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 あまりに有名な最後のエジプト女王に比べて、その子に関する記述が、
きわめて乏しいのは、なぜでしょうか。
 よく分らないにしても、どうして関心が寄せられないのでしょうか?
 
── 二十歳だった女王はその魅力で五十四歳の支配者を虜にし、彼に
息子を一人授けた。(略)クレオパトラはアントニウスとの間に双児を
もうけ、その四年後に正式に結婚した。
── Forbes, Malcolm & Bloch, Jeff《They went That-A-Way 1988》
── 安次嶺 佳子・訳《有名人のご臨終さまざま 19940215 草思社》P46
 
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 Caesar, Gaius Julius BC-01010712 Rome    BC-00430315 56 /暗殺/BC-0101-00991116~?
 Antonius, Marcus   BC-0081‥‥ Rome Egypt BC-00290801 52 /自殺/BC-0082‥‥~?
♀Kleopatra VII    BC-0068‥‥ Rome Egypt BC-00290810 39 /自害/BC-00290801,0829-0830
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 Caesarion      BC-0046‥‥ Egypt Rome BC-00290810 17 /心中/BC-0041‥‥即位
♀□□□        BC-0036‥‥ Egypt     ‥‥‥‥ ? /双生第2子?
♂□□□        BC-0036‥‥ Egypt     ‥‥‥‥ ? /双生第3子?
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A 回答 (4件)

クレオパトラ7世とマーク・アントニー(マルクス・アントニウス)の子供は、


まず名前は、双子が
アレクサンドロス・ヘリオス(BC40-25)と
クレオパトラ・セレネ2世(BC40-6)、
その下の子供が、
プトレマイオス・フィラデルフォス(BC36-29)です。

次男(長男はシーザリオン)は、6歳のときに
アルメニア王アルタヴァスデス2世を捕虜にしたアントニーによって
アルメニアおよびメディナ、パルティアの王に勝手に任命されます。
7歳でメディアのロタパ王女と婚約。彼女はアルタヴァスデスの娘でした。

長女も6歳のときに、シレナイカおよびリビア女王に任命されます。

三男は2歳でフェニキア、シリア、チリシア王に任命されてます。

三人の兄弟は、オクタヴィアヌスによってイタリアに連行され、
凱旋式のだしに利用されます。重い鎖でつながれて無理やり行進させるという
至ってローマ人らしいやり方です。
その後は、オクタヴィアヌスの妹でアントニーの四番目の妻だった
小オクタヴィア(姉は大オクタヴィア)に預けられました。

以後消息不明ならが、歴史家はオクタヴィアヌスが殺した
アントニーの子供は(ローマ人の)マルクス・アントニウス・アンティルスだけと言っているので、殺してはいません。

クレオパトラ・セレネは、アウグストゥスの許可を受けて
ヌミディア王ユバ2世と二十代前半ぐらいで結婚します。
しかしローマ化を嫌う市民の反乱が起きて、夫妻はマウレタニアに移転します。
彼らの子供がクレオパトラ(11世)、プトレマイオス、ドルシラの三人。

この回答への補足

 さすが caesar-x2 さん、これほど詳しいとは、まさかクレオパトラ
一族の末裔ではないでしょうね? わたしも日本語の書物ならたいがい
読んだつもりですが、差しつかえなければ“出典”も教えてください。

補足日時:2007/07/14 23:02
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別の本にも興味深い話が載っています。


クレオパトラは ローマとの戦に負けた後、カエザリオンにインドに逃げるよう多額の金を与えましたが、途中 カエザリオンの扶育官が「当てのないインドへ行くより、ローマに降伏して金を渡した方が、良い結果になる。」とだましてアレキサンドリアに連れ帰りました。
勿論ローマはこの人の良い若者を直ちに絞殺しました。
扶育官は金に目が眩んだのでしょう。

後の三人のうち兄弟二人は歴史の世界から消えたとあります。
兄が殺されたというのは、アンティルスが殺されたのと混同した可能性があります。
酒井伝六氏の線になりそうです。
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No.2です。


吉村作治さんの本では少し違い
次男の ヘリオスはローマで殺されたとなっています。(シーザーとの間の長男 カエザリオンは クレオパトラのすすめでインドへ逃げる途中でローマにより殺されます)。
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酒井伝六著 「古代女王ものがたり」 文芸春秋社  によると


クレオパトラとアントニウスの 三人の子
双子の  アレクサンドロス・ヘリオスと  クレオパトラ・セレネ
その弟の プトレマイオス・フィラデルフスは
姉のセレネがモリタニアの王妃に迎えられた時、兄と弟は同行したと書かれています。
先賢のものと少し違うが、こちらのデータは古いのでしょうね。
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