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継体天皇について

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  • 質問者:syou31
  • 投稿日時:2007/07/02 21:36
  • 困り度:暇なときに回答をください

継体天皇はそれまでの大和政権の出生地ではなく違うところ(北陸)から引き入れられ、天皇位に付くまで長年かかったそうですね。
本当に天皇家の系譜を告ぐに相当するにふさわしい人だったのでしょうか?
そうでなければ天皇家の万世一系が保たれていると言えるでしょうか?
今の天皇制を考え直すのに参考にしてはと思います。
(街で軍歌をガンガン流しているグループにとってはタブーだと思いますが)

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  • 回答者:m-tahara
  • 回答日時:2007/07/04 11:43

 かなり以前に読んだ情報なので記憶が曖昧ながら、確か水野祐氏が最初に継体王朝説を唱えられました。
 ただ、それで上手く収まった理由として当時は男系よりも女系の系統の方が重視されており、継体天皇はNo.3の方が書かれているように前系統の手白香皇女を迎えているためそれ程大きな問題とはされずスムーズな政権交代が実現できた(とは言えヤマトに入るのに確か20年はかかっていたと思いますけれど)、とされていた、筈です。

 上記学説の提案者含め事実誤認がありましたらごめんなさい。

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No.8ベストアンサー20pt

  • 回答者:suicyo
  • 回答日時:2007/07/03 03:14

武烈から継体への皇位継承が無風で行われてはいないことは明らか
だと思いますが、かと言って皇位継承の正統性に疑問ありとは即断
できませんね。他にも血なまぐさい皇位継承など、正当性の程度の
差はいくらでもありますから。但し、あくまでも応神天皇5世孫と
いう出自を信用する限り、の話ですが。
系譜の話に限定すれば、奈良時代の称徳女帝から光仁への継承と室
町時代の称光から後花園への継承がともに8親等、江戸時代の後桃
園から光格でも7親等という系譜のへだたりでの継承で、武烈から
継体が10親等ですから、その差は1世代分。女系相続を認めない
限り、長い年月の中では繰り返し起こりうる事態として許容範囲で
はないかと。
ただ、女系という点では、継体・光仁・光格はともに断絶した系統
の皇女を娶っているということを考えれば、跡取り娘の婿を傍系で
血が薄くてもとにかく天皇家一門の中から選んだ、とも言えなくも
ないですね。

ちなみに、南朝正統の立場に立ち、北朝を歴代としては否定すると、
南朝後亀山から北朝後小松への「正統」の継承は12親等というこ
とになりますが、これは特殊事情ということで。

天皇家の万世一系の価値というのは、他氏からの養子相続を一切認
めず、かつ父系相続を貫徹してきた点にあります。それを少なくと
も千数百年続けてきた訳ですから凄いことは確かです。但し、その
結果として、上記のような8親等などの相続で何度かしのぐ破目に
なった訳です。他の武家や公家のように婿養子や外孫(他家に嫁いだ
娘の子)に相続すれば、遺伝的には3親等で納まるんですけどね。

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  • 回答者:ringouri
  • 回答日時:2007/07/03 01:52

『日本書紀』を編纂したのは、継体天皇の子孫にあたる人達です。
天皇家の系譜をつぐに相応しい人だったかどうかではなく、事実として大和朝廷の政治権力を受け継いだ(奪取した)人です。

相応しいかどうかで言えば、はっきり言って、相応しくなかった人なのです。応神天皇から継体天皇の系譜は『日本書紀』には掲載されていません。(『上宮記』逸文などに残っているだけ)つまり、書くほどのことも無いくらいの遠い縁者だったのです。大和地方には、前天皇(武烈天皇)と近い関係の人達が沢山いたのは明らかです。

公式の歴史書である『日本書紀』に武烈天皇が悪逆非道の天皇として描かれているのには理由があります。中国の王朝交代(革命)の論理と同じで、「こんなにひどい政権だったから、それに代わって私(継体天皇)が権力を司る。これは政権の不当な簒奪ではなく正当な継承である。」と公言しているわけです。『日本書紀』をちゃんと読めば、そう書いてあります。

「天皇家の万世一系」とは面白い表現です。現在生きている人は皆「万世一系」ですよね。そうじゃなければ、存在しませんから。特に天皇家に限ったことでもないことを、さも特殊なことのように言い立てて崇拝させようとするのには、何の根拠もない気がします。

それにしても雅子さんはかわいそうだな~。彼女も「万世一系」幻想の犠牲者の一人だと思います。

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No.6ベストアンサー10pt

  • 回答者:fujic-1990
  • 回答日時:2007/07/03 00:08

 「継体」という言葉から推して、本来の天皇家とは別系だろうという説もあるようです。つまり、よそから来て、天皇制という体制を継いだ人、なのではないか、という考え方です(学問的に認知された説かどうかまでは知りませんが)。

 私はそれに魅力を感じているのですが、よそから来て体制を継ぐほどの人なら、お尋ねの意味(血筋をお尋ねでしょ?)とはたぶん違う意味で『天皇家の系譜を告ぐに相当するにふさわしい人だった』と思いますねえ。

 昨今でも、本当の息子よりも、養子に来た義理の息子のほうが、村の中の慣習を尊重して溶け込もうとしたりするじゃないですか。

 継体天皇も、天皇制度を尊重して、天皇の後継となるための正当性を示すために、また天皇制を護持するために努力をし、その実績を残した人だと思います。

 もし、ふさわしくなければ、後の天皇によって歴史から抹殺されたに違い有りません。

 秦の始皇帝は秦王の血筋ではなかったという話もありますが、それによって秦による中国統一の意味、後世に与えた影響に対する評価を考え直すべきなのでしょうか。大したことではない気がします。

 ちなみに我が家も、天皇家同様に有史以来連綿と続いてきた「万世一系」の家系です。

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  • 回答者:dulatour
  • 回答日時:2007/07/03 00:02

紀記を解釈するという方法論でなく、なんというか、まあ考古学的というのでしょうか・・・
持統天皇の時代に成立したと言われる紀記自体が、大和朝廷の紆余曲折を物語っていると思います。紀記の時代とアマテラスを結びつけるにはやや神懸かりです。
幾つかの系統の王朝が政権争いをした上で、持統期に至ってという方が科学的な気がします。
つまり、葛城王朝、河内王朝、継体の王朝、三輪王朝とという全く別の王朝が存在していたという方がつじつまが合いますね。

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  • 回答者:Heartmine9
  • 回答日時:2007/07/02 23:45

大山寺の僧、大蔵院の僧、許波多神社の神官、吉田神社の神官などから伺った話です。
口伝などで代々伝わっている話だそうです。
日本書紀や古事記と違うことを仰っていましたが、私が記紀が絶対に正しいと信じていないので、面白く伺いました。

まず、応神天皇の次に宇治天皇が即位しますが、久米派内で跡目相続をめぐって内乱が起こります。
これで、久米派自体が弱体化し、大和の王、仁徳天皇が久米派を破って即位しました。
宇治天皇の母君、宮主宅媛命が宇治川に身をなげて亡くなります。(許波多神社伝)
これに異論をとなえた播磨が討伐を受けます。
鴨、明石が戦い、伊和は静観したので、伊和一ノ宮は保護されます。
明石のご神木の楠が切られて、船にされます。
切られて後もその船は鳥之磐楠船神として崇敬を集めました。

実際は仁徳天皇が播磨討伐をなされたようですが、それを応神天皇がなされたよう、大幅に歴史の書き換えをおこなったと伝わっているようです。
大変大規模な書き換えがあったので、かなり作業が煩雑になったようです。
ここで政権が大和系の政権になります。
これで、隼人は今までより反乱を起すようになり、播磨系の吉備も非協力的になっていきます。
この系統は雄略天皇まで続き、その後、播磨系の天皇に代わります。

しかし、数代後に跡継ぎが絶えて、結局、久米系の“継体天皇”が跡を継ぐことになるのです。
継体天皇の父がひこうしの命ですね。久米系の方だったようです。
諸国のお血筋は婚姻を繰り返し、非常に密接になっていたので、どの系統であろうと、血統的にはほとんど一族に近い状況だったのです。
だからこそ、継体天皇は、久米系であったにも関わらず、易々と帝位につけたのです。
天武天皇の時期にはほとんど名目だけのものになっていたようで、そのような各国の系統よりも、むしろ、その一族からの直系であるかどうか、万世一系であるかが決定的に重要視されたのです。
だからこそ、継体天皇は、中央とはまったく関係なかったのに、探しだされ帝位につかれることになったのです。
だから、歴史上、その系列の記述は無視されたそうなんですね。
この系統の話が出てくるときは、武力で政権交代した場合です。
そのとき、相手側の勢力を討つ口実に系統が使われたようです。
戦国時代、足利が源氏で織田が平家、徳川が源氏と、源平交代説がささやかれたと同様程度の重要性だったのです。

その後、しばらく久米系が続きますが、白村江戦で日本が敗北し、その期に乗じて、大和系の天智天皇が政権をとり、唐に対して、逆賊を討ったので、政権を認めてほしいと使者を送ったのです。
これを唐が認め、日本は領土を失うことを免れたと言っています。
これを快く思わない群臣が天武天皇を担いで反乱を起し、久米系がまた政権を取り戻した、という経緯らしいです。

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  • 回答者:hazu01_01
  • 回答日時:2007/07/02 22:15

継体天皇ですか。日本書紀等では応神天皇5世の孫としていますね。
かなり遠い一族から迎えられた天皇だったのでしょう。また、継体天皇より身近な関係の皇子もいたでしょう。
しかし、血縁の遠さを補完するために結婚により手白香皇女を皇后としていますよね。
実力もあり、以前の天皇家とも血統的に繋がりがあり、直前の武烈天皇の姉妹を娶るなどしており天皇家の系譜を告ぐに相当するにふさわしい人だったと思いますよ。

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  • 回答者:trajaa
  • 回答日時:2007/07/02 22:06

たとえば貴方から見て、5代前の先祖のお名前ご存じですか?
そのご先祖から数えて5代目の子孫(貴方の近親者では無く)の方をご存じでしょうか?

「一般庶民と貴種は違う」と言われるかもしれませんが、五代も違えば他人みたいなもの。だと私は思っています。

本当は血縁は無いけど、そうとは書けないので
「5代の孫」として、話をぼかしたのでは無いでしょうか?

継体以前だって、本当に血縁なのか?疑問が無いわけでもないし
まあその辺は追求しようにも、頭の固い官庁がある限り学問的な研究も満足に行えないので、確認のしようが無いですけど。

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  • 回答者:outerlimit
  • 回答日時:2007/07/02 21:56

応神天皇5世の孫と言われています
少なくとも質問者の疑問の様なことはないでしょう

古事記や日本書紀をまとめる際、質問者の思っているような事があれば、後世疑われるような記述はしないでしょう
応神天皇5世の孫に疑問を持たなかったから、危ないことも記述したと判断すべきでしょう

日本海の向こう側の国であれば、正当性を主張できることだけを書き、危ないところは無視してしまうようですから・・・

本流から遠くても、正当な後継者であると信じていたことの証拠です

質問者は 万世一系が、直系だけで125代継承されてきたと思っているのですか

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