悪い事
どのカテゴリーに質問しようか迷いましたが、結局ここに質問することにしました。
間違ってたら言ってください。
『悪い事』を子供(小6~中3)に教える際に、道徳的概念と宗教的概念を一切使わずに教える事が出来るかどうかを教えてください。
また、大人に対して言うならどのように言うべきか教えてください。
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No.5です。
>地球生命全体の存在といった漠然としたイメージでは子供には逆に分かりにくいでしょう。
>確かに、子供を誤魔化すような言葉としては都合が良いでしょう。
人間の過度の介入から自然が破壊され絶滅種や絶滅危惧種が増えていることを考察するところから身近な大人社会のあり方までを次代を担う子供達に言って聞かせたらどうですか。
誤魔化すというのは貴方に自然の正しい認識より演繹して子供に分かるまでに論理的につなぎ合わせ説明できないということだけでしょう。
下記の引用文からは大人の科学的な正しいに認識に基づいた判断力とは程遠い
反論にもなってない論理を見れば正しい認識を持ちたいという意識もなさそうだし。
>地球船宇宙号自体が、自分個人より重要であるという信念を持つ人間外には全く役に立たない理論だと思います。
刹那的に今の生活さえよければ将来のことなど関係ないね
と思っているような人が子供を産み育てるということ自体矛盾していると思いませんか。
そんなあり方を子供にも伝えていくつもりですか。
子供は可愛いとは思わないのでしょうか。
そういう人を仏教で”痴”といい科学的な正しい認識の欠如した人間というのです。
そういうのが世界を牽引しているというのは如何なものか。
ということなんですね。
この回答へのお礼
回答が遅くなり、申し訳ありません。
>刹那的に今の生活さえよければ…
矛盾しているかどうかはわかりませんが、最近は刹那的な感覚で子供を生む人もいるそうです。
個人的にはイヤですが。
>そんなあり方を子供にも伝えていくつもりですか。
誤解されるとイヤなので言いますが、私自身はこんな常識外れな考えをしたいわけではないです。
これは、子供との対話の中で、いかに説得力のある説明を論理的に行えるかを調べるための第一段階としての質問です。
つまり、『何で相手がイヤならダメなのさ!』と子供に逆切れされたときに
論じるべき事は何かを聞きたいわけです。
その状態で、あなたの言う『絶滅種』の話などをして子供が納得するとは思えません。
また、私自身も納得がいきません。
相手の事を重んじる事は社会において重要な事ですが、それを教える事が今回の質問では見付かりそうにありません。
もう少し質問内容を推敲してから質問しなおします。
ありがとうございました。
>豚を食べる事が悪とされる環境
私はイスラム教についてあまり知らないので、とても難しいですね。「イスラム教徒でなければ関係ない」のに、何故咎められるのでしょう?
まぁ何にせよ、豚を食べるのが悪とされる理由を考えればいいのですかね…
恐らく以下のような事でしょう。つまり、菜食主義ですね。動物を殺すなかれ、という。何故でしょう?それは高度な共感苦痛回避です。豚の苦痛を察する能力による苦痛を回避する行為です。
又、豚を食すという快楽をしない苦痛が、豚への共感苦痛より小さい事による苦痛の選択回避でもあります。
そこで、イスラムにとっては、菜食主義が苦痛回避の一つであり、善です。豚を食べるのは苦痛であり、悪です。
それを、イスラム以外に押し付けるのは、恐らく以下のような事でしょう。
「お前たちは、人間であるならば、共感能力をもっと鍛えて、豚の気持ちを察しなさい。」
という、人の道への強制的誘導でしょう。それは他者の共感能力の低さへの怒りなどの気持ちでしょう。その怒りなどの苦痛を回避する為に押し付けるのでしょう。
イスラム教よく分かりません。菜食主義という事で考えました。
>当人にとっての悪ではないですね。
当人が客観的視点に立つなら悪になり得ますね。当人が後の苦痛の方が大きいと、本気で懸念し、その心配の苦痛が、ドラッグをしない苦痛を超えれば、ドラッグをする苦痛が悪と認識され、ドラッグをしないという事になりますね。その状態が、なかなか成り難いのでしょうね。
ドラッグをしない苦痛が勝っているなら、確かに当人にとっての悪ではありませんね。客観的に見たら、悪ですけどね。そこのせめぎ合い、葛藤がありますね。刹那的感にとっての悪と、理性的認識の中の悪があります。当人を一面的に見る事も出来ないかも知れませんね。
>善悪は個人で論理的に判断出来る物では…多数決…
そうですね。個人の自我意識など小さいものです。特に現代人の稚拙な共感能力で、善悪を判断しようなど、思い上がりもはなはだしい。
多数決?何人集まろうが、烏合の衆です。
私に言えるのは、ただひたすら、善の動機で色んな事を経験し、ただひたすら、共感能力を上げる事です。それだけです。
この回答へのお礼
ずいぶんと遅い回答になってしまい申し訳ありません。
>「イスラム教徒でなければ関係ない」のに、何故咎められるのでしょう?
イスラム教にそれほど詳しい訳ではありませんが、彼らにとっては、豚は不浄の生物だという考えだったと思います。
なので、豚を食べる異教徒に嫌悪を表す事があります。
ちなみに、不浄の生物であるという理由はコーランの教えにあるというだけです。
>人の道への強制的誘導・・・
>特に現代人の稚拙な共感能力で、善悪を判断しようなど、思い上がりもはなはだしい。
>多数決?何人集まろうが、烏合の衆です
やはり、自分にとっての苦痛は関係ないわけですね。
しかし、現代人では判断できない。その上周りの意見も参考にはならない。
そして、当然ながら自分の判断は当てにならない。
・・・どうやって共感するべき事が善であると認識するのでしょう?
この質問でもっとも聞きたかった事は
『私たちが子供に「どうしてやってはダメなの?」と聞かれた時にどこまで掘り下げて説明できるか』です。
小学校の低学年ぐらいなら『自分もされたら嫌でしょう?』で済みます。
しかし、質問した年代ぐらいになると、徐々にすべての事に疑いを持ち始めます。
なので、更にその理由が必要になるのです。
その説明は不可能でしょうか?
>認識した途端に悪になるのか、元々悪か…
「自分中心」とはこの場合、自分にしか心を認めない場合です。ですから、この一文の解釈としては、認識した途端に悪になるのでしょうね。
しかし、私は客観的洞察によって、他者の心の存在を信じておりますので、他者に苦痛を与える行為は、本人の認識いかんに関わらず悪です。しかし、これは客観論としての主張です。主観的には、認識出来なければ悪とも何とも言えません。だから、共感能力の発達が必要であり、共感能力のより優る方が、客観的に見てより善でありましょう。
又、自分の中の共感に素直に従わないのも、苦痛であり、悪となりましょう。
>ドラッグによって苦痛を回避しようとする行動は善ではない。
私は、あらゆる全ての恣意、行動は、苦痛回避であり、それが生命原理である事についての反例を聞いたので、苦痛回避が善である事についての反例を聞いたのではありません。
しかし、苦痛を回避する事は善であるという所は、確かに私の主張する所でした。だから、その反問を受け付けましょう。
ドラッグによって苦痛を回避しようとするのが、善ではないのは何故でしょう?
恐らく以下のような事でしょう。刹那的には苦痛回避だから善である。しかし、常習作用と副作用によって後に苦痛となる場合がある。だから、根本的な善ではないではないか。
この場合ドラッグをやるのは「苦痛の選択回避」という行為です。ドラッグをしない苦痛が、副作用の苦痛(懸念される)を超える場合、必ずドラッグをする方を選ぶのです。より、大きな方の苦痛を避ける事が「苦痛の選択回避」なのです。大小の差が、回避された苦痛の部分です。
そこで、この「苦痛の選択回避」が善か悪か、です。また、主観、客観の問題が出てきます。主観的に見れば、回避された苦痛の分、刹那的善の状態にあると言えます。しかし、総合的に客観視すれば、後々の苦痛の方がはるかに大きいですね。だから、客体から見れば悪という事になります。それは、苦痛の方が増えるから悪なのであって、苦痛回避論の主張そのままです。
「ドラッグによる苦痛回避は善ではない」
それは、後々苦痛がより大きいからでしょう。それは、苦痛回避論そのままです。
>豚を食べる事が悪とされる環境
意味が分かりません。補足説明下さい。
この回答への補足
イスラム教ではコーランに記載された規則を守らなくてはなりません。
しかし、イスラム教徒でなければ関係ありません。
自分はイスラム教徒ではないが、国の宗教上の関係で豚を食べる事が悪とされてしまう生活空間において、全く無知な無宗教人が豚を食べてとがめられるという状況を考えてください。
この状況が悪であると言う理由が苦痛回避で説明できるのかどうかという質問です。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
>後々苦痛がより大きいからでしょう
後々の苦痛の方が大きいというのは第三者的視点に基づいての話であって、当人にとっての悪ではないですね。
私は善悪の判断は論理的に考えて個人で結論の導ける物だと考えていたので、少し考えさせられました。
善悪とは個人で考えてどうこう判断する物ではないということでしょうね。
悪く言えば多数決的意見にそぐわない物が悪と言う事でしょうか?
どうも、道徳教育じゃなくて、悪とは何か?を説明せよ、と言っているのですね。
人の全ての恣意、行動は、苦痛を回避する仕組みに従ったものじゃないでしょうか?苦痛を回避する要素の欠落した恣意、行動は、考えられません。それが生命原理です。(違うと思われる具体的事例があれば、ご説明しますので挙げて下さい)
それによると、悪とは苦痛の状態(回避出来ていない、回避出来ないと懸念される状態)です。善とはその逆ですね。
例えば、パソコンについて悪とは、使用したいのに何らかの理由で使用できない時、苦痛ですから悪です。滞りなく使用出来る場合は、苦痛じゃないので、善ですね。
人について悪とは、自分にしろ他者にしろ、苦痛を受けている状態です。それを回避する事が善です。他者に苦痛を与えない、とは、他者に心の存在を認める場合は、ダイレクトに悪と言えましょう。
自分中心に考えたとしても、共感する苦痛を受ける事が悪です。だから共感能力云々と言ったのです。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
>どうも、道徳教育じゃなくて、悪とは何か?を説明せよ、と言っているのですね。
その通りです。
>共感する苦痛を受ける事が悪です
共感しなければ悪として認識でないという事でしょうか?
それは認識したとたんに悪になるのか、元々悪なのかどちらなのでしょう?
>それが生命原理です。それによると・・・
では、具体例を。
・ドラッグによって苦痛を回避しようとする行動は善でない
・自分はイスラム教徒ではないが、豚を食べる事が悪とされる環境
こんばんは!!
No15のmogurayamaです。
<つまり、『都合よく生きる為には社会があった方が良い』と言う事を
<提示してやって、本人に確かめさせればいいのですね?
ご質問ありがとうございます。
さて、悪いことについては前回述べさせていただきましたが
このご質問には「良い」「いい」という価値基準がございます。
この「良い」「いい」は何を指しているのでしょうか。
お子さんにとってでしょうか。
minitureさんにとってでしょうか。
はたまた、mogurayamaにとってでしょうか。
「悪いこと」には客観的な原本があるわけでなく
相対的なものあるように「良い」も同様です。
なので
<『都合よく生きる為には社会があった方が良い』
とか
<本人に確かめさせればいい
かどうかは
minitureさんにとって良いと思えるものなら
minitureさんにとって良いのでしょう。
客観的に、人類普遍的に良いかどうかは誰も分かりません。
現在の社会的に良いかどうかは、社会ルールの遵守は
現在の社会にとって良いとされれていることです。
そうすることで成り立つ社会システムですから。
お子様にとって良いことかどうかは、
お子様がそれが良いことだと思えて初めて
お子様にとっては良いことになるでしょう。
ですが、社会ルールを無視して刹那的に生きることが
あなたやお子様にとって良いことならあなたやお子様とってそれが良いことのはずです。
誰も「あなたにとって」にはなれないのですから。
むろん、社会やそれに甘んじて属しているmogurayamaに
とっては迷惑と思われます。
道徳的概念と宗教的概念を抜きにして、
お子様に良い悪いを言うならば、
相対的なこのような説明となると思われます。
中学生くらいならこのような感じとなりそうです。
このような説明がminitureさんにとって
お子様の教育に良いか悪いかは、これまた
minitureさん次第と思われます。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
>お子さんにとってでしょうか。
minitureさんにとってでしょうか。
はたまた、mogurayamaにとってでしょうか。
そういう意味ではなかったのですが、あえて言うなら『当人にとって』という言葉がベストです。
社会ルールを無視して刹那的に生きる事と社会の恩恵とを天秤にかけて考えるという意味でした。
確かに、それでは刹那的に生きた方が良いと言われたら困ります。
ですが、それは思慮が足りないか本当にそちらが正しいかのどちらかです。
前者なら繰り返しの経験でいくらか考え直す機会があるでしょう。
後者なら問題ないです。
小6~中3なら、共感能力(人の気持ちを察する力)はもう既に育って来ている筈です。至らない部分は、情報提供してあげます。「人がどう思うか」の説明です。
あとは、自分の中の共感能力に従う思考回路に、本人の意識を誘導してゆけばいいのですね。
ここは、難しいです。自分勝手な不良になるのか、共感能力に一生懸命従う子になるのか、それは本人の自己中心性の度合い、資質によると思われます。元々持っている資質は、何人も動かせません。本人の経験の積み重ねが、少しづつその性情を変えてゆく、としか言いようがありません。
大人の場合は、「人がどう思うのか」の情報提供すら無駄です。やはり、何度も再生して行く中で、少しずつ霊格を上げて行くしかありません。
道徳教育など、情報提供の力しかないと思われます。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
>元々持っている資質は、何人も動かせません
論理的判断能力に対してそのように考えた事は無かったです。
私の言う『悪い事』とは、『やってはいけない事』とは違う事を理解してください。
教えるという行為は質問者さんの求めるものではないんじゃないでしょうか。
なぜなら教えるためには善、悪、とは何かということを知っていなければならず、それは道徳的観念でありそれを知識として与えることは、何者かの考えを押し付けることになるのではないでしょうか。
悪とは何か、善とは何かを私たちはきちんと理解しているでしょうか。
理解していないがために、今のご時勢に都合のいい道徳的概念を知識として子供に与えるのでないでしょうか。
私なら、悪とは何か善とは何かを自分で考え抜きなさいと教えると思います。
そういう意味では大人も子供もないんじゃないでしょうか。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
仰っている内容は私の趣旨と殆ど同じです。
ただ、『自分で考えなさい』と突き放すのではなく、
上手く『悪い事』が何かを、自分で論理的に導くための方法を探しているわけです。
こんばんは!!
非常に難しい質問ですね。
私も子供のときに同様のことを考えて両親に質問し
納得いく回答を求め続けましたよ。
「道徳的概念と宗教的概念を一切使わずに「悪いこと」を教えられるか。」
という部分ですが、やはり残念ながら難しいでしょう。
一緒に考えて見ましょう。
ちょっと長文になりますが、がんばってわかりやすく書きますね。
まず「悪いこと」とはなんでしょうか?
「悪いこと」の原本がどこかにあるのでしょうか。
誰か偉い人が、これが人類普遍の悪いことを決定したのでしょうか。
はたまた、人類が知性をかけたその先にこれが絶対悪いことを
見つけることができるでしょうか。
どこか宇宙の果てに悪いこと大辞典があるでしょうか。
「これが正しい悪いこと」は、客観的に決まっていないのです。
みんなが「悪いこと」と呼んでいるのは「悪いとされていること」なのです。
そして、この「悪いとされていること」とはどうやら人が共同体(社会)を作って生きたがる生き物だから生まれたことのようです。
この世の中に一人の存在であればきっと悪いことは、存在しないでしょう。
存在したとしても一人で決めて一人で守るだけのものです。
しかし我々は、奇しくも「我々」と使ったように集団で社会を作り上げます。そして、その「社会」と「社会が生み出した全ての恩恵」から疎外されて生きていくことは出来ません。ローソンに行けないどころか舗装道路も歩けません。働くこともできません。
ホッブスも述べていますが、その社会性というものがルールを欲するのです。万人の万人に対する狼の状態を作らないためです。
お前の小麦粉を盗まないから俺のなめし皮を盗むな。殺さないから俺も殺さないでね。この金属5gは、胡椒200g分にしましょう。
こうしたルールを作ることによって現在の文明が、文化が、生まれてきたのです。民主主義も、科学技術も、あなたが着ているパジャマもです。
つまり、この社会の恩恵を受けて生きていくなら必然的に社会との契約を結ぶ(社会契約)必要が生まれるのです。
人々は長い歴史の中で、自分が不利益を被らないため(自己保存)、都合よく生きていくために、「悪いこと」を決めあって、それをお互いやらないルールを作り上げて今の社会を築き上げてきたのです。
あなたが、そしてあなたのお子さんがそれを尊重しようと決めたとき、初めて、「悪いこと?」が、「悪いこと!!」となるです。
そうでないときは、どんなに社会にとって「悪いこと」であっても、決してあなたのお子さんにとっては、確実に「悪いこと」ではないのです。
長文でごめんなさい。中学生なら理解してもらえるかな。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
つまり、『都合よく生きる為には社会があった方が良い』と言う事を
提示してやって、本人に確かめさせればいいのですね?
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