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第一次エジプト=トルコ戦争(1831-33)では、
対立構造:[エジプト・英・仏・墺] vs [土・露]
となりますよね?

この対立構造は、なんとなく分かります。
南下政策のためにトルコに恩を売りたいロシアと、
それを阻止したい残り3国。

しかし、第二次エジプト=トルコ戦争(1839-40)では、
対立構造:[エジプト・仏] vs [英・露・墺・普]
となっています。

各国の思惑がよく分かりません。
孤立してまでフランスがエジプトを支援したのはなぜか?
宿敵である英・露・墺がなぜ手を組んでいるのか?

どなたか、ご教授よろしくお願いします。

A 回答 (4件)

イギリス、ロシア、オーストリアが手を結んだのは、あまりにもエジプトの勢力が大きくなり、これ以上の拡大を阻止したいという思惑が一致したからです。



当時のエジプトはムハマンド・アリーが統治していましたが、彼は税制改革と工業・農業の振興を行い、貿易を拡大して豊かな国を作り上げていました。さらにフランスなどから技術者や軍人を顧問として招き、ヨーロッパ式の軍隊を作り、工場を建設し国内を整備し、優秀な若者をパリへ留学させていました。簡単に言えば富国強兵です。

そして、その軍隊を使いスーダンを攻め支配したり、トルコとの戦争ではシリアを奪い、アラビア半島の方まで勢力を伸ばしました。
その急速な勢力の拡大に列強は危機感を抱いたのです。これ以上、エジプトが大きくなっては、自国の勢力圏、権益まで侵されかねないと恐れ、各国は手を結び対抗したのです。

フランスがエジプトに味方したのは、1930年にアルジェリアを攻め植民地下した事が一つの要因です。
そのアルジェリアの維持と安定の為に、隣国とも言うべきエジプトとは友好関係を保ちたかったのです。その頃は、まだアルジェリア内にはフランスへの抵抗勢力が根強くあり、エジプトが介入したり、抵抗勢力と結びつかれるような事は避けたかったのです。
また、エジプトを通して、シリア方面への貿易・経済進出を図りたかったとも言われています。
こうした事から、フランスはエジプトとは敵対したくなかったのです。
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この回答へのお礼

すっきりしました。
確かにムハンマド=アリーは近代化政策をすすめてますね。
また、フランス=エジプトの関係もわかりやすかったです。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/11 23:11

エジプトートルコ戦争では、英国が主導権を握っていました。


「英」はオスマントルコに対し、自由貿易を要求していましたが、保守的なトルコ政府は関税障壁を設け応じませんでした。
当時エジプト太守のメフメット・アリーはトルコ内部の反乱鎮圧など、色々尽くしたのに報われず、不満を持ち主導権を得るべく、トルコに侵入し政府軍を破りシリアを占領しました。   トルコは西欧諸国に援助を求めましたが、「英」はトルコを困らすべく諸国に働きかけ、断りました。
トルコ政府は止むを得ず宿敵の露国に頼みエジプトとの講和に成功しました。
「英」はトルコに対し「露」の影響力増大を恐れ、「普・墺・露」と組んで援助しトルコの近代化に協力しました。    「仏」は加わりませんでした。   理由は先賢の書かれている通りです。
第二次戦争では「英」はトルコを支持し、破れたエジプトはシリアから撤退しアリーは元のエジプト太守に戻りました。
その後オスマントルコに対する影響力で「英」「露」が対立し、クリミア戦争になり、「英」が中東地域に対し最大の影響力を持つ国になったわけです。
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この回答へのお礼

イギリスがロシアと組んだのは、逆にロシアの暴走を止めるためだったのですね。
ご教授、ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/11 23:13

誤字があったので



強調→協調で、
1905年 日露戦争が終わった後、1908年には日露協商が結ばれて、「おいしく中国を食べるためにどうしましょうか?」と協調しております。

となります。

中国をおいしく食べるために、直接ぶつかるより、協調した方がよいと考えれば、日露は簡単に日露協商を結び、友好関係になる。
と、同様に
オスマントルコを、おいしく食べるためにどうしたらいいか?それによって集合離散しているのが、列強諸国となります。
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宿敵とか考えると、よくわからなくなります。


1905年 日露戦争が終わった後、1908年には日露協商が結ばれて、「おいしく中国を食べるためにどうしましょうか?」と強調しております。

エジプトートルコ戦争の基本構造は、ギリシャからやってきたアルメニア人のムハンマドアリーが、エジプトを根拠地としてどこまで勢力を拡大できるか、列強はどこまで許すか、というもの。
ムハンマドアリー視点で考えると
最大値は、オスマン家に代わってイスラムの盟主になる。最小値は自身の滅亡です。
この最大値=最小値の間で、オスマントルコから、いかに多くの利権を獲得できるか?という課題を各列強が判断して、オスマン家側に付いたり、ムハンマドアリーに付いたりしています。

ロシアは、直接何度も戦いながらも、あまり交渉したこともないエジプトを根拠地にしたムハンマドアリよりも、オスマン家側につきました。
※ 仮説として、アリーが「アナトリア、ロシアにあげるよ」とか密約を作ることができたら、ロシアは無論、アリー側に付いたでしょう。

他の国は、第一次では、オスマン家弱体化を基本としたのでアリー側につきました。
第一次でも第二次でもアリー側が圧勝ですので(実戦では)「勝ち過ぎちゃうか?」と判断した、イギリスなどは、オスマン家支援に移ります。フランスは、まだまだオスマン家を弱体化する必要があると判断した。
それだけの話です。

このときのムハンマドアリー朝とフランスとの友好関係が、後にスエズ運河掘削権利に結びついたのかもしれません。
この戦争の当時、エジプトに派遣されていたフランスの外交官が、レセップスとなっております。
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この回答へのお礼

たしかに、スエズ運河を開通させたのは仏人ですよね。
なるほどと思いました。ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/11 23:09

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