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ソシュールの入門書などを読むと、以下のように言っているように思えます。

<< この世界は、言語によって切り取られるまでは、混沌とした一体であって、個々の「もの」は存在しない。>>

もし、それが正しいとすると、「リンゴ」という言葉がないと、「リンゴ」という「もの」は存在しないということになりますが、それは、おかしいと思うのですが。もちろん、「リンゴ」という言葉を知らなければ、目の前にある「リンゴ」を「これはリンゴだ」とは言えないのは確かです。でも、だからと言って、「リンゴ」と名づけられるはずの「もの」そのものが存在しないということはならないと思います。

ソシュールはどういう意味で、上記のようなことを言ったのでしょうか?

 

A 回答 (77件中11~20件)

先走ってではなく ここまでのものの修正・補足です。



1. No.65で 《意識(心分け)か無意識かの問題》と書きましたが 無意識も 広く 身体を基体としたところの精神つまり心ですので 無意識のメカニスムも 大きくは 心分けの問題だとする見方も ありえます。

2.No.67で 《同定相を帯びた音素/ n /が 単純に(目録をつくるがごとくですが) モノ一般を言い当てたとすれば 〈na =名〉なるシーニュが出来ていた。》という言い方をしましたが もう少し 恰好よく ソシュール風に言うべきでした。

《混沌とした音素群――もしくは 予定音素群――の中から 同定相を帯びるようになると想定される子音/ n /を切り取り これを用い さらにはシーニュの形態をつくるべく 形態素として/ na・ne /つまり=〈音〉によって 自分たちの耳に届いているその対象一般を切り取って 一つのシーニュとした。》

3.このとき 疑問に思われることは / na・ne / =《名・値; 似; 地・根; な(無)》というように 音素列(形態素)としては同じもので切り取った別のシーニュもあるということです。

声調や抑揚で あるいは そのものが持つ価値で つまり文の中での連辞関係の用法などで 使い分けるのでしょうが これは 基本的には 恣意性なのだという説明になるでしょうか。

でも 恣意性は 必然性の反対ではなく 非自然という意味だそうですから それなら 文化的に 紛らわしさを避けて 切り取ったほうがよかったのにとも思われます。

音素として/ n /=意義素として同定相なる仮説なら 説明できます。

4.No.67で / n /なる《同定相の同定という作業が・・・触覚や味覚の対象に当てられてもよかったのではないかと考えるとき それは 恣意性がはたらいているのかも分かりません。〈* na=味〉という語が作られていたとしても おかしくはないと。》と言っていますが 味覚・触覚対象を同定する/ n /もありました。

(a)味覚対象 
*na=味としてはないようですが
na-me 嘗め
ne-bu-ri 舐り
*ni-ga 苦

(b)触覚対象
na-de 撫で・nada-me 宥め・nada-ra-ka なだらか
ni-gi-ri 握り
na-me-ri  滑り・name-ra-ka 滑らか
nu-me-ri 滑り
nu-ru-nu-ru ぬるぬる(以下は 同定相が 寄りつく・くっ付く感覚のもとに置かれた模様)
ne-ba-ri 粘り・neba-neba ねばねば
ne-ti-ne-ti ねちねち
ne-ri 練り

5./ n /=同定相というのは さらに詳細に設定したほうがよいかと感じました。

嘗めたり撫でたりするときの同定相というのは 概念規定というよりは 第一次的な知覚を伴なっているように思われるからです。

それというのも 前々から気にかかっていた《 na-ma=生》が いま上のように捉えると 説明できるからです。《 ni-hi=新》もそうです。

言葉の言い回しを《なまる(生る=訛る)》のは あたかも まだ言分けが覚束なくて シーニュの体系が頭の中で 混沌としているような段階・しかも 予定観念はあるという状態での 言表であるというように。

6.愛嬌の交じった話ですが 例の《ni-zi=虹》は 驚きのもとに知覚したという生まの感覚を伴って 自然環界の中から同定した《 si(zi)=息・風》であるかも知れません。

7.もし問題があるなら この仮説に当てはまらない事例について どう見るかかも知れません。諸言語の中で 日本語が例外とされるのは 考えられません。そういう仮説のように言語を言分けしえた可能性が どの民族にもあると言わなければならないからです。

ただ 音素=意義素の説が 一部分にしか通用しないとき その事情をどのように読むかだと思います。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

「音素」について、難しい次元の話は、段々付いて行けなくなっています。難しくなる前の段階に一度戻って考えさせてください。

まず、brageloneさんの以前の御質問「言語記号の恣意性は正しいか」(以下URL)に戻ります。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2944701.html

ここで、/ nVgV /とその対応例の説明は、私にとっては非常にわかりやすいです。何故わかりやすいかというと、/ nVgV /に対応する単語の弁別規準が、「障害を除去する・これが消滅するというシニフィエ」のように具体的で明解だからです。このような明解な弁別規準があると、単語リストの中から弁別規準に適合した単語を私自身でも選び出せるような気がします。ところが、同じ御質問の中で、途中から、(6)/n/<同定相>、(9)/n/<否定相>、(10)/k/<反出相>や、(11)/k/<移行相>、(18)/r/<自然発生相>、そして、(23)には、これらを含む7種の「相」が出てきます。もし、私が、今、日本語単語100個のリストを提示され、そこから、この7種の「相」に該当する単語を選べというテストを出されたら、多分、零点だと思います。何故、そんなに難しいのかというと、弁別規準が抽象的なので、観念的にはわかるような気がするのですが、いざ、具体的な日本語単語にそれを適応しようとすると、はて、どうしたものかといった状態になってしまいます。

これは、私だけの問題なのでしょうか? 縄文式時代の日本人なら、簡単に見分けが付いたのでしょうか? それとも、通常は誰も見分けが付かないものでしょうか? すなわち、これを見分けているのは「意識」ではなく「無意識」であり、従って、かなり専門的訓練を積まないと見分けられないということでしょうか?

この疑問を解決するため、色々、本をあさってみました。brageloneさんの問題意識と比較的近いのではないかと思われる本がみつかりました。

「コトバ・言葉・ことば」川田順造 です。

P126に以下の文章があります。表題も”動機づけと恣意性のあいだ”というピッタリの章です。

「言語音における音と意味の、動機づけられた関係と恣意的な関係の重なりあいと変差をみる上で、ここでとりあげる三文化の言語の中でも、日本語は特権的な場を提供してくれる。日本語はモシ語と同様に表象語、つまり音と意味の関係が動機づけられた語が豊かで、しかもモシ語では古い時代の文献がないため不可能な語源の探求が、日本語では著しく進んでいるからである。」

そこで、川田順造がどのように音と意味の関係を捕らえているか、同書で調べてみました。以下の4つに分類されています(P115)。全体では8個の領域に分けているのですが、以下の5個以外は、言語以外の音、ないしは、音様態のものなので省略します。

(1)自然音: 生物的叫び声です。ギャー、キャー、ワー等
(2)音感語: 音としての直接効果を狙った言語音。オッペケペ、スイスイスーダララッタ等 
(3)表音語: 通常言う擬声語です。ワンワン、ニューニャー等
(4)表容語: 通常言う擬態語です。ニコニコ、ノホホン等
(5)概念語: 上記を除くソシュールのシーニュに該当。

川田は、特に(3)と(4)を「音象徴性」という表現で括り、重視しています。また、これらが、(5)の「概念語」と相互作用して”動機づけ”がなされると捕らえているようです。以下のように述べています(P122)。

<「ノホホン」についても、「ノンビリ」「ノロマ」「ノラクラ」(途中省略)「ホカホカ」「ホノカ」「ホンノリ」等の表容語、概念語を含む日本語の慣用によって養われた「ノ」や「ホ」の音象徴性が、「ノホホン」という表容語の表すものと共通の基礎をなしていることは疑いない。そこには、他の機会に論じたように、[n][h]の音のもつ音象徴性の、より広い通文化的(種内的)な背景も考慮すべきかもしれない。>

川田は、このような「音象徴性」の特徴が、日本語固有のものなのかを検討し、一般には他言語とかなり違っていること、また、フランス語では、「音象徴」そのものが極端に少ないことなどを挙げていますが、一方で、他言語とかなり共通する以下の事例についても触れています(P124)。

<日本語の「ピ」の音象徴には部分的に対応する「ピ」はモシ語にもあり、しかも表容語が乏しいヨーロッパ諸語にも、ある共通の感覚を帯びて見出される。(途中省略、以下のその例の一部)>

[日本語] ピリピリ、ピイピイ、ピカピカ.......
[フランス語] pilailler(鳥などが鋭い声で鳴く)、picot(とげ)、pilier(柱)、pileux(毛)、pistolet(ピストル)....
[モシ語] piim(針)、pinda(輝く)、pirsa(刺激する)、piu(ピュー、急いで).....

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/19 14:36
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この回答へのお礼

以上ですが、このように見てくると、brageloneさんがおっしゃっていることは、川田の言う「日本語における音象徴性」とかなり接近しているように思います。特に、上述で、川田が触れている<[n][h]の音のもつ音象徴性>については、ずばり、brageloneさんの話に通じるようなのですが、残念ながら、孫引きがうまくできませんでした。

そんこんなで、私としては、もっか勉強中というところです。

お礼日時:2007/08/19 14:42

No.65を承けてですが kobareroさん kobareroさんて方は すごい人ですね。

たとえ受ける感覚だけとしても ソシュール学説を 全部 点検して 修理し直すという作業に取り掛かっておられるかのようです。

わたしの場合は――ぶっちゃけた話としては―― シーニュ内部のシニフィアンとシニフィエの関係が まったく無関係であって 恣意的に成り立っていると聞いて これは違うのではないかという感覚を持ち この一点で 反証をあげようとしてきた それだけなのでした。

もちろん 今回 《ソシュールを読む》および《ソシュールの思想》を読み返しており ついてまいりますので その点はご心配なく願います。

それにしましても
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
言語記号は恣意的である。与えられた聴覚映像(シニフィアン――bragelone)と特定の概念(シニフィエ)を結ぶ絆は そしてこれに記号の価値(たとえば 動詞活用の規則)を付与する絆は 根底的に恣意的な絆である。
(コンスタンタンのノート 断章番号1123;《・・・の思想》p.144)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
と聞かされたなら ほんとうか?と思います。思いました。シーニュの中の音素に当たってのことですが その音素には なにがしかの概念の要素があるという事例を探し出したというわけです。

同定相を帯びた音素/ n /が 単純に(目録をつくるがごとくですが) モノ一般を言い当てたとすれば 《 na =名》なるシーニュが出来ていた。モノ一般を表わす《 na=名》という言葉ゆえに 《 na-ru=成る / na-su=為す / na-ri=也 / na・no=な・の(属格) / ni=に(与格)/ na-a・ne-e・no-o=な・なあ・ね・ねえ・の・のお(念押し・確認・詠嘆法)》などの語が生成していると捉えられるのではないか こういう事態にぶつかったのでした。

音素が調音の事情によって帯びると捉えられる意義素は おっしゃるように《抽象的であるが故に、「意味素」とは違い、汎用性が高い可能性はある》とたしかにわたしは考えます。

/ n /が聴覚対象に同定すれば 《 na・ne=音 / na-ru=鳴る・・・》を得ます。そして 逆にこの同定相の同定という作業が なぜ これら《モノ一般や 聴覚対象など》に当てられたのか 触覚や味覚の対象に当てられてもよかったのではないかと考えるとき それは 恣意性がはたらいているのかも分かりません。《* na=味》という語が作られていたとしても おかしくはないと。

《「同定相」というのは、「現前する対象の認知を表わす機能」と考えて良いのでしょうか?》
――おおむね そうだと考えます。《ma-na-bu=真‐似‐ぶ⇒学ぶ / ma-ne=真似 / ni-ru=似る》の場合 いくらか抽象的になっており またまるっきりの同定ではなく 比定・類似相に範囲を広げています。

《もし、そうだとすると、あまりに範囲が広くて、目の前にあるものを認知したら、そのものは全て、/n/で始まる単語になってしまわないでしょうか?》
――ですから これは 何を同定するかが それこそ恣意的に決まってしまったものと思われます。(といっても 結局 このように言っているということは わたしの場合 結果を見て そのように分析するだけなのですが)。

《「否定相」についても、もし、それが、「現前する対象の否定を表す機能」ということであれば、これも、いやな物や事は全て/n/で始まる単語になってしまわないでしょうか?》
――これも 上と同じように 選択が恣意的に決まったのでしょうね。もっとも 《 na-si=無し / na-ko-so=勿来→禁止法つまり否定命令法のna / nu=ぬ(打ち消し法)》といった例は 否定相の一般的な用法だと言えるとはづです。

したがって 《造語上の困難にぶつかる》ことはないと思います。というよりも 日本語というラングが事実としてありますので その結果状態を見て分析して 考えるというだけなのですが。

つまりは さすればというので 提出されている《弁別特性》というような切り口を使って 言語学の理論として 考察しようというものではなかったのです。

《基礎語》は その全部について この音素=意義素の仮説が当てはまるといいのですが 《息》について 説明できるようです。

大野晋によれば まづ 《 iki息 ∽ 起こ〔‐す〕oko(あいまい母音の/ オ・ウ /ですが)という語が核となっているようです。

iki・ike 息・生き・生け・活け
iki-ho-hi 勢い(生き‐ほ‐ひ→ ho-hiは以下に記述します)
ika-si・ika-ri厳し・怒り
oko-si・oko-ri・oki 起こし・起こり・起き
*oko-na-hi・oko-ta-ri 行なひ・怠り

はじめの音節の子音(つまりそのア行の・無としての子音)は 順出相の/ h /の亜種だと想定します。自称相のごとき相として。o-no己。

子音/ k /は 単純に息を出す音としてそれゆえ順出相を帯びる/ h /に対して 反逆を起こすので 反出相/ k /と仮説します。喉の奥のあたりで緊張点をつくり 息を強くさえぎって調音するゆえです。これが――しかも調音の際 音の折れ返しが出来たかたちであって そのさまを取り立てるなら―― 反省・思考・疑問の相を帯びさせるものと推測されます。《ka =か(疑問法・詠嘆法)》

さらには 反省・思考・疑問には 変化・移行・過程といった相がついてくると思われます。《 ku =来》あるいは 順出・順定相またゆえに中心主題相の子音/ h /のあとに添えられて

ha-ka 計・量・捗(←中心主題=ha の経過=ka)
→haka-ri  計リ・測リ(-ri は自然想定による動態用言(動詞)化)
→haka-ra-hi  計ラヒ(-hi は思考や行為の〔順出ゆえ頻繁→〕反復相として動態用言化)
haka-na-si 果(捗)無シ

などを得ます。ちなみに 中心相/ h /には 対極の相として 《ha 端・葉・歯 / he 辺・へ(方向格)》などの周縁相も現われます。

《調音運動上の二項対立的要素たる「弁別特性」》のばあいは 示差性つまり恣意性に基礎を置く事例になると思われます。きれいに説明しうれば もちろん いいわけですが。

母音調和のことに触れておられますか。かつて ああだこうだとひねくっていたことがありますが うまく説明がつきません。

なお じつは 用言の――動態用言(動詞)・状態用言(形容詞)および補充用言(助動詞)の――活用組織の規則性については ちょっと自信があります。それとともに 母音のある程度の規則的な成り立ちについても 考えたことがあります。

無意識説は わたしのほうが いただきになるかも分かりません。

端折ったかたちで締めくくろうとしましたが。・・・

あと 日本語という一個のラングで もし恣意性が成り立たないとなれば それを例外とするわけには行かないと思うのです。そんなこんなです。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

シニフィアン/シニフィエ間の恣意性については、ソシュール自身が、必ずしも全てが無根拠ではないことを認めているように思います。特に、派生語、合成語、擬態語などにおいて。私は音素/形態素については、ほとんど不勉強でよくわからないのですが、brageloneさんが提示されている例を見ていると、これは、派生語の問題ではないのかと思うことがあります。

まず、基本的なことなのですが、形態素というのは、意味を持つ最小の音素列と考えてよいでしょうか? もし、そうだとすると、音素/n/に何らかの概念を持たせると言うことは、この音素/n/は1音素であると同時に1形態素でもあるのではないでしょうか? すなわち、/n/というシニフィアンに「同定相」というシニフェが結合しているということにならないでしょうか? ご回答の文面にも、そのように読み取れるそうな部分もあるように思うのですが。もし、そうなら、《 na-ru=成る / na-su=為す / na-ri=也 / na・no=な・の(属格) / ni=に(与格)/ na-a・ne-e・no-o=な・なあ・ね・ねえ・の・のお(念押し・確認・詠嘆法)》の例は、/n/あるいは/na/の派生語と考えられませんでしょうか?

その場合、少し気になるのは、「同定相」であるシニフィエと、「否定相」であるシニフィエが、同じシニフィアン/n/あるいは/na/を持つと言う事は、同音異義語のような混乱を引き起こすのではないかということです。この辺はどのようにお考えでしょうか?

それと、これも私はよくわからないのですが、動詞や形容詞などの活用する単語において、その活用語尾と語幹は、それぞれ、別のシーニュと考えるのでしょうか? 例えば、《na-ru=成る》という場合、《na》あるいは《nar》が語幹が一つのシーニュで、また、活用語尾《ru》あるいは《u》が別のシーニュと考えるのでしょうか?

日本語の場合は、全ての動詞が《u》で終わりますから、そのことから、《u》は「動詞化」という概念を持ったシーニュであるという考えも出来るような気がします。問題は、活用、接頭辞、接尾辞などを「文法」の問題として扱うのか、あるいは、シーニュの問題として扱うのかということなのかも知れません。さらに、文法の問題に還元してしまった場合、恣意性の考え方はどこへ行ってしまうかということです。かなり合理的な制限の下で統括されるわけですから、派生語と同様、恣意性は失われるように思います。

もし、「派生語」の一環と考えるとしたら、以下のような事例収集活動を進めて行く事になるように思うのですが、これは、最終的には、例えば、英語(もとは、ラテン語でしょうか)などの/con-/派生群、/pre-/派生群、/pro-/派生群などの確立と同じ方向に向かうことになるのでしょうか?

(1)同定相としての/n/あるいは/na/派生語群の収集。
(2)否定相としての/n/あるいは/na/派生語群の収集。
(3)順出相としての/h/派生語群の収集。
(4)反出相としての/k/派生語群の収集。
(5)「息?」としての/iki/派生語群の収集。

素人考えで、かなりトンチンカンな話になってしまったかも知れません。

補足日時:2007/08/18 23:29
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No.64を承けます。



初めから 個別の主題を取り上げた場合には 鍵となる事項に関して具体的に推論し検証するというご姿勢は 一貫性をもって的確になされていましたが 途中からは 議論じたいが 一歩先を行かれているという発見に変わりました。こちらは みちびかれつつ 進まざるを得ません。

ただ一点――ただ一点―― 昔取った杵柄ではありませんが シーニュの恣意性いかんに関しましては 一定のところまで考えておいたという記憶で わたしも進んでまいりました。

ちなみに その恣意性いかんが kobareroさんは シーニュどうしの第二の恣意性であり わたしのほうは 第一のそれ・つまりシーニュ内部のそれであるというのも おもしろいかに思われます。

考慮中だとおっしゃっている点にかんがみて 今回は 細かい事項を問わずに 少しく全体を振り返ってみたりしようかと思いました。

* ただ一つだけ 翻訳可能ゆえに第二の恣意性が成り立たないとおっしゃる点については まだわたしはピンと来ていません。

ラングごとに 全体として 立体的な網の目のような差異の関係=体系としてのシーニュ総体が 出来上がったと捉えるならば そのシーニュどうしの非・自然な成り立ちつまり恣意性は それとして=つまりラングごとに あるように思われます。

そして わたしの場合 この網の目の結節点であるシーニュじたいの中に 自然な非・恣意的な成り立ちがあるのではないかと言おうとしています。

* ソシュールは 実体主義の思想から 関係主義への移行を告げたと言われますが そのとき いやいや 関係もあるし その結節点(特には 人の自由意志)もあるのではないかと思ったものです。その一点を保守しようと欲したのが そもそもの初めでした。

(言語について関係主義は そのシーニュの体系であり 人間社会については 構造と力であると言われました。この世間の力と構造の前に 結節点たる人間は 弱いし むしろ無力なのですが これを社会力学の中で無力だと認識することまでは行ないうる有効性を 結節点として 持っている。これは 自由意志であると)。

関係主義によれば 世の中は すべて仮りの姿である。ゆえに 何につけても その関係を しかるべく ちょっとずらせば よいのだという思想にも発展したと思われます。主体なき過程 また 構造主義というわけです。

(ソシュールは 語る主体とも言って また ランガージュの潜在力も言って そうでもないようなのですが)。

* 恣意性にかんして 林檎という事物とリンゴという言葉との間に なんら必然的な結びつきはないというふうな理解(つまりソシュール説としては誤解)は このgoo欄で一般に 溶けたと見ていいのでしょうか。これは シーニュとそれが指し示す対象とのあいだの問題だということのようです。

恣意性は シーニュ自体の内部で そのしるし(シニフィアン)と中味(シニフィエ)との間に 自然の論理的なつながりはないということのようです。

しかも 一つのラングとしては 世界の中から 林檎も蜜柑も木も幹も根も 結果的にはそれぞれのシーニュで 全体として 恣意的に区切って 網の目をかけるようにして 取り押さえた。言分けというように。

ところが この区切り方も 恣意的であるし シーニュの内部のシニフィアン/ シニフィエの成り立ちも 恣意的である。しかも このシーニュの組織の中に一たん入ったならば もう人間は その外に出ることも出来なければ そのシーニュの眼鏡をとおしてでなければ ものを見たり捉えたりすることも出来ないことになった。

だが もともと 網の掛け方も 恣意的で どこか ずれている。シニフィアンとシニフィエとの結合の仕方も ずれたもの同士がずれてくっついた。

もし この言語体系なりその文化としての言語生活を余儀なくされる構造社会なりであっても そもそもの言語活動(ランガージュ能力による言語活動)自体が ズレ・ズラシであったのだから さらに いまでも いつまででも このズラシ活動を続けていけばよいはづだ。

うんぬん。うんぬん。・・・

(ソシュール自身の言説かどうかには自信がないのですが)。
第一幕もしくは第二幕が終了したかも知れないですね。ズレ〔が たとえあったとしても それ〕だけではないだろう〔から ズラシ一本槍ではない〕と言おうとしているのですがねぇ。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

brageloneさんが「翻訳可能ゆえに第二の恣意性が成り立たないとおっしゃる点については まだわたしはピンと来ていません」とおっしゃられている点、また、ソシュールやその解説者も、第一の恣意性については、条件や疑問を述べている例が少なくありませんが、第二の恣意性については、誰一人、疑問を投げかけていません。このことから考える限り、残念ながら、私が何か根本的な勘違いをしているとしか思えません。そこで、もう一度、ゼロ地点に戻って、最初から考え直してみました。

まず、言語が生じる前の「如何なる概念も、如何なる分明なるものも存在しない」とは”具体的”にはどういう状態なのか?

この言葉を具現化した状態は、「混沌模様で埋め尽くされた部屋」というのが私の最初の認識です。すなわち、白い紙の上に12色のクレヨンで、任意の位置に、任意の色で色の点を打ち込み、完全に無意味な色点集合で埋め尽くされた紙を作る。この紙で部屋の床、天井、全ての壁(窓もドアも)を張り詰める。そこに赤ん坊を連れて来て、ある方向を指さして、これが「リンゴよ」、また、別な方向を指さして「あれが、机よ」と言う具合に言葉を教えて行く。この場合、赤ん坊は、「これ」とは何を指すのか絶対にわからないというのが、私の認識です。しかし、もし、「リンゴ」というシーニュが本当に恣意的に世界を切り取ることができると言うなら、この「混沌模様で埋め尽くされた部屋」でも、「リンゴ」の概念を切り取れるはずである。というのが、私の考えです。しかし、そんなことは、ソシュールでさえ考えているはずはないとも思います。すなわち、この時点で、既に、私は、何かを勘違いしているのだと思います。そこで、「如何なる概念も、如何なる分明なるものも存在しない」状態を次のように考えてみました。

言語が生じる前には、「如何なる概念も存在しないが、ただ、無数の”具体的な物”や無数の”具体的な事”は存在している」と。この仮定をソシュールが否定しているかどうか、私は知りません。彼が否定しているのは「言語以前の概念」であって、「言語以前の具体的事物」ではないようにも思います。

上記の仮定をした場合、では、言語以前には存在しないと言われる「概念」とは何か?

辞書的な意味の「概念」とは、必ずしも一致しないようですが、結果的には、以下のように考え直してみました。

「概念」とは、カテゴリーのことである。もっと平たく言うと「整理箱」である。

すなわち、言葉を覚えるとは、「言語以前に既に目の前に繰り広げられている無数の物や事を、与えられたカテゴリー(整理箱)に整理できるようにすること」。例えば、「リンゴ」という言葉を習得するとは、具体的には無数にある個々のリンゴを、「リンゴ」という整理箱(カテゴリー)に間違いなくしまえるようにすることと考えます。そのためには何が必要か? 「リンゴ」の整理箱に、「ここにしまう物は、果物で、色は赤く、形は丸く、大きさは7-8センチで、味は甘酸っぱいもの」という条件を書いて貼っておけば良いでしょう。同様に、「ナシ」の整理箱には、「ここにしまう物は、果物で、色は黄色く、形は丸く、大きさは7-8センチで、味は甘みがあるもの」になります。

すなわち、それぞれの「整理箱」には、そこにしまうべき物事の「特徴」を書いておけば良いでしょう。

このように考えた場合、私の疑問は「シーニューは示差的存在であり、即自的存在ではない」に関するものです。というのは、概念「リンゴ」の内容は、「果物で、色は赤く、形は丸く、大きさは7-8センチで、味は甘酸っぱいもの」のようなリンゴ”固有”の特徴であり、それは、「ナシ」があろうがなかろうが関係ない”即自的”なものではないかという疑問です。これについて考えてみた結果、以下の2点に思い至りました。

(1)固有の「特徴」とは、すなわち、「他の物と区別可能な性質」と言い換えることはできそうです。また、そう捕らえることで、赤ん坊が「ナシ」を「リンゴ」の整理箱にしまった場合に、その差異を教えることもできます(色と味が違う)。そうすると、「リンゴ」を特徴付けるものは、弁別規準(色、形、大きさ、味)とその値である弁別値(赤、丸、7-8センチ、甘酸っぱい)のセットであると言えます。これを一般化すると、

「概念」とは、「弁別規準と弁別値」の束を伴ったカテゴリーである。これにカテゴリー名であるシニフィアンを結合させたものがシーニュである。と言えそうです。

その結果、シーニュは、”少なくとも”、示差的存在である”とは”言えそうです。

(2)それでは、何故、”即自的存在ではない”のか? これについては、まだ、頭が整理できませんが、一応、以下のように考えてみました。

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/17 23:17
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この回答へのお礼

概念「リンゴ」の弁別規準「色」に対する弁別値「赤」の”赤さそのもの”は、決して「弁別値」には含まれない。「弁別値」である「赤」を”赤さそのもと”と対応付けるのは唯一「人間の心」だけである。そのことを、ソシュールは「即自的ではない」と言っているのかと取り合えず考えてみました。

最後に問題の「第二の恣意性」の件ですが、これは、上述の流れから、「整理箱の用意の仕方の恣意性」の問題に還元されます。既に初めに述べましたように、この世界は「混沌模様で埋め尽くされた部屋」ではなく、「無数の”具体的な物”や無数の”具体的な事”が存在している」のが前提です。文字数制限で、これ以上書けなくなってしまいましたので、結論だけ述べると、具体的な物や事に即さない整理箱を用意すると、現実がコントロールできなくなり、その言語を使う民族は滅びるということだと思います。

例えば、「一つ目小僧」とか「一本足の唐傘オバケ」などの現実に存在しない物をしまう整理箱ばかり用意した言語は滅びるのではないかと思います。多くの言語が生き残っているということは、第二の恣意性は成り立たない証拠ではないかと思います。

お礼日時:2007/08/17 23:09

kobareroさん お応えいただきありがとうございます。

No.63・64です。

No.63では まだ《原初言語のレベル》に直接には触れずに それらの成立(つまり言分け)前後の段階としてありうるのではないかという過程(つまり心分け)について 覚え書きしました。しかも たしかに そうして 原初言語の成立事情いかんに迫っていこうとしていました。

ちなみに 動詞活用の組織作りは ランガージュのはたらきとして おそらく 原初言語の成立の――全体的な一挙なる成立ならば――その革命の時点をまたいで 初めからそのあとに至るまで おこなわれていると捉えられます。これは 確認しておくとよいと思った事項です。

さて 今回 俄然として 探究に熱を帯びてまいりました。恣意性の原理は おそらくソシュール学説にあって すべての理論の原点だと思われるからです。

ただ 今回は 指摘いただいた限りでは あっさりしているように思います。

《無意識のメカニスム》によって 意義素であることを担った音素を用いても 一向にかまわないと考えられるからです。

無意識のはたらき あるいは 経済性の論理のはたらき これをそのまま認めた場合にも ことばの成り立ちが どうなるかは 二つの場合に分かれるという意味です。

シーニュにあって内的にも外部に対しても 恣意性=非・自然性が 原理として支配しているか それとも 恣意的ではなく自然的にして論理的な軌跡を――人間の無意識にもかわらず 結果として――見せているか どちらかです。

言いかえると 恣意性説は このとき 全部の原初的なシーニュが 恣意的に成り立っていないと だめだというわけです。合成語などの根拠づけられたことばの成立ではなく いまの原初言語の成立のときに 恣意性が 全体として完全に支配していないと説が成り立たないということだと思われます。

そうなると 意識(心分け)か無意識かの問題とは やはり違って来ているのではないでしょうか。

動詞活用の生成について もし経済性の原則でいけば 単純になら 五段活用のほかに 上一段・下一段・カ行サ行変格活用などの多種多様性は要らなかったかも知れません。上下二段の活用形が いづれも一段に収斂したのは 経済性の結果かも分かりませんが。

また 音素=意義素という想定は 音素に意味を持たせるのとは やや違うように思われます。

上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /は その粘着性という自然によって シニフィアンに用いられたとき 同定相を――つまり たとえば一般対象に同定して シーニュ:《 na =名》というごとく―― 自然に無意識の内に帯びたという想定も出来ます。

同定相という想定で それとして 意義素なるシニフィエになります。ただ 語の意味を持たせるのは さらにそのあとだとも見られます。

すなわち 聴覚対象に同定すれば 《 na / ne =音》を得ます。同定相なるシニフィエは シーニュそのもののそれではないということになります。二段階にはたらく形のようです。――あるいは ほかにも その対極の相として 無意識の内に 《na =無》のごとく否定相で同定したかたちに用いられていたと見ることが出来ます。第二段階で 意味が確定します。

《 na-su =名‐す⇒為す》《 na-ru =名‐る⇒成る》《 na-ru=音‐る⇒鳴る》《 na-ku=音‐く⇒泣く》《 na-si⇒無し》となれば それぞれの後の音節が あたかもそれとして原初言語であって したがって すでに根拠づけられた合成語であるかも知れません。

この場合も 子音としての音素/ s / =指定相・人為相 / r /=自然生成相 / k /=移行過程相などを想定し得れば 原初言語で 恣意性ではないという主張が 持ちこたえられると考えます。

たとえば / s /は 歯を閉じ続ける形で息の音を遮りつつ しかも出そうとするのであるから その息の音の子音/ h /の順定相が 強い指定の相(so 其)を伴うものと思われるという仮想です。その限りで 自然です。自然の絆を保ち その絆にもとづいて この指定相が シーニュ生成にはたらいていると見られます。他の音素との違いによってのみ 成り立っているのではないと仮想されます。

とりあえず このように考えました。いかがでしょうか。

* 訂正です。No.64でのカ行変格活用にかんして 次の叙述を訂正致します。
誤  koyo来よ⇒koyi来い
正  koyo来よ⇒(yoの母音脱落)koy⇒koi来い (cf.熊が谷kumagaya⇒kumagay⇒kumagai)

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

ご提示いただいた問題点について、本を調べたり、考えたりしているため、だんだんレスポンスが遅れてます。大変良い勉強になります!

まず、音素に対応するものは「意味素」ではなく「意義素」だということですので、「意義素」について考えたいのですが、「意義素」についても、やはり、「意味素」と同じ問題を抱え込むのではないかと思いましたので、繰り返しにはなりますが、まず、「音素」に「意味素」を割り当てた場合の問題点を以下の例でもう一度まとめておきたいと思います(以下の例はあくまで思考モデルであって、現実的な例ではありません)。

例えば、個々の音素に「意味素」を以下のように割り当てたとします。

/r/ :赤い
/i/ :丸い
/n/ :食物
/g/ :木に成る
/o/ :甘い

この「意味素」を組み合わせて、「リンゴ(ringo)」という単語を作ったとすると、「濁る(nigoru)」や「祈る(inoru)」という単語は、意味の不整合を起こし成立不可能になります。これは、極端な例ですが、言いたいことは、もし、個々の音素に意味を与えてしまうと、音素を合成して生成される単語が、元の「意味素」に縛られ、自由な造語が事実上不可能になってしまうということです。上の例があまりに極端だということであれば、もっと汎用性のある「意味素」の”セット”を用意し、その「意味素」の合成の結果、確かに整合性の取れた単語群ができるという具体例が必要になりますが、それは、私には思い付きません。

次に、「意義素」についてですが、「意義素」という言葉の意味が、私には必ずしも明解ではありません。かなり抽象的な概念のように感じます。抽象的であるが故に、「意味素」とは違い、汎用性が高い可能性はあるのかなとも思いますが。例えば、「同定相」というのは、「現前する対象の認知を表わす機能」と考えて良いのでしょうか? もし、そうだとすると、あまりに範囲が広くて、目の前にあるものを認知したら、そのものは全て、/n/で始まる単語になってしまわないでしょうか? 「否定相」についても、もし、それが、「現前する対象の否定を表す機能」ということであれば、これも、いやな物や事は全て/n/で始まる単語になってしまわないでしょうか? 多分、私の理解が間違っているのだとは思うのですが、たとえ、そうであったとしても、もし、音素に「意義素」を割り当てるとすると、そのような音素から合成される単語群も当然、その「意義」の縛りを受けることに違いはないように思います。そうすると、やはり、「意味素」の場合と同様に、造語上の困難にぶつかるのではないでしょうか? この辺りはいかがお考えでしょうか?

「日本語はどこからきたのか」(大野晋)に、「基礎語」ということで、上代日本語の使用頻度の高い単語がリストされています。

足、手、歯、唾、顔、頭、行く、歩く、取る、切る、裂く、むすぶ、逃げる、秋、朝顔、明日、汗、辺り、跡、海人、雨、嵐、主、息、池、石、五つ、糸、暇、明かす、上がる、遊ぶ、余る、有り、生く、祈る、言ふ、入る、射る、浮ぶ、動く、............。

これらを見た場合、多くの単語が2~3音素(正しくは、この2倍と考えるべきですか)で構成されています。2~3音素でこれだけ多様な意味を持たせようと思ったとき、もし、その音素に何らかの「意味」や「意義」が事前に付着しているとすると、その意味/意義に縛られて、自由な造語が不可能になってしまうのではないでしょうか。むしろ、自由な造語が可能性であるためには、音素はいかなる意味も意義も持たないことが条件になるように思うのですが。

ところで、話は、また、別の切り口になりますが、音素というものをもっと「物理的」なものと考えると、「調音運動」の次元で捕らえることができ、そこに何らかの規則性があるとすれば、それは、「運動のし易さ」のような視点があるのではないかと思いました。丁度、自転車に乗るときの、手や体の動きは、無意識のうちに物理的合理性を体現しているというのと同じような意味で。これは、brageloneさんが、「上歯茎の裏あたりにかなり粘っこく舌を当てて調音する子音/ n /」と書かれているところから思い付いたのですが、”粘っこく”という副詞を、「感性」の範疇で考えるのか、それとも、「知性」の範疇で考えるのかということです。言語は「感性」であるより以上に「知性」であると仮定すれば、”粘っこく”は一つの運動状態と見た方が良いように思いました。

それで興味が沸いて、色々調べて見たのですが、「音と意味についての六章」(ローマン・ヤーコブソン)P117に次のような説明がありました。

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/15 17:32
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この回答へのお礼

「どんな特定言語の、どんな音素も(母音も子音も)、分解不可能な弁別特質に解離されるのだ。....示差的特質の対立は、論理学が示すような真の二元的対立であって、これらの対立のおのおのについて特徴的なのは、項の一つが必然的にその対立項を含意するということである。」

ちょっと、これだけでは、わかりにくいのですが、此処で言っているのは、「音素」は最小単位ではない。「音素」は「弁別特性」の束であるということです。「弁別特性」とは、調音運動上の二項対立的要素、例えば、歯に舌を押し付ける/押し付けない、唇と窄める/窄めない、有声/無声、前方発声/後方発声などのことです。具体例としては、8個のトルコ語の母音は3個の弁別特性のセットで表せる。あるいは、15個のフランス語の子音は5個の弁別特性のセットで表せるなどがあります。ある言語の例では、一つの語に含まれる母音は全て同じ弁別特性を持つ。などの隠れた規則性が見つかっています。

このことから思ったのですが、もし、音素の下の弁別特性のレベルまで降りて考えれば、日本語の動詞が/u/で終わり、形容詞が/i/で終わることや、活用の規則性などの合理的な説明も、あるいは、できるのではないかということです。

まだまだ、謎は続きます。

お礼日時:2007/08/15 17:35

文法規則についての恣意性を 動詞の活用の問題として 丸山は次のように説明します。



ゴデル断章番号53以下をめぐって 日本語に例をとって 動詞の命令形は語尾の母音が / e /だけの形であるとは限らないから 恣意性として成り立っているという議論です。
いわく。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
動詞の《行け / 話せ / 読め》といった/ e /で終わる形態が すべての動詞の仮定形と命令形を示すマークのように思えても 《見れ》とか《食べれ》とか《来(く)れ》という他の系列の動詞に現われる/ e /で終わる形態は 決して命令形を示すことはなく 仮定形しか表わさない・・・。
すべては その系列(五段・上一段・下一段などの活用系列のこと)のなかの他の形態との対立によってのみ決定され〔る〕のです。
(丸山圭三郎:ソシュールを読む§記号学の誕生 p.126)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ところが 日本語の動詞組織においては たとえば終止形(存続法)は すべて 語尾がウ段であり 母音として/ -u /で 統一されています。

命令形(命令法)は 第一次組織(わたしの想定によりますが)では 語尾を/ -e /に活用します。(強変化活用=次のように/ -u >-i >-e /のごとく母音交替によります)。

iku行く=終止形(存続法) / iki行き=連用形(概念法)→ike行け=命令形

第二次組織では 語尾は 連用形(概念法)に / -a または -oe(=o Umlaut ) /をつけて作ります。(弱変化活用)。(註1)(註3)

上一段活用(イ段活用)
miru見る=終止形 / mi見=連用形 →命令形:mi-a または mi-oe
・mi-a > *mi-ra / mi-ya ( 子音の-r- / -y- はつなぎのための補助です。見ら / 見や はありそうなかたちです)。
・mi-oe > mi-ro 見ろ/ mi-yo見よ

カ行変格活用は 変則的な第一次組織に属します。変則的です。
ku来=終止形 / ki来=連用形
ただし 別様に仮りの連用形も作られます:まづ先に koe来(o umlaut は あいまいな/ウ・オ/で /こ・く/のいづれにも発音されうる。註2)=未然形(不定法)も作られる。それと同時に⇒koe来=仮りの連用形が出来ます。 
→そこから命令形として / -a ・-oe /をつけます。
koe-a /koe-oe つまり *koeya来(こ・く)や / koyo来よ⇒koyi来い

・・連用形のki来に -a/ -oeをつけて kiya 来や/kiyo来よという活用が 未来に出来るかも知れません。それは 恣意的にではなく 規則的だからです。

・・・・
仮定形(条件法)はそれとして 一定の規則にしたがって作られた結果 語尾の母音/ -e /となっていると捉えられます(省略に従いますが)。
・・・・
ですから 動詞活用組織の中では それぞれの活用形態が 《他の形態との対立によってのみ決定される》とは言えない規則的な形式のもとにあると考えられます。

(註1)第一次組織でも じつは 命令形は 連用形に/ -a /をつけて作られています。ただし 二重母音が融合したかたちになります。
iki行き=連用形→iki-a ⇒ike 行け=命令形
hanasi話し=連用形→hanasi-a⇒hanase話せ=命令形
yomi読み→yomi-a⇒yome読め

(註2)あいまい母音/ oe(o umlaut) /は 次の例で示されます。
oenoe己=onoおの‐れ / unuうぬ‐ぼれ(自惚れ)
moe身=mo-nuke蛻〔身(も)‐抜け〕/ mu-kuro躯・骸〔身(む)-殻〕

(註3)母音で/ a /と / oe(o) /とが 仲がよい。つまり互いに交替しうること。
kara幹・殻∽kuro躯・殻(←*koeroe)
ana強ち〔己(あな)勝ち〕∽ono己・各
ta 手 ∽ to-ru取る
ma 目 ∽ mo-ru 守る

・・・・・
おそらくランガージュのその能力は――われらが日本語に例をとるなら―― 自然および人間の自然本性(たとえば知覚能力だとか)をじゅうぶんに巻き込んでいるというように思えます。言分け以前は まるっきり混沌なのだとは言えないように思われます。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

ゴデル断章番号53に関連して引用された部分については、その前後を何回読んでも、どうも文脈がはっきりしないように思いました。もともと、SM53は、「文字法」の話であったのが、途中で、ラングの話でも同様なことが言えるという話に展開し、それについて、ソシュールが半過去とアオリストの例を挙げ、さらに、この例に相当する日本語の例として、丸山が挙げたのが引用された部分と言うことになるのかと思います。問題は、この引用部分が、第一の恣意性と第二の恣意性がごちゃごちゃになっているように思われることです。確かに、ソシュールは、第一の恣意性は第二の恣意性から生まれるという考えのようですから、それでも良いのかも知れませんが、私としては、第二の恣意性については、全く理解が出来ないので、どう判断していいのかよくわかりません。

それで、少し別の角度から考えてみました。文法の問題は統辞規則の問題であり、すなわち、「連辞」関係から見ることができると思うのですが、これについて、丸山は以下のように書いています(「ソシュールを読む」P235)

<連辞関係に見られるのは、このシーニュ同士の結合の恣意性で、語順に代表される<抽象的単位>や、アスペクト、テンス、ジェンダー、ナンバーといった文法的カテゴリーに見出せる恣意性のことです。もちろん、この語彙的次元と文法的次元が、シーニュの担う<結合価>によって密接に結びつけられていることはいうまでもありません。こうして明るみに出されたラングの価値は、自らの絶対的価値によって定義される即自的な価値ではないのですから、その価値を生み出す源は、シーニュ相互間の差異だけということになります。>

また、これと合わせて、指摘したい点は、丸山の「恣意性」という言葉に対する、彼独自の意味づけです。以下は、「ソシュールを読む」P222からの引用です。

<この恣意性という概念が「非自然的」すなわち「歴史的・社会的」と同義であることはくり返すまでもないと思います。したがって文化的必然性も動機づけも、実は根柢的に非自然的であるのですから、今読んだ断章(SM121)は言語記号の恣意性の原理にいささかの制限を加えるものではないことが明らかになります。>

ここで、丸山は、ソシュールが「シニフィアンとシニフィエの関係は相対的に動機付けられている場合もある」と述べているにも関わらず、丸山の考えとしては、それも「恣意的」であると論証しようとしています。要するに、丸山の立場からすると、「身分け」の結果出てくるもの以外は、全て「非自然的・社会的・文化的」であり、そのことイコール「恣意的」であり、その論理で行くと、「文法」などは丸ごと「恣意的」ということになるのだと思います。従って、ゴデル断章番号53に引き続く部分で、丸山が挙げている[e]で終わるもの必ずしも命令でないという例は、何故、そのような細かい反証をいちいち挙げる必要があるのか、逆に不思議に思いました。と言うのは、丸山の立場からすると、そもそも「文法」は丸ごと「非自然」であり、イコール「恣意的」だと考えているはずだと思うからです。

ですから、brageloneさんが挙げられた、日本語動詞は必ずウ段で終わり、そのことが、シニフィアン/シニフィエ間の恣意性に制限を加えるという事実は、私は全く同意するのですが、丸山からすると、「英語にはそのような文法規則がないのだから、それは、非自然であり、恣意的なものだ」という結論になると思います。丸山が満足する「恣意性」の概念は、結局「全人類共通に現れる現象であること」というこの一点にかかっていると思われます。

さて、私としては、今、最大の難問は、やはり、第二の恣意性です。第二の恣意性はどう考えても納得が行きません。この疑問の正当性を示すには、「第二の恣意性があると言うのなら、何故、翻訳の仕事が成り立つのか」を問えば十分のように思います。ただ、その場合の問題は、「構造主義」との関連です。ソシュールが「構造主義の祖」と考えられている最大の根拠は、「言語は即自的存在ではなく、示差的存在だ」という発想にあると思います。そして、この示差的存在を根拠付けているのが、まさに、第二の恣意性ではないかと思われる点です。

それで、あーでもないこーでもないと考えているのですが、結局、「第二の恣意性があるから、示差的」なのではなく、「第二の恣意性があろうがなかろうが、示差的」なのではなかろうかと疑い始めています。今、考え中です。

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/13 23:50
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この回答へのお礼

また、ご回答の最後に書かれていた「ランガージュの能力」というのも、これは具体的に何を意味するかを考え出すと、段々、「身分け」、「心分け」、認知能力、知覚などとの関連がよくわからなくなるのと、広く考えれば、「ランガージュの能力」ということで、これ等全てをカバーしてもいいのではないかと思えてきます。まだまだ、未知の領域が果てしなく広がっています。

お礼日時:2007/08/13 23:51

言語記号が恣意的に成り立ったというとき その一般性のもとにだが 部分的には動機づけられていること(有縁性)はあると言います。



vingt (二十)は無動機(つまり純粋(?)に恣意的)だが dix-neuf(十九)は dix(十)と neuf(九)との二つのシーニュによって動機づけられて成り立っていると。(ゴデル断章番号121~)(丸山:ソシュールを読む §20 相対的恣意性)。

たとえば 雨弓( rainbow )も したがって 同じように動機づけられていると まづは認めていると考えられます。

これを ふつうに素朴に捉えるなら 人間が 弓のゲシュタルトを持ち 雨上がりという事象に関係づけて このシーニュを 普通に素朴にと言う限りで自然に=非・恣意的に こしらえたと思うのではないでしょうか。

(雨‐弓のほかの想像もありうることは 言うまでもありません。そしてそのような別の想像のばあいでも 自然な造語だと一般に捉えられるでしょう。オリオン座の命名の例を出されていましたが これは 動機づけにかかわる造語ではないでしょうか)。

しかも この場合にも――丸山によれば―― この種のいわゆる合成語の問題も あくまで それらの要素となっている雨なり弓なり あるいは dixなり neufなりが そもそも 言分けの初めに 恣意的に出来たシーニュであるからには 恣意性=非・自然性という大前提の上に成り立っているということのようです。

たとえば日本語で 弓yumiは  矢yaや 射る i-ru < yi(?)と 子音/ y /において有縁なのかも知れないので それらのシーニュは 動機づけられていると もし 言ったら どうなのか。

おそらく どれか一つの語が 恣意的に出来上がって その後 ほかの語も派生したと答えると思われます。

yumi / ya / yi などの音素(形態素)は なんらかの心的視像に結びつくかどうか分からないですし 仮りに/ y /=呼称相・実定相うんぬんという想定をしてみたところで どこまで部分的な有効性を 理論的な一般の整合性として 提示しうるか 分かりません。

ただし いま はっきりしていることは 或るシーニュの成立をめぐって 一方で その成立の以後にも 或る種の仕方で心分けにかかわるような合成語における動機づけ(つまり非・恣意性だから 自然性)が認められているということです。

他方で その成立の以前の段階でも 《予定観念 あるいは メニング(意味志向)》が 《マグマ・星雲》のごとく発生していたと推し測られるし それらは《文化的化石》として 捉えられるとまでは 認めていると考えられます。これも 心分けの作業であり 事の初めから終わりまでの完全な恣意性を主張する見方に異を唱えるものと言っていいでしょう。

合成語の例は 大前提が恣意性なのだから その上での心分け作業がその存在を主張しうるかどうか。

これは 主張しえないと説く丸山の言い分には 弱いところがあるように思われます。つまり 構成要素にかんする透明・不透明の問題だと言って おしまいとしているように見られます。

つまり 酒屋や酒樽なら 透明なので 動機づけ(有縁性)が分かるが 魚が 酒‐菜(つまり=肴)であるとか 俎が 真‐菜‐板であるとかは もはや不透明なのだから そのように 有縁性(動機づけ)は 恣意性の問題とは次元が異なると。(前掲書§20)。

酒‐菜も 真‐菜‐板も わかってみれば きわめて 自然な造語であると思われます。心分けがはたらいていると言えるし 言わなければならないのではないでしょうか。

とりあえず以上の一点につき 忘れ去られていくことのないようにと 覚え書きをさせていただきました。お時間をとって 申し訳ありません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

シニフィアン/シニフィエ間の恣意性については、以下のソシュールの文が大変明解で、これで問題がないように思います。丸山の表現は、ソシュール以上に恣意性にこだわりがあるように見受けられます。

「どんな言語を研究しても、言語の中に必ず存在する多くの無根拠なものとともに、根拠付けられた要素が多かれ少なかれ”相当数”あることは、特に深く探求しなくてもわかります。この比率には程度を認めることができますが、無根拠な要素の比率がゼロになること、ある最小限を下回るようなことはありません。英語ではドイツ語と比べると、無根拠なものがかなりの量あります。厳密に言えませんが、この対比の一面を示すために言うと、ある意味で、無根拠なものが最大になった言語はより語彙的であり、一方で、無根拠なものが最小である言語はより文法的であるといえます。」(「ソシュール一般言語学講義 コンスタンタンのノート」P113)

根拠付けられた要素の存在は、あまりにも明白で、その最たるものは「漢語」ではないかと思います、われわれが、これまで使用してきた漢語語彙である<言語、記号、恣意性、無動機、事象、自然、理論的、予定観念、星雲、....>はもとより、2文字以上のほとんど全ての漢語は、それを構成している個々の漢字の合成であり、まさに、”根拠付けられている”典型例だと思います。

従って、シニフィアン/シニフィエ間の恣意性を純粋な形で議論するには、合成語や派生語が生じる以前の「原初言語」レベルで行わないと、あまり意味がないように思います。

そこで、「原初言語」レベルで考えた場合、どういう議論が可能なのかと言うことですが、結論から言うと、「言語経済学」的視点が必要なのではないかと思います。

私は、初め、言語の意味を、「意識に上った言語の意味」として考えて来たのですが、段々(この数日、考えて結果)、そうではない考え方、すなわち、「無意識の領域での言語の意味」の方が、はるかに重要ではないかと思うようになって来ました。「言語経済学」というのも、その視点からの発想です。

すなわち、言語システムの生成は、個々人の意識にとって、それがどう感じられるかと言う視点ではなく、言語として流通する上で、「より合理的/経済的なシステムを指向する」という視点で、”無意識のメカニズム”によって生成されてきたのではないかということです。何故、そう考えるに至ったかと言うと、例えば、自転車に乗る場合、我々は、自分手足の一本一本の筋肉の動作や体重移動の具体的な軌跡などの細部のメカニズムは全く”意識できない”ということです。にも、関わらず、我々の身体は”無意識のメカニズム”によって、「より合理的/経済的」な動作シーケンスを”勝手”に生み出してくれます。同じことが言語システムについても言えるのではないかと思うのです。

具体的には、以下のようなことです。

まず、文法ですが、これは、「最も合理的/経済的」言語システムになるように、無意識のメカニズムが働いた結果ではないかと思います。例えば、動詞/形容詞の活用を考えてみると、原理的には、個々の動詞/形容詞一個ごとに、別々の活用形があってもいいはずですが、そんなことになっていたら、無限に近い活用形を暗記しなければならないわけで、大変な心的コスト/社会的コストがかかります。しかし、実際は、ごく限られた活用形に集約されています。すなわち、統辞規則そのものが、無意識のメカニズムによって生み出された「より合理的/経済的」な言語システムと言えるのではないかと思います。

次に、シニフィアン/シニフィエ間の恣意性に直接関係する語彙の問題ですが、「言語経済学」的視点から考えると、言語システムとして以下のいずれが、「より合理的/経済的」な言語システムかという問題に還元できるように思います。

言語システム1: 音素に意味を持たせない言語システム 
言語システム2: 音素に意味を持たせる言語システム

これは、例えば、アルファベットと単語の関係に置き換えても本質は同じように思います。

言語システム1: アルファベットの一文字一文字に意味を持たせない言語システム
言語システム2: アルファベットの一文字一文字に意味を持たせる言語システム

例えば、"apple"という単語を考えたとき、"a"、"p"、"l"、"e"に意味を持たせて、その意味の合成語として、"apple"という単語を創造するような言語システムがより合理的/経済的なのか、

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/12 09:04
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この回答へのお礼

それとも、"a"、"p"、"l"、"e"には、意味を持たせず、意味のない文字を組み合わせて"apple"を創造するような言語システムの方がより合理的/経済的なのかという問題に帰着すると思います。このように考えてみると、どうも、言語システム1の方がより合理的/経済的なように思われます。

ここで、ちょっと紛らわしい例として、上述の「漢語」がありますが、これは、確かに一文字一意味になっていますが、これは、「漢語」の場合は、一漢字=一単語と考えた方がよいと思います。従って、音素のレベルまで降りたときには、やはり、言語システム1がより合理的/経済的ということになると思います。

以上、結論としては、「原初言語」レベルに遡れば、シニフィアン/シニフィエ間の恣意性は、その方が「より合理的/経済的」な言語システムになるという意味で、”無意識のメカニズム”によって、実現されたのではないかと思います。

お礼日時:2007/08/12 09:06

#1->#26->#32->#37->#43->#44->#51->#56->#59->#61です。



ソシュールに限らず、言語とか貨幣とか欲望とかいう人間性の本質をなすことがらを理解する場合、ともすれば実体的にとらえられがちなものが仮想に過ぎないことを理解することの繰り返しになるという感じがします。

#61>ラングは、個別言語の研究の後で結果的に生産される虚像にすぎないので

こういうあたりが質問者にはピンと来ていないのだろうと思います。

>ラングはパロールに言語規則の制約を与えると同時に、パロールもラングの実際の運用を通して、ラングを改変して行く相互関与的進展と解釈しました。

「公式的理解」はそういうことだと思いますし、それでよいのですが、それは「結果的に」そう見えるというだけなのです。

>私が知りたかったのは、「シニフィエとしての概念」を意識に浮かべることができるかどうかということです。

この疑問は、

>社会規則であるシニフィエの概念

を意識できるかということですね。

>シーニュ「リンゴ」の「シニフィエとしての概念」はどのようなものかという疑問です。
>私が持つ「赤いリンゴの映像イメージや味」は「私個人」の具体的経験の累積に過ぎません。それは社会制度としてのラングに属する「シニフィエとしての概念」とは別のものではないかということです。

それが、ラングは仮想的な存在で、実体ではないということの意味です。おっしゃるとおりで、「私」の持つイメージは個人的経験の累積に過ぎません。「社会制度としてのラングに属する『シニフィエとしての概念』」 は、おそらく辞書に書いてあります。そのへんは、「オーソリティー」の問題でしょうね。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

ご指摘の通り、「実体的にとらえられがちなものが仮想に過ぎないこと」、「ラングは、個別言語の研究の後で結果的に生産される虚像にすぎない」、「公式的理解はそういうこと.....結果的にそう見える...」などの部分は、私には、ピンと来ませんでした。済みません。

多分、今の私には、まだ、理解できない高度な洞察が必要なのだろうと思います。それで、これ以上、otasuke009さんの貴重なお時間を割いていただくのは申し分けありませんので、さらなる質問は控えさせていただきますが、最後に是非申し上げておきたいことは、今回、otasuke009さんからいただいた幾つかの視点は、私にとって自分なりの考えを作る(それは、ソシュールの考えとは違うようですが)上で大変大きなきっかけになったということです。感謝しております。どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/08/10 20:33

#1->#26->#32->#37->#43->#44->#51->#56->#59です。



>あっと言うまに2000+1000文字の制限を越えてしまいました。

すみません。わたしも長すぎると思ったのですが、ついそのまま送ってしまいました。
簡潔を心がけて、それでも長ければ分割するほうがいいようですね。

***

ランガージュの定義については、直接ソシュールを参照していないので、忠実ではないと思います。「言語を可能にする前提をふくむ言語能力」というぐらいに考えています。

<定義A>のほうは、私個人としてはあまり賛成していません。ラングは、個別言語の研究の後で結果的に生産される虚像にすぎないので、ラングを実体的・固定的にとらえて、「それに基づいて」パロールが生み出されるという定義の仕方は、おおざっぱには間違いでないにしても誤解の余地が大きすぎるような気がします。
だいたい、ひとりの人間は「ラング」からはみ出して語ってばかりでしょうし(ことばの誤用)、むしろそのはみ出しがあとから見れば「ラング」を構成する「正しい」用例のひとつとして取り扱われるのですから。

「お礼」の最後のほうともかかわりますが、人間という「主体」がラングという規則に「もとづいて」語るということが、意識的にも無意識的にも可能なのかは、はっきりわかりません。

<定義B>のほうは、「言語以前の」がひっかかります。「シンボル化能力」は、それ自体が「言語能力」の中核にあるのではないでしょうか。

***

>次に、意識か無意識かの問題ですが、otasuke009さんのコメントを読んでいて、大発見(?)しました。それは、私の意識を観察する限り、「○○についての概念」というものは”存在しない”ということに気付きました。例えば、私の意識には、「愛の概念」などは存在しないことは確かです。どうしてかと言えば、私に「愛」とは何か、その概念を語れといわれても、まともに語れないと思うからです。

「愛」は「愛」でしかなく、「シニフィアン/シニフィエ」に分割することはできないのが実態ということでしょうね。分割して考える場合は、論理的に分割を仮想するだけなのだと思います。その意味で「無意識」の領域に「在る」ということはできると思います。

>「愛」という日本語の「用法」を知っているに過ぎないのではないか?

そういう立場を取る人がいることは知っていますが、論評できません。「用法」という規則を知っていると言えるかどうかも断言できません。「用例」なら知っているといってもかまわないと思います。

>もし、otasuke009さんの場合、「愛」の「概念」が「意識」に浮かび上がっているとしたら、それは、具体的には、どのような形で浮かび上がっているのか大変興味があります。

「愛」について語るのは気恥ずかしい感じがありますが、わたし個人のことでなく、次のような例を考えてみました?

「これが愛なの?」

という発言をする場合、発言者はどのようなことを「意識」しているのでしょうか?

思い思われる「関係」かもしれませんし、身体的感覚のイメージと結びついた「温かさ」かもしれません。場合によっては、想像を絶する「酷い」感覚の場合もありうるかもしれません。辞書的な定義を想起している場合もあるでしょう。反語的な意味でかもしれませんが。

冷静に、「愛」とは? などと考えているときには、「愛」という漢字なり音韻ばかりが意識に上ってくるだけのような感じがします。そのあたりは「抽象的な言葉」の特徴なのではないでしょうか。質問者がこの話をするのに「愛」という言葉が例として適切と判断したか想像するに、「愛」がもっとも抽象的な概念(言葉)の代表だからじゃないでしょうか。意識していたかどうかはわかりませんが。

すべての抒情詩は、「愛」と「死」で要約できる。

と言った人があったと思います。しかしまあ、程度の差の問題で「さつまいも」とかで考えても事情はあまり変わらないかもしれません。

***

ラカンの「S」と「s」の話については、ソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」の区別とは別物であるということだけ再度確認しておきます。だからこれまで論じてきた「シニフィエ」についての解答にはならないと思いました。しかし、質問者の捉え方は捨てたものでもないとも思います。(理由はすみませんが省略です。長くなるし、はっきりと説明できる自信もないので。)

>私が「話しをする」ということは、意識の上では、「S」(シニフィアン)を選んで並べるだけということになります。とても変な話ですが、”少なくとも”意識の上では、「s」(シニフィエ)はチェックされていません。多分、無意識の世界でチェックされているのでしょう。これは変でしょうか?

抑圧された無意識の「s」が意識において「S」と姿を変えて自らを語ると言っていいような関係があるのでしょう、臨床の経験からは。

>私は、確かに「S」(シニフィアン)を選んで並べているような気がしますが、よく考えてみると、本当は、”めったに選んだりしていない”ように思います。むしろ、”勝手に選ばれて、飛び出してくる”ように思います。すなわち、語彙選択、文法チェック、用法チェック、全部、お任せじゃないかと、ひどい話になってしまいましたが、意識上では何だかそれが正しいように感じます。

「話す」は他動詞ではなく自動詞だ。

と言った人もいたようです。私という主体「が」なにか「を」話すのではなく、単に「私は話す」のだということです。その「私」というのは、おそらく「意識」の主体ではなく、「無意識」まで含んだ「私」の全体ということでしょう。

>そうすると、「話」を生み出しているのは全て無意識の働きで、もしかすると、これが、ランガージュなのかなぁなどと思ってみました。どうも結論がはっきりしませんが、こんな感じです。

ソシュールに忠実かどうかは別として、そういう考え方は成り立つかもしれません。

***

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>だいたい、ひとりの人間は「ラング」からはみ出して語ってばかりでしょうし(ことばの誤用)、むしろそのはみ出しがあとから見れば「ラング」を構成する「正しい」用例のひとつとして取り扱われるのですから。

ラングはパロールに言語規則の制約を与えると同時に、パロールもラングの実際の運用を通して、ラングを改変して行く相互関与的進展と解釈しました。

><定義B>のほうは、「言語以前の」がひっかかります。「シンボル化能力」は、それ自体が「言語能力」の中核にあるのではないでしょうか。

ここで言う「言語能力」の「言語」は「ラング」の訳語ではなく、「言語活動(ランガージュ)」の「言語」なので、おっしゃるとおりでしょうね。ややこしいですね。

>「愛」について語るのは気恥ずかしい感じがありますが、わたし個人のことでなく、次のような例を考えてみました?

私が、一般的な意味の「概念」と「シニフィエとしての概念」をごちゃごちゃにして使ったため、混乱させてしまったみたいです。申し訳ありません。私が知りたかったのは、「シニフィエとしての概念」を意識に浮かべることができるかどうかということです。

具体的には、シーニュ「愛」の「シニフィエとしての概念」を意識に浮かべることができるかということです。初め、私は、それを、「私個人」が「愛」についてどういうイメージを持っているか、あるいは、どういうものだと解釈しているかということが、「愛」のシニフィエとしての「概念」だと勘違いしていました。しかし、考えてみると、これは、あくまで「私個人」の「愛」に関するイメージであり解釈ですから、吉田さんは、それと違った考えをするかも知れませんし、田中さんは、また、私とも吉田さんとも違った考えをするかも知れません。ですから、このような個人的なものは、社会規則であるシニフィエの概念とは成りえないはずです。そこで、私が非常に疑問に思ったのは、そもそも、シニフィエである概念とはいかなるもので、それは、原理的に我々の意識に浮かび上がらせることができる性格のものなのかということです。私の結論としては、それはできないのではないかと思うのですが、どう思われますか?

>質問者がこの話をするのに「愛」という言葉が例として適切と判断したか想像するに、「愛」がもっとも抽象的な概念(言葉)の代表だからじゃないでしょうか。

おっしゃる通りです。それが、一番混乱が少ない例と思われたからです。そこで、今回は、あえて、混乱する可能性の高い例を取り上げて、問題の本質を再確認できればと思っています。その例は「リンゴ」です。シーニュ「リンゴ」の「シニフィエとしての概念」はどのようなものかという疑問です。一般には、多分、あの赤いリンゴの映像イメージや味などを思い出して、それが、シーニュ「リンゴ」の「シニフィエとしての概念」だと考えるのかも知れませんが、私は、そうではないのではないかと思うのです。理由は、「愛」の場合と全く同じで、私が持つ「赤いリンゴの映像イメージや味」は「私個人」の具体的経験の累積に過ぎません。それは社会制度としてのラングに属する「シニフィエとしての概念」とは別のものではないかということです。

>「話す」は他動詞ではなく自動詞だ。

これで思い出すのは、「遠くに山が見える」の主語は誰かという疑問です。単純に考えると、「見える」は自動詞で、その主語は「山」です。「私」は、たた、受動的に、その状況にいるだけということでしょう。

補足日時:2007/08/09 10:42
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補足拝見しましたが、


今回、メールが届かず、遅くなったでしょうか。
さて、今回はソシュールの「言語名称目録説の否定」この一点だけを取り上げていますが、私が素人成りに、眺めた解説の類では、この件に関しては、おおむね冒頭で従来の言語学とは違った、新しい言語学の説明として取り上げられるようですが、詳細な説明・解説は不勉強のせいで、あまり見ていないのです。
そこで「言語名称目録説の否定」を理解しようとすると、前回の回答のように考えてみたらどうだろう、と言う事でした。

例えば前回の「二つのものがある」それに対して「一つの『リンゴ』という言葉」が対応している。という事は、「一つの『リンゴ』という言葉」は、一つのものに対応しているのではなく、二つの集合体の「観念」に対応している、と言う説明をしたつもりです。

これは、恐らく「もの」に対する考え方や理解の相違があるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

私は、「言語名称目録説」というと、常識的な意味で、以下のようなものだと思っていました。

A: 将来「リンゴ」と名づけられるものを指さして、「オイ、これを”リンゴ”と名付けよう。」
B: 「そうしよう。あっ、向こうに”リンゴ”がいっぱい成っている木があるぞ。」
A: 「よし、取りに行こう。」

ところが、それは、私の勘違いで、実際には、以下のようなものだったんですね。

A: 将来「リンゴ」と名づけられるものを指さして、「オイ、これを”リンゴ”と名付けよう。」
B:「そうしよう。あっ、向こうに”リンゴ”がいっぱい成っている木があるぞ。」
A: 「何を言っているんだ? 向こうにあるあの赤い玉のようなものは、さっき、オレが言った”リンゴ”ではないぞ。」
  「それに、お前が言っている”リンゴ”という音は、オレがさっき言った”リンゴ”という音と違うぞ。」
B: 「その通りだよ。だから、オレは、向こうにあるあの赤い玉のことを、オレが発音する”リンゴ”という名で呼んだのさ。」

「言語名称目録説」を考え出した人は、相当ひねくれていたんですね。でも、おもしろいです。

お礼日時:2007/08/09 07:08

#1->#26->#32->#37->#43->#44->#51->#56です。



ロボットで考えるのはいい方法です。
「シュミレーションできる」ことは「理解している」ことと言っていいですから。
実際に人工知能の研究で、人間の知能そのものを再現させようとする分野もあるようです。
少数派だそうですが。

人工知能学会 「人工知能って何?」
 http://www.ai-gakkai.or.jp/jsai/whatsai/AIwhats. …
サイトの全体は見ていませんが、役に立つかもしれません。

***

>では、実際は、どうなっているのか。「基本的ことは最初からわかるように出来ている」と考える以外に、合理的な説明はできないと思います。

言うまでもありませんが、「基本的なことは最初からわかるように出来ている」ということは、人間には「ランガージュ(言語能力)」が備わっているということと同義です。人間の新生児の「言語学習能力」について考えてみると、ざっと次のようなことになりそうです。もちろん、誕生時にすべて備わっているというわけではないでしょうが、そのように発達するようプログラムされているのが人間なのでしょう。

1)他者の顔と声に注目する。

2)他者の顔と声をまねる。

3)他者の注目している方向に注目する。

 このサイトはよくまとまっているようです。
 http://univ.nict.go.jp/people/xkozima/infanoid/d …
 ロボットで再現することを目指しているようです。
 http://univ.nict.go.jp/people/xkozima/infanoid/r …


>例えば、この世界は3次元空間(上下・左右・前後の感覚)で出来ていて、その中には、複数の物体(塊まりとして他の背景から切り離して移動可能な対象)が存在していること、それらの物体には、色、感触、臭い、味などがあること、また、音というものがあって、音にも、聞き分けられる複数の対象があること(すなわち、五感の存在)等等。そして、基本的コミュニケーション能力です、人(親)が「何かを言いながら、何かを動作で示す」とき、その言葉とその対称を背景から切り分け、互いに関連付ける能力などです。

空間認識が先立って必要かどうかはわかりませんが、五感の能力(それぞれがゲシュタルト能力?をもつ)はもちろん前提として必要です。

***

>ここで、私が、非常に不思議に思うのは、では、「シニフィエである概念」とは一体何かということです。ロボットの例で考えるとわかりやすいように思います。と言うのは、ロボットには、もともと「心」などというものはないですから、「概念」と言っても、「何か心の中に浮かび上がってくるイメージ」などでないことは確かです。それはむしろ「プログラムされた定義やルールの束」ではないかと思います。あるいは、「辞書」のようなものではないかと思います。

ロボットにとっての概念は、実体としてはデジタルデータの形をとります。
0か1かを電気または磁気によって表現したものの集合です。
人間にとっては、脳を含む身体の(個々の細胞)の興奮状態
(これもデジタルデータです。身体的状態も含むよう拡張してみました。)

それぞれのデータがどのような単位でまとまり、どのようにフォーマットされるのかが問題ですが、ロボットと会話する人間は、それがロボット内でどういう形式をとっているかを知る必要はありません。ただし、「心」はなくても、各種階層の記憶装置にデジタルなデータとして「イメージ」は存在します。

>これを人間の場合で考えるとどうなるのでしょうか。まず、「何か心の中に浮かび上がってくるイメージ」などではないわけですから、それは、「無意識」あるいは、肉体の中に組み込まれた「プログラムされた定義やルールの束」ということではないでしょうか。

人間の場合も同様に、(「心」はなくても)脳を含む身体の細胞にデジタルなデータとして「イメージ」は存在します。ただ、こちらからみて「他者」がどのようなイメージを持っているか知る必要はないということです。「無意識」を持ち出さなくても特段困らないのではないでしょうか?

>我々が人の話を聞いてわかるというとき、通常は、その話全体がわかるわけであって、その話の中の個々の単語の概念をいちいち意識していません。それを意識していると、逆に、話の全体がわからなくなってしまうことにもなります。

わたしが今回最も理解しにくかったのは、この部分です。
「意識する」ということがどういうことかは、かなり難しいことです。
「歩く」とか「自転車に乗る」とか「無意識」に行っている行動は「意識」するとなかなかうまくいきません。「しゃべる」ことも普段は「無意識」に行っていますから、「意識」するとなかなかうまくいきません。うまく口が動いてくれなくて、下手をすると舌をかんだりします。それと同じような意味ですか?

>このことから考えても、「シニフィエである概念」は我々の無意識に埋め込まれているものであり、何か論理的な構造物であって、通常、心が持つ質感を完全に排除したものではないかと思えます。

そういうわけでこの部分はほとんどわかりません。すみません。

***

質問者にとって「シニフィエ」という概念はもはや「上りきった梯子」なのであって、単に切り捨てればいいのではないでしょうか。

ちょっと込み入った話になりますので、わかりにくいかもしれません。

精神分析の分野では言葉を通して他者の「心」の秘密(=無意識)に迫ろうとします。直接相手の「心」を覗き見るわけにはいかないので、言葉を通して「分析」するわけです。

現代精神分析の大家にラカンという人がいます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3% …
この記事の「構造論的転回」のところに、ラカンがソシュールの「SE/SA」の構図を転倒させて「S/s」と表記したことが書いてあります。

しかし、ソシュールの「SA」とラカンの「S」、ソシュールの「SE」とラカンの「s」は同じものではありません。

「S」と「s」はそれぞれソシュールの「シーニュ(SE/SA)」、つまり「言葉」なのです。

「S」は患者が話した(=意識上の)言葉で、「s」は無意識の領域に隠された秘密の言葉なのです。

おそらく、精神分析家にとってソシュールの言う次元での「シニフィアン/シニフィエ」の区別は意味がないのでしょう。彼らにとって意味があるのは、意識される言葉が無意識のどのような言葉とむすびついているかという次元の話なのです。

だから、結果的に彼らはソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」の概念は廃棄してしまったわけです。(それはそれでよいと私は思います。)

余談ですが、ラカンは「無意識は言語のように構造化されている」と言いました。
それはそうでしょう。精神分析家は言葉を通して無意識を覗き見ているわけですから、当然無意識の言語的に分節された姿しか見ることが出来ない理屈です。

***

さて、ロボットのランガージュがどういうものになりそうか、話を続けます。

ロボットにとって、ソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」の区別は必須のものです。
カメラの映像から抽出された「モノ」(映像そのものではありません)と、人間に理解可能な「音声」ないし「音韻」(音響そのものではありません)を明示的に結び付けなければ、会話と行動が成り立ちません。

ロボットに「リンゴ」という言葉を教えてみましょう。
ロボットと目を合わせます。
ロボットはわたしが人間であることを知るでしょう(顔の認知)。
わたしはリンゴのほうを見ます。
わたしは「リンゴ」と言います。
ロボットにはわたしが見ている方向を見ます(視線の共有)。
ロボットは、リンゴを含む映像から、リンゴを抽出します。
ロボットは、わたしの「リンゴ」という音声をリンゴと結び付けます。

ロボットが「取る」という言葉をすでに習得しているとして、
わたしが「リンゴを取って。」と言うと、
ロボットは、リンゴをわたしに手渡します。

実は、この時点でまだロボットは「リンゴ」という言葉を習得していません。
視線の先にあるものを取るだけだからです。

この後、リンゴとミカンを並べて置きます。
わたしが「リンゴを取って。」と言ったとき、
ロボットがリンゴを手渡すかミカンを手渡すかはわかりません。

☆もしミカンを手渡したら、わたしはミカンを見ながら「ミカン。」と言います。
ロボットはわたしの視線を読んでミカンを含む映像からミカンを抽出します。
ロボットはそれまで「リンゴ」と思っていたモノが「リンゴ」でなく「ミカン」であると気づきます。
ロボットは「リンゴ」と「ミカン」の違いを考えます。
色の周波数の分布あたりが一番違うかなというわけで、色の周波数の分布が「リンゴ」と「ミカン」の弁別特性として記憶します。

ロボットの視線の共有能力があまりに精密だと、リンゴとミカンの取り違えがほとんどおきませんから、いつまでたってもロボットにはリンゴとミカンの違いがわからないでしょう。(ただし、手渡しの間違いは減ります。)
同様に、モノの属性の区別があまり厳密すぎると、別々の「リンゴ」どうしが同じ「リンゴ」だとなかなかわからないでしょう。ロボットは同音異義語と認識してしまうかもわかりません。(「リンゴはありません」などと言って役に立たない。)

そのあたりは非常に微妙なチューニング(プログラミング)が必要になるでしょう。

人間の場合は自然淘汰によってそのあたりが解決されているのでしょう。
なかなか話が通じにくい人は生き残れない。
よく話が通じる人は生き残れる。

ロボットは人間から見ればあまちゃんで、
電源さえ供給されれば生存できるような存在です。
生存の基盤を異にする存在と理解を共有することはなかなか困難だなと思います。

わたし:「腹減った。」
ロボット:「は?」

***

☆のところで、もしリンゴを手渡したとしたらどうでしょう。
わたしは、リンゴを見ながら「ありがとう。」と言います。
ロボットはわたしの視線を読んでリンゴを含む映像からありがとう(というモノ)を抽出します。
ロボットはそれまで「リンゴ」と思っていたモノが「リンゴ」でなく「ありがとう」であると気づきます。

……などという間違いを起こさないためには、ロボットは常に人間の表情に注意してその意味を読み取らなければなりません。

「他者の顔と声に注目する」という能力の中には、少なくとも、表情や声の調子が「快/不快」のどちらにあたるのか感じ取る能力が必要です。

顔や声をまねる人間の赤ちゃんは、その筋肉の動きのフィードバックから、自然と「快/不快」のどちらなのか学習するでしょう。

声の調子ではありませんが、音韻が感情とどのように結びついているかの研究は、(株)感性リサーチによるものが優れています。
http://www.kansei-research.com/frm_nymn.html
それぞれの音韻は人間の生理的感覚に対応しています。このあたりは、ソシュールの「恣意性」という原則を一部突き崩す内容と言ってもいいものです。

おそらく、ロボットに「ありがとう」を教えるときは、ロボットと視線を合わせてにっこり表情豊かに言うのがいいでしょう。すると、ロボットは「ありがとう」が外界の事物に向けられたものでなく、自分に向けられたメッセージであることを知るでしょう。そして、その表情から「ありがとう」の意味がなにかしら「快」を意味することを理解するはずです。

たぶん、すぐれた人間の親はすぐれたロボットを育てることができるはずです。

未来の母親・父親に育児シュミレーションをさせるロボットができるといいですね。

***

いまのところ、わたしにおもいつくのは、ざっとこのくらいのようです。
それにしても、ソシュールからはだいぶ遠いところまで来てしまいました。

おそらく「シニフィエ」というものは、細胞の生理的興奮状態として具体化されているものだと思います。ただし、それは同様に細胞の生理的興奮状態として具体化される「シニフィアン」と区別して取り出すのはかなり困難だろうと予想しています。

たとえば、「いないいない」という「シニフィアン」は、「顔が見えない」という不快な「シニフィエ」と同時に与えられ、まだ「シニフィエ」とむすびつかない独立した「純粋シニフィアン」としての生理的興奮状態を抽出することはできないと思うからです。
「ばあ!」という「シニフィアン」についても同様でしょう。

そのあたりを考えると、感覚器官同士が有機的に結びついている人間と、ばらばらの感覚器官を事後的に結び付けなければならないロボットとの隔たりは大きいという気がします。

話をまとめます。

いったん「シーニュ」が成立した後では、論理的に「シニフィエ/シニフィアン」を区別することは可能であるにしても、そして、ロボットを作るためにはそうせざるを得ないにしても、実際に「シニフィエ」を「シニフィアン」から区別して取り出すことはできない。
ソシュールの考えた「シーニュ」はそのようなものだと思います。

では、「シニフィエとしての概念」とはなにか?
ちょっと質問をずらした回答ですが、「シーニュ」というものを人間が「理解(=ロボットとしてシュミレート可能な形に)」するため、論理的に「シニフィアン」から区別して作り出した仮想的存在、ということになりそうです。

ながながと書いてしまいすみません。
***

この回答への補足

様々な視点からのご回答とフォローを頂き、誠にありがとうございました。いずれも、大変興味があり、それについての補足を書いていたら、あっと言うまに2000+1000文字の制限を越えてしまいました。それで、今、大幅削除したところです。その結果、説明が飛躍したり、コメントできない点が出てしまいました。読み苦しくて申し訳けございませんがよろしくお願いします。

まず、ランガージュという言葉についてです。本など読むと、以下の<定義A>と<定義B>があって、私は混乱しています。

<定義A>
ランガージュは、ラングを生み出すことができるための人間固有の潜在能力で、ラングとして具現化するまでは顕在化しない(ちなみに、ラングは、各言語別の国語で、語彙、文法、用法などの社会規則から成り、パロールは各個人がラングの社会規則に基づいて生み出す個別具体的発話)。

<定義B>
ランガージュとは、言語以前のシンボル化能力(抽象化、カテゴリー化、概念化など)のこと。

私にとって、<定義A>は、”賛成はできませんが”、論理的には整合性が取れていると思います。しかし、<定義B>は、”賛成できますが”、私を混乱させます。理由は、この定義によるランガージュは、言語以前に、抽象化、カテゴリー化、概念化などの能力の存在を認めているように思えます。そのこと自体、私自身は全く異議はないですし、otasuke009さんも、ランガージュを<定義B>のように考えておられるのだと思います(違いますか?)。ただ、もし、これを認めるのなら、「言語が生まれる以前には、何事も分明なるものはない」というソシュールの命題と矛盾してしまうのではないでしょうか。また、丸山圭三朗のように「身分け」などという概念を持ち込む必要もなくなってしまうのではないでしょうか。どう思われますか? ランガージュの正しい定義とは如何なるものでしょうか?


次に、意識か無意識かの問題ですが、otasuke009さんのコメントを読んでいて、大発見(?)しました。それは、私の意識を観察する限り、「○○についての概念」というものは”存在しない”ということに気付きました。例えば、私の意識には、「愛の概念」などは存在しないことは確かです。どうしてかと言えば、私に「愛」とは何か、その概念を語れといわれても、まともに語れないと思うからです。多少、何か語れたとしても、整理されていない、まとまりのないものになると思います。

しかし、私は「愛」という言葉を使った日本語の文章なら多分書けるでしょう。そして、その意味も常識的な「愛の概念」から踏み外さない形で書けるでしょう。これは、一体、どういうことでしょう。結局、私は、「愛の概念」を知っているのではなく、「愛」という日本語の「用法」を知っているに過ぎないのではないか? それを、さらに拡大解釈すると、シニフィエ「愛」は、「愛」の「概念」ではなく、「愛」の「用法」のことなのではないかという疑問が沸いてきました。

意識か無意識かの話に戻ると、先ず、私には「愛」の概念を意識に上らせることはできないという”単純な事実”がありますので、「愛」の「概念」(「用法」?)は、「無意識」の中に組み込まれているとしか言えないと思います。もし、otasuke009さんの場合、「愛」の「概念」が「意識」に浮かび上がっているとしたら、それは、具体的には、どのような形で浮かび上がっているのか大変興味があります。


最後に、ラカンの「S」と「s」の話ですが、正直言って、良くわからないのですが、今回の問題と関連して考えてみる限り、以下のようなことが言えるのではないかと思いました。

(1)otasuke009さんが、<「S」は患者が話した(=意識上の)言葉で、「s」は無意識の領域に隠された秘密の言葉なのです。>と書いておられますが、これは、「S」であるシニフィアンを意識上のもの、「s」であるシニフィエを無意識の領域のものと解釈できますから、非常に納得がいきます。上述しましたように、私は、シニフィエである概念を意識に上らせることができないという「大発見(?)」をしましたし、一方、シニフィアンの方は、バンバン意識に上らせることができることを、”今”、改めて確認しましたので、ラカンの言うことは全く正しいと思います。ひょっとして、私は、「患者」なのかしら。

<以下、お礼に続く>

補足日時:2007/08/08 22:20
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この回答へのお礼

(2)そして、(1)が正しいとすると、私が「話しをする」ということは、意識の上では、「S」(シニフィアン)を選んで並べるだけということになります。とても変な話ですが、”少なくとも”意識の上では、「s」(シニフィエ)はチェックされていません。多分、無意識の世界でチェックされているのでしょう。これは変でしょうか?

(3)また、「S」(シニフィアン)を並べているのは一体誰なのかというのが疑問として残ります。と言うのは、ラングは、語彙、文法、用法の社会規則だとすると、それ自身が「話」を生み出す能力はないはずです。誰かがラングの語彙を選んで、文法や用法規則をチェックして「話」にまとめる作業をしなければ「話」は生産できないはずです。私は、確かに「S」(シニフィアン)を選んで並べているような気がしますが、よく考えてみると、本当は、”めったに選んだりしていない”ように思います。むしろ、”勝手に選ばれて、飛び出してくる”ように思います。すなわち、語彙選択、文法チェック、用法チェック、全部、お任せじゃないかと、ひどい話になってしまいましたが、意識上では何だかそれが正しいように感じます。そうすると、「話」を生み出しているのは全て無意識の働きで、もしかすると、これが、ランガージュなのかなぁなどと思ってみました。どうも結論がはっきりしませんが、こんな感じです。

お礼日時:2007/08/08 22:19

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