古来御譜代と大老職
江戸初期において、徳川四天王のように十数万石の所領をあずけ置かれた古来御譜代の大名(⇔小名)にとっては、老中職(年寄職)は彼等には役不足ということで老中に任じられることはほとんどなく、逆に功臣の家々だから城に詰めて日々の政務・加判に従事することを免除されてゆるりとすることを許されていたということですが、老中はともかく非常置の大老職となると話は別だと思いますし、事実、譜代筆頭の井伊家は多くの大老を輩出しています。
井伊家以外の鶴岡酒井・榊原・本多といった家々はなぜ大老を輩出できなかったのでしょうか?
優遇により江戸初期において幕政に参与しなかったことにより、その頃に幕閣に入閣する先例をなさなかったことが影響して、逆に幕政から遠ざけられる結果となったのでしょうか。
回答(2件)
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No.2ベストアンサー10pt
御譜代と称せられる家は本来武勇でもって成立した家で徳川家を守護するのを役目としたものです。
従って武勇の道に励み、政治などに煩わせられぬよう配慮されたのです。
しかし平和が長く続き次第に内治が重視されるようになるとこういった慣習は影を潜め内治、外交などの能力と共に、武力も兼ね備えた人物が重用されだしました。
本来江戸幕府は武力と内治とは分離して統治する制度を保ってきたのです。 これは各家の配置にも現れています。
この回答へのお礼
譜代は表大名の古来御譜代と御取立ての御譜代(詰衆・詰衆並)に峻別されていたようですが、帝鑑間席の古来御譜代には、政治などに煩わされないような配慮があったということですね。
>本来江戸幕府は武力と内治とは分離して統治する制度を保ってきた
旗本衆の番方と役方にも同じことがいえるのでしょうね。
ありがとうございます。
No.1ベストアンサー20pt
お殿様たちの出世―江戸幕府老中への道 (単行本)
山本 博文
でも、ご指摘のような事を書かれていました。
自分の解釈では、老中は、現代の官房長官みたいなもので、将軍が首相。徳川四天王のような、大身の譜代家は、自民党の派閥の領袖のようなもの。官房長官では役不足。ところが、将軍が政治の現場から離れていったので、官房長官が首相役になった。
井伊家が大老を輩出したのは、堀田正俊(1684まで)以降、100年間の間に井伊家からしか(実質一名ですが)大老が出なかったという慣習が強いのではないでしょうか。
この回答へのお礼
>老中は、現代の官房長官みたいなもので
初期はそんな感じだったのでしょうね。
綱吉や吉宗の頃になると、より側近の秘書官(側用人・側取次)が権勢を握ってくるのですね。
家光あたりまでに年寄になっていた家(阿部や稲葉など)が、数度の加増により四天王に比肩する十万石以上の大身となり、さらに御役家として老中を多数輩出しているようですから、(初期と中期以降とでは老中職の性質の変遷があることが大きいのでしょうが)結果的には彦根以外の四天王家は冷飯を食う羽目になったということなのかもしれませんね。
播州姫路、出羽鶴岡や越後高田など軍事戦略上の要衝の地を任されているので決して軽んじられている訳ではないにせよ、家格が高すぎて政治的権力を得ることが出来なかった古来御譜代の当主には歯がゆさもあったのでしょうか…
ありがとうございました。
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