南無阿弥陀仏って、正しいの?間違ってるの?
仏教徒の家に生まれ育ち、今までなんとなく仏教を信じてきました。
でも、興味を持って仏教をいろいろ調べてみたところ、
三蔵の量が莫大すぎて、また宗派がわかれすぎて、
どれを信じたらいいのかわかりません。
また、いろいろな経の中に、「この経が最高である」という表記があるようで、判断に困っています。
そこで質問させてください。
(1)いろいろ調べたところ、日蓮と法然が、
一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
また、他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。
逆に「この人は一切経を読まずに、自論を持ち出した」などはありますか。
(たとえば、親鸞、竜樹、世親、天台、伝教、空海、空也、カタエンニシ、などなど)
(2)日本で一番広まっているのは、南無阿弥陀仏のようですが、
南無阿弥陀仏の教義は、
「今世の人生は苦であり、地球は穢土であり、南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」であると
考えていいのでしょうか。
(3)南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。
また、南無阿弥陀仏を信じる立場から言って、
「今世」の人生の幸福とは一体どういうものなのでしょうか。
理論の上からでも、実際にお念仏を信じておられる実体験からでも、
どちらでも結構です。
(4)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を批判してみてください。
(極楽を求めるあまり、自殺する人が多い、五逆罪と誹謗正法の人は救われないなどの記述がある、浄土三部経よりも優れた経がある、など)
(5)理論の上からでも、実体験の上からでも結構ですので、
南無阿弥陀仏を擁護してみてください。
(たとえば、来世の幸福を約束されたことで、今世を安心して生きられる、来世以降、永遠の幸福を獲得できる、仏典の中に念仏が最高だとか、念仏以外は地獄に落ちるなどの表記があるなど)
(6)南無阿弥陀仏を信仰されている方に質問したいです。
実際に南無阿弥陀仏を信仰されることで、どのようなプラス面(ご利益と言っていいのかな)を感じられますか。
以上、(1)~(6)の中で、少しでもご存知のことがあれば、
教えてください。
まだスッタニパータと法華経しか読んでいないので、
未熟なところはご容赦ください。
みなさんのご意見を伺いながら、岩波文庫の浄土三部経を読んでみようと思っています。
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憶測するに、論理性・道徳的・実証性を重んじる方のようなので、テーラワーダ仏教(パーリ語原典の三蔵をよりどころにしている)を学ぶことをオススメします。
「テーラワーダ仏教の実践」やスマナサーラ長老の「ブッダの実践心理学1~3」をオススメします。多分サンガから出ると思うのですが「仏法」もかなりオススメです(自費出版版もテーラワーダ仏教協会に残ってるかも)。
大乗仏教は
哲学することを忘れた
堕落した宗派といわれないように
哲学は科学する目も持っているということ
無記にすべきことを
きちんとわきまえること
など
少し緩めると
どこぞも馬鹿がすぐ調子に乗って展開するから
経典は先人の知恵であり
それが社会にどう作用したか
温故知新とし
その知恵を現代の世界にどう反映させていけるか
その宗派を通してどう社会に関わり
大乗仏教と一括りにされる
その大きな船を救うことに夫々の宗派のその教義や知恵をどう今に適用させられるか
いまの大乗仏教に求められているのはそういうことなのではないでしょうか。
宗教はある宗派一色に染めようとすることが目的ではなく
色々な人の知恵の集積により
どうしたら大きな船を救えるか
その一点にあります。
大乗仏教の大乗(大きな船)の対象が定まれば
派生する宗派の裾野はそれを覆うだけです。
地球に生息する
生きとし生けるもの
を対象とし
それを救うとはどういうことなのか
種を絶滅させることなく
人間の保護という形ではなく
自然な状態で
共生させる状態への
啓蒙と実践でしかありません。
人間同士も
宗教も
国家も
生きとし生けるもの全てを対象に
ここは宗教のカテゴリではなく哲学のカテゴリですので、その観点から回答させて頂きます。
「南無阿弥陀仏」は信念の主張であって、事実の陳述を意図していないので、正しいか、間違っているか、の質問自体が意味が無いと思います。
仏教のいろいろな宗派の主張の何が正しいのか、どれを信じていいのか、という問題設定(質問)が非常に視野の狭い問題意識を反映しているようです。はじめからキリスト教やイスラム教やヒンズー教は排除して仏教の説法の範疇で、自己の信仰の選択を考えることに哲学的な意味はほとんど無いと考えられます。
(1)には既に適切な回答がなされていますので、(2)~(6)について:
「死後の浄土での極楽往生」は、少なくとも鎌倉新仏教(仏教革新運動といってよいでしょう)のリーダー達にとって、ある意味方便であり、彼らの主とした意図は現世での民衆の(圧政からの精神的、飢えからの肉体的)救済でしょう。この点をはずしたどんな解釈も意義が薄いです。
法然、親鸞、日蓮、等々は現実に支配階級の圧政に対して民衆の側に立って自己の信念を訴えていたのであり、現在の日本の多くの宗派の姿勢とは大いに違っていたわけです。もちろん、歴史的な制約や思想的な未熟さを現代の眼から非難するのは簡単ですが、彼らは座学の徒などではなく自己の信念の実践者(思想史的には革新者)であり、当時の支配層に対抗しうる「信仰」を民衆に広く普及させることをめざし、事実それにより弾圧されたわけです。
『浄土三部経』もいいですが、(たとえば)『歎異抄』の全体を理解する方がはるかに勉強になりますよ。本当に哲学として仏教を考えるのであれば.... 「方便」としての仏典をいくら研究しても、「南無阿弥陀仏」の思想の表面を知るだけで、中身は理解できないのではないですか....老婆心ながら。
No.9ベストアンサー10pt
(1)>日蓮と法然が、一切経を読んだらしいのですが、それは本当でしょうか。
読んだかどうかは重要ではありません。仮に読んだとしても、どの程度理解できたか分かりません。人間は、自分に理解できる範囲でしか理解できません。また、読むに値しないものを読む必要はありません。
>他に一切経を読んだ人というのは、いるのでしょうか。
少なくとも、空海は読んだと思います。なぜなら、お釈迦様の真の教え(修行法)を含む阿含経の重要性に気が付いていたからです。一切経の中でお釈迦様の教えを正しく伝えている経典は阿含経だけです。その価値に気が付かないのであれば、読んでも、読んでいないのと同じです。
(2)>南無阿弥陀仏の教義は、「南無阿弥陀仏を唱えることで、死んで後に阿弥陀仏の浄土に生まれ変わる」
そうだと思います。
神を信じるものは天国に行けるという一般的なキリスト教(と信じられているもの)と似ていますね。
(3)>「今世」にはどのような意義があるのでしょうか。
今世は、前世の続きであり、今世での生き方によって来世が決まります。念仏を唱えたかどうか、阿弥陀仏を信仰したかどうかとは、関係がありません。信仰しても、悪いことをすれば因果応報で悪い結果を招きますし、信仰しなくても、良いことをすれば因果応報でよい結果が得られます。
今世の意義は、自己の霊性に目覚め、自力で霊的に向上することにあります。極楽往生するかどうかは、仏の信仰ではなく、今世での自己の行い(修行を含む)によって決まるのです。
(4)>南無阿弥陀仏を批判してみてください。
阿弥陀仏は無量寿経で説かれている、実在しない、創作された、架空の仏です。
現在では、無量寿経はお釈迦様が説かれた教えでないことが分かっています。
お釈迦様は、人々に仏陀になることを勧め、仏陀になるための修行法を教えたのです。それは、阿含経(スッタニパータを含む)にのみ記されています。無量寿経には、修行法が説かれていません。
阿含経には、仏陀(因縁解脱して、輪廻転生から脱した高い霊的存在)になるための修行法が記されています。その修行法とは瞑想を中心とする練行です。
お釈迦様は、極楽往生のために、仏を信仰することを勧めたことはありませんでした。ありえません。仏は、本来、信仰の対象ではありません。(ヒンズー教の神々とは異なります。)
無量寿経は、現世利益的で多神教であるヒンズー教やゾロアスター教の影響を強く受けて、現世利益を求め極楽往生をも願う、修行しない在家信者のために、阿弥陀仏を創作して信仰させるために、人間によって作りだされたものです。
(5)>南無阿弥陀仏を擁護してみてください。
仏縁のない鎌倉時代の民衆に精神的な救い(安心)を与えたといえるでしょう。念仏を唱えれば極楽往生できます、と教えれば、実際にできないとしても、何らかの精神的な救いや、気休めになるというものです。死に際して怨念を残して死ぬ可能性を低くできたでしょう。戦国時代において、殺生を犯した人でも、一応安心して死ぬことができたでしょう。
お寺関係の人々が、長年にわたって「南無阿弥陀仏」のお陰で生活しています。関係者にとって、教えが正しいかどうかは、どうでもよいのです。正しいかどうかと問われれば、正しい、と答えざるをえないでしょう。そのためには、あらゆる理論武装をするでしょう。
しかし、「仏陀になるための修行法は無量寿経のどこに書かれていますか」、と問われれば、答えに窮するでしょうね。無量寿経には、仏陀になるための修行法が説かれていないからです。阿含経にしかそれは説かれていません。
お釈迦様の最も大切な教えとは、阿含経に説かれているお釈迦様の修行法に従って修行することによって、あらゆる煩悩・悪い因縁を切って、仏陀になることです。心構えや、信仰心だけでは、なかなか煩悩をきることはできませんし、もちろん仏陀になれませんし、仏陀に近づくことさえできません。
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