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なぜ仙台や米沢藩は奥羽越列藩同盟の中心として新政府の倒幕に対抗したんでしょう?外様なんだからむしろ倒幕にはしりそうに思うんですが。
紀州尾張など親藩も新政府につき守るべき将軍慶喜もケツまくってしまったのになぜ日本の半分以上を敵にまわしたんでしょう?
それとも佐幕が目的ではなく自分たちで日本を支配しようとしたんでしょうか?

A 回答 (5件)

そりゃ、江戸幕府ができて早々は外様と譜代、親藩の意識の差はあったでしょうが、


二百数十年の泰平の世が続いたおかげで、日本中が事なかれ主義、
ひたすら江戸の世が続けばいいと思っていたのです。
実際、新政府の主力となった薩長土肥ですら、勤皇倒幕で藩全体が
意識統一されていたところはありません。
島津久光や山内容堂が強力な佐幕家だったのはよく知られているところですし、
佐賀藩は藩士の政治活動を一切禁止していました。
長州藩も佐幕派と勤皇派が二大勢力となって権力闘争をしていたのです。

それでもこれらの藩が倒幕勢力の中心たりえたのは、
長崎あたりからの海外情報が比較的入りやすく、
危機意識の高い「志士」が出やすい土壌があったことなどが考えられます。
東北諸藩はこれらの情報から非常に遠く、勤皇攘夷などという思想そのものが
ほとんど理解できなかったのではないでしょうか。

徳川慶喜は将軍であったとはいえ、
出身の水戸家というのは御三家中の外様的立場でもあり、
佐幕派からは白眼視されていたことがあげられます。
また、薩長土の「政略的」尊皇攘夷とはちがい、
水戸藩は純真無垢に尊皇攘夷を信奉していたという一種の「人のよさ」があります。

尾州紀州は長州征伐で矢面に立ったものの、逆にそれゆえに薩長の
力を目の当たりにし、先物買いで寝返ったに過ぎないでしょうね。
他に譜代中の名家の井伊家や、外様でも別格の藤堂家など、
鳥羽伏見の戦いの真っ最中に日和見で寝返ったところがあります。
奥羽越諸藩も別に節操があったわけではなく、譜代(長岡藩)や
親藩(会津藩)に引き摺られたか、仙台藩のように雄藩としての
プライドから薩長にたてついた程度のものでしょう。
それ以上の明確な意思に基づく行動とは言えないと思います。

そもそも、幕末に日本を統一する構想を明確にもっていた人物は
坂本竜馬ぐらいのもので、あとは単に今の幕府に誰が取って代わろうか、
そればっかり考えていたという程度のものでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
<他に譜代中の名家の井伊家や、外様でも別格の藤堂家など、
鳥羽伏見の戦いの真っ最中に日和見で寝返ったところがあります

西国の諸藩がさっさと寝返ったのに東北諸藩がなかなかねがえらなかったのはなぜなんでしょう?図書館でその手の本読んだら「東北人特有の気質、生真面目さが・・・」みたいな記述が多かったんです。
じゃあ西国人は不真面目な節操なしなんか?それはないと思うんです。
同じ圧力に対して違う反応はなぜなんでしょうね。
<長崎あたりからの海外情報が比較的入りやすく、
危機意識の高い「志士」が出やすい土壌があったことなどが考えられます

やっぱりこれですか。

お礼日時:2002/07/20 10:56

東北の重鎮は、仙台、会津、米沢藩です。


東北地方は地形的にも関西・関東より離れており、東北諸藩は事の成り行きを見守っていて、強いほうに寝返るということも視野に入れていました。

会津藩は、東北諸藩が倒幕軍になったとしても孤軍奮闘したでしょう。
徹底抗戦の構えです。
そこに米沢藩が会津藩の味方に付きます。
米沢と会津は地理的にも隣同士ですし、なによりも米沢藩は会津に「過去の借り」がありました。

会津と米沢の両藩が同盟を結んだのでは、東北諸藩は力量的に仲間に加わるのが常道です。
そこへ、仙台藩が世良修蔵の事件により、会津の味方に付くという決定打が加わり、奥羽列藩同盟が出来ました。
その後、越後の諸藩も加わり「奥羽越列藩同盟」となります。

仙台藩はその後、倒幕軍に加わり会津に出兵しましたが、現実的には両藩対峙したことが何度かありましたが、仙台藩士は形だけの戦闘をし、本気で会津と一戦を交えたことはありませんでした。
三春藩は倒幕軍の力にはかなわないとみると、早々に二本松藩に出兵しています。

こうしてみると、「強いものには巻かれろ」という図式が見えてきます。
それにしても、寝返ることがなんとも簡単なことか・・・。
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下のサイトに概要がありました。



もともと恭順の意思を示そうとしたものの、長州藩参謀の世良修蔵が突っぱね、
これにより追い詰められた奥州各藩が同盟をしたもの…とみられますね。

参考URL:http://homepage2.nifty.com/solcom/HOKKAI_ISH/ish …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
「奥州皆敵ナリ」なんて言われたらぶちきれるのもわからますが「それでも臥薪嘗胆耐えるのだ」と言うようなひとはいなかったんでしょうか。同盟してても最終的には仙台領に侵攻されてすぐに降参、会津に出兵しています。その事実からわたしは仙台が本気で会津と共闘しようとしていたとは思えないんです。なりゆきでなんとなく中立みたいな顔していることもできたと思うのになぜ中心となって反薩長勢力となったんでしょう?
またいいサイトあったら教えてください。

お礼日時:2002/07/20 11:12

調べた結果、こんなページを見つけたので見て下さい。



概要としては
同盟前に仙台入りした新政府の参謀の態度が仙台藩士の癇に障り、
仙台藩による会津・庄内藩の降伏条件を新政府が蹴ったこと。

締結時
仙台・米沢藩にとっての位置付けは、会津・庄内藩救済の新政府に対する平和的解決の交渉のカードとしての同盟

同盟後
新政府の参謀を仙台藩士が殺害したことにより、新政府vs奥羽越列藩同盟となったようです。

参考URL:http://toraneko.cside.com/newpage21.htm
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親幕府というより、反新政府というより、反薩長という図式の方がしっくりしますね。


何故そうなったかはもうちょっと考察が必要かも。
見て直ぐの回答なのでこれぐらいしか思いつきません。
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