プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

はじめまして、大学3回生です。
近々プレゼンテーションがあり、日本の学力低下問題がどんなところにあって、その解決方法はないのか、ということを探っていこうと思っています。
その問題提起と解決方法提案を、2003年度のPISAで総合1位になったフィンランドの教育からみて考察していこうと思っています。
しかし、日本の教育システムについて理解できていない部分もあり、そしてこのプレゼンの構想がまだまだまとまっていません。そこでみなさんから、情報、アドバイスや意見を頂きたいのです。

本は主に
「変えよう!日本の学校システム―教育に競争はいらない」(古山 明男著 2006年平凡社出版)
「学力低下をどうみるか」(尾木直樹著 2002年日本放送出版協会出版)
「フィンランドに学ぶ教育と学力」(庄井良信・中嶋博編著 2005年明石書店出版)
「競争やめたら学力世界一―フィンランド教育の成功」(福田誠治著 2006年朝日新聞社出版)
を読み、あと文部科学省の公式HPや新聞、雑誌などを見ました。

調べていくにつれ、日本の教育についての疑問が多々湧いてきました。
(1)学習指導要領を元に学校はカリキュラムを作成するなど、文科省→教育委員会(都道府県)→教育委員会(市区町村)→学校という風に日本は地方分権化が進んでいるように思えます。(フィンランドのように教師が権限と教育方法の自由を握ってはいませんが)しかし実際のところはどうなんでしょうか?私の中では、文科省の言うことを教育委員会や学校はほぼ、しぶしぶ受け入れ、正当化して世間に発表しているのでは…というイメージがあります。
(2)これからの学力は、「確かな学力」を得ることによって「生きる力」を身につけることだ、としていますが、詰め込み型教育、サタデースクール、授業時間を長くしたり、全国学力テストを再開と、ゆとりをなくし競争をあおるようなことをしていませんか?矛盾を感じます。
(3)習熟度別教育が依然、日本の教育制度には残っています。本には、上のレベルの子にばかり手をかけ、下の子には手をかけないいわゆる「エリート教育」をしている、とありました。これはエリート教育なのですか?そうであれば、これは格差教育につながる一要因なのではないでしょうか?
(4)国は、生涯学習を続けていく(生涯教育)ための学びを、と政策を取っていますが、それ以前に、だれでもどこでもいつでも教育を受けれるようなシステムが整っていないのではないでしょうか?
(5)世間一般で話題になる「学力低下」はテストの成績以外は見ているのでしょうか?学力という言葉の意味合いがとても難しいのですが、テスト以外にどういった意味がこめられているのでしょうか?
(6)大福祉国家・高税率のフィンランドの教育制度が日本に適応できるとは思っていませんが、フィンランドに見習う点、またはこれなら取り込めるんじゃないか…という制度はありますか?(フィンランドの教育について詳しい方にお答えいただきたいです。)

長文になってしまい申し訳ありません。
1つだけ答えていただいてももちろん結構ですし、
この質問以外にも、皆様の考えを是非お伺いしたいです。
どうかよろしくお願いします!

A 回答 (5件)

これは、大学のゼミでディスカッションするようなレベルの内容を投稿しましたね(笑)。

800文字では難しいですが、かなりきちんと下地があるようですので、ヒントをいくつか。
1.日本の近代教育制度が発足して130年余。教育の中央集権・国家統制が無くなった時期は、戦後の一時期を除いて、ありませんでした。それは今日でも同様です。これに関しては、むしろ文部官僚の方が危機意識や問題意識を持っています。都道府県・市区町村の教育委員会の方が、「お上の言うとおり」意識が強いですね。
実例を2つほど。
私が3年ほど前に、直接、上級職の官僚から聞いた話です。彼が、自分の書いた本(及び文科省の施策)について関西の方で講演をしました。終わった後に、その県の教育委員会の幹部が「この本は私たちのバイブルです」と会場で挨拶したので、びっくりしたした、と言っていました。文科省の方針をドグマ化して、そのまま機械的に適用する発想が「まだ、あるんだよねぇ」と彼は嘆いていました。
私が直接体験した話です。ある県で、新学習指導要領の「伝達講習会」というものがありました。別件で、たまたまその場に居合わせて驚きました。伝達講習会を始める際に、最初に言った言葉は「聞いたとおりに伝えます」です。そして、本当に聞いたとおりに一字一句変えないでプリントを読み上げたのです。それをまた参加者が必死にメモをしてるのです。
もっとも、中央集権=悪 というわけでもありません。現実にフィンランドでは、分権化が学校への情報ネットワーク整備の障害になっている、という議論や、教師のカリキュラム設定が負担になっているという指摘もされていますから。

2.その通り、矛盾と言うよりも「揺り戻し」が来ているのです。本来「学力とは何か?」という議論こそが必要だった(21世紀の学力が本当に従来型の読み書きそろばん能力で良いのか)のですが、それがないままに、「学力低下」の声(これも事実ではありません)に押されて、70年代型の学習様式に戻りつつあります。
そもそも、70年代から80年代にかけて「詰め込み教育」「塾の過熱化現象」等への批判が世論で起こり、それを受けて、大きく方向転換したのが平成10年度の学習指導要領だったのです。教育政策は10年単位のスパンでないと方向転換できませんから、そういう意味では「時代の要請」に即応できないものなのです。しかし、それは決して欠点であるとは、思いません。教育というのは本来国家100年の大計ですから、その時その時の要請でころころ変わるようでは困るのです。

3.「本には」と書いてありますが、どの本を指しているのか分かりませんので、回答できません。あなたの挙げられた参考文献は良質ですが、色々な立場の先生が書かれているので。

4.5とも関連するのですが、「生涯教育」についての認知度がフィンランドと日本では全く異なります。例えば、フィンランドでは「教師もまた学び続ける主体である」という意識が高く、教員研修へのモチベーションが非常に高い。

また、例えば、情報教育の分野でいえば、フィンランドでは電子政府化が進んでいて、2004年段階で公的機関とインターネットを介したやり取りをした人の割合は、全国民の45%です。これはヨーロッパでも群を抜いて高い数字です。必然的に、コンピュータやインターネットに対する学習意欲も国民的なレベルで高いのです。単にシステム(施設や施策)の問題ではなく、そうした背景も考えた方がよいでしょう。
いくつか参考文献を挙げておきますから、読んでみてはいかがですか。
Nordic Council of Ministers, "Nordic Information Society Statistics", Copenhagen, 2005
Iipo Halonen, "Implementation of ICT in Finish schools", 2003
Ministry of Education, "The Finish Information Strategy for Education and Research 2000-2004", Helsinki,2000
大学3年ならこの程度の英語は読めるでしょう。
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教員をしています。



1について
実際に教員として仕事をしてみないと、理解しにくい部分です。たとえばカリキュラム作成は学校単位で行うものですが、実際には、同一市町村自治体にある各学校から代表者が集まり、慎重に議論しながら結果的にほぼ同じカリキュラムが作成されます。そこには学校の独自色を打ち出すことよりも、「問題のないカリキュラムかどうか」のほうがよほど大事です。こういった、「実態」が蔓延しているため、地方分権は責任転嫁という意味でのみ機能しており、あなたのイメージと合致します。

2、3
なぜ習熟度がエリート教育につながるのか、それは差別意識の醸成に加担するという一面もあります。しかしそれ以上に、子供たちの「学び」の成立過程を破壊するものであるからです。頭の性能の高い子供は、教師の説明とテキスト、それに最低限の練習回数だけでもテストの点数を上げることはできるでしょう。しかし、大多数の子供は、教師の説明なんて意味不明、むしろ教師から質問されたときにワイワイガヤガヤとみんなで相談したり、友達の不完全な意見や間違いじゃないけど正しくもない曖昧な回答を聞く方がよほど「学ぶ」のです。あるいは、図工の「鑑賞」の授業で美しい芸術作品のすばらしさ、技法を説明されることよりも、その技法を使って描いた友達の下手な絵のほうが、よほど技法を「学ぶ」ことに直結します。塾ではなく「学校」であることの意義は、そこに集う集団が地域社会から集まってくる子供たちであることにほかなりません。
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1.


教育特区について調べてみると何か良いアイデアが出るかもしれません。

2.
外的に教え込むのではなく、内的に自ら学習しようとする意欲を
高める事が「確かな学力」と「生きる力」を身につける事に繋がると思います。

3.
緒川小学校について調べてみると良いかもしれません。わかっている子どもに
低レベルな授業をしても時間の無駄ですし、わかっていない子に高度な授業
をしてもついていけなくて、勉強する事、それ自体を嫌いになってしまう
可能性があるので習熟度別教育については私は肯定的な立場です。

4.
60歳を過ぎてから大学や専門学校に入学する人は結構います。
「いつでもどこでも」というのであれば放送大学を利用すれば
これを実行できます。

5.
わからない事があった時に自ら調べようと言う意欲が低下しているように
思えます。教育に関して全般的に受動的なので、自ら調べようとせず、
教えられた事以外はわからないので、学習指導要領の内容が少なくなると
そのままダイレクトに学力低下に繋がってしまうのではないでしょうか。

「わからなかった事がわかるのは楽しい事」という教育を施し、
自ら学習する意欲を身に付けさせ、「確かな学力」と「生きる力」
が身に付けば学力は向上すると思います。
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(2)一般に「詰め込み型教育」は批判の対象になることも多いと思います。

「何故学ぶのか?という意味をきちんと理解して、自発的に学ばせる。」というのは確かに大切ですが、非常に難しいことも確かです。学力が著しく落ちている場合には、一時的に上記の様な対策を取るのも止むを得ないと思います。

その上で、長期的に教師の指導力のアップを真剣に目指すべきでしょう。個人的には教師の待遇改善もあっていいと思います。他の職業と比較して、教師が給与面・社会的地位という点で魅力的でない今、教師になろうという優秀な若者が少ないのが根本的な問題ように思えてなりません。「待遇面を気にしない、理想に燃える人が教師になるべきだ」という意見は、それこそ理想論であって現実的でないと思います。


(3)エリート教育で有名なのがアメリカ・中国であるように思います。両国と日本の教育を比較することで見えることもあると思います。個人的には日本はあまりエリート教育に偏っていないと思います。


(4)これは賛成ですね。社会人への教育補助も数年前に減額されました。学力低下が見られた世代をあきらめてしまうのではなく、社会人になってからの学力向上の下支えをするべきだと思います。この財政難に何を言っているんだと批判されそうですが、教育は未来への投資であり、それを怠ればただジリ貧の世の中が待っています。


(5)モラル低下も大きな問題だと思いますね。信じられないような動機での犯罪や、支払い拒否など、世の中が殺伐としてきているように思います。非常に難しいことは確かですが、未来に希望が持てる前向きな若者を育むというのも教育の使命の一つだと思います。
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(2)「確かな学力」「生きる力」は学力に関する概念や質であって勉強(指導)の量ではありませんね。

詰め込み教育や授業時間の増加は量的強化ではないでしょうか?
ゆとり教育=「生きる力」の育成ではなかったように近年の教育で見受けられるから量的強化がされているのでしょう。

(3)習熟度別教育は、出来る子供には先のことやより高度なことを教え、出来ない子には内容を噛み砕き教え、基本の習熟を目指すので、決して「エリート教育」というだけではないと思います。

(4)教育は、いや学問・勉強はといった方が良いかも知れないのですが、国や政府に面倒を見てもらうものではなく、本来個人が自発的に生涯続けていくべきものではないでしょうか?
それを国家が支援するというのですが、正直あまりできていないですね。
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