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倒幕運動には、薩長の他にも土佐藩、肥前藩が参加した、授業で
と聞きました。
何故4つの藩のうち、薩摩藩と長州藩が活躍したのでしょうか?

A 回答 (4件)

そういや、会津戦で長州の軍勢は家を焼き民衆を虐殺、女性に乱暴狼藉を働くほど大活躍したそうですな。



さて。会津以外の被害はどれほどだったんでしょうね。
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土佐は、大政奉還の立て役者ですが、薩長は土佐の公武合体という方針には賛同できませんでした。

つまり、土佐は公武合体であり、薩長は討幕ということです。
肥前は、自国を強力にすることにかけては当時随一でしたが、討幕運動はほとんどしていません。佐賀藩が恐懼したのは大政奉還以後です。というより、官軍が江戸を目指してからです。しかし、肥前の近代兵力を使わなければ、徳川幕府を瓦解させることはできなかったでしょう。その意味で、肥前も名を連ねているだけです。
上野に立てこもる彰義隊に大打撃を与えたのは、佐賀藩が持っていたアームストロング砲という輸入した火砲です。

明治維新の成立は、徳川幕府を倒すことによって成立しました。その主役となったのは、長州と薩摩なのです。実際、土佐の板垣退助が、官軍に呼応したのは、土佐藩主山内容堂(正確には違いますが)の裁断が出る前です。
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#1さんも答えているように、土佐、肥前はどちらかというと「尻馬に乗った」に近く、中心となったのは薩摩、長州です。


ではなぜこのふたつの藩が倒幕の中心勢力になったのかというと、薩摩、長州が潜在的に最も徳川幕府を憎んでいた藩だからです。
長州毛利家は関ヶ原の合戦で西軍の総大将を務めていたせいで、取り潰しは逃れたものの、120万石の大大名から38万石に減らされてしまいました。しかも当時は家臣のリストラはなしです。つまり、殿様も含めて全ての家臣の給料が単純にいって1/3になってしまったということです。これで恨むなっつーのが無理な話ですね。
また薩摩島津家も西軍についていましたが、徳川家は関ヶ原で島津が見せた鬼のような強さを大変に警戒し、執拗なまでに取り潰しの機会を狙っていました。薩摩というと薩摩弁が有名ですが、この言葉は幕府の隠密(スパイですな)に会話を盗まれないようにわざと難しくした暗号でもあったのです。薩摩藩も幕府の隠密には大変警戒し「生きて帰れぬ薩摩飛脚」などと幕府の隠密では恐れられました(ちなみにこの薩摩へのスパイ行為に唯一成功したことが記録に残る人物がいます。それがあの間宮林蔵です)。
幕府は宝暦3年に後に宝暦治水と呼ばれる治水工事を薩摩藩に命じます。この工事は幕府役人の執拗な嫌がらせと望郷の念から51名もの薩摩藩士が自害(病死33名)するという事態を招いています(工事終了後薩摩藩の担当奉行も自害しています)。

薩摩、長州に関しては上は殿様から下級武士に至るまで徳川幕府には恨み骨髄だったのです。だからもう長州なんかはペリー来航から明治維新まで異様なまでに興奮状態ですね。蛤御門の変を起こし二度に渡る長州征伐を招くなんて他の藩にはちょっと真似が出来ません。
土佐藩は、ま、確かに長曾我部は西軍につきましたが取り潰されて江戸時代に土佐を支配していたのは山内家です。去年大河ドラマでやりましたが山内家は土佐を支配するにあたって自分の連れてきた部下を上士とし、地元土佐の家臣を下士として厳しく身分支配をしてきました。下士は江戸幕府に恨みはありましたが、殿様と上士は恨みはありません。
佐賀(肥前)藩は幕府にゃ恨みは全くありませんが、長崎が近いこともあって開明的で「改革の必要性」を強く感じていました。
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薩長土肥が連合したのではなく、薩長が連合して倒幕したからです。


土肥は、あとから入り込んだという形でもあります。
土佐は藩主を筆頭に幕末の政治に絡んでいました。肥前は、自国内で反射炉を作り、武器を生産するとともに、猛烈な勉強実績主義で、勉強できれば出世できるという体制のため、人材が豊富でした。
その結果、明治初期に於いて発言権を得たので、薩長土肥と並び称せられたわけです。

さらに、薩長土肥に共通するのが、幕末の少し前、19世紀中頃に於いて、藩政改革にある程度成功し、財政が豊かだったことがあります。

煎じ詰めると、幕末の段階で、活動できる金と人を持っていたところが倒幕に力を発揮し、明治初期の政権を牛耳ったということになります。
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