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平安時代について調べている者です。
調べていてもよくわからないことがあったので、質問させていただきます。

1.平安時代の身分制度について
平安時代には、厳格な身分制度というものはなかったようですが、貴族と平民との間にはどのくらいの格差があったのでしょうか?
下級貴族でも、その生活は平民のそれとはかなり違ったのでしょうか。

2.摂関政治の頃の役人制度について
摂関政治の頃、役人になれるのはどんな人たちだったのでしょうか?
役人になれるのは貴族だけだったのでしょうか?
また、役人になるためにはどういった手順が必要だったのでしょうか?

3.女房などの地位について
女房、という言葉はよく聞きますが、彼女らの地位とはどういったものだったのでしょうか?
役人とは違うのでしょうか。誰に、何をするために雇われていたのでしょうか?
役人制度の中での位置づけも気になります。

質問だらけですみません。参考になるサイトがございましたら、アドレス等教えていただけると幸いです。
よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

ANo.1.2です。


<形骸化する以前にしていたであろう職務は、官職が「名前だけ」になってからはどうなったのでしょうか?
について、ごく簡単ですがお答えします。

・統治機構・軍事機構については、当然武家が幕府職制などの中で担ってゆきます
 戦国期になると、戦国大名のイメージ戦略として売官行為(お金で官位を買う)が流行しますが、
 一つの官位に複数の大名が叙任されるなど、やはり実態は伴ってはいません。
 江戸幕府は武家官位と公家官位を分離し、定員を別々としたので、例えば武家官位での「○○守」は
 その○○国を統治する大名への権威の箔付けとしても機能する一方、公家官位の「○○守」の方は
 形骸化したままで、公家内部の序列のモノサシとしてのみ機能します。
・服属儀礼に属するものは、制度そのものが廃れて行われなくなります
 例えば采女とか隼人などは大和朝廷が地方を切り従える過程での産物であり、時代とともに実際の運用は
 消滅しますが、ポストとしては残ります
・文書管理や宝物・御物(歴代天皇のコレクション)の管理・宮廷経済・宮廷文化・暦や陰陽道や祭祀のよう
 なものは、かなり規模縮小しつつも、官位と職能がセットで存続します。但し、官位はかなり低いものがほとんどです。
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この回答へのお礼

形骸化とともに廃れていった制度もあったのですね。よくわかりました。
何度も詳しく答えていただきありがとうございました。

お礼日時:2007/08/03 21:57

ANo.1 です。


2.摂関政治の頃の役人制度 について補足しますね。

律令では上級貴族の家政機関の規定もありますし、当然他の機関と同様に肩書(職掌)・序列(位階)・
定員も定められていますから、中下級貴族の職場ということになりますね。今風に言えば、総理と
官房長官については、東京の公邸の使用人も国家公務員の身分であったということになりますね。
但し、律令の規定がどの程度厳格に運用されたかは疑問で、実際には定員外にもいただろうし、
「私」用人もいたでしょうね。今風に言えば、国会議員の公設秘書とは別の「私設」秘書ですね。

そして、前にも書いたように、院政期以降、天皇を頂点とする公家社会に連なる人々は、ほとんど
全てと言って良いくらい、序列の固定化と職掌の世襲化の中に組み込まれます。律令が崩れていく
中で「令外官」という新たな官職が増えてゆくことはご存知だと思いますが、上記の家政機関も
同様です。うら覚えで恐縮ですが、確か最初は親王と三位以上の上級貴族しか律令に家政機関の
規定がなかったのが、後には4・5位あたりにまで拡大されたはずです。そして、その家政
機関もまた世襲化となり、上級貴族の分家筋の藤原北家・公家源氏の傍流の家や、藤原南家・
紀氏・大江氏など最初は上級貴族としてスタートしたもののその後没落した貴族の子孫たち
により、明治維新まで受け継がれます。
以下、時代は下り江戸時代となりますが、上級貴族とその諸大夫(家政機関の長クラス)の
家柄と出自・官職の例です。
摂関家 近衛家 -進藤家(藤原北家四条流 内蔵助など)
            斎藤家(藤原北家四条流 左衛門尉など)
     二条家 -松波家(藤原北家日野流 三河・相模守など)
            北小路家(大江氏 隼人正など)
大臣家 徳大寺家-物加波家(藤原南家 紀伊守など)
      花山院家-池田家(紀氏?橘氏?)
親王家 桂宮家 -豊嶋家(平氏)
※この時代の官職は一部の実務系を除き形骸化して「名前だけ」なので、公家の序列を
 明示する符号のようなものとなっています。

これらの家柄の人々は、家老や執事のような家政機関の長のような地位の人々ですので、
その下には副官などの家柄もあり、家老や執事にも代々仕える部下の家柄もあり、その部下に
仕える庶民階層の人たちも当然いただろうし‥で、全体としてのピラミット構造ですから、
どこまでが今日で言う「役人」かというのは難しい問題です。

この回答への補足

返答が遅れて申し訳ありません。
貴族の家柄やそのピラミッド構造についてはわかりました。
重ね重ねの丁寧な返答、ありがとうございます。

>この時代の官職は一部の実務系を除き形骸化して「名前だけ」なので、公家の序列を明示する符号のようなものとなっています。
しかし、この部分が気になりました。
形骸化する以前にしていたであろう職務は、官職が「名前だけ」になってからはどうなったのでしょうか?
誰かほかの人がその職務に就いたのでしょうか?
差し支えなければ教えてください。

補足日時:2007/08/02 23:34
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ご質問の範囲が広すぎるので、取りあえず簡単にコメントします。

といってもかなりのボリューム
ですが‥ 何かあれば補足の返信を下さい。私も素人ですが、長年趣味で公家社会などの研究?
をしておりますので、分かる範囲でお答えします。

1.平安時代の身分制度について
・少なくとも貴族社会には厳格な身分固定が存在します。その序列が変わるのは特殊な場合に限ります。
・貴族は世襲制です。あらたに貴族社会に仲間入りできるのは、臣籍降下した皇族を除けば、実務系や
 軍事系などで、破格の昇進を遂げた下級官人に限ります。
・ごく少数の上級貴族を除けば、貴族の暮らし向きという点では、ピンキリです。物語や説話文学など
 にも貧乏貴族や盗賊となった皇族の話が出てきます。一方で地方に下った国司などの裕福な財力の話
 もあります。
・没落貴族以下の身分は、ある種、なりゆき次第の面もあったでしょうね。
 なお、律令の条文では奴隷も固定身分ですが、律令自体が平安時代にはもう崩れていますし‥

2.摂関政治の頃の役人制度について
・そもそも「役人」の概念をこの時代にあてはめるのが難しいのですが‥
・院政期以降、貴族社会では身分や序列の固定だけではなく、職掌の家政化が進みます。例えば、
 摂関家は本来天皇の外戚となることで摂政関白を務めていたのが、この時期以降は天皇の外戚
 でなくても摂政関白となる「摂関家という家柄・職業?」となります。今風に言えば、
 「総理大臣を世襲する家」ということですね。その他、藤原定家の子孫は代々「文化庁長官」(和歌の家)、
 安倍清明の子孫は代々「気象庁長官」(陰陽道の家)、菅原道真の子孫は代々「文部大臣」(学問の家)、
 といった具合です。
・天皇を頂点とする公家社会に連なる者のほとんど全てが、このような序列と職掌の世襲化の中に組み
込まれます。そして、平安京の荒廃とともに、個々の貴族の屋敷があたかもその職掌の役所のような
様相にもなります。とすると、貴族の家来たちも使用人兼下っ端役人のような存在になります。
 これらを総称してご質問の「役人」と規定すれば、摂関政治の頃はその過渡期ですので、その時点
で公家社会に留まっていた貴族と、摂関家など有力貴族の家来となっていた地方出身者などが対象者で
しょうね。但し地方を実効支配し始めていた武士団の「支配機構」兼「家政機関」はまた別の話ですが。

3.女房などの地位について
・律令制では、後宮として、役所?名・肩書(職掌)・序列・定員がちゃんと位置づけられています。
 この時点では、今で言う、れっきとした国家公務員ですね。
 しかし、それが平安時代にどの程度まで厳格に運用されたかは不明。
・平安時代には、宮廷にいる女性全般を女房と言うようになります。また、本来の役所?名・肩書
 (職掌)などが個々の女房の通称名に使われたりします。○○内侍など。
・宮廷だけではなく、貴族の家政機関の女性たちも、女房と言われていました。
・2.摂関政治の役人制度 で述べたように、貴族の家来たちも使用人兼下っ端役人のような存在ですので、女性たちもまた同様。
・女房たちの職務は、江戸時代の大奥のようなものを想像して貰えれば、当たらずも遠からず。
・なお、後になると「侍女」「下女」という呼び方が一般化します。それに伴い「女房」という
言葉からは「下働き・召使の女」という意味合いがなくなってゆきます。
 室町以降は、「女房」=「常に主人の傍に控える女官長・秘書室長のような存在」が基本
 その後、だんだん「女官」兼「愛人」のような意味合いに変化し、現在の「妻」の呼称に至ります。

この回答への補足

詳しい回答ありがとうございます。
1、3については納得しました。2についてまだ気になることがありましたので、補足させていただきます。宜しくお願いします。

2.摂関政治の頃の役人制度について
>とすると、貴族の家来たちも使用人兼下っ端役人のような存在になります。
この「使用人兼下っ端役人のような存在」として使われていたのは、貴族ではない庶民でしょうか? 上級貴族なら下級貴族を使ったのでしょうか?

補足日時:2007/07/22 09:03
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