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フランス革命時に総裁政府が成立できる前に「王党派の反乱」が起き、ナポレオンがそれを鎮圧したそうですが、何故「王党派の反乱」が起きたのでしょうか?

また、総裁政府時にはナポレオンの権限というのはどの辺りにあったのでしょうか?
5人の総裁の方が偉かったのでしょうか?

質問ばかりですみません。
よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

ヴァンデミエールのクーデタは、


”王党派の反乱”と言われることが多いですが、
実際には王党派だけの反乱ではなくて、
雑多な民主勢力が新政府に対して蜂起したというのが真相です。
しかしこの事件の前のプレリアル暴動というので
左翼(ジャコバン勢力)が徹底的に弾圧され、
ジャコバン地区が武装解除されたので、
パリの勢力地図として武装勢力は王党派が主になっていたという背景から、
反乱勢力のなかで王党派が多く、王党派の反乱と簡単に言われるわけです。
またその直後に成立する総裁政府が、この反乱を王党派の反乱と
決め付けることで、自身の正当性を主張する材料にもされました。
ヴァンデミエールを鎮圧したのは、実際は血なまぐさい民主主義の弾圧だったわけですが
王党派が共和国を転覆する陰謀があったという”虚構”をつくることで
自分が悪者にならないようにする予防線をはったというわけです。
だから王党派の反乱説は、実は政府のプロパガンダでもあるわけ。

さてなぜ反乱が起きたかということですが、
それにはテルミドールのクーデタと、その後の反動について理解しなければなりません。
まずテルミドールのクーデタは、腐敗した派遣議員(バラス、フレロンら)と
平原派(議会多数派)が、ロベスピエールの粛清を恐れて
先に手を打って襲撃した事件です。
この事件は一般に独裁に反対するものと誤った認識がされていますが、
実はただの内ゲバで、ロベスピエール派も実は独裁体制をしいていませんでした。
同派の権限はあいまいで、実際の権限は公安委員会、保安委員会、革命裁判所に分かれていて
独裁には程遠い状態でした。
このクーデタを起こした人々、テルミドール派は各地で虐殺を行ってきた人が中心で
恐怖政治の実行者だったのですが、恐怖政治の罪をすべて
ロベスピエールに押し付けて封印してしまいます。
そしてクーデタ後は、反動政治、つまり極左から極右にガラッと転向してしまうのです。
国内、特にパリは左派が弾圧をうけ、いたるところから排除され、
右派の台頭が見られるようになるわけです。

さて、テルミドールのクーデタの理由がそもそも保身だったわけで、
議員たちはさらに自分たちの立場が安泰になるように
選挙の度に議員数の三分の一だけ改選するという三分の一条項を
可決しますが、これはまさに民意を無視するものであり、
またクーデタの余波で安定しかけていた経済が再崩壊して
物価が高騰し、人々は生活苦、物不足に激怒します。
これを機にパリで反乱となるわけですが、台頭した王党派などが
この反乱に介入して政権転覆まで狙ったのがヴェンデミエール事件です。
しかしこの事件はナポレオンとバラスを中心に多数の市民の犠牲を出して武力で鎮圧されます。

ちなみにですが、ブルボン家の国王が国に戻ったら戦争が終わるのではないか
という考えは、確かにありましたが、多数は意見ではありませんでした。
また王党派は一筋縄ではいかず、この中には革命自体を否定する
超王党派(反革命/絶対王政派)と、立憲王政派(穏健派)がいて
前者がプロバンス伯やアルトワ伯らの取り巻きだったので
彼らが戻ってきてフランスが平和になるというのはあまり現実味がありまりませんでし、
共和派の各派にとっても王政復古は最大のタブーであり、
後のバラス(彼は王家と交渉を始めた)の失脚の原因のひとつでもあります。
さらにこの頃になると、軍隊の影響力が強くなり、
軍隊は共和派が絶対的優勢だったために、総裁政府期におきる王党派系の蜂起や議会の封鎖などを
軍隊が行うようになります。これが軍事政権の布石となるわけです。


総裁政府期において、ナポレオンは軍司令官に過ぎませんが、
さっき言ったように、軍の影響力が政治面にも拡大したのがこの時期です。
ナポレオンの権限がどのくらいか、というのは表現が難しいですが、
ナポレオンはフランス軍の主力とされるライン軍や北方軍の軍司令官ではないので
5人ぐらいいる遠征軍司令官の一人というだけです。
軍のトップですらありませんでした。軍派閥の一人という表現が適切でしょう。
しかしナポレオンのイタリアでの戦績は抜群で、エジプトに行ってからも
人々の間で非常に人気が高かったのは確かです。
軍司令官の権限は作戦地域内での軍事行動に限定されます。
政治的活動や外交は、随行する委員が行い、最終的決定権は総裁にあります。
つまり軍事行動以外ではあらゆる裁可を総裁に具申しなければ
ならないというのがナポレオンの地位です。
”もちろん”ですが、総裁の方がかなり地位がうえとなります。
総裁は今の日本で言う総理大臣です。5人いて権限を分担していますが、首相の地位なんです。
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>何故「王党派の反乱」が起きたのでしょうか?


革命後、民衆が国王を排除するような改革が自国に飛び火しては困る
という理由から、ヨーロッパ諸国はフランスに対して一斉に戦線を布告し激烈な戦争が始まります。
最初は革命に肯定的だった市民や農民達も何時果てるとも知れない戦争や、それに伴う兵役、更に革命裁判などの恐怖政治に嫌気が差し始め、
処刑されたルイ16世の兄弟なり従兄弟なりを連れてきて王位につけ、フランスを元の王政国家に戻せば戦争が終わり今より平和になるかも知れないと考える人間が出始めます。
それらに王政廃止で権力を失った貴族の残党が合流したのが王党派です。
彼は諸外国と連携して革命政権の転覆を狙っていました。

>総裁政府時にはナポレオンの権限
最初の活躍であるトゥーロンの戦いで師団長。イタリア、エジプト遠征で遠征軍の司令官です。
この時点で総裁政府を圧倒するような権限は持っていませんでしたが、遠征先で連戦連勝の大戦果を挙げ続けたことで国民の圧倒的な支持を得る様になっていきます。
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