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母方の宗旨が浄土真宗なのですが、般若心経は唱えてはいけないと聞いています。なぜダメなのでしょうか。

A 回答 (9件)

jun95さん、今日は。



私が調べてみた所では、智慧と行に因って煩悩を断ち切ろう、と教え諭す般若心経に対して、浄土真宗の
教えは、一切の計らいを捨てて、阿弥陀如来の力に任せて、其れに因って救われる、という物だそうです。

従いまして、浄土真宗の人間が般若心経を上げる事は、却って、阿弥陀如来の
力を否定する事に為る為、浄土真宗で般若心経を上げる事は無い、との事です。

もう少し深いお話に為りますと、以下のサイトに詳しい説明が為されてい
ましたので、宜しければ、御覧下さい。2001年12月11日掲載分です。

参考URL:http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/

この回答への補足

私の家は、浄土宗なのですが、浄土門の考え方は、程度の差こそあれ「一切の計らいを捨てて、阿弥陀如来の力に任せて、其れに因って救われる」というものではないでしょうか。しかし、浄土宗の勤行式の中には、般若心経が含まれています。
なぜ、浄土宗はよくて、浄土真宗はダメなのでしょうか。
もし、お分かりになられたら教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。

補足日時:2002/08/29 02:23
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はじめまして、jun95さんはかなりものしりの方と拝察いたします。

そのような了解を前提といたしますならば本当のことを知りたいならこんなところではなく浄土真宗の各本山に尋ねられればと思います。
それはさておき、ご存知かと思いますが浄土真宗では正依の経典(浄土真宗はこの経典を基として成り立っているようです。蛇足ながら浄土宗も本来同様のはずなのですが?)というものを定めています。即ち浄土三部教です。無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経ですね。この観点より言えば般若心経はそれを外れます。その時点で唱える経典とはなりえません。
また親鸞は念仏以外に何を必要とするであろうかと言われていることも恐らくあなたはご存知であろうと推察いたします。この点よりすれば件の浄土三部経も唱えることの意味はありません。が、浄土真宗では南無阿弥陀仏の念仏の六字を大きく広げると浄土三部経となり、浄土三部経を縮めると南無阿弥陀仏の六字になるとされています。ですから浄土三部経に限れば念仏の意味を広く解き明かし、知らしめるという意味では唱えてもいいわけです(これを広讃・略讃というらしです)が般若心経はそれにあたりません。・・・だからだめなのです。
以上は経典選出の観点よりの理由です。
付け加えて親鸞の他力という思想が大いに関ると思います。
親鸞の他力ということは極小の念仏に至るまで阿弥陀仏の給わりモノとい立場です。ですから他力とはあらゆる経を唱えることを捨て去り最後に残る念仏までも如何なる意味においても自らのものとはしない立場です。この意味においては先の広く解釈する?の浄土三部以外を除きたとえ浄土宗で唱えられる経般若心経?であっても入り込む余地は無いものと考えられます。
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この回答へのお礼

どうも回答ありがとうございます。
実は、母方の祖母が亡くなり、そのお墓が私のところに近いので、母が来ると一緒について行きます。家では、父方の方が浄土宗なので母は、暗記している般若心経を唱えています。わたしも、そらんじることができるお経は、般若心経だけです。で、母も他の教典などを暗記していないので「南無阿弥陀仏」のみを繰り返すばかりです。
お説の通り、墓前などでも「南無阿弥陀仏」の一言でもいいし、生前におばあさんは、何度も「南無阿弥陀仏」と唱えておられるので、それすら必要ないかもしれません。
しかし、お墓といっても、父方の母と石でできており、外見はよく似ています。せめて、「般若心経」でも唱えられれば、回向(えこう)らしく感じられていいのになあと感じました。
浄土宗の勤行式は、テープのついたのを買ったのですが、真宗をはじめ、すべてに対応できません。

で、親鸞は、悪人こそが往生できると説いています。もし仮に、わたしが、よかれと思って、教えに背いて「般若心経」を唱えても、親鸞上人は許してくださると思うのです。だとすれば、田舎の人も、そのことをおもんぱかって許してくれてもいいのじゃないかなあ。って思うんです。

お礼日時:2002/09/06 03:52

実家が浄土、婚家が真宗です。



「唱えてはいけない」というよりも親鸞の絶対他力の立場にたって、経典を理解すれば、
「おのずから唱えない」のではないのでしょうか。

これが信者を指導する段階で、「唱えない」→「唱えてはいけない」になったんだと思いますが。(経典を理解するの、大変ですから。特に昔は)
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この回答へのお礼

私の考えも、siginoさんの考えに近いです。わたしは、重要性が乏しいと、誰かが判断して、日常的には唱えないような勤行式を作ったのでないかと想像しています。

お礼日時:2002/09/03 01:59

なぜ、浄土真宗で般若心経を唱えてはいけないか、という理由は皆さんのお答えでよろしいと思います。



ところで、jun95さんは、浄土真宗で般若心経を唱えてはいけない理由の説明に対して
>浄土宗の勤行式の教典には、般若心経が収録されています。
と返しておられますが、浄土宗と浄土真宗(以下、真宗と書きます)は異なる宗派です。
確かに浄土宗の開祖法然と真宗の開祖親鸞とは師弟の間柄ですし、親鸞はたとえ地獄に堕ちようとも師の法然についていくと言っていますが、この場合については異なる宗派として考えるべきでしょう。

両宗派のもっとも大きな違いは「悪人なをもて往生を遂ぐ。いはんや善人をや」の浄土宗では、まだ自力作善の余地があるのに対して、「善人なをもて往生を遂ぐ。いはんや悪人をや」の真宗では絶対他力であるということでしょう。

つまり、ある意味で法然の浄土宗は過渡的なものであり、その思想を徹底させたものが真宗ですから、浄土宗が般若心経を認め真宗が認めないのも当然ですし、そのような所に違いがあるわけです。もちろん、両派の成立過程からまとめて浄土門というまとめ方はできますが、だからと言って同じ宗派ではありません。

もう一つ考えておくべきは、宗教において一般信徒すべてがその宗派の教義を根本から理解しているわけではない、ということです。一般信徒たちは聖職者の説教や先輩信徒(親や年寄りなど)を通じてその教義や信仰の方法を知っていくわけですが、そこでは理屈と言うより日常での習慣として入ってきます。長い時間のうちには、そのような慣習に本来の要素とは異なるものも紛れ込みますし、別のものとの混同が生じたりします。「おばあちゃんの家では云々」というのはそういう意味のものと理解すべきでしょうね。

この回答への補足

treetreeさんについての反論は、「南無阿弥陀仏」をもって、般若心経と合わないとしておられるから、これを行ったものです。浄土宗と真宗との違いはあるとおもいます。

一般信徒が、知らないのは当然であるというのは、そうであろうと思います。そのため、ここでたずねているのです。

それと、どの回答でもいいという主張は、明らかに間違った記述が含まれる回答もある中で曖昧であると思います。

たとえば、親鸞はこのことについてどうだったのかについて、歎異抄に書かれているのでしょうか。

補足日時:2002/09/01 02:42
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なぜ般若心経を唱えたらいけないのか、ということよりも、jun95さんがなぜ般若心経を唱えたがるのか、ということに興味があります。


浄土真宗はこの世での御利益を願って、何かをする事はすべて仏陀の教えに反すると考えています。つまり欲望が苦しみの原因なのだと考えています。
だから何か良いことがありますようにとか、先祖を慰めるためにとか、自分自身の修養のためにとか、もちろん商売繁盛とか健康増進などのために、などなどでお経などを唱えることは、そのお経が般若心経であろうが阿弥陀経であろうが念仏であろうが、浄土真宗の教えに反することになります。
問題は何を唱えるかではなくて、なぜ、どういう理由でとなえるのか、であります。
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この回答へのお礼

わたしは、般若心経を唱えたいというのではありません。
田舎のひとが言うには、昔からそういう風に決まっているからだそうです。それで疑問に思ったわけです。

お礼日時:2002/09/01 02:39

浄土真宗は占いやまじないなどのいっさいを禁じています。

般若心経は密教の教典なので、呪言の一種になるのでいけないんだそうです。
このことを知り合いの真宗のお寺の方から聞きました。
そのため、一般に「写経」と言えば「般若心経」なのですが、真宗では「阿弥陀経」などを書きます。
実は、私の家も浄土宗で、般若心経を唱えるのを当たり前にしていたもので、知り合いの真宗のお寺に伺った時にはとまどいました。が、それぞれの宗旨の違いは尊重すべきだと思いますので、ある意味、使い分けをしています。
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この回答へのお礼

「浄土真宗は占いやまじないなどのいっさいを禁じています」とのことですが、おばあちゃんの家は、商売をしていたからかもしれませんが占いとかもやっていましたし、おなかが痛くなったりしたときは、おまじないとかも教えてもらいました。
でも、そこまで禁じるのなら、神社でお祓いや祈祷を受けるのもいけないように思います。
しかも、親鸞の目指した方向と教団の方向に乖離があったといわれるものの「盗みを犯した人や女犯をこそ往生できるとする悪人正機説」からすると偏狭な感じを受けます。
キリスト教も、すべての宗派がとは言いませんが、占いや魔術のたぐいを禁じています。
浄土真宗は、どういう理由で禁じているのでしょうか。

お礼日時:2002/08/30 02:17

【浄土真宗】・・・・・親鸞、南無阿弥陀仏、アミダ如来


【真言宗】・・・・・・・空海、般若心経、(ダイニチ如来)

浄土真宗の、南無阿弥陀仏は、「アミダ如来を心から信じて帰依いたします」、という意味です。だから、南無妙法蓮華経(法華経の教えを信じて帰依いたします)と唱えると二股になります。同様に捉えて、般若心経を唱えてはいけないと、おっしゃるのではないでしょうか?

般若心経に南無大日如来(ダイニチ如来を心から信じて帰依いたします)というセリフはありません。

般若心経のテーマは分別智と無分別智です。般若心経では、先生と生徒の講義ドラマ形式で、「物事をどんどん分析することによって分かる知もあるけど、分けないからこそ本当のことが見える場合だってあるんだよ。」、という内容です。
例えば、花を分析すると、「花びら」、「ガク」、「おしべ」、「めしべ」に別れ、更に細かく分けることができます、それによって分かることも確かにあるでしょう。
しかし、「花の美しさ」は分けることのよって知ることができるのではなく、「花」という総体で初めて知ることができるのです。

信仰や信心というより、内容は哲学ですので、他宗派の人や、キリスト教、神道の人が般若心経を愛唱しても、私は構わないと思います。

この回答への補足

【浄土宗】・・・・法然、南無阿弥陀仏、阿弥陀如来

しかし、浄土宗の勤行式の教典には、般若心経が収録されています。ただ、開経偈の読み方や本経の節回しなどは、真言宗とは異なります。それと、真言宗の重要なものといえば、般若心経でなく、大日如来そのもの、つまり、光明真言ではないでしょうか。

誰が唱えても問題ないというのは、そう思うのですが、田舎の村へ行くと、お年寄りなどは、理由もなく決まり事のように思いこんでいる上に、それはダメというわけです。

補足日時:2002/08/29 02:03
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浄土真宗の本質は、他力本願です。

南無阿弥陀仏と唱えて阿弥陀仏に帰依すれば、浄土に生まれかわることができると教えます。浄土真宗の開祖、親鸞は、悪人正機説を唱えましたが、これは、阿弥陀の本願に適う悪人こそが救われるという主張です。般若心経を唱えるということは、自力で悟ろうとすることになります。これは、浄土真宗の教えには、そぐわないことです。親鸞は、自分は書物を書くような立派な人ではないとして、自分では書物は残しませんでした。しかし、親鸞の弟子の唯円が、師との対話を『歎異抄』という書物に書き残しました。これによって、親鸞の思想を知ることができます。

この回答への補足

親鸞は、「教行信証」という書物を書き表していますし、高校の日本史の教科書にも出ていたと記憶しています。
そして、現在の浄土真宗の本質は、教団制度の確立とともに変説していったとも聞いています。
「歎異抄」をお読みになられているようですが、たとえば、生きている中でたった一言「南無阿弥陀仏」と唱えただけでも往生できると説いている彼が、自力だと浄土へいけないよと言っているのでしょうか。
わたしは、現代でも「自力の根にこそ他力あり」など言うようなことを書いたのを大谷派の寺院の掲示板で見たことがあります。

補足日時:2002/08/29 01:44
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「南無阿弥陀仏」と唱えることで


成仏するのが目的なのですから、
般若心経という他のことを唱えてしまったら、
効力がなくなってしまうのではないでしょうか?

参考URL:http://www2.hongwanji.or.jp/kyogaku/
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この回答へのお礼

どうも参考URLが重くて開かないのでみてないのですが、また参考にさせていただこうと思います。ありがとうございました。

お礼日時:2002/08/29 01:40

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