですが、おかずのおすそ分けとか色々交流ができて、はげましあえてよかったらしいです。どういう結果になっても、くいが残らないよう、精一杯頑張って下さい。大丈夫ですよ、本人しだいのところも大きいと思いますし、本人が弱い場合は本人が強くなれるように支えてあげれば、また違うと思いますよ。
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私の父ですが、発病したのはもう20年以上も前の事になります。



喉頭癌です。ノドの痛みがとれず、声がかすれて仕事に差し支える、ということで、おそらくは初めて自分の意志で病院を訪ねて診察を受けたところ、即入院、手術という事になってしまいました。

声帯の全摘出が望ましいが、突然声を失うのは大変だろうからできるだけ残せるところは残すようにします、というふうに医者をしむけたのが結果としてはよくありませんでした。

一旦回復し職場復帰も果たしたものの、ほどなく転移がおこってしまいました。
人づての噂に聞いた「癌をなおす薬」というのを飲み続けておりましたが、医者から再手術をしないと、3ヶ月程の余命しかない、という宣告を受けてしまいました。
飲み続けていた薬というのは、いわゆる薬品ではなく、強いていえば漢方薬のようなものでしたが、この薬の提供者は、「手術は絶対にダメだ、治るものが治らなくなる、絶対にあの薬だけで治るから手術はやめなさい!」と強く主張されます。
家族で話し合い、大いに泣きあって、当人の意志もあって結局手術を選びました。

手術はうまくいきました。声帯を失ったにもかかわらず、努力家の父は食道発声という技術をマスターし、驚くべき事に再度職場復帰を果たしました。

ところがそれから1年も経過しないうちに、「リンパへの転移があり、左右の肺にも癌が発生している、肺の摘出手術をすれば延命は可能だが、それでも余命は1年あるかどうか・・」という非情な通告です。
母親は半狂乱となり、医者を恨み、人生をのろい、重苦しい空気が我が家から消えて無くなる事は有り得ないような日々でした。そんななか一番気丈だったのは父自身でした。
自ら手術を選択し、数カ月に渡って数回に分けて行われた肺摘出手術にも「なんてことはない、俺は寝てるうちに終わってしまうんだから気楽なもんだ」などと逆に私達を元気づけながら耐え抜きました。

合計7回の大手術に耐え、医者の見立てではどんなに希望的観測をもってしても10年以上前には力つきていたはずの父は、いまも健在です。肺は六分の一しか持たず、加齢もあって食道発声に要する体力も十分確保できないような状態ではありますが、介添えも必要とせず、自力で食事をし、自力で風呂に入り、ビールも飲んでプロ野球中継などを楽しんでおります。

私が思うのは、意志の力です。痛くてたまらないはずなのに、ナースコールさえ一度もやった事がない父は病院では有名人です。入院中も、医者や看護婦さんに対してはいつも笑顔で、気を使わせないように冗談ばかり言ってました。
父が泣き言を言ったのを聞いた事がありません。母親も父の泣き言や死への不安などといった事は聞いた事がないそうです。そういう恐怖とは、自分の力だけで戦って克服してきたのだと思います。

「死ぬもんか!」という強い意志があったからこそ、死ぬ事や死んだあとの事を一切口にしなかったのだろう、と思います。
あまりに過酷な闘病生活に私達家族は「神も仏もないものか」という思いでしたが、当の本人は一切のマイナス思考を排して、常に前向きでした。

だからこそ、医者のみたてさえ凌駕した現在があるのだと思います。
薬より何より、本人が「死なない、死ぬわけがない」と強く思える事が一番だと思うのです。
具体的な方法はわかりませんが、病床にある御本人になんとかそのような気持ちになっていただけるように、まわりの皆さんも頑張ってほしいと心から思います。
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この回答へのお礼

大変参考になりました!!これをそのまま叔母に読ませてみたいと思います。もし関西に在中の方なら是非直接叔母を励ましていただきたいと思うほどです。ほんとうに有り難うございました。

お礼日時:2002/07/03 23:13

近所の例では


1.どういう状態から克服したのか
医師が脂肪代謝障害でできた脂肪の固まりを乳がんと誤診しその結果.乳がんを克服したように見えた。
2.どのような治療で、手術はしたのか、抗がん剤は使用したのか
手術はしたが.開いて「手後れです」といってそのまま閉じた。
3.自分ではどのようなことを心がけたか、食事もしくはアガリクスなど
好き勝手にさせると.ぼけたり.自虐的行動を取り易いので.適当に食事制限や医療が必要なように華族が演じて.それに躍らされていただけ。

医師が.乳がんと誤診しなければ.ガン感謝にはならなかったで小。
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この回答へのお礼

叔母のも誤診ならどんなにうれしいことか・・・。有り難うございました。

お礼日時:2002/07/03 23:14

残念ながら他界されましたが、私の知人に「末期の悪性リンパ腫、余命半年以内」と診断されてから4年あまり頑張られた方がおられました。



その方は、普通の抗ガン剤治療だけで、いわゆる民間療法は一切無視されていました。有償治験薬は使われていたようですが。

と言うのも、いわゆる「ガンに効く」と言われる物はすべからく高価で、その人に言わせると「患者の金を、あの世に持って行かせないように、かっぱらうための物だ」と言うことです。

それより好きなことをして好きな物を食べ、毎日楽しんで暮らしたいと言っていました。

酒の席では「陽気な末期患者」といつも笑っていたのを思い出します。

3年が過ぎた頃、「余命宣告をしちゃった物だから、医者が早く死んで欲しそうにしていたよ」って冗談を飛ばすぐらいでした。

最後は合併症が急激に悪化したため、あっと言うまでしたが、今でもその人の生き方を尊敬しています。
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この回答へのお礼

やはり気持ちのもちようで長生きできるということですね。ありがとうございまいした。しかし、叔母にはあと20年は生きてもらわないと困るのですが。

お礼日時:2002/07/03 23:16

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