上杉謙信ってどうして戦をしたの?
ただいま小学5年生の子どもと一緒に上杉謙信を学んでいます。
しかし「どうして上杉謙信は戦をしたの?やさしい人じゃないの?」と聞かれるとその答えに迷ってしまいます。
かといって「あの頃はみんなそうだったのよ」というのも・・・何か良い答え方を教えてください。よろしくお願いいたします。
クラスの中で人の持っている物が欲しくて、ケンカばかりしている子がたくさんいて、そんなことしちゃだめだ、何とかケンカをしないクラスにしようと思ったけど、なかなか上手くいかなくて自分もケンカしちゃった。
「悪い殿様を退治するためよ」で十分ではないのですか?
謙信が領土を拡大するために戦ったことは(晩年、織田信長との対決に備えて越前へ進出するまでは)ありません。
藤木久志氏が「雑兵たちの戦場」(朝日新聞社刊)で「実は略奪が目的だったんだよ!」という斬新な説を発表して注目を集めましたが、実際には上杉謙信は日本海側の海上貿易でしこたま儲けていたため、関東へ略奪に出かける理由がありません。
もし謙信が本当に領土拡大や略奪を目的にするような普通の武将なら、わざわざ冬の三国峠を越えて関東まで出かけるまでもなく、もっと近場の信濃を荒らしまわっていたことでしょう。
ただし、謙信は極めて短気な人だったのも事実で、カッとなって人を切ってしまうこともあったそうです。同時代の人間が謙信のことを「8割は大善人、2割は極悪人」と評しています。
謙信は、もともと長尾という家の生まれです。越後の守護代でした。
長尾は平氏の流れを汲み、のちに継いだ上杉家は藤原氏系です。しかも幕府で「関東管領」という役職ももらっていました。要は「関東の正当な支配者」ということです。
謙信の好敵手・武田信玄は源氏の名門に生まれながら同じような名家をなぎ倒して領地を拡大する方向に向かいましたが、謙信は古くからの権威に従順かつ尊敬していました。よって、そのようなものを無視する信玄のことが大嫌いだったのです。
謙信は関東管領の職を全うするために北条と戦い、信濃守護・小笠原長時を追い出した武田と戦いました。
要は、謙信は古い秩序が大好きだったのです。その為に戦をしました。
「昔は警察が無かったから」でいいんじゃないでしょうか?
昔は水道も無くって、飲み水は井戸から汲んだり、洗濯は桃太郎のおばあさんの様に川でやっていた。電気も無かったから、テレビやゲームが無いのはもちろん、夜は真っ暗だった。病院も無かったから、病気になると寝てるしかなかった。ってたくさんあるなかで、警察もなかった。
全国組織の警察ができたのは明治で、今までのお侍さんが、警察になるか軍人になるかして、その時から今のような警察かできた。
だから、それまでは警察と軍隊がいっしょで、両方とも武士がやっていた。
今だって、銀行強盗があると警察が出動して、銀行を取り囲む様に、当時悪いことをすると、侍の軍隊が出て行って解決した。って言えばいいんじゃないでしょうか。
それが、戦争だと、勝てば軍隊の出動した地域は勝った武将のものになる。織田信長なんかは、そうやって領土を広げていった。けど、警察目的だと、相手が「参りました。ごめんなさい」といえば、許して引き上げなきゃいけない。
だから、上杉謙信は、よく勝つので、いろんな人から頼まれて悪者を懲らしめに戦いにいったけど、警察目的なのでいくら勝っても領土は増えなかった。で、いいんじゃないでしょうか。
謙信は強いので、謙信が来たというだけで、戦わずに降参する相手も多くて、無駄な死者は少なかった。
悪い子は、注意するとその時は反省するけど、しばらくするとまた、悪いことをしてしまうというのは今も昔も同じで、だから、謙信は何度も何度も戦に行かなきゃ行けなかった。
この回答へのお礼
なるほど。ありがとうございました。
NHKの歴史番組でも放送していましたが
羽柴秀吉が柴田勝家への援軍を信長に命じられて
負けるのは明白だから 羽柴軍の人的消耗・損失を避けるために
信長の意向に逆らって 長浜に帰国して信長から大目玉をくらったという
エピソードの北陸、手がり川?の戦いがありました
能登半島七尾の要衝を上杉側がすでに制圧しているのが判らず
戦闘に入った という実戦突入前の情報戦にも負けていたという大敗北ですが
ここで謙信は信長征伐のための上洛軍事行動を行なっています
信長が比叡山の仏塔・僧兵を掃討・一掃・大虐殺したことに対する
守旧派勢力からの反撃ですが、革命家信長への抑えきれない反発心も
あったようです
仏への帰依から諸国の平安・平穏・統一を自分がもたらしてみせるという
そういう意識も以前の戦闘行動にはあったかも知れません
>でもその子ども時代の教育と、彼の戦への考え方というのは
>なにか共通点があるとお考えになられますか
禅と毘沙門信仰とはちょっと異質な感じがしますが、座禅の修行をするうちに毘沙門信仰が生れたということですから、禅の影響は大きいと言えるでしょうね。
謙信が他の武将と違うところは物欲を超越していることですが、これは子供の頃の教育が大きな影響を及ぼした結果でしょう。
この回答へのお礼
ありがとうございました。
まだ謙信についていくつかの質問があります。
今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
ありがとうございました。
上杉謙信は「毘沙門天」を崇拝していましたよね。
毘沙門天も、本当は優しい「仏様」ですが、怖い顔をしています。
通常は「邪鬼」と呼ばれる鬼形の者の上に乗る事が多いです。
つまり「悪者を懲らしめる」優しい仏様ですが、正義のためには怖い顔もします。
上杉謙信も、No.2さんが書かれているように、「窮地に陥った武将を助ける」正義のために心を鬼にして戦いをした人です。
という説明は、小学生向けにいかがでしょうか?
(昔のNHK大河ドラマ「独眼竜政宗」の禅師のお話からですけど)
上杉謙信が戦ったのは二つのケースしかありません。
1.越後を守るための自衛の戦争 主として武田信玄の侵略
2.窮地に陥った武将の懇願でそれを助けるための戦争 信濃、関東での戦い
つまりいずれも謙信から仕掛けたものではありません。
晩年に越中へ攻め込み、神保氏を滅ぼして越中、能登を領土にしますが、これは織田信長対策でした。彼は足利義昭を放逐して足利幕府を倒した信長を許せなかったのです。謙信は将軍を頂点とするハイアラキーを再構築することが日本国民の幸せに繋がると確信していたのです。
この回答への補足
謙信公は、子ども時代、禅を学びました。
(当時の武将も学んでいたのかもしれませんが)
でもその子ども時代の教育と、彼の戦への考え方というのは
なにか共通点があるとお考えになられますか?
お答えになられた「幸せ」というのもひとつの
キーワードになるのかと思いますが。
こんにちは。
上杉謙信は戦に理由を求めた事でも有名な人です。
有名な川中島の戦いも、武田信玄に領土を奪われた村上氏などが逃げ込んで助けを求めた事が発端ですし。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89% …
の下から三分の一位の所に面白い事が書いてあります。
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