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よく暗黒時代と言われますが、なぜ暗黒時代と言われているのでしょうか?

A 回答 (4件)

ヨーロッパ中世を暗黒時代といいだしたのは、ルネサンス期の人々です。



彼らはギリシア・ローマの古典古代を復活させようという意識であり、ギリシア・ローマ時代を人間が人間らしい生活をしていた光あふるる時代と思いこみ、その時代のように人間が人間らしく振る舞える時代に「ルネサンス(再生・復活)」しようとしたのです。

その時に目の敵にしたのが、自分たちの時代の直前の時代です。中世を人間を縛り付けているキリスト教が支配していた時代と決めつけ、自分たちとローマとの間にある時代を中世としました。ですから、ルネサンスの前の時代は「暗黒の中世」なのですね。少なくともルネサンス時代の人の目からはそう見えたということです。

ま、しかし中世という時代を子細に見れば決して暗黒なばかりではありませんし、またルネサンスを過ぎてもいわゆる市民革命期までは身分制度(これも中世の特徴です)が残っていますから、実際には中世は続いているとも言えます。

もう一度書けば「暗黒の中世」というのはルネサンス期の人々が自分たちの時代を誉めたたえるために唱えたイデオロギーでしかありません。また、その後の時代の人々も無批判にそれを受け入れてしまったのです。

これで、「どうして?」という疑問が解消されれば良いのですが。
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ルネッサンスというのは、時代区分からいうと、中世に入ります。普通ルネッサンスと呼ばれているのは、詳しくは「プラトン・ルネッサンス」とも言います。

これは、12世紀13世紀の西欧の「アリストテレス・ルネッサンス」と対照して、こういう表現になるのです。

中世が「暗黒時代」という形容になるのは、ルネッサンスが起源というより、ルネッサンスがそもそも起こった理由である、西欧の社会構造や文化の変化が起源なのです。

近世・近代において、西欧社会は、農業を中心とする封建制社会から、商工業に繁栄と自由の可能性を見る、貨幣制経済時代、別の言い方では、啓蒙の時代、理性の時代、合理主義の時代、市民の時代へと移行して行きます。

都市の大商人や、力を付けた都市市民が、主に、イタリア、ドイツ、フランスなどで、ルネッサンスを支え展開したのであり、話は、そもそもルネッサンスがなぜ起こったかということなのです。

これらの新興勢力は、新しい社会の体制を求め、フランスだと広い意味での「アンシャン・レジーム(旧体制)」を否定し批判しました。これが啓蒙主義であり、また合理主義であり、それは、商工業の躍進、貨幣経済の展開というような、社会の構造変動と、シンクロナイズしていたのです。

宗教改革も、この大きな社会運動のなかで起こったのであり、より「合理的な信仰」というものが求められた結果だとも言えます。

プロテスタントとカトリックの争いは熾烈で、西欧は色々な戦火に見舞われます。しかし、カトリックは滅びません。社会が変動して行くなかで、カトリックもまた、自己改革を行い、貨幣制経済や合理主義へと、自己を適応させて行ったからです。

「西欧中世」が「暗黒時代」とみなされるのは、自由商業や啓蒙思想や合理思想からして、先の長い時代の「中世」においては、このような「個人の自由」「信仰の自由」「知識や思想の自由」「商業活動の自由」「学問の自由」などが、教会と、封建制度によって、抑圧されてきたという「実感」においてです。

「理性や自由」は、未来の可能性への「希望の光」であるに対し、先の長い時代には、このような理性や個人の活動の自由や、学問の自由が抑圧され失われていた、と感じ、それは、社会や時代が「暗黒」であったのだ、という認識になるのです。

ルネッサンスは、ローマ・ギリシア時代に、思想や学問や文化の自由、自然や理性の光があった、という「黄金の過去」という一種の幻想であり、未来へと志向するとき、我々は「光へと向かっている」という意識があるので、過去の時代、つまり、中世が、「暗黒の時代」になるのです。

千年以上に渡る中世という時代のなかでも、同じような「光への進歩」という考えはあり、文化運動もあったのです。最初に述べた「アリストテレス・ルネッサンス」は、アラビアからの色々な知識や技術や物品を知って、西欧が、新しい光へと志向した時代でした。

18世紀または19世紀頃から振り返って、過去は「暗黒」の時代で、これからは「理性の光の時代」だという認識があり、この西欧で起こった、啓蒙思想運動は、社会変動と同期していて、「現代」まで続いているのです。

貨幣経済が進展してできた現代の資本主義社会構造が、別の社会構造に取って代わられたとき、18世紀19世紀20世紀は、「暗黒時代であった」という話になる可能性があります。

西欧近代に起こった社会変化は、西欧の世界制覇を可能とした変化で、この社会変化以前と以降で、時代が大きく変化し、根本的に何かが違ったという認識なのです。それが端的に「理性、自由、合理性の光」の有無だとされれば、中世は、必然的に「暗黒時代」になります。

だから、一番簡単に言えば、西欧の「啓蒙思想」とその結実の「近代現代社会」の成功が、中世を「暗黒の時代」と規定させたのです。「自由と理性の光の時代」に対し、打破すべき、また打破された時代が「束縛と非理性の暗黒の中世時代」だったのです。
 
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暗黒時代に否定され続けた『啓蒙思想』は多くの言語で『光』や『透明』を語源としますので、それらに敵対する時代ということで、暗黒時代と

呼ばれるのではないでしょうか?
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キリスト教が支配していた中世の科学暗黒時代には、全ての思想は、聖書の言葉を基準に評価され、それにそぐわないものは、徹底的に排除され、考えを改めない人間は、迫害されました。

このため、天文学に限らず、科学の発展は、ほとんど停止してしまいました。ただし、占星術については、公式的には禁じられてはいましたが、かなり一般に普及していたようです。

これかな?
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