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江戸時代の関所ですが、別にそこの関所を通らなくても迂回することは可能ですよね?例えば箱根の関所ですが、やる気になれば街道から一歩山の中へ分け入り、そこから関所を越すという感じでやれば関所を通らなくてもOKのような気がします。もちろん道なき道をわけいるのは面倒で勇気のいることだとは思いますけど、やってやれないことはないと思います。

入り鉄砲・出女と言われますが、鉄砲商人だったら死ぬ気でやれば見つからずにできたと思います。今みたいに山の中へ入ったら装置が作動して電気が付くなんていう事もできなかったと思いますし。あと時代劇とかで出女が関所を通るときに身分を偽って顔を隠すみたいな事をしていますが、これも関所を通らずに別のルートで出て行けたような気がします。

そこで質問ですが、関所はそれなりに機能はしていたと思いますが、本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?

A 回答 (8件)

>本気で回避しようとしたら回避できたのではないでしょうか?



士農工商のうち、農工商については通行手形なしで旅をした人もいるくらいで、回避方法はいくらでもあったようです。
例えば、厳しくて有名な箱根の関所の場合、関所近くの間道にも小さな番所が設けられていたり、森の中に鳴子(ヒモに触れると音が出る)を張ったりしていました。
が、箱根自体を通らず、北の方から迂回するルートはあり、そこの関所をこっそり抜ける道を案内する仕組みはあったそうです。
もっとも、こんな仕組みができるようになった頃には、関所自体、あまり取締が厳しくなくなっていた現実もあるようです。

でも、士分はそうはいかない。
入り鉄砲・出女は武士を対象にした規制ですが、例えば(こんな例はないと思いますが)、大名の妻が江戸から国へ帰った場合、関所を通ったという記録が残っていないと後が大変です。
幕府と戦をするつもりがあると見られてもしょうがない。

身分に関係なく、江戸を出る時は許可を得る必要がありますし、
大名の場合は大目付によって妻子が江戸藩邸にいるかどうかチェックされていましたので、入り鉄砲・出女は関所だけがチェック機関だったわけではないのです。

ただし、幕末になると妻子を国に返してもかまわない、ということになり、出女については意味がなくなっています。
討幕運動が一気に盛り上がれた要因の1つかもしれません。
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#6です。

書き忘れたので足しておきます。
「関所破りは死罪」だったから、関所破りが少なかったはずだというのは危ない発想だと思います。そうだったかも知れぬ、そうでなかったかも知れぬ、というところでしょう。

歴史には、反対の例がいくらでもあります。鎌倉時代以降、政府は武家社会に金銭経済が入り込み過ぎて武家社会の存在を危うくさせないように、繰り返し徳政令などを出して、お金を使わないようにさせようとしました。皆がお金を使いすぎるので、「使うな」という法律が出来たのです。その反対にお隣の韓国(昔は朝鮮)では、昔から政府は繰り返し「お金を使うように」という法律を出しています。皆が物々交換ばかりで、なかなか金銭経済が発達しなかったからです。

日本の教育界では、どこに行っても「個性、個性」と言っていますので、もし外国人が「日本人は世界でも稀に見る個性的な人間だ」と思われてしまったら、きっと日本人は戸惑うと思います。

同じようにアメリカ人は二言目に「フェア」と言う言葉を使うから、アメリカはフェアな国なんだ と考えたら大間違いです。アメリカ人は、貧富の差が先進国では類を見ない程大きな国で、金持ち達が傍若無人に振る舞い、自分の国があまりにフェアでないことに不満を持っているから、「フェア、フェア」と言っているのです。これはアメリカ人に聞いたばかりでなく、私の個人的な観察でも、日本と比べてはるかにフェアでない国であることを確信を持って言えます。

#6でも書いて置いたように、関所破りばかりされていたという現実を認識していたのもその動機の一つとなって、そんな法律を作ったのではないでしょうか。
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日本民俗学者の宮本常一の「塩の道」という本に書いてあったのですが、どこに住んでいても、人間には絶対塩が必要ですので、山国日本のどんな山奥にでも牛が通れる細道が網の目のように縦横に付いていたそうです。

もちろんそんな細道には関所などない。塩を運ぶのに馬でなく牛を使ったのは、牛なら道草を食っているだけで生きて行けますので、餌代が掛からなかったからだそうです。

そして、その塩の道を通って、随分多くの人達が国から国への旅をしていたと書いてありました。また、この塩の道で遭遇する最も怖い出来事はオオカミだったので、それにまつわる話や、それをどう避けるかの工夫に関しての書き物や口承が、明治以前にもいくらでも記録されているそうです。

また、柳田國男によると、日本には明治初期までずっと、山の人とよばれる日本語を話さない野人(多分蝦夷でしょう)が九州から東北まで住んでいたそうです。そして、彼らはときどき和人と遭遇したり、和人と無言貿易(これは指定の場所に、物を置いて来て、互いに見られのないように物々交換をする取引)をしたり、また、ある町では市が立つと、山の人が市に下りて来て、無言で和人と物々交換をしていたという記録が、江戸時代に入ってもあったそうです。

山の人同士は北と南で結構交流があり、多分上で述べた塩の道などを通りながら、東北地方から中国地方まで山を下りずに行き来が出来たみたいです。
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あなたが海外旅行に行く時、もし船を持っていたら、その船でいきますか?


たとえ、勝手に船で行けるとしても、やはり、パスポートを取って、正統なチケットを買って、正式なルートで旅行したほうが楽しいですよね。

それと、同じだと思いますよ。

ちゃんと、手続きすれば、正々堂々と行けるものを、あえて命をかけて犯罪を犯すという事は一般の人はやらないと思います。

「赤城の山も今宵限り・・・」で有名な国定忠治も、バクチや強盗・殺人・恐喝などなど、ありとあらゆる犯罪に手を染めていますが、最後に死刑になったのは、「関所破り」の罪でした。

当時はそれだけ重い犯罪だったので、すでに重い犯罪を犯している人以外は、関所を通ったんじゃないでしょうか?
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何事にも表と裏があるのではないでしょうか。


関所を避けて旅をした町人や村人の日記が残っています。

例えば、伊勢崎の百姓・森村新蔵たちは、全国を旅して数々の見聞記を残していますが、往来手形を持たずに、そのことを深く気にすることなく旅に出ています。
見聞記の解説書によれば
「江戸後期になると、多くの人が旅に出るようになり、無手形の者が増えてきた。そこで関所近くの旅籠、茶店で手形を発行することもあった。」とあります。
事実、新蔵たちの見聞記には、あちこちで「入手形」「出切手」に何百文支払ったとか、支障なく通れたとか、書いてあります。

高橋 千劔破著『江戸の旅人』には、関所破りの実例が載っています。
その一部です。
「清河八郎母子は関川の関が女人に厳しいので夜明け前、宿の者の手引きで細い忍び道を通り、関所の柵木をくぐって抜けた。
新井(新居)の関所を避けて姫街道を辿るがこちらにも裏関所があって女は通してくれないというので夜、船を雇って浜名湖を渡る。
栗橋の関所でも裏街道を通って利根川の高い渡し賃を取られる。どうやら女の旅人を関所役人と結託して食い物にした奴がいるようだ。」

この栗原の関所は、女人に厳しいとされていますが、「しかれどもひろびろとせし平地なるゆえに、二、三里ほどずつもまわり道をすれば、婦人通行のぬけ道いくらもこれありといえり」
だそうです。
そこで、利根川を渡るように仕向けて、渡し賃をせしめた奴がいるということですね。

知恵者は、関所手形なしで通行できる次のような人たちを利用して、禁制品を運んだはずだと思います。

地方回りで興行する相撲取りや歌舞伎役者などの芸人は定住していなく関所手形を発行してもらえないので得意芸や土俵入り(化粧まわしを見せる)を披露し認められれば手形なしで通行できました。猿回しや角兵衛獅子は親方から証明をもらい、関所では芸を披露したそうです。

箱根の関所も厳重だったのは、幕府の基盤が不十分であった江戸初期だけではないですか。
幕末も世が乱れてくるとどうだったのでしょう。

このHPは、専門家のものではないですが、それだけに新鮮ですばらしいです。
無断で紹介します。後半に関所のことが書かれています。

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/henro-sanpo …
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文字通り「死ぬ気で」やれば可能です。

幕末の脱藩浪士など実際に間道や山道を歩いて突破した人間もいます。もちろん捕縛されたら死が待っています。

坂本龍馬も関所破りをして脱藩した1人でした。
高知城下を出奔した龍馬は、伊予に抜けるルートを選択し同志の沢村惣之丞と西へ向かってひたすら歩きました。そして、関所がある場所の同志である那須俊平、信吾親子の道案内で番所を破り、四万十川を遡上、土佐藩最後の関所である番所を抜け脱藩したみたいです。地元に伝わる口伝によると、龍馬は「坂本龍馬まかり通る」と堂々と名乗って関所を抜けたのだとか。


しかし、そうやって関所を突破しても、場所ごとに行われる宿改めなどで関所破りが発覚する可能性がありました。
さらに、江戸時代の村落はとても閉鎖的で狭い世界だというのを忘れないでください。もし自分の村や山に見知らぬ妖しい者がいたらすぐにその話は全村に筒抜けです。もちろん自分の村を守るため発見者は積極的に村中に触れ広めるでしょう。そうなれば結局はお上に届き探索され、行き着く先は捕縛です。特に関所近くの山中にそのような者がいたら、その可能性は飛躍的に高まるのではないでしょうか。



江戸時代を通じて世界一と言われる治安の良さの一因は、実はこのような相互監視的なところにあったんじゃないかって思います。
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本気で回避しようとすれば回避はできます。


つまり、江戸幕府を打倒するつもりであれば、できます。
ということで、江戸幕府を打倒するための軍事行動を起こすために必要な鉄砲搬入量を検討してみた。
種子島銃が2~4キロ、弾も含めると5キロとして、軍事的に意味のある単位と考えると、一師団と考えて、1万から2万丁が必要。戦国時代の軍事単位3千人として、一千丁は最低限必要でしょう。
とすると、5000キロ=5トンとなります。
歩兵の標準的な装備重量が20キロですので、250名程度の人員が必要となります。
数名が山中突破することは可能かもしれませんが、250名が山中突破することは少々無理かと。

数丁をサンプルのように、数名で持ち込むのであれば何とかナルでしょうが、その場合のリスク、大名家であれば当主切腹、大名家取りつぶし、商家であれば当人獄門、商家は闕所、これを考えると見合いません。
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本気でやれば出来たでしょうが、関所破りは重罪で、本人はもちろん、家族、親類にまで罰が及び、死罪になります。


ですから、密輸をするなら、関所の役人まで抱きこむことが多かった筈です。
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