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物理法則とは宇宙が生まれたとき、あるいはそれ以前から決まっていた事なのでしょうか?
それとも、人間がその物理法則を発見(観測)したときに、それまでいくつもの物理法則がもやのように存在していたのが収束して、一つの法則しか存在しなくなったのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

ANo.7です。



> チコ・ブラーエの観測について。
> それ以前の最も始めに天体を認識した存在によって、天体の存在が観測され、占星術師によって、動き方が観測され、そのあとチコ・ブラーエが観測したときには、すでに収束は終わっていたと仮定します。

まず第一に、その仮説を物理学として主張するのであれば、何らかの観測事実に基いていなければなりません。もし根拠とする観測事実や、将来に検証する手段を考えることが不可能なのであれば、その主張は物理学の範囲外でなされたものということになります。

そして、法則というものの言葉の解釈の問題になりますが、現代の科学で言う法則は、それ自体は(その適用範囲内では)いつでもどこでも成立つものでなければなりません。

もし法則自体が変化するのであれば、その変化に関する法則を求めようという話になり、それが求められた暁には、そこまで含めた全体が、実は法則と呼ぶべきものだったということなるわけです。

つまり「法則」というものの定義に普遍性ということが含まれているのです。当然どんな法則にも適用範囲があり完全な法則は存在しませんが、その適用範囲内では普遍的でなければなりません。ある法則が普遍的でないという主張をしたとすれば、それはその法則がそもそも不完全だという主張と同義になります。

そして確かに、そのような「法則」という言葉の定義にあてはめたときに、ケプラーの法則や、ニュートンの法則が、真に普遍的な「法則」であるということを、厳密に証明できる人はいません。例えば、観測データがそろう以前も含め過去のすべての時点でそれが成立っていたことや、極端には明日急にそれらの法則が成立たなくなることが起きないなどのことを、数学のように厳密に証明することは不可能です。それは物理法則が根拠とする観測データは常に有限であり、そこから無限の情報を含む普遍的なものを求めようとした結果が「法則」だからです。

しかしながら、それらの「法則」は、現時点で観測されたあらゆる現象に基いて考察した結果、ある適用範囲の中では普遍的であろうと、多くの人が信じ、その人々によって「法則」と認められているわけです。実際、その適用範囲・精度の範囲内では、過去にさかのぼるとそれらの法則が成立たなくなりそうだとか、未来のある時点で成立たなくなりそうだということを示す観測事実は存在しません。

要点は、物理学は観測事実に基いて議論を進めなければならず、「法則」は観測事実から帰納法的に導かれたものか、もしくは数多くの観測事実により検証されたものでなければならないということです。そして観測事実が有限である以上、どんな法則も厳密に証明することはできませんが、数多くの観測事実に照らし合わせて普遍的に成立つであろうと考えた多くの人々によって「法則」と呼ばれているわけです。

逆に言えば、物理学で出来ることは、より数多くの観測事実と比較して、より正しそうなものを見つけるところまでであり、どんなに多くの観測事実をもってしても納得しない人々や、観測や立証のしようがないことを主張している人々を説得することは、物理学の範囲内では原理的にできないのです。

そのかわり、そのような主張の中には物理法則の成立不成立に関するものは含まれることができません。もしそのような主張が含まれるとすれば、それは物理学の土俵の上の話とみなされ、観測事実による裏づけや検証可能性を示すことを要求されることになります。


> ケプラーの法則は発明でないと言い切れるでしょうか?
> 別の説明の仕方が採択されれば、そこから異なる物理法則の宇宙が始まっていたと考えることは、否定できるでしょうか?

これについては、間違いなく言い切れますし、否定できます。ANo.7にも書いたように、ケプラーの法則というものがケプラーの頭の中でまとまり、公表された時点よりも、ずっと以前から明確で詳細な観測データがあったからです。しかも法則の発見者が知らなかったデータが後から見つかるのもありがちな話です。

もしご主張のように、チコ・ブラーエの観測終了時が、「収束が終わった時点である」という文脈で言うならば、法則の発見が実は「発明」だったということではなく、チコ・ブラーエの観測データが「発明」だったということになります。そして、チコ・ブラーエはケプラーの法則を暗に予見しつつ、極めて大量の観測データを何年にもわたって「発明」し続けたことになってしまいます。しかも最初の一つ目のデータからです。その話をチコ・ブラーエが聞いたらさぞかし憤慨することでしょうが(笑)、そうでなくても私にはそのような考えは極めて不自然に見えますし、そのように考える根拠も見当たりません。

またANo.7の繰り返しになりますが、法則の発見は、ごく少数の人間によってなされたものであり、天体の運行が、その時点で急に変化するなどということや、その発見が多くの人に広まるに従って天体の運行の様子が次第に変わっていくなどということは現実にはなかった(あれば歴史書にそう書かれるでしょう)ことも、「法則の収束」という考え方を否定していると思います。

例えば、「物の色」でさえ、基礎的な物理法則に関係しています。実は物の色というものは、量子力学はもちろん、電磁気学や相対性理論にも関係しています。新しい物理法則が発見されるたびに、世界中の物の色が変わって見えるでしょうか。そんなことは見たことも聞いたこともないですし、有り得ると考える根拠もありません。ご主張の仮説が正しければ、物の色に限らず、大きさや硬さや物質としての安定性も含む、ありとあらゆるものが極端に変化していくことになってしまいます。
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この回答へのお礼

ぐうの音も出ないです。
分かりやすく丁寧にご指導頂き、ありがとうございました。
悔しいので反論を考えましたが、さしあたって思いつきませんでした。
私の中では説得力100%ですね。
むしろ嬉しいです。

お礼日時:2007/08/29 06:20

#9です。


矛盾だとは思っておりませんが、なにか判った気にはなれないといっているのです。

私にとって不思議なのは、ガリレオの有名な「数学は自然を記述するための言語である」という言葉です。

前にも述べましたが、数学は自然科学ではなく、人間の頭がこの宇宙に無関係に造り出したものです。

数学のこの有用性の多大な証拠を見せられ、そして現在この高度に発達した数学を見ると、彼の言葉は不思議でも何でもないと思う方もいるかも知れません。しかし、それは証拠を見たから言えることです。

ガリレオの時代には、まだ微分も積分も知られていませんでした。今の小学校で教わる算数とユークリッド幾何学だけだったのです。そして、そんな簡単な算数だけで記述できた現象なんて僅かな物で、証拠不十分だったのです。なのに上の言葉が出て来たのです。私には神懸かりとしか思えません。

私は経験を積めば積むほど彼のこの言葉の重みを思い知らされています。

物理学を勉強して量子力学を教わると、皆さん、観測量は数ではなくて演算子だと聞いてびっくりします。なにかミステリアスな気になるものです。しかし私に言わせると、観測量なる数が存在すると言ったガリレオの神懸かりが最も驚きだと思います。一旦自然は数学で記述出来ることが分かったら、観測量が数だったり、関数だったり、演算子(すなわち、関数の関数)だったり、関数の関数の関数だったりしたとしても、不思議だとは思えません。くどいですが、一番ミステリーなのはガリレオの神懸かりだと思っています。
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この回答へのお礼

私は時々子供に勉強を教えているのですが、その子供がとっても成績が悪いのです。
ところが、知らない人が訪ねてきたときだけ、頭が良くなるんです。
妙に。
算数の入試問題とかですけど。
それがまた、答えは確かにあってるのですが、解説を聞いてもどうやって解いたのかわからないんです。
それに速いんです。解き終わるのが。

彼も小さなガリレオなんですかね。
遠く及ばないとは思いますが。

お礼日時:2007/08/29 23:26

このような問題はまず「物理現象」と「物理法則」を区別するところから始めないと訳が分からなくなると思います。



物理現象: 人間の所作(知覚、思索、科学的発見)とは無関係に存在するもの
物理法則: 物理現象に与えられた人間の所作の結果

とすると、「物理現象」は宇宙が生まれたとき、あるいはそれ以前から決まっていたと言えると思います(もちろん違った形の物理現象が起こった可能性はあります)。そのような現象を説明・理解・予測・利用する方法が「物理法則」ですから、人間が発見して初めて物理法則が定まったと言えると思います。

この意味で、物理法則は発見以前には「もやのように存在していて発見により収束した」のでなく、「存在しなかった」と言えます。もちろん人間によりいろいろな法則の可能性が仮説として考え出され、実験などによりどれが正しいか決定された多くの場合は収束と呼んだ方がしっくりするでしょうが。


>量子力学の中に出てくる「観測者」とは結局人間のことなのかと…
量子力学における観測者とはまさに人間です。人間の観測によって初めて物理量(オブザーバブル)がある値を示す、という考え方は奇異に思える人もいますが、観測しなければどのような値か分からないわけですから正しいと思います。現象は人間の観測とは無関係に起こっているはずですが、直接的なり間接的なり観測しないもの(できないもの)は科学の範疇を越えます。人間の観測によって初めて現象の存在が確定し、観測しないなら存在するかどうか人間には分からないというのが正確なところではないでしょうか。人類の発生や科学者の誕生以前にも宇宙はある意味存在していたでしょうが、それを知る術はなかったというだけです。


>人間は…運命によって定められた世界で生きているわけではない
ことは量子力学的にもそうですが、マクロ的にもカオスなどがありますから、世界が非決定論的であることは正しいでしょう。宇宙の未来となると大勢は決まっているでしょうけれど(まだ人間はどのようになるか知らないだけで)。


>「考えること」がそもそもなければ、宇宙の過去は「もや」のまま
なのは、あくまでも人間にとってです。人間の思索など(物理法則)に関わらず、宇宙の過去(物理現象)は厳然と存在していたわけで、人間が観測して初めて存在するわけではないでしょう。人間にとって存在が確定する(確信される)だけです。


>光は粒子でも波でもあるなんて
これは光のある側面を観測すれば粒子であり(ひとつふたつとカウントできる)、別の側面を観測すれば波である(プラスとマイナスの変位があり干渉などが起こる)というだけです。実際には光は量子以上のものでも量子以下のものでもありません。そんなものだと納得するほかありません。量子を何とか日常の概念で理解しようとしたら、粒子でもあり波でもあると描写されるだけで、納得しにくいけれど、要するにそんなものなのです。


表題に戻ると
>人間の観測が宇宙の未来を決定している?
はないでしょう。人間の観測は小さな(ミクロということでなく宇宙よりずっと小さな)ことを除き、宇宙の未来という現象に何ら影響を及ぼさないでしょう。観測によって現象に物理法則が与えられ理解・利用されるだけでしょう。もっとも科学技術文明が始まって200年ほどなのに、人間の所作が地球温暖化を招くなどからすると、将来的には人間が宇宙をどう変えてしまうかは分かりません。(地球温暖化は人間の経済・科学技術・工業活動とは無縁の自然現象であるという説もあります。)
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/08/29 12:54

#6です。


そこのお礼欄で貴方がおっしゃていたことに関連のあることに触れます。これは反論というよりも、参考意見というつもりで書いております。貴方の思索の糧にして下さい。

私はあるとき、ノーベル賞を受賞された方に「物理学の第一級の仕事とはどういう仕事か」と聞きました。私は私なりの意見を述べたあとそれを聞いたのですが、その方は私が考えなかった視点で答えてくれました。その方の意見は次の通りです、

「物理学の第一級の仕事とは、この宇宙に存在する事物の限界を指摘することだ。その限界を知ることが、この宇宙の個性を認識することだ。例えば、アインシュタインは光りの早さ(1秒に30万Km)より早く物を伝えることが出来ないことを発見した。相対性理論の誕生です。プランクは長さx速度x質量がプランク定数というこの宇宙で決まっている値より小さくは出来ないことを発見した。量子力学の誕生です。カルノーやクラウジウスは時間は後戻りできないことを発見した。熱力学の誕生です。」

このように、物理学を含めた自然科学とは、われわれ人間の脳みそが考えることができる論理的に整合したあらゆる可能性の中から、われわれが埋め込まれたこの宇宙は「あれではなくてこれだ」との個性を探る学問です。ですから、物理学者は必然的に特殊性に興味がある。

この点が、物理学者が数学を使いながらも、数学者とは本質的に異なった者としているところです。数学とはわれわれ人間の脳みそが考えることができる論理的に整合したあらゆる可能性を探ろうとする学問です。ですから数学者は、物理学者とは反対に、特殊化ではなくて必然的に一般化に興味を持っています。

(余談ですが、このように数学者と物理学者は全然文化が違う世界に住んでいるので、この両者の間の会話はほとんど不可能です。)

要するに、自然科学とは「何ができないか」を探る学問です。

それに対して、上で述べた「人間の脳みそが考えることができる論理的に整合したあらゆる可能性を探ろうとする学問」は人文科学とよばれています。したがって、数学は現在人文科学の一種に分類されています。

この見方をすると、貴方は「この宇宙」や「自然科学」に興味を持っているというよりは、「人間」にその思索の中心があるとの印象を受けました。

ところで、「この宇宙の一部である人間がなぜ、この宇宙に無関係なことを思索できるのか」という面白い問題も有り得ます。

教えて!goo 「神の存在証明」の質問

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3279838.html

に対して、#4に自然科学とはどういう物かに付いて触れておきましたのでそれも参考にして下さい。
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この回答へのお礼

先生、勉強になりました。
ありがとうございます。

>ところで、「この宇宙の一部である人間がなぜ、この宇宙に無関係なことを思索できるのか」という面白い問題も有り得ます。

これについては、何が矛盾しているのでしょうか?
宇宙に無関係なことを考える必然性がないのに…ということですか?

お礼日時:2007/08/29 12:50

mofさん、こんにちは。



> 物理法則とは宇宙が生まれたとき、あるいはそれ以前から決まっていた事なのでしょうか?

物理学というのは、現実に起こることを扱う学問です。ここで「現実に起こること」は、時間の流れの中のどこかで「起こる」ことでなければならず、原理的に直接または間接に観測可能なことでなければなりません。またそれが「時間」というものの範囲を定義しています。従って、「時間が始まる以前」は物理学で考える範囲を超えています。

ここで、「宇宙」という言葉をどのように定義するかにもよりますが、今仮に、「宇宙が生まれたとき」を、「時間の始まり」とすれば、上で述べたことより、宇宙の始まり以前には何も起こっていなか、仮に起こっていたとしても観測できないことになるわけで、やはり物理学を適用して考えることではないことになります。つまり物理学的には何かが起きていたかどうかを定義することすらできません。

従って、そのような意味での「宇宙」を考える限りは、「宇宙が生まれる以前の物理法則」というものを定義することができません。これが前半のご質問に対する答えです。

後半のご質問は、人間が物理法則を発見したのは、宇宙が生まれるよりも、はるかに後になるわけで、前半とはまったく意味が異なります。

> 人間がその物理法則を発見(観測)したときに、それまでいくつもの物理法則がもやのように存在していたのが収束して、一つの法則しか存在しなくなったのでしょうか?

現在の科学では、そのようには考えられていません。実際、人間が発生する以前の宇宙にも、同じ物理法則を適用して物事を考えることが一般的に行われていますね。それは物理学以外の科学でも同様です。

簡単な話、物理法則を発見するのは、現象が観測・発見されるよりも、だいぶ後になることがむしろ多いわけで、ある物理法則が過去に観測された現象のデータをよく説明するということ自体、物理法則の発見よりも以前からその法則が存在していたことを示しています。

初等的にわかり易い例で言えば、チコ・ブラーエが天体の動きを綿密に観測し、そのだいぶ後に、そのデータをもとにケプラーがケプラーの法則を発見しましたね。またチコ・ブラーエが綿密に観測する以前から、占星術師は同じような天体の動きを見ていました。

また、ニュートンが万有引力の法則を発見するよりもはるか以前から、りんごは同じように地面に落ちていたし、月は地球の周りを規則的に運動していました。

このように、法則が発見される時点は、何の特異点にもなっていません。そもそも一言で人類などといっても、人間は沢山存在しているわけで、そのうち誰か一人か、一部の人が何かの知見を得たその時点で、物理法則のあり方が変わってしまったら、他の人たちの生活が瞬間的にどうにかなることになってしまいますが、そんなことにはならないですよね。人間が知らないだけで、現に存在する物理法則に従って様々なことが起きていると考えないと、矛盾してしまいます。

そういう意味で、物理法則は、「発明された」とはいわず、「発見された」といいます。つまり元々存在していたものを見つけたという意味です。

補足すると、こういう事情は量子力学を考えたところで何ら変わるところはありません。量子力学で観測によって収縮するのは「波動関数」であり、法則は何も変化しません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
先生のお話はとても説得力があり、納得できるものです。
ただ、私は疑り深いので、さらに思ったことを書かせて頂きます。

チコ・ブラーエの観測について。
それ以前の最も始めに天体を認識した存在によって、天体の存在が観測され、占星術師によって、動き方が観測され、そのあとチコ・ブラーエが観測したときには、すでに収束は終わっていたと仮定します。
ただし、それを説明する物理法則については未定です。
まだ「もや」なんです。
ケプラーの法則は発明でないと言い切れるでしょうか?
別の説明の仕方が採択されれば、そこから異なる物理法則の宇宙が始まっていたと考えることは、否定できるでしょうか?

お礼日時:2007/08/28 13:28

大変良い質問をしていると思います。



物理学とは、単に目の前で起こっている現象を合理的に説明でしようというだけの学問ではありません。物理学のそれよりもっと大事な課題は、貴方のように、この宇宙の成り立ちとは何か、われわれが宇宙を認識するとはどういうことかまで含めて理解しようという学問です。

この宇宙は「決定論」的に出来ているのか、あるいは,「非決定論」的に出来ているのかという問題です。そして貴方の質問は、私が以前にこの欄で「物理学の基本法則」とは何かという問題と絡んでいます。

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3209255.html

に11通の回答が寄せられていますので、それも参考にして下さい。
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この回答へのお礼

私は「この宇宙」は「非決定論的」と思っています。

その前提はこういう事です。
およそ人間が想像しうるもの、また想像できないことも含めて、まずありとあらゆるものは既に存在します。それは、我々にとっては実在でない、あるいは認識不可ということを遥かに超えて、あらゆる次元、あらゆる方向、あらゆる領域について、この世に存在しないものはありません。
その世界観において数学を私は完全には信じません。
数学は限定された世界においてしか有効ではありません。
数学が量的真実を表す道具である前提に立たない世界すら存在することをまず認めます。
1+1=1518626987234でも一向にかまいません。
それが真実という宇宙もあってよろしい。
因果律を無視した世界もあります。
りんごが落ちたらバナナになってた。大いに結構。
「存在しないということ」は何もありません。
それほどに世界とは広大なものなのだと考えます。
以上が、まずこの世界の前提です。

その中に、「部分」として、「決定論的世界」「非決定論的世界」等が存在します。でも、それらは広大な砂漠の一針のような存在です。
「数学の量的真実崩壊世界」や「因果律崩壊世界」など、荒涼とした砂漠がその周りに広がっています。

私の世界観は「可能性の大砂漠」です。

なぜ、こう考えるのか。
それは人間の感質の世界を説明するためです。
宇宙には、量的に説明するきっかけすらつかめない領域が、確かに存在します。それが、感質の世界です。
それは「感覚のメカニズム」とは別に存在する「感覚そのもの」はどこにあるのかという問題です。

これを追求していくと、まず感質ありきということに辿り着くのです。
そこから発展して、宇宙を捉えると、私の質問が仮説として浮かび上がってくる動機が生まれます。

人間は「可能性の大砂漠」の中にあって「理性的に矛盾のないものだけを切り出して宇宙を限定する」働きを持っており、この宇宙はそれをシミュレートするための大きな器であり、演算装置。
目的はない。
ただ、そういうものが存在する。

この世界が「非決定論的」であることを人間が選んだ場合の世界。

こんな小説のような世界を物理に詳しい皆様に問うてみたかった。

お礼日時:2007/08/28 13:11

>人間がその物理法則を発見(観測)したときに、


>それまでいくつもの物理法則がもやのように存在していたのが収束して、
>一つの法則しか存在しなくなったのでしょうか?
なんか、量子力学っぽい考え方ですね。量子力学、個人的には、物理現象を説明・予測するのに便利だとは思うのですが、シュレディンガーの猫なんかを考えてみても、「生」と「死」がもやのように存在するっていのは、あんまり納得いきませんね。
まだ、多世界解釈のほうが、考えやすいか。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

そうですね。
「納得できる」のはニュートン力学までです。
相対性理論は客観的に見て、あまりにも説得力がありますが、「納得」はできてませんよ。光は粒子でも波でもあるなんてね。
でもきっとその通りなんでしょう。

お礼日時:2007/08/28 11:37

一つ書き忘れましたが、


種宇宙の誕生や真空の相転移を観測した人は誰もいないし、
人以外の事象が"観測"していたわけではないので、
"もや"が収束したということではないと思われます。
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この回答へのお礼

人間がいなければ、宇宙の過去を知ろうとするものはいません。
つまり、この世界がどのように生まれたかということは、誰にとっても重要でないということになります。
ところが、人間は宇宙の過去について調べています。考えています。
「考えること」がそもそもなければ、宇宙の過去は「もや」のままです。

宇宙の因果律が、人間に認識できる範囲に限っているとすればどうでしょうか?

お礼日時:2007/08/28 11:33

ビッグバンの後、「真空の相転移」によって、


・重力
・強い相互作用
・電磁気力
・弱い相互作用
という4つの力が誕生しました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%AE%99% …

こちらは、東大の佐藤先生の講演資料です。
ビッグバン以前に、虚数時間を通って宇宙が誕生したという説についても書かれています。
http://www.icepp.s.u-tokyo.ac.jp/docs/kouen_sato …

これらの、ビッグバン以前のこと、および、真空の相転移(4つの力の誕生)については、
必然ではなく偶然に起こったとするのが正しい見方だと思います。
つまり、我々が住んでいる宇宙の物理法則とは全く違う物理法則の宇宙になっていたかもしれない、ということです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2007/08/28 11:27

mofさんが宇宙が大きな物理法則によってある特定の方向に向かっていくと思っておられるのなら違うと思います。


たとえばフレミングの左手の法則、とかニュートン力学とか発見されたときにはそれで説明が付くと思われていたのが、観測機器が発達してよくよく調べれば、それらの法則で説明の付かないことが出始め、それらを説明するためにアインシュタインとかが新しい法則を発見していくのです。さらに思考実験の結果から未知なる物があるのではと、小柴先生のようにニュートリノ存在を証明しようと努力されたりと、人間は、より確からしい法則へ近づいていくと思います。
しかし人間がすべての宇宙現象をあるいは物理現象を、説明できる統一的法則を発見したとしても、未来はわからないということです。
それはあまりにも膨大な計算だからわからないのでなくて、未来はどっちに転ぶかわからないということです。それが物理の結論だと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>mofさんが宇宙が大きな物理法則によってある特定の方向に向かっていくと思っておられるのなら違うと思います。

特定の方向に向かっているとは私も考えていないんです。
専門家ではありませんが、量子力学の考え方を私は支持しています。
ただ、その量子力学の中に出てくる「観測者」とは結局人間のことなのかと…

フレミングもニュートン力学も、それに気付いたのは、自覚したのは人間です。他の動物はそれを知ろうとはしない。

人間が、宇宙の未来は決定されてない、運命によって定められた世界で生きているわけでない、と信じるためには、量子力学的世界観が必要でした。
なんだか、都合よくそう決まったような気がする。
そんなふうに感じたことはありませんでしょうか?

お礼日時:2007/08/28 11:09

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