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人は何のために生まれてきて、何のために死ぬのですか?
何かの病になり、痛い思いや辛い思いをして死んでいく。
生きていくことさえ大変なことなのになぜ死ぬときまで、
辛い思いをして死んでいかなきゃいけないのでしょうか。

A 回答 (14件中1~10件)

ここにいるのは意外ですか、当然ですか、それとも自然ですか。



いずれにしても自由だからここにいるのではなく、自由ではないからここにいるのです。自由でないのは理想と現実にギャップがあり、これを埋められないからです。実に、このギャップが、物事を定義し、導き、行動させ、しかも誕生させているのです。

この世界さえもが完全にここに存在しているのではなく、不完全だからこそ存在しているのです。

存在の原因たる生は死と同一であり、その源たるSEXが誕生の象徴的な特異点なのです。いわば快楽と苦痛は、同一のものであって、一方だけでは成り立たない性質を帯びています。至高のエクスタシーと究極の断末魔は同一です。コントロール不能な自我を忘れるこの地点に、あなたは、もう、いないのです。

あなたがいない以上、辛いも悲しいも楽しいもうれしいもことごとく何もありません。
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この回答へのお礼

ご回答してくださった皆様、どうもありがとうございました。

お礼日時:2007/09/03 02:32

なかなか壮大な疑問ですね、人類のテーマですよ!


しかし、その答えはあまりにも難しいので、
疑問の解決に繋がる本のリンクだけ貼っときますね。
http://item.rakuten.co.jp/book/1644846/
何も考えないで生きている人より、疑問を持っている事は大変素晴らしいと思いますよ!
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 個人的な考えですが、生まれることや死ぬことに意味なんてないと思います。



 あるのはただ、生まれてきてしまい、そしていつか死ぬという事実、そして残酷なこの現実の世界だけだと思います。

 質問者様は、私のように、人生につかれていらっしゃるのでしょうか。

 もしそうだとしたら、「あるのはただ、事実と残酷な現実だけだ」と割り切り、自分にできる精一杯のことをやって生きてみてはいかがでしょうか。

 私も、何のために生まれたのか、何のために死ぬのか知りたいです。

 もし答えが分かったら、私にも教えてください。
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こんにちは。


いま現在、質問者さんの心の中にはどの程度のゆとりがありますか?
我々人類には生きることの理由を知り、その価値を見出すことはできません。
何故ひとは生まれ、死んでゆくのか?
これは、この世の慣わし、即ち「決まり」であります。ですが、「この世」というものが何のために存在し、何故そのような構造になっているのか、この理由が全く分かりません。
何故宇宙が存在し、何故そこに地球生命が誕生し、我々は何故遺伝子の存続という使命のために生と死を繰り返されなければならないのか。このようなことは現在の科学でも全く解明されておらず、そしてこの先、人類の如何なる英知を以ってしてもその答えを見付け出すことは永遠にできないと思います。従いまして、「この世」というものが何のためにあるのか、その理由や目的が分からない限り、我々が生きることの意味を理解し、その価値を評価することは永遠にできないということになります。
このように、生と死といいますのは定められた運命であり、我々はその理由を知ることはできませんし、結果を変更することもできません。ですから、まずこれは受け入れる以外に手段はありません。そしてこのためには、心に「ゆとり」というものが必要となります。

只今ご説明致しましたように、生きることの意味を説明することができないのは、我々は理由や目的の分からないものに評価を下し、価値を見出すということができないからです。では、その理由や目的が分かっているのであるならばそれは可能となります。
我々生物にはその生命活動を実現するために「食欲」や「性欲」あるいは「危険回避」といった生得的な機能が備わっています。どうして生命活動を実現する必要があるのかは全く分かりません。ですがこのため、当面、実現の可能な目的とは必然的にその「欲求の充足」ということになります。
従いまして、我々が生きることの目的とは、美味しいものを食べ、楽しいことをいっぱいして友達をたくさん作り、恋人と巡り会って幸せな家庭を築くことです。そして、これに対して障害となるものが「苦痛」であり、これを排除することによって目的は達成されます。ならば、この結果に対する評価が「幸福」であり、それが即ち「人生の価値」ということになります。

このように、我々生物は「食欲」や「性欲」といった予め定められた目的に対して結果を評価し、価値を見出しています。ですが、質問者さんもご指摘なさいます通り、果たしてここにはひとつ重大な問題があります。
人生の価値とは幸福であり、幸福とは欲求の実現であります。ところが、欲求には限りというものがありません。では、「苦痛」とはそれが阻止されることによって発生するものであります。ならば、我々に欲求というものが存在する限り、苦痛もまた次から次へと生み出されてくることになります。これが、生きることそのものが苦痛であることの原因です。
お釈迦様というのはたいへん立派なひとでありまして、全ての人々をこの生きることの苦しみから救い出すためにはどうしたら良いかを知るために出家なさいました。只今申し上げました通り、苦痛とは欲求によって発生するものです。ならば、欲求を持たなければ良いというのがお釈迦様の結論であります。全ての欲求を「煩悩」として排除するならば、人々はあらゆる苦痛から開放され、永遠の幸福を得ることができます。
では、いったいどうやって全ての欲求を排除するというのでしょうか。

欲求を排除することができないのは、それが運命付けられているからです。では、運命である以上、それは生や死と全く同様に、目的が不可知であり、絶対に変更することはできないということです。ならば、最初に申し上げました通り、このようなものは受け入れる以外に手段はないわけです。
我々は「食欲」や「性欲」など運命として定められた目的に対して結果を評価し、価値を判定しています。これがどういうことかと申しますと、我々が受け入れられないのは運命ではなく、結果の方であるということです。そして、相手は運命である以上、その結果を変更することは絶対にできません。ならば、変更すべきは自分の内面ということになります。そしてこのように、己の内面を組み替えることによって外界の結果を変更することを「慈悲」といいます。

何が幸福であり、何が苦痛なのか、このようなものは自分の心の持ちようによって結果がころころと変わってしまいます。ならば、自分の身の回りに発生する様々な現象の全ては形のない幻でしかありません。お釈迦様は、この世の全ての現象は「実体のない無」であることを知り、それに惑わされてはならないと仰っています。煩悩を排除するというのは、こうゆうことだと思います。
結果を受け入れることができないのは自分の価値観に惑わされているからです。ですから、これを持ち替えるならば受け入れられない結果というものは発生しなくなります。「慈悲」といいますのは、これによって運命を受け入れるわけですから、自分の死を受け入れることもまた可能ということになります。

実際に可能であるかどうかは私には分かりません。ですが、お釈迦様が見出そうとしたのは、この世の全ての生命に適応する極めて客観的な「究極の価値観」であります。ですから、このお釈迦様の理論といいますのは、現在でも主観に惑わされる人類がより正しい選択を行なうための道標となります。
全ての欲求の実現を幸福としますならば、その分だけ苦痛が発生します。
これでは、
「自分はいったい何のためにこんなに苦しまなければならないのか」
結局、どうしてもこういうことになってしまいます。
では、主観を離れ、自分の価値観というものをもう少し広げます。そして、何が「真の幸福」であるのかを客観的に見極めることができるならば、余分な苦痛が生み出されることはありません。
あれも分からない、これも納得できないでは、人生あせるばかりで心にゆとりというものがありません。ですが、如何なる結果であろうとも受け入れることができますならば、これがその分だけ「心の余裕」となります。
人生とは理由の分からない自分の運命と対峙することであり、生きるというは誰にとっても苦痛であり辛いことです。ですから、これに立ち向かうためにはどうしてもそれを受け入れられるだけの心の余裕というものが必要となります。そしてそのためには、我々はより客観的で幅の広い価値観を養わなければなりません。

言い忘れていましたが、このご質問に対する回答は「分からない」というのが結論です。それ以外、だらだらと書きましたのは単なる私のアドバイスです。どうか質問者さんは、心にゆとりというものを持ってご自分の人生と向き合って下さい。
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私は仏弟子ですので、ご参考になるかどうか判りませんが、この哲学的な質問に対して仏弟子としての立場からささやかながらお答えさせていただきます。




簡単に言えば、仏教、特に釈尊が亡くなられて最初に編纂された釈尊直説と言われている阿含経典の中で釈尊は、人は死んでも「渇愛(タンハー)」による「異陰(いおん)」という火種が残り、それが「業(カルマ)」の風に吹かれて他の新しい依る所を求めて燃え移り輪廻転生していくのである、というように説かれています(雑阿含経-身命経)。

「渇愛(タンハー)」とは、喉の渇きという意味で、釈尊はこの言葉によって激しい欲望や執着を表現しました。俗に言う十煩悩の元となる根源的な執着のことです。

「異陰(いおん)」の「陰」とは集積や集まりのことで「五陰」(つまり色・受・想・行・識(色は物質や身体、その他は精神作用)のこと)を意味します。つまり、「異陰」とは、異なる「五陰」、つまり次の肉体に宿る元となるもの、という意味です。

「業(カルマ)」とは、おそらくご存知とは思いますが、輪廻を動かしている見えない力のようなもので業力とも呼ばれます。釈尊登場以前から、業報輪廻思想としてインドではバラモン経の聖典「ブラーフマナ(祭儀書)」「ウパニシャッド(奥義書)」に説かれており、初期ウパニシャッド時代(紀元前800~500年頃)には既に確立されていた概念です。


釈尊は、当時インドに様々な宗教指導者(多くのバラモンや六師外道と言われる他の指導者達)がいた中で、唯一、ある人が死んだ後どのような境界でどこに生まれるのか、ということについて明言していました。もちろん他の指導者達はそのようなことについて話をすることはありませんでした。

そのことが、バラモンやその他修行僧達が集まったある会合で大きな話題となりました。それについて、釈尊に質問をしにやってきた外道(仏教以外)の修行僧セーニャ(仙尼、男性です)との問答が、やはり釈尊が亡くなって最初に成立した阿含経典郡の中に残されています(雑阿含経-仙尼経)。

その中で釈尊は、次のように説いています。

人の生命(我)は永遠に続く(常見)ものでもなく、また死んだからといってそれで生命(我)が消滅してしまう(断見)ものでもない。

人の生命は因縁所生のものであり、諸々の愛欲を断じて煩悩を滅断すれば、来世に生まれる元となる「五陰」を生じることなく自ずから解脱してしまう。

しかしながら、自分の弟子の中にもその真理を悟るものは少なく、「我慢」(我執のこと)の煩悩が断ち切れないために生きていた時の「五陰」が無くなっても「異陰」を相続し、輪廻を断ち切ることができない。

そして、その「我慢」という「渇愛(タンハー)」には人によって様々な種類がある。それを見れば、その者がどのような生命になってどこへ生まれていくのかは一目瞭然である。

そこで、あの弟子はあそこに生まれた、またどの弟子はいつどこでどのようになって生まれるであろう、と死後の行く先を解説するのである。

しかし、修行によって「我慢」を断滅すれば、転生する元が無いためそういう弟子の死後については解説しないのである。


釈尊は、このように煩悩を絶ち、業力から解き放たれ、輪廻から解脱して涅槃(ニルヴァーナ)という特別な境界に到達する方法、すなわち修行法を弟子達に教えられました。

この涅槃(ニルヴァーナ)に至った人のことを仏陀、または阿羅漢(アラハン、アルハット)と呼びますが(残念なことに後世になって阿羅漢はもっと低い意味に変えられてしまいましたが)、釈尊の直弟子には修行の結果、仏陀・阿羅漢になった弟子がたくさん輩出されました。

ちなみに「成仏する」という言葉があります。
現代では、単純に死ぬとかあちらの世界に行くとかといった意味になってしまっていますが、もともとは「仏陀に成る」ことであり、輪廻からの解脱を意味します。

ご存知の通り、釈尊は生老病死の四苦からの自己の解放を目指して修行されました。
「6年麻麦の行」と言われる1日に1粒の麻の実と麦の実しか食さないという過酷な修行を経て、何度もゴータマ(釈尊の本名)は死んだと噂されましたが生き延び、そして最終的には苦行を離れ(捨てたのではありません。釈尊は意味の無い苦しいだけの修行は否定されましたが、解脱のために必要とされる修行は弟子達にも積極的にさせました)、村娘スジャータから乳粥の供養を受けられて肉体を少し回復させた後、菩提樹の下で瞑想に入りました。

そして、その瞑想により、仏陀としての智慧(阿耨多羅三藐三菩提-あのくたらさんみゃくさんぼだい)を獲得され、輪廻から完全に解脱されました。それ以降、釈尊は自らを「全てに勝利した者」「修行完成者」などと呼ぶようになります。

この「仏陀の智慧」というものがどのようなものであるかは、マツジマ・ニカーヤ(中阿含経)に説かれています。

簡単に言いますと、釈尊の瞑想中、自分自身の前世に心の眼が向けられていき、一生、二生、三生、十生、二十生、そしてこれまでの無限のご自分の生涯の生まれ変わり死に変わりする光景を目の当たりにされました。そしてこれを第一の智慧とされました。

そして次に、その眼はあらゆる衆生の姿に向けられました。超人的な眼力でその姿を見、貴いもの、卑しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なもの、それぞれの宿業が渦巻いている様を見た、と説かれています。これを第二の智慧とされました。

そして最後に、苦集滅道の四諦(四つの真理)をありのままに知り、自分自身の心があらゆる存在の相(すがた)から全く解放され、再びそれに執着することは無くなった、と説かれています。これを第三の智慧とされました(漏尽智-煩悩を絶つ智慧)。

これは私個人の理解ですが、釈尊は最終的に深い深い瞑想に入り、様々な衆生が、どういう「渇愛(タンハー)」によって「異陰」を生じ、それがどういう業(カルマ)の風に吹かれてその結果どうなるのか(因果応報)、をつぶさに見知ったことで、無限に続く輪廻から解脱する方法を理解し、自らも断ち切ることができた、ということではないかと理解しています。


また、輪廻から解脱して仏陀・阿羅漢となられた釈尊は、常人から見れば全く理解し難い行動も取られました。

例えば、ある時、釈尊が数人の弟子を連れて托鉢に出掛けられた時のことです。
その時、道が二手に分かれており、釈尊は右の道に進まれました。それを見て弟子の一人がこのように言いました。
「師よ、道を間違われたのではないでしょうか。こちらの道は貧しい集落に続く道です。特に最近は飢饉によってますます酷い状態のため托鉢をしてもあまり大した結果が得られないのではないかと思います。一方、左の道は大地主や大金持ちの人達がいる町に続く道です。彼らは師のお越しをお待ちしていることと思います。」

それに対して、釈尊はこう応えられました。
「そのようなことは知っている。貧しい集落の者達は前世において貪りの心が強かったために、現世においてそのような境界に生まれているのである。彼らがその境界から抜け出すには貪りの心を捨てなければならない。私は、彼らを救うため、彼らに利他の心を生じさせるために托鉢に行くのである。」

そして釈尊の一行はその集落にしばらく滞在して法を説きました。村人達は全員帰依し、後にみなニルヴァーナに至った、とされています。

托鉢は当時から大変重要な修行の一つで、比丘(修行僧)の托鉢に応じて供養する(何かを捧げる)ことにより供養した衆生は功徳を積むことになるため、それを理解している人々は進んで供養し、比丘達はそれを謹んで受けます。托鉢は単なる物乞いではなく、人々に利他の心を生じさせるための大切な修行なのです。

通常の感覚では、貧しい人々からさらに何かを出させるという、まさに首吊りの足を引っ張るような行為ですが、因縁因果の本質を体得している釈尊からすればそれは全く逆だったのでしょう。彼らを本当にその境界から救うには、貪りの心を捨てさせ、利他の心を生じさせることが重要で、彼らがどのくらいの分量を釈尊達の托鉢に応じて出すことができるのかは関係無く、たとえわずかでも構わない、それによって利他の心を生じさせることができれば彼らは救われる、ということなのでしょう。

釈尊は、それを弟子達に理解させるために、敢えてこの托鉢行をおこなったのかもしれません。


さてさて、大変長くなってしまいましたが、ご質問の答にいくばくかはなったでしょうか?

私自身は「生まれてきたことの目的は?」と聞かれれば、
「人はみな、何度も輪廻を繰り返す結果、最終的には輪廻からの解脱に向かいたいと思うはず。だから、楽しい人生や辛い人生など様々な人生を重ねながら解脱に向かって少しずつ進んでいるのではないかと思います。解脱しない限り永遠に続くだけなので。」
と考えています。

死ぬことの意味や、辛い思いをして死んでいくことの意味も同じです。
先述の通り、辛い思いをして死んだとしても、それで終わりではありません。
どうして辛い思いをして死ななければならないのか?
その原因は、自分自身が潜在的に持つ「渇愛(タンハー)」から発生した煩悩にあり、それによって業力が働き、そのような結果になってしまう、ということです。
何か他のもののせいでは決してありません。
自分自身が創り出している結果なのです。

ただ、その場合でも救いが無い訳ではありません。
釈尊は残してくれています。
そうなってしまう前に、幸せな人生が送れるように、また死に際しても穏やかな死を迎えられる人生となるように、早く自分自身の軌道を修正して、生きているうちに今の「五陰」を変えてしまう、あるいは死に際して「異陰」を断滅する(完全解脱する)ことまでは難しいとしてももうちょっとましな「異陰」になるように準備しておく、という方法を。
それが、釈尊が一生かけて説かれたことです。

以上、一般常識とは全く異なるため異論があるかとは思いますが、一仏弟子の意見としてご参考になれば幸いです。

お互い精進致しましょう。

合掌
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生きているんじゃなくて、生かされているんです。

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難しいですね。


とりあえず生きているのですから、好きなことを夢中になってやる。
満足して人生を送ることが出来れば、死も通過点でしょう。
次は楽しい苦の無い天国です。

何かの病、痛い思い辛い思いが現実問題であれば、こんな回答では、納得できないでしょう。
でも、わずかでもそれを乗り越え、少しでもこの人生で、自分の楽しい目標、希望に向かってだと思います。あきらめない事ですよね。
考えようでこの世は天国にも地獄にもなるのですから。

最近は一般的に人間は何回も生まれ変わって、魂を成長させていくと言う事が、本、テレビなどで紹介されています。
それぞれの人生で、さまざまな経験を積んでいく、なんて言われていますが。
本当かどうか私には分かりませんが、そう思うと今困難な事があっても、少しがんばって見ようかな、なんて思います。
永遠に続くのですから。
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それは哲学です。


だれも万人を納得させる答えを出せません。
それを問い続けながら生きていくのが人間でしょう。

自然科学の方面からなら、簡単な解答をできます。
純粋に遺伝子をより多く残すためのシステムです。

子孫繁栄(子づくり)の家庭に快楽があり、
死に至る過程に苦痛があるからこそ、生物は滅びません。
これが逆だったら、あっという間に滅びます。
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人は第3者とかかわって生きていきます、何のために生まれてきて何のために死んでいくかはその人が生まれて成長していく過程でその意味を理解していくのでしょう、一概には言えませんが宗教等では「人とは」といった概念をもち、その概念に共感できる人たちが集まり、生きる意味等を考え続けるような意味合いも持っているのでしょう。


ただ、その宗教で定められている善行を積めば幸せな生活が送れて幸福のうちに死んでいける、また死んでからも極楽にいけると考えている人が多くいると思いますが他力本願な考え方では喜びや哀しみ、怒りといったような本来誰もが平等に得られるべき事を自ら放棄してしまうことにもなりかねません。
lllailllさんは深い哀しみや絶望があって虚しくなってしまったのでしょうか?生きていくことは大変かもしれませんが、その中で楽しいことや大切に思える人が出来てlllailllさんの考えているような自分の存在理由が見えてくるのではないでしょうか?

ちなみに私が自身で感じる生まれてきた意味は、むかし考えた理想の自分に近づくことです、もちろん理想の自分もどんどん成長していってしまうのでなかなか近づけないのですが。。。。
私はあまり恵まれた才能等はありませんが、いつかは「こうなりたい」と思える自分になりたいものです。
例え痛い思いやつらい思いをしても頑張りたいですね。
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誰もが明確な答えを出せない難問ですね。

哲学的に考えると人間はこの世に修行をするために生まれてきたそうで肉体を持つという事は苦しみや楽しみを経験することです。修行を終わった者は肉体から離れて元の場所に帰るとか、死はこの世での修行の終わりで誰も同じ楽しみ同じ苦しみを修行するそうです。自殺は修行を自ら拒否する行為で最も悪行だとか早く自然に死ぬ人はこの世の修行がすでに終わった人だそうです。悪事を犯して処刑される人も病気で亡くなる人もいずれも修行の終わりだそうです。楽な人生だった人は死ぬ時に一度に修行があるとか、いずれにしてもこの世に精神を鍛える目的で生まれてくる修行が終わると帰るこれが死だと教えてるところが多いようです。説明が下手ですけど。
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