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最近は必ずといっていいほど、お葬式に弔辞がありますが、ごく普通の人のお葬式にまで、友人やら孫やらと、麗々しい弔辞が悲しみをそぐようで、不純な感じがして、私は好きではありませんが、みなさんはいかがでしょう。
本来葬儀というものは悲しみに沈んで、言葉も少なく、声も低く、静かなもののはずでした。
少なくとも、葬儀社が取り仕切るようになる前はそういう厳粛なものでした。
外国映画をみても、ほとんど音さえありません。
今の葬儀は一首のセレモニーと化し、遺族の自己満足の場というか、死人に口なしをいいことに、自作自演の陶酔の世界にひたっているのかとさえ言いたくなる人もいます。
悲しみに沈むまもなく、お通夜もそっちのけで弔辞の文章に首っ引き、という現象も、いかがなものかと思います。
私は素直ではないのでしょうか。
みなさんのご意見で、目からうろことなれますことを願いつつ。

A 回答 (2件)

私も最近の葬儀社中心の葬儀を疑問に思っている一人です。


人の死に関する問題は永遠の疑問ですが、私なりにひとつの見方を持っていますので、ご参考になればと思い書き込みます。

まずsasaiさんのご意見に賛成です。
葬儀社の取り仕切る葬儀はセレモニーです。それも故人や遺族の為でなく、自分たちの利益の為のものです。確かに葬儀社の葬儀は周りに対しては見栄えもよく厳粛です。それぞれの宗派の教義にまで抜かりなく、見事というほかありません。しかし裏返せば馬鹿高い祭壇、棺おけ、見せびらかしの弔電披露、ひんしゅくものの弔辞の羅列など心から故人のことを思うより、葬儀の豪華さ合戦に巻き込まれて、遺族も葬儀社の言うままになっています。葬儀社は「故人のために」をしつこく口にします。遺族もそういわれればしぶしぶながら了承しているケースが多いようです。そうした費用の支払いで遺族が苦しむのを故人が喜ぶでしょうか。
昔から人の死は不浄とか忌み嫌うとか悲しみとかで表現されますが、少し間違っていると思います。
人は死んであの世へ還るのですから喜んで送るべきだと思います。「喜んで・・・」では「あいつが居なくなってよかった」の意味に誤解されますから、「この世で永い間ご苦労様でした」と労いの意味を込めて送るのが正しいと思います。
よく「このままでは死ぬに死ねない」とか、「後ろ髪を引かれる」と言いますが、幼い子を残して、とか家のローンが残っているときに亡くなった場合は、遺族の悲嘆は計り知れません。いわば故人も死ぬに死ねない状況で亡くなるわけですから、遺族が悲しめば、まさに後ろ髪を引かれる思いであの世に還らなくてはなりません。遺族が悲しめば故人もこの世に執着心が生じて成仏が遅れるのだそうです。「後のことは心配するな、安心して成仏して」と送るのが正しいと思います。

私は以前、丹波哲郎の「大霊界」が話題になったときに「人はこの世に修行に来ている。修行が終わった時に死んであの世へ還る」この一言を聞いて以来、死に対する疑問を私なりに解釈しています。
この世に生を受けて死に至るまで、さまざまな喜びや苦しみを経験します。努力して喜びを得るのも怠けて苦しみに至るのも全て修行の範囲です。天命を全うして亡くなる人もいれば、不運にして事故や病気で亡くなる人も、全て天の采配だと思います。
周りを見渡せば、裕福な家庭に生まれて、生涯幸せな人生の人も居れば、貧困や家庭暴力にさいなまれて不遇の人生を余儀なくされる人もいます。
分かりやすく例えれば、学校の部活で校外に合宿練習に行かされたと思ってください。学校はあの世です。校外の練習はこの世の人生です。一生懸命に練習に励んである域に到達すれば学校へ戻る許し出る、つまり死です。許しが出ていないのに、勝手に途中で逃げ帰るのは、つまり自殺のことで、あの世で厳しい咎めと罰を受けます。また練習中にもめたりして誰かを勝手に追い返すのは、つまり殺人です。ですから、練習をサボったり規則に違反した者を勝手に追い返すのは、つまり死刑です。死刑は人が人を殺すのですから殺人です。終身刑などで天命まで刑に服させるのが正しいと思います。

私は、葬儀社に「故人のために」といわれても、家族が動じることの無いように、私の葬儀に無駄金は一切使うな、無駄な弔辞や弔電の手配はするな、本当に別れを惜しんでくれる人にだけ葬儀の案内をするように、いつも周りに公言しています。「質素な葬儀は故人の望みだった」と誰もが納得してくれるようにです。

長くなりました。sasaiさんの投稿と関係ないかもしれませんが、死に関してはwebで「チベット死者の書」を検索されると参考になると思います。
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この回答へのお礼

早速のお返事ありがとうございました。
私の言いたかったことをわかっていただけて、嬉しく思いました。
マスコミの影響か、戦後教育の弊か、日本人は時も場もわきまえずすっかりおしゃべりになったと思っているのですが、喪主の挨拶も、最近はともするととても饒舌に感じられることがあります。、
「人はこの世に修行に来ている。修行が終わった時に死んであの世へ還る」この
考え方、勉強になりました。
感謝します。
「チベット死者の書」もありがとうございます。
インドの死に対する考え方が、そういうものですよね。

お礼日時:2002/07/13 20:10

 人生の年を重ねつつあるせいか、冠婚葬祭の機会が、頓に増えて参りました。

そのたびに思うのが、「普通の人」「普通の人生」というモノは、あり得ない、ということです。
 結婚式などの、華やかな席は、あとあと、その人にとって何とでもフォローは出来ますが、亡くなった人にとっては、その場所でしか、二度と会えない(近親者以外にとって)所です。心から、亡くなった方を追悼する場所なのですから、周りに気を取られず、その人に心を捧げたいモノであります。その分、「自分の葬式には、こうしよう」と、今から遺言して置かれれば、いかがでしょうか? 
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この回答へのお礼

お返事ありがとうございました。
「普通の人」「普通の人生」というモノは、あり得ない、・・・
確かのその通りだと思います。
どんな人も一冊の本になるくらい、それぞれの人生を劇的に生きているものだと解ります。
それだからこそ、その尊厳を大切に『心を捧げたい』と私も思うのです。
年齢を重ねてはじめて解ることも多く、それは日々の喜び、楽しみでもあるのですが、年齢を重ねたことで見えてしまうもろもろもありますね。
「自分の葬式には、こうして欲しい」と、今から遺言して置くことを考えます。
ありがとうございました。

お礼日時:2002/07/13 20:28

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