プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

哲学のところでする質問かわからないのですが・・。
科学と宗教を同等のものと見る見方がありますが、納得いきません。
科学信仰なんていう言葉があることさえ理解できません。
科学は宗教と違って、全ての人にとって客観的に、事実として存在するものです。
熱心なキリスト教信者も「イエスは存在します。」と、疑いなく言うでしょうが、それとこれとは違うでしょう?イエスは、そのキリスト教信者の心の中には確かにいると思いますが・・・。
“僕は~教を信じていません。だから僕の中には神はいません。”と言うことは論理的ですが、“~教徒は科学を信じていません。だから彼の中には科学は存在しません。”とは言えません。もしそう言えるならば、彼の乗った飛行機は墜落してしまうでしょう。
(宗教がデタラメだと言う気は全くありません。)
どなたか助言をよろしくお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

科学が「事実として存在すること」と、「その考えかたを信じる」ことは、別の事象です。


~教徒の乗った飛行機は(めったに)落ちません。それが事実です。その理由を説明するとき、「エンジンの推進力により翼が揚力を生み出して飛ぶ」と説明するか、「~の神がお助けくださるからちゃんと飛ぶ」と説明するかの違いでしかありません。fummmさんの心には科学が存在しているので(わたしも同じだし、これは正しい立場だと「信じて」いますが)前者の説明のほうが納得できるのでしょうが、それが宗教に置き換わってもすべての事実を明解に説明することができるなら、論理的には「どちらが正しい」とは言えない……かもしれません。
もっとも、一般に「科学信仰」という言葉は、近代科学とそれが生み出した技術を絶対的に信じ込む人々を指して、やや揶揄的に使われます。「君たちはよく分かっていない科学を絶対に正しいと言い張り他人にもむやみに勧めるが、それは宗教の信者と同じじゃないのかね?」と。

哲学の立場からいえば、科学とは「飛行機が飛ぶと信じ込むこと」ではなく、「何が正しいかを常に疑い、調べる姿勢」です。それでも論理学や定理といった最低限のことは信じてかからないと、科学そのものが成立しなくなります。その意味では、神を信じる宗教と、本質的な差はないのかもしれません。このように、常に自らの姿勢を疑ってかかる、そういう考え方が科学には重要なのだということは覚えておいてください。

この回答への補足

飛行機が飛ぶことを説明する方法が、科学と宗教だというのはわかったんですが、
その事実を導いたのは科学ですよね。
科学がなければ、鉄の塊は空を飛ばないですよね。
(nobor3さんの回答を見て思ったので付け足させてもらいました。)
堂堂巡りになりそうなので、この辺で止めておきます。
とにかく、ありがとうございました。

補足日時:2001/01/24 22:27
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この回答へのお礼

なるほど!大変よくわかりました。
科学を、事実を説明する方法ととらえれば、全て納得いきますね。
科学という方法を信じるか、宗教という方法を信じるか、それだけの違いなんですね。どちらを信じようと、事実は変わらないんだから。
わだかまりが解けました。ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/24 22:12

レスありがとうございます。

fummm様ご自身としては、一応の結論が得られたとのことですから、私としてはその結論に対する感想、という形にさせていただこうと思います。

 本題にはいる前に、まず使われている言葉についての確認をしておきたいのです。
というのは、宗教、科学という言葉が指す分野に対して、fummm様と私では差がございます。ご存知のように言葉には多義性があります。相手がどの事象を指してそうした言葉を使っているのかを理解することなく議論を重ねたところで、得られるものは少なくなると考えます。
 ここでは私の感想という文の趣旨から、私的言葉の使い方についての説明をさせていただきます。言葉について意味合いが違っていると感じられるところは、適宜読み替えていただければ幸いです。

 さて、まず『科学』です。
私的に科学を考えるとき、科学的精神と科学的手法が見落とすことができないポイントとなります。
科学的精神とは、未知なるものを探求・追求するに際して、観測した「事実」をもとに仮説をたてる。この際に「事実」に正直であること。忠実であること。また単なる好奇心を満たす目的で探求することは好ましくないと考えています。
科学的手法とは、事象の原因と結果の因果関係を究明する可能な限りの努力を行うことです。これは私の定義ですから、汎用性はありません(笑い)。
尚、私は唯物論的立場をとりません。宗教的信条の如何は問いませんが世界を構成し、運動させている要素として、精神的要素があるという立場を肯定する立場をとります。

 次に『宗教』です。
一口に宗教といっても、その対象とするところは広く、それらすべてを同列で話すことはできません。ですからまず、宗教の簡単な分類からはじめましょう。

【原始宗教】 アニミズムなどの自然崇拝などに顕著な宗教形体。呪術を含み、人間の通常感覚を超える感覚特性を得ることと目的とすることが多い。
【民族宗教】 各民族の歴史の根拠となる伝承を中心とした宗教形体。民族神話と重なるところが大きい。日本における日本書紀、古事記にみられる神代の世界観、北欧神話、エジプト神話、ユダヤ教など。民族移動や、侵略などによって、文化が混交する際に、複数の民族宗教が融合され理解されるようになることも多い。勿論、絶滅してしまうものもある。
【世界宗教(高等宗教)】 現代にあって、世界的にメジャーとなり得た宗教。仏教、キリスト教、イスラム教など。独自の世界観で世の中のしくみを説明することができ、人間の行動の指針や価値観を明確に提示することができる内容を持つ。現文明の価値の根幹、核にはこうした価値が流れていることが多い。
【派生宗教】 世界宗教や民族宗教をその根に持つが、新たに独自の解釈を加えた宗教形体。仏教における諸宗派は本来これにあたるが、時間を経るに従い実績を持つと独立したものとして認知されることとなる。
【その他の宗教】 独自の世界観を持ち、その世界観を共有することによってつくられるコミュニティがある。分野は多岐に亘るため、分類が難しいのでその他とした。

それぞれの分類に定見を求めることは難しいかもしれませんが、ここでは目安として理解いただければよいと思います。宗教学での分類とは違うかもしれませんが、参考意見として解釈ください。尚、以後に特に断りなく「宗教」という言葉を使う場合、上記分類の【世界宗教(高等宗教)】を示しているとご理解ください。


 最後に『信仰』という言葉についてです。
信じるという行為は、知るということと比較してあいまいなところがどうしてもあります。というのは、人間の認知困難な領域に対しての話ですから、これが絶対に正しいことだ、ということは原理的に困難なわけです。理由は人間の認識能力が完全ではないことによります。
ただそうはいっても私たちは常に何かを「信じて」いますから(すべてを事実として認識しているという人はいないでしょう。もしいるならばその人はスーパーマンであるか、自分を知らない人であると思います)その分類について以下に示します。
信仰:一般に宗教において使われる。信仰の対象に対しては尊崇の思いがある。
   価値観の多様性を理解できない人、グローバルに物事を解釈できない人になりますと、自分の信仰対象のみが正しくて、あとは間違いであると断定することがあります。思い込みが激しい人、他人の言葉を理解できない人、理解しようとしない人が真実に到達することは、とても難しいことです。
帰依:自らの拠り所とすること。自分の思考判断の根拠とすること。本来、ある宗教の信者といわれるためには、信仰の対象に帰依するのが本道です。
   但し、あくまでも自己責任の範囲での精神行為です。自分の判断根拠、思考能力を放棄するようなものは、帰依ではなく、盲信と呼ぶのが適切です。他力依存症の人には注意が必要。
信頼:これは宗教対象ではなく、対人間の場合の感情。(但し、仏陀、預言者はここでいう人間の範疇ではない)仕事における人間関係や、友人関係などでの概念。
信じている:上記以外の意味合いで使われる場合、信じているという言葉は、暗に「積極的に否定はしていませんよ」「反対はしていません」という意味合いで使われることがある。シンパではないが、あえて肯定もしない、否定もしない、という意味。このあたり、日本語のあいまいさの上手い(ずるい)使い方もあったりします。


長い前置きになりました。私的な宗教と科学についての考察です。

宗教と科学の目的と使命について

 宗教や科学とよばれる分野が担っている使命とは何でしょうか。
それは私たちが日常にあって感じるところの「不思議」を説明してくれることではないでしょうか。
幼い頃ならだれでも、地平線の彼方には何があるのだろうか、人間はどのくらい昔から地上で生活をするようになったのだろうか、あるいは、人間が死んだらどうなるのだろうか、そうした素朴な、しかしてある意味哲学的な疑問というものを持つものではないでしょうか。
そして年齢を重ね経験を経、多くを学ぶことによって、その時代、その文化,文明における世界観というものをだんだんに習得してゆくようになります。それはその時代、地域によって特徴に大きく影響されます。生まれた国が異なり、生まれた時代が異なれば、「もし自分がそこに生まれ育ったとしても異なる考え方、価値観を持っただろう」と予想することは難しくありません。つまり私たちの知識というものは、それが「真実」であると感じていても、自ずから何らかの前提の上に成立しているものであったり、限界があったりするものではないでしょうか。
畢竟、宗教や科学は、時代の限界という小さな籠のなかにいる私たちに、世界観、宇宙観を提示してくれているのだということができるでしょう。つまり、私たちの「不思議」に対する説明を与えてくれているわけです。
世界観とは世(仏教で言われるところの時間の観念。過去世や来世という使い方をします)と界(世に対して空間的概念。如来界、菩薩界、などという使い方をします。レイヤ(層)といった方が理解しやすいかもしれません)についての概念です。言葉を変えれば時空間論です。(参考までに、宇宙の宇と宙も同様の分け方ができます)
事象が展開する時間と空間(場の概念)についての提示、そしてそこに存在するものの意味と説明というものが宗教や科学の目的であると考えます。

 では、宗教と科学の役割の違い、特性の違いはどこにあるのでしょうか。
 宗教(ここでは高等宗教 前述参照)は、こうした世界観を仏神との関連において説明をするものです。曰く、「あなたたちが住んでいる世界は、このような成り立ちによってできあがっている。そのなかで人間はこのように生きることが正しい生き方である」ということになるでしょうか。
 つまり、宗教的世界観は表現、伝承等の違いはあれ、必ず「創造論的世界観」を持っているといえます。世界を創造した超越者、創造者、仏、神、こうした存在(世界を作ったとされる存在ですね)があり、彼らが人間に対して「かくの如きにせよ」と語る、という方法論であり世界観です。宗教によってその介在者が仏陀(仏教的)であったり、預言者(キリスト教、イスラム教的)であったりはしますが、基本的構造に違いはないと思います。

 一方、科学とは、私たちが存在する世界を人間サイドから観測、観察し、そこに法則性、規則性を見出し、世界の説明をつけるための手法であり、そこから派生するところの知識および技術の体系であるといえるでしょうか。
現代科学においては、世界を説明するときに必ずしも創造者の存在を必要としません。それはアプローチの方向が、あくまでも人間が理解し人間が観測した事実に基づいて行われているからですね。
歴史上の科学者に信仰者は沢山いましたが、彼らの構築した知識の体系、技術の体系は、彼らの思想,信条とは切り離されても有効かつ有用に使われているわけです。(同時に、思想,信条から切り離された技術が暴走する恐ろしさは知っておくべきでしょう。)


 ここまできて、fummm様が提示されていた暫定的結論に対するCentrisの感想が結論付けられたと思います。
つまり、
>科学は事実を導いて利用することが目的であるが、
>一方、宗教は正しい事実を導くことが目的ではなく、事実を主観的に理解して教訓を得ることだ。
>目的が違うのだから2つを比べることは意味がない。

という考え方については、
(高度な)科学、(高度な)宗教ともその目的にあるのは世界観の提示にある。
科学は事実から導き出される「(科学的)原理や法則」を確立し、その応用によって人々を啓蒙し、技術を向上させることが目的であり、
宗教は世界を創造した仏神の提示した世界観を提示し、そこに生きる(存在する)人間の思考と行動の形式に一定の方向を示し、各人の主体性の助けとすることが目的である。
究極的目的は同一の根を持つが、表現の方向が異なる、としたいと思います。

>科学も宗教も、ある事柄にアプローチするための単なる手法である。
>どちらの手法を用いるかは個々の好みであり、どちらも間違いではない。
>その点で、科学と宗教は同等のものだ。

「単なる手法」というよりも「有用な手法」だと感じますが、結論として出されている部分は、前述の内容に包括されるかと思います。

長くなりましたが、以上参考意見として回答いたします。
おそらくfummm様が求められている内容とはかなりの差があると思われますが、ご本人的には一応の結論がでているとのことでしたので、私見に徹しました。
また、誤解がないようにとの考えから、文が長くなってしまい、ご迷惑になったことをお詫びいたします。
最後に、当質問に回答を寄せられたマスター諸氏の回答内容など、その都度お名前は付記いたしませんでしたが参考にさせていただきましたことお礼申し上げます。
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この回答へのお礼

たいへん勉強になりました。ありがとうございます。
科学や宗教が、「不思議」を扱うというのは納得できます。
戦争や飢餓に対する「理不尽さ」や「不思議」を論理的に説明する技術がなかった大昔には、宗教が非常に有用だったのだと思います。

私の乏しい語彙と表現力を補っていただき、ありがとうございます。
自分の意見をより理解できました。(^^;

お礼日時:2001/01/27 18:59

いや~なかなか面白いですね。

みなさんの意見、考え方読ませていただきました。

最初のいくつかのお礼で述べられていた「飛行機の考え方」についてはおそらく納得されているでしょうから、触れません。

直前の「お礼」コメントに対して。

> ---科学は事実を導いて利用することが目的であるが、一方、宗教は正しい事
> 実を導くことが目的ではなく、事実を主観的に理解して教訓を得ることだ。目的
> が違うのだから2つを比べることは意味がない。

「科学」とは実験ないし観測事実に基づく(あるいはそれらからの推論、仮説に基づく)合理的、論理的な思考方法のことであり、その目的は「何か自分の知りたいことの答え、法則や、やりたいことの方法、手段を知ること」であって、「事実を導いて利用することが目的」だけではないと思います。「利用」が目的なのは「科学技術」であって、大きな「科学」の枠組みの中の一分野にしかすぎません。実際、たとえば私が素粒子物理を研究していたのは、「利用することが目的」だったわけではなく、「単に私自身の知的好奇心を満足させることのみが目的」だったわけです。
また、「宗教は正しい事実を導くことが目的ではなく、事実を主観的に理解して教訓を得ることだ。」と書かれていることから、fummmさんが「宗教でいわれていることは『正しくない』」と考えられていることが推察されますが、そうだとすれば、その考え方には「落とし穴」があります。
そもそも「事実」とは「実験や観測の結果」のことであり、すでに「客観的に正しいこと」であって、改めて導くことではありません。
宗教が言うことは「正しくない」という考え方は、すでに下で述べられているような「科学信仰」に他なりません。
真に科学的な思考とは上述のようにあくまで合理的、論理的でなくてはなりません。すなわち「いかなる主張であれ、合理的かつ論理的な反論ができない限り、『真実である可能性』が常にある」という、合理的かつ論理的なポリシーをもてるかどうか、発揮できるかどうかです。このポリシーに依れば、たとえば「神は存在する」という主張は「間違い」と断定することはできません。逆にたとえば大槻教授の「科学がすべて」というような考え方は「似非科学」であり、盲目的な「科学信仰」の表れです。

#「神は存在する」という命題を証明するためには、そもそも「神」の定義が必要
#です。また、もしも証明する手段自体が存在しない命題であれば、これを「科
#学」で証明しようとすること自体おかしな話で、議論の意味がありません。全く
#扱っている領域が違うと言えるでしょう。しかし、宗教における主張のすべてが
#こういった畑違いのものとは限らない、という可能性も考えておいて損はないと
#思います。

> それから、科学も宗教も、ある事柄にアプローチするための単なる手法である。
> どちらの手法を用いるかは個々の好みであり、どちらも間違いではない。その点
> で、科学と宗教は同等のものだ。---

「個々の好み」だから「どちらも間違いではない。」というのは、私は納得できません。
私は「どちらも間違いではない」という一般的結論には同感ですが、その理由は上述のように「宗教の問題提起(あるいは考え方)に対して科学が証明、もしくは反論できていないため、どちらか一方が正しいとは言えない現状がある」からです。
これは「どちらも(考え方として)正しい」というのとはわけが違います。
名探偵コナンではありませんが(知りませんか?)、私は「真実はいつもひとつ」と考えています。

#「真実」という言葉の意味を定義する必要がありますが、ここで私が書いた「真
#実」とは「科学的思考により導かれた推論、ないしは仮定で、覆ることがないと
#証明されたもの」という意味です。(ですから、現状「真実」と呼べるものは、
#ほぼ「事実」とイコールです。)「主観的に『そうである』と思うこと」という
#意味は含みません。
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この回答へのお礼

素粒子物理を研究されていたそうで、細かいご指摘ですね。(^^;
科学の目的については、私も全く同感です。
私も、大学受験の時には医学部や工学部は避け、あえて理学部を受験しました。
「宗教の言うことが間違いである、とは言えない。それを論理的、合理的に否定できないかぎりそれが真実である可能性があるから。」というのにも、異論はありません。
ただし、宗教の言うことが正しくない、とは私は言っていません。
私が言いたいのは、正しさを立証することを目的としない、ということです。
atsuotaさんのご意見と私の意見は、おそらく矛盾しません。間違っていたのは私の言葉遣いでしょう。お気に召さないのなら、
> 科学は事実を証明して自然を理解すること、もしくはその結果を利用することが目的であるが、一方、宗教は事実
>を証明してその正しさを主張することが目的ではなく、現実を主観的に理解して教訓を得ることだ。
と、訂正しましょう。私の言いたいことは変りません。(日本語は難しいですね。)
「どちらも間違いではないのは、宗教の考え方を科学的に立証できず、どちらか一方が正しいとは言えないから。」という意見は、私の意見を誤解されているようです。
例えば、イブはアダムのあばら骨から生れた、ということに対して、科学は完璧に否定できますが、その信仰を、間違っていると言うことは、誰にもできません。
ある事柄が間違いであると、科学的に証明されようがされまいが、反論できようができまいが、さらにそれが(atsuotaさんの言うところの)真実であろうとなかろうと、“何を信じるか”はまさに「個々の好み」だ。と言いたかったのです。

お礼日時:2001/01/27 18:25

はじめまして。


科学と宗教についてのお話、fummm様、回答者の皆様の質疑と応答を興味深く拝見させていただきました。とても奥の深いテーマですね。
私も回答させていただいたいと思い、内容をまとめていたのですが、一つ確認をしておきたいことがありましたのでよろしくお願いします。

>科学と宗教を同等のものと見る見方がありますが、納得いきません。
とのことです。一般論としてこうした意見があることは理解できるのですが、fummm様は何か具体的な「科学と宗教を同等のものと見る見方」を念頭におかれて質問をされている訳ですよね? その辺りを不都合のない範囲でかまいませんから明示していただけるとありがたく思います。
もし「一般論として」ということでしたらばそのように理解して回答させていただきますね。
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この回答へのお礼

例えば、「科学者にとってある諸定理が事実であるのと同様に、ある宗教の信者にとって神が存在するのは事実だ。要は、何を信じるか、であり、その点で科学と宗教はそう変わりのないものだ。」という意見に対して疑問に思い、質問しました。
皆さんの回答で大方は納得いきました。
---科学は事実を導いて利用することが目的であるが、一方、宗教は正しい事実を導くことが目的ではなく、事実を主観的に理解して教訓を得ることだ。目的が違うのだから2つを比べることは意味がない。
それから、科学も宗教も、ある事柄にアプローチするための単なる手法である。どちらの手法を用いるかは個々の好みであり、どちらも間違いではない。その点で、科学と宗教は同等のものだ。---
というのが私の得た一応の結論です。
centrisさんのご意見もぜひお聞きしたいです。回答お待ちしています。

お礼日時:2001/01/26 17:34

またまたNobor3です。

もうちょっと発言させてください。
飛行機が飛ぶ事に関しては、たしかにベルヌーイの定理でわかりやすく説明されてますね。ベルヌイは偉大です。
ベルヌーイの定理に関しては、ほとんど確立されていて、天道説のようにひっくり返るって事はなさそうですが、同じようにすべての理論がそうかって言えば全く違うと思うのです。
それを、「有名な科学者がそう言ったから」とか「教科書に書いてあるから」といって信じ込んでしまうのが科学信仰だといいたいのです。
それとは別に、「科学ですべての謎が解明できるはずだ」と言うのもまた科学信仰だと思います。このような考え方は傲慢な思い上がりだと私は思っています。人間の力にはおのずと限界があるのです。宗教が万能では無いのと同じ様に科学も万能では無いと言う事です。
だからといって、謎を科学で解明(説明か)しようと努力するのが無駄だと言っているわけではありません。謙虚に努力すべきだと言いたいのです。
100mを4秒で走る事は不可能かもしれませんが、8秒台になら到達できるんですから。
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この回答へのお礼

「科学信仰」の意味はとても良くわかりました。
前回の回答で私が誤解していたことも良くわかりました。
>それとは別に、「科学ですべての謎が解明できるはずだ」と言うのもまた科学信>仰だと思います。このような考え方は傲慢な思い上がりだと私は思っています。
私も全く同意見です。ハイゼンベルクの不確定性原理がその良い例ですね。
もっともらしく説明することしかできない事実も、沢山ありますよね。

お礼日時:2001/01/26 17:01

あんまり堂々巡りになるのもあれですが、簡単に。


まず、前回言い忘れていましたが、「科学」と「技術」は区別して考えてください。飛行機の設計やバイオテクノロジーなどの場合は表裏一体のものですが。宗教が物理現象を説明することは(部分的に)できますが、それを応用してなにかを作る「技術」は、宗教と科学の対立とは別の次元にあるのです。
次に。科学技術は飛行機を作るために(と言うと語弊がありますが)発展してきました。宗教は、飛行機を飛ばすといった技術を目的とせず、人間を救うために発展してきました。目的が違うのですから、「宗教で飛行機は作れない」という主張は、「箸でスープをすくえない(から箸は役に立たない)」と言っているようなものです。
翼に対して揚力が発生するのは物理現象です。これは人間が何を考えていようと、どんな技術を用いていようと、絶対に発生するものです。最初の質問に戻って例を引けば、宗教を信じ科学への信仰を持たない人が飛行機に乗っていても、揚力という物理現象を否定することはできないし、そんなことはしないでしょう。だから、その飛行機が落ちることは(たぶん)ありません。
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この回答へのお礼

その通りですね。nutsさんの意見はとてもわかりやすくてためになります。
事実(を証明すること)に重きを置く癖がついてしまっていたために、考え方に偏りが生じていたようです。

お礼日時:2001/01/26 16:50

僕はいわゆる”キリスト教信者”です。


さて、”神を信じている”とまじめにいうと、

大多数の人が、”ありもしないものを信じる”であったり、”心の中で信じ込んでいる”であったり・・・。
それぞれ、要するに実在しないものを信じ込むといった答えが多い事と思います。

>科学信仰なんていう言葉があることさえ理解できません。
>科学は宗教と違って、全ての人にとって客観的に、事実として存在するものです。
”宗教は科学ではない”これは、宗教の意味の取り方によって答えが違うので、
避けておきます。


>“~教徒は科学を信じていません。だから彼の中には科学は存在しません。”
の意味がいまいちわからなかった(←僕の読解力が不足でしょうが)のですが、
意味合い的には神を信じるという事は科学とは関係ないということでしょうか??
もしそうでしたら間違いです。

まず、神がいないという根拠には、進化論が一般的に支持しているといえます。
ここでは、進化論を否定する事は致しませんが、

創造論というものも知っていただきたい。
創造論は、神が存在しているという事を前提とした、立派な学問です。根拠があります。

僕は、創造論のホームページを制作していないので、僕が時々訪れるHPを
紹介いたします。
”創造論再評価のホームページ”http://members.xoom.com/norih/earth.htm
”創造学校”http://www01.u-page.so-net.ne.jp/qd5/itoyk/

少なくとも、僕もあなたと同じように、”神などいない”と考えていました。
これは布教でもなく、伝道でもありません。ただ、あなたに根拠を知っていただきたい。

そう思って書かせていただきました。
少なくとも、あなたのいっている事は、信じる前の僕なら、間違いなく共感していますから。

参考URL:http://www.f2.dion.ne.jp/~yukio-n/akasi.htm
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この回答へのお礼

おすすめのHPを拝見させてもらいました。
しかし、内容といえば残念ながら私の心を打つものではありませんでした。
あなたの信仰心を侵害する気はありませんので、これ以上のコメントは控えさせてもらいます。回答ありがとうございました。

お礼日時:2001/01/26 16:42

科学信仰とは、例えば



「幽霊なんて、そんな非科学的な・・・」

という台詞に象徴されるように、科学という手法を信仰しているのでは
なく、コンピューターや人工衛星のような科学技術の成果の、しかもそ
の成果物を信仰する人を指します。科学とは物事を捉えるための手法
(プロセス?)ですから、信仰の対象とする事は出来ません。その辺り
の皮肉も込めて私は「科学信仰」という言葉を使っています。ですので、
科学信仰という言葉の“科学”とは、科学そのものは指していません。


> “僕は~教を信じていません。だから僕の中には神はいません。”と言うこと
> は論理的ですが、“~教徒は科学を信じていません。だから彼の中には科学は
> 存在しません。”とは言えません。もしそう言えるならば、彼の乗った飛行機
> は墜落してしまうでしょう。

恐らくこれは言葉のあやとは思うのですが、ここで言っている科学こそ
が科学信仰の科学とイコールです。空力を科学的手法で応用せずとも、
鳥は飛んでいます。飛んでいる秘密を知ろうとする手法の一つが科学で
あって、トンビが飛んでいる事は物理現象と捕らえる事は出来ても飛ん
でいるという現象そのものは科学ではありません。

この回答への補足

科学で証明されたことが全て正しい、と思い込むことが「科学信仰」なんですね。「科学信仰」という言葉の意味、勉強になりました。ありがとうございました。

補足日時:2001/01/24 20:11
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この回答へのお礼

間違えました。
補足じゃないです。お礼です。失礼しました。

お礼日時:2001/01/24 20:18

ルネサンス期にいたるまで、西欧社会において、キリスト教が、現在の科学と似た働きをしていました。

さまざまな事象の説明を宗教的なものによってしていたのです。その意味では、ほかの文化圏もそれほど大きな差はありません。すなわち「神父様がこういったから、これこれはああなんだ」というように納得するのです。現在それが「事実」に基づく「科学」が、そういった宗教の「不合理」な説明に取って代わったかの感があります。ですが、実際、私たちが多くの科学によって「証明された」事象に対してどれだけの見識を持っているでしょうか?むしろ科学者のいうことを「盲信」しているだけだと思うのです。わざわざパソコンの動く仕組みを知るのに半導体の動き一つ一つに至るまでその仕組みを調べたりしませんね?それは私たちが科学者という、科学教の「神父」のいうことを信じているからです。
科学という概念は「未知の領域の探索と解明」によって支えられていると思います。それによって、古い認識はその正当性を否定され、より新しいものが真実となっています。ですが科学の妥当性は私たちの日常的な認識能力を遥か超えてしまっています。例えば重力の説明を「空間の歪みである」とする現代物理と「物体は重いものほど下に位置する性質を持っている」とするアリストテレスの説明ではどちらがより日常的な感覚に近いでしょうか?私はアリストテレスの説明のほうがより、納得はいくのです(正しいといってるのではありません)。とするなら、納得できない説明が多くを占めている科学に私たちは「盲信」するしかなく、それは宗教性を多分に秘めていると思うのですが・・
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この回答へのお礼

レスありがとうございます。
科学者=科学教の神父というのには大変納得できます。
科学に盲信することと宗教を信じることが相似であることも納得できます。
ただ、私達のような知識のない人が信じようが信じまいが、科学が導いた事実は科学者だけでなく、全ての人に影響できるのに対し、宗教における事実は信者にしか影響せず、また、その事実を証明できるのは神父や神だけです。
そこが問題だと思います。

お礼日時:2001/01/24 20:42

 科学と宗教はもちろん別のものです。

おっしゃるように、科学は実験と追試、理論提唱と検証など、万人が確認できる手法によってのみ構築されるものですが、宗教はそのような手続きを必要としません。物語や象徴によって情緒に道筋を与えられる経験が宗教を構成しているのであり、主観的納得さえあれば成立するのですから。科学が物理的事実を扱うのだとすれば、宗教は心理的体験を扱うものだといえるかも知れません。
 ただ、人は物理的事実すら心理的体験として受け止めるのだ、という事は重要です。nobor3さんも大槻教授の例を出しておられますが、科学という体系を信奉しそれに反する意見に対して激しい感情的敵対意識を持つケースは、その人にとって科学が客観的事実であるという以上に心が固執するものである事を示していますね。これを譬喩表現として「科学信仰」と呼ぶことは私には納得がいきます。
 逆に宗教的事柄を科学的に証明したとの主張や、宗教の教えと科学的知見との不可思議な一致をことさらに強調したりするのは、一部の新宗教やニューエイジムーブメントによく見られます。これは科学技術の現実的かつ圧倒的な力によって支えられている近現代社会に生きる私たちにとって、その力が宗教的なものに転換して意識され得るためではないかと思います。
 科学と宗教の関係については、下記アドレスの2000年6月17日、18日、20日、24日、28日辺りで思う所を詳しく述べています。ご参照下さい。

参考URL:http://backno.mag2.com/reader/Back?id=0000034633
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この回答へのお礼

このオンライン説法はfukuyoriさんが書かれているんですか?お坊さんでらっしゃるんですか?貴重なご意見ありがとうございます。
宗教にとって重要なのは客観ではなく、主観だということですね。
物理的事実と心理的体験、どちらが人を幸せにするか、と言われれば、迷わず後者でしょう。
しかし、客観的な事実が知りたい、という煩悩は捨てきれません。
私も、典型的な科学信仰者のようです。

お礼日時:2001/01/24 21:17

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