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 言葉とは意識的なものを表象していると思うのですが、意識的なもので原子などの無意識的なものを、どんな感じかと想定することができるのでしょうか?
 無意識的なものを人間の感じる感じで構成することができるというのがちょっと納得できないのです。
 ご教授お願いします。

A 回答 (5件)

それは、人間の無意識というものは言語によって構造化されているからです、と少なくともそう考えた人がいました。

フロイトとラカンです。はっきり「言語によって構造化」と規定したのはラカンのほうですが。

「無意識」というと、ふつうは混沌としたカオスのような、光のあたらない闇のようなもの、としてイメージされます。
けれど、ほんとうにそうなのか。

> 無意識的なものを人間の感じる感じで構成することができるというのがちょっと納得できないのです。

というご質問の問題意識の背景にあるのは、こうしたイメージでしょう。

ところが、ラカンによると「無意識」というのは、「言葉」の、それも、意味であるシニフィエではなく音声やイメージの側面であるシニフィアンからなり立っている、というのです。

テリー・イーグルトンは『文学とは何か』(岩波書店)のなかで、アルチュセールの思考を手がかりに、ラカンの無意識をこのように説明しています。

---(p.267 からの引用)--

無意識は、私たちの「なか」にあるのではなくて「外側」にある――もっと正確に言えば、私たちの相互関係の現象として、私たちの「間」に存在する。無意識がとらえどころがないのは、なにもそれが私たちの精神の奥深くに埋没しているからではなく、それが、広大な、錯綜とした一種のネットワークとなって私たちを囲繞し、私たちをさし貫き、それゆえに決して定義できないからだ。私たちの外にありしかも私たちを作り上げているネットワーク。それをもっともよくあらわすイメージは、ほかならぬ言語である。事実、ラカンにとって無意識とは、言語の特殊な効果、差異によって始動する欲望のプロセスであった。
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わたしたちは生物として生まれ、言語を学習する過程で、わたしたちを取り囲む意味慣行に刻みこまれた文化を内面化することで、具体的には言語を学習する過程で主体になっていきます。

わたしたちは言語を使って、さまざまなことをすることができる、と思っている。
ところがそうなのか。
言語は、わたしたちに先だって、わたしたちの外側に存在している。わたしたちを待ち受けている。わたしたちがあるものをほしい、と思ったとき、その言葉を「外から」借りてくるしかない。けれど、それは、すでにそこにあるものです。

自分の欲望と、ほんとうにぴたりと一致するのか。言葉というのは、それ自体、何の意味もない、Aである、ということは、Bでなく、Cでなく、Dでなく……、という差異しか意味しない。わたしたちは言語の差異によって、自分の欲望に形を与え、切り分けていっている。

さらにこの欲望すらも自前のものなのだろうか。
学習の結果、欲望していると思いこまされているのではないか。

言葉は、そこにそのものがなくても成り立ちます、というか、たとえば「わたし」がここにいれば「わたしはここにいます」という必要がない。そこにはいないAさんのことが話題になるとき「Aさんはここにはいないね」という形で、言葉は真に機能します。
つまり、「Aさんがここにいない」という言葉は、Aさんであって、ほかのBさんでも、Cさんでも、Dさんでもない、という「排除」と、Aさんの「不在」によって、初めて意味を持つのです。

言語の世界へ入っていくということは、そのものの「排除」と「不在」の世界に入っていくことです。あらゆる欲望は欠如からうまれる。欠如を埋めようと欲望は努めている。人間の言語は、この欠如によって作用する。
この世界に入ったわたしたちは、もはや安らぐことはない。永遠に続く欲望の餌食になっていきます。ラカンはその世界を「象徴界」と呼びます。

象徴界に入ったわたしたちが失ったもの、それは、言葉を介さない「もの」そのものとの結びつきです。生物として生まれたわたしたちのかすかな名残りが、ばくぜんとそれを感じている。けれどそれを言い表すことになっているシニフィアンは存在しない。
この失われた世界をラカンは「現実界」と呼びます。

現実界がどんなところか、わたしたちは知ることができない。それは、それを指し示す言葉がないからです。だから、わたしたちは現実界を知ることもできない。認識することもできない。にもかかわらず、それはそこにある。そうして、この現実界は、回帰してくる。
言語の外にある現実界は、自我によって歪められ、抑圧されているために、無意識の方へ、夢や言い間違いや、冗談や身体的失調として帰ってくるのです。

ラカンにとって、夢や言い間違いや冗談や身体的失調としての症状は、言語の機能です。

たとえば「夢」を通じてわたしたちは無意識の一端をかいまみることができる。
かりに質問者さんが犬の夢を見たとしましょう。この夢はいったい何を意味しているんだろう、と考えます。自分の無意識はどんなことを伝えようとしているんだろう?

よくナントカの夢を見たら、それは~ということ、みたいな言い方がありますが、そんなふうに「イヌの夢」はひとつの「イヌの夢の意味」に結びつくのだろうか。イヌを飼っている人、イヌが怖い人、噛まれたことがある人、好きでたまらない人、それぞれに「イヌ」というシニフィアンは同じでも、「イヌ」という言葉がつれてくるシニフィエは、人によって、あるいは同じ人であってもそのときの気分によって、まったくちがってきます。
もしかしたら、帰りがけに目にしていた看板「犬山商事」の「犬」の字から来たのかもしれない。

ともかく、言えることは、この夢がなにを意味するかについて、直接的明証性は何もないのです。ただ、言えるのは、この「イヌ」のイメージは、意味を特定しうるものではない。多くのさまざまな意味と結びつけられるシニフィアンのひとつに過ぎない。無意識のうちでは、意味はたえまなく消去され消散し、ひとつのシニフィアンからさらにもうひとつのシニフィアンへとたえまなく横滑りしていく。

だから、夢というのも、一種の言語活動なのです。
けれども、無意識として、自我によって抑圧されているがために、わたしたちには近寄りがたい。この読解不可能な領域が無意識であると。

> 人間の感じる感じ

というのも、自我にとって抑圧されたものが、象徴的なかたちをとって現れた言語活動なんです。そう考えると、それが「どんな感じ」と漠然と想定できるというのも、納得できると思いませんか?

ものすごくたくさんのことを、ものすごく大ざっぱな形で書きました。
用語の誤りやおかしいところもいくつかあるかもしれませんので、できればご自身でいくつかの典拠を当たってみられることをお勧めします。
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この回答へのお礼

>というのも、自我にとって抑圧されたものが、象徴的なかたちをとって現れた言語活動なんです。そう考えると、それが「どんな感じ」と漠然と想定できるというのも、納得できると思いませんか?

無意識とは言葉の規則において矛盾と言いますか、納得できないことがあったりして、それを想定しているということのような気がしました。
 そうすると、無意識的なもの、つまり原子とかは本当はなくて、ただ諸現象の因果関係を説明するために使う便利な記号として置いているということなんですね。
なんかもっとこれを突き詰めていくと世界観が変わりそうな気がしました。
ラカンの無意識の説明について勉強していきたいと思います。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/26 12:31

これは目的論的な問題だと思います。


ある目的AがあったとしたらそのAに対して
意識化されます。
今回Aが無意識ならばAを意識化されるのだと
思います。(当たっているか非かは別として・・・)
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この回答へのお礼

>今回Aが無意識ならばAを意識化されるのだと
思います。

勝手な想像で、Aという感じがあるとしているんですね。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/26 12:02

質問の言葉が少し分からないのですが、原子が無意識的なものなんですか?


見えないし感じれないからでしょうか?
ということは幽霊なんかも見えない人にとっては無意識的なものということになるんでしょうか?
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この回答へのお礼

幽霊とかも感じられないから、無意識的なような感じがしますが、何か勝手に想像していると思いました。
 ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/26 11:59

自分が存在していることを認識する為には言葉によって認識主体を想定しなければならないと思います。

しかしこの想定された自分というのはすでに対象のひとつに変わってしまうと思います。このように考えればいわゆる対象を人間が言葉によって存在を認めているということではないでしょうか。

この回答への補足

>自分が存在していることを認識する為には言葉によって認識主体を想定しなければならないと思います。しかしこの想定された自分というのはすでに対象のひとつに変わってしまうと思います。このように考えればいわゆる対象を人間が言葉によって存在を認めているということではないでしょうか。

しかし、自分というのは、痛みとか、楽とかを感じているものとか、感じることが出来る対象だと思うのですが、原子とか、意識と意識の間にある無意識的な行為とかというのは感じられないものだと思うのです。
 感じられないものを感じるものを表す言葉で、表現できるのでしょうか?

補足日時:2007/07/26 11:55
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的外れかも、参考までに……




私達が自覚する以上のものが、ボディランゲージなどを通じて表に現れることを許すからだ。
近年、意識の意味合いについて新たな認識が生まれつつあることを受け、基本的な道徳の問題を抜本的に見直す議論をする必要性がある。

とはいえ、禁止権説が興味深いのは、高尚でスケールの大きい道徳的議論との関連のみからではない。この説は、いたって日常的な問題を考えるうえでも、実に面白い視点を提供してくれる。
リベットの禁止権説は、意識が機能する仕組みを鮮やかに記述する一方で、日常生活における人間の実像を、根本的に誤解させる説明とも言える。「意識があって初めて意識ができる」という、あの基本原則を思い出してほしい。このコンテクストで考えれば、意識的な禁止を実行できるのは意識だけ、ということになる。ありとあらゆる無意識の欲望に無意識の禁止を課すことはできるが、そうすることは意識には全く関係がない。
意識的な禁止とは、私達が意識できる禁止だ。では、行為を実行する0.2秒前にその決意を禁じるようなことを、実際に私達はどれほど頻繁に行なっているのだろうか?
確かに状況によっては、自分の衝動を頻繁に意識的に禁じるようなこともある。しかし、大抵そんなことはしない。頻繁には起きない状況でしか、禁止が頻繁に起きることはないものだ。例えばこんな場面だ。恥ずかしさと緊張のあまり、足がもつれ、言葉がつかえ、いても立ってもいられず、唐突な身振り手振りを使い、やりかけたことを不自然な形で中断し、奇妙奇天烈な言葉を口走って周囲の人々を愚弄したり当惑させたりする。でなければ、上手くできずにぎこちなく、自分の出来る事と出来ない事に、切ないくらい自意識過剰になり、やりかけては途中でやめ、いかにもきまり悪げな初心者といった面持ちで立ちつくす。
或いは、自分にとって非常に大切なことがあって、それが大切であるが故に、まさしくそのために、全く馬鹿げたことをしでかして、上手くいくものも台無しにしてしまう場合もある。映画『ボギー!俺も男だ』のウディ?アレンのように、女性に触れようと興奮する間中、自分で自分の行為を中断するようなおかしなまねをする。つまりそれは、自分自身について意識したり、行動への衝動を繰り返し抑えていることに気付いたりする、なんとも嫌な場面と言える。
何かしたいという衝動を禁じるのが不快なのは、天罰を怖れるときばかりではない。そのプロセス自体が不快なものだ。ぎこちなく、無様で、不自然なのだ。
やりかけて途中でやめることを繰り返すのは、上手くやれる自信がなかったり、他人の目が気になったりするからかもしれない。私達は、人に笑われるのが恐い。自分を意識しているとき、私達はとにかく自分に批判的になり、自分を外側から他人の目を通して眺めがちだ。
意識的禁止が必要な唯一の理由は、意識的な意図と無意識の衝動の求めるものが違う点にある。無意識な衝動を禁じる行為には、意識と無意識の好みに違いがあるという事実が現れている。この意識の禁止権を発動させずにすまそうと、人はアルコールや精神安定剤、その他もろもろの薬物を際限なく自らに注ぎ込む。私達は、どうにかして自分の衝動を禁じるような場面を避けたいと願う。
とはいえ、意識と無意識との対決という視点は、リベットの見解とうまく馴染む。日常生活における禁止権についての手紙の中で、リベットはこう記している。「意識的禁止が不快な場面でより多く現れるというのは、なかなかいい視点だと思います。ただ、私としてはあまり狭く限定したくありません。他にも、愉快とは言わないまでも少なくとも状況で、意識的禁止はしばしば重要な役割を果たしています。例えば、人に何か言いたくなるのを思いとどまる場合や、子供が今にもやりかねないことを止めなくなる気持ちを抑える場合などです。しかし、意識的な意図と無意識的に始動する衝動との対立などの結果として禁止権を捉える貴殿のお考えは、決して瑣末なものではなく、十分主張する価値のあるものです。
20世紀初頭、デンマーク哲学、心理学者ハラルド?ヘフディングは、禁止権説についても、禁止に不快感が伴うという考えについてもむろん知る由はなかったが、この点についてきわめて明確にこう述べている。「無意識の行動傾向が意識的な思考や感情と同方向を向いているかぎり、人はその傾向にはなかなか気付かない。……殆どの場合その力は、意識に上る動機の力と一体化している。そして、行為全体の名誉や不名誉は、意識的動機のほうに帰せられる」
言い換えれば、私達が無意識に気付くのは、それが意識に反する場合のみということのなる。というのも意識は、自分と自分の持ち主を同一視したがり、無意識の衝動に屈するのを良しとしないからだ。
〈禁圧〉された経験が前意識的性質を持つことを、フロイト派が特に強調してきた理由は、このメカニズムで説明できるのかもしれない。無意識は意識されないという、まさしくそのために、意識は無意識の存在を認めたがらない。そして、人間には意識以外のものもあることを意識が認めざるをえなくなるのは、意識と無意識との間に葛藤がある場合に限られる。そのため、逆説的ながら、かえって〈禁圧〉された衝動ばかりが目につくことになる。

前意識……意識の現前野から外されている心の領域。とっさには意識されないが、無意識へと抑圧されたものではないので、比較的容易に意識化される。

禁止プロセスがたいてい不快感を伴うとしても、そうした意識的禁止を行いうることには変わりがない。使わなくても禁止権は存在する。使ってもいいが楽しくはないというだけだ。それはまた、私達が一番安らかでいられるのは、意識が自由意思を行使しないとき、ということでもある。人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。
しかし、こう考えると、気分のいいときに主導権を握っているのは意識ではない、という事実を突きつけられることになる。すると疑問が浮かぶ。人間は不快なときにしか自由意思を持たないのだろうか?気分のいいときにも自由意思はあるのだろうか?そうだとしたら、それは誰の自由意思なのか?
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この回答へのお礼

>人は、意識を介さず無意識の衝動に従うときが最も幸福だ。ただ行動するだけのときが一番満ち足りている。

確かに、意識して行為をしようと思わなくても、無意識に行為を行いますから、いちいち「~しよう」とか言わなくても満足した動きをするということなんですね。
ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/07/26 11:50

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