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昔の貨幣や経済について質問なのですが、おそらくこの分野は日本史を勉強した方は苦手な方が多いと思います。

さて質問ですが、
(1)江戸までの貨幣の変化について知りたいです。どのように変化したか
(2)江戸の貨幣には金貨・銀貨・銭貨だったと思いますが、これらはそれぞれどのように使われていたのでしょうか?当時の武士の給料は米でしたよね??
(3)米の流通ですが、まず農村→藩→蔵屋敷→問屋→小売→庶民と流れていくと思うのですが、まず農村が自分達で作った米を藩にわたしますよね?そこで藩はなぜ蔵屋敷にもっていくのでしょうか?直接小売に持っていくことはできないのでしょうか?
また蔵屋敷は具体的にどのようなことを行っているのでしょうか?(問屋も)ここら辺はまったく解らないので、お願いします。

A 回答 (4件)

日本の貨幣の歴史の本は何冊もあるくらいですが、かいつまんで書きます。


公式貨幣は飛鳥時代の「富本銭」銀、銅銭の鋳造から始まります。
多少流通するようになり、奈良時代から平安時代にかけ本格的鋳造がされ、「皇朝十二銭」と総称される金、銀、銅銭が次々に発行されました。
平安時代の蓄銭の奨励が逆に、貨幣の不足を招き止むを得ず蓄銭禁止令と発布とともに、改鋳して新貨幣を旧貨幣の十倍の交換比率としました。
当然反発をまねき貨幣制度は混乱しました。   平安後期から国産貨幣(銅銭)の不足解消に中国から大量の銅銭を買い付け国内に流通させました。   平清盛はその先駆けです。
鎌倉から室町時代にかけ年貢を銅銭で払うのが増え、渡来銭が一般通貨になりました。   生産量の増加した砂金を銅銭に変えたともいいます。
戦国時代になると、各地の金、銀山が開発され、戦国大名はそれぞれ自領内で通用の金、銀貨幣を鋳造しました。
信玄の「甲州一分金、一、二朱金、朱中金、その下の糸目金」が残存しています。   両も使われていたとのこと。    家康はこの制度をそっくり用いました。
他の大名の貨幣の詳細は不明です。
戦国が終わり秀吉は「天正大判」という十両金貨をつくらせました。
そのほか金貨は「太閤円歩金」価値不詳の「永楽金銭」、銀貨は「天正通宝」、「文禄通宝」など、銅貨は「文禄通宝」これらは通用期間が短く経済に与える効果は少なかった。
江戸時代になり近代貨幣制度が確立しました。
前者のサイトにあります。
慶長6年家康は金銀貨幣制度を定め、金、銀、銅貨の交換比率を設定しました。    のちに幕府や相場が決める変動比率制になりましたが。
始めは「十両、一両小判」、四分の一両の「一分金」これらは高額取引用で小口には「丁銀」、「小粒銀」これらは天秤で量目をはかり不便。
元禄10年八分のいち両の「二朱金」を作る。
元文4年「寛永通宝」の鉄銭を作る。  一文相当。
明和時代「五匁銀」、十六分の一両の「二朱銀」を作る。   文政時代その半分の「一朱銀」を作る。
それまでは小口の取引は「寛永通宝」のような銅貨か、銀では天秤で量目を量りながら行っていました。
一両=4000文の時代なら、250文にあたる「一朱銀」は経済の繁栄に役立ったでしょう。
量目を測りながら使う、丁銀、豆板銀、粒銀、切銀、吹き切銀、切金など古くから使われていましたが略します。
そのほか江戸時代有力藩が藩内用に鋳造した、藩金、銀もありますがこれも省略します。
びた銭と呼ばれた鉄の悪銭も同様です。
改鋳も同様。

この回答への補足

すごく長く回答していただいてありがとうございます。しかし私の勉強不足で少し難しいですね
これからもっと貨幣についての本を読んでみます・

補足日時:2007/07/10 02:00
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(1)と(2)については既に回答がありますので省略。


(3)米の流通経路はご質問のとうりですが、諸藩の年貢として収めた米(後世では金納制度も存在し、米以外の物納制も併用されました。)
は量も多く、これを藩自体で売り捌く事は非効率かつ労力的に大変でしたから米商人に販売を委託しました。
この為一時的に米を保管したのが各藩の蔵屋敷です。
また米相場の高値の時に売る調節にも使われました。 各藩は蔵屋敷の在庫米を担保にして米商人から米手形の発行をうけこれを換金して財政にあてました。

米相場は変動しますからこれによる利益も商人の利得になりました。
米相場の根拠地は大阪にありましたから各藩の米は大阪に集まりました。  米商人はその権益を株というシステムで独占していました。

江戸幕府直轄地の年貢も同様に近辺の蔵に収められ江戸の蔵屋敷に集められた米は米の現物給与や米商人に払い下げられました。

米問屋は現物の米を落札して蔵屋敷より引き取り、小売り商に売り渡しました。 これらの米は玄米でしたから小売り商で精米していたようです。
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No.1の方がリンクされたサイトにはちょっと間違いがあります。



日本の通貨制度は次のようになっています。
大判(金貨:10両相当…正確には重量で小判と換算)
小判(金貨:1両…これが基本単位で、1俵と1両が本来は同じ価値)
一分(金と銀がある:1/4両・1000文)
一朱(銀貨:1/4分・250文)
文(銭貨:所謂寛永通宝。一文と四文銭。天保時代に当百文の天保銭が作られる)
 これ以外に分同金(幕府の蓄財はこれで、重量で換算)や丁銀、豆銀など素材の取引がありました。これが東は金で西が銀です。

 武士の給与ですが大きく2種類あります。
1・地方:所領の内、何石分かの土地がその武家の取り分。地位は高いが収入は天候に左右される
2・切米:俵で給与をもらう。石高取に比べ地位は低いが給与が安定

 地方は所謂「何石取り」というやつで自己責任で年貢を取らねばなりません。切米の方は蔵へ行って給与を受け取ります。No.1の方がリンクしたサイトでは海外には
> 外国で「君の年俸は麦○キロだ」とか「税は麦○キロ」という言われ方はない
実はあります。フランスでは1970年頃まで給与+ワインでした。ですから年収は5千フラン+ワイン60リットルでした。無論ほかの国ではウィスキーやラム、ビール給与がありました。
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