仏教についてです。 

はじめ釈迦は 世間に対する無常観として無我( anaatman )を説いたが この無我説を知り実践する主体として 涅槃を現わす如来我(仏性)を説くことになると聞きました。
→無我=http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%88%91

(1)梵我一如を ヒンドゥーイスムから けっきょく 継承したということですか。あるいは ブラフマン(梵)ともアートマンとしての我とも 仏教は違うというべきなのでしょうか。それでも 宇宙との合一といったことは説くということでしょうか。

(2)涅槃としての如来我は 自己到来・自己還帰(わたしがわたしである)や自己実現(わたしがわたしする)といった言葉で表現すると 間違いですか。

(3)梵我一如を〔仮りにですが〕含めて 仏性の顕現としてのブッダの智慧は わたしが 人間の能力によって 実現するのですか。わたし以外の力と働きが必要不可欠ですか。両方が必要だとしても 両方は互いに 対等な力ですか。

中で(3)は これまでにも問うてきましたが あらためて おしえを乞うものです。

もし答えられないとなれば 残念ながら 仏教について 人は 何にも分かっていないと受け取らざるを得ません。そもそも 仏教じたいが あいまいな内容であるのかというそのあたりまで 議論は進むと思います。

このような出で立ちですが よろしくお願い致します。

A 回答 (47件中1~10件)

brageloneさん。

お礼ありがとうございます。少々、私の思い違いがありましたので、再度、補足の御説明に対する私の考えを申し述べたいと思います。

brageloneさんの《神がまったく勝手に 因果を決めるというものです》の表現を、私が誤解して捉えたためにもう一度、brageloneさんの《空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つ》という立場と、私の中道の境地を目指すための仏道修行の実践の立場という対立点に戻ったようです。

私が「世俗を否定するものではない」といったのは、世俗諦のままのあり方をそのまま肯定するものではありません。たとえば、学生であれば生涯恩師という人にめぐり合えることもあるかと思います。世俗諦の世界では、その恩師の学術的業績に敬意を表して、その人に尊崇の念を抱くのは人間の普遍的な感情として必然のことと思えます。ここを、恩師と学生との関係というのは、中道の第一義諦の上からは仮の姿であり、したがって恩師に尊崇の念を抱くのは中道を忘れた立場であり、慈悲について恩師に教えてあげるのが真実の生きかたである、というような常識を逸脱した立場ではないという意味で、世俗諦のあり方をその範囲に限定して肯定したまでのことです。これは男女間の愛情についてもいえることです。世俗諦の世界における道徳観念等は、世俗諦の世界で生きる以上、尊重されてしかるべきであるのは当然のことと思います。

根本的な見解の違いは、無明という、私たちの根源にある輪廻という迷いの生存の根拠についての、信仰上の姿勢に起因するものと思われます。

釈尊の説かれた縁起の教えに絶対的な信を置きさえすれば、《空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つ》ことによって、無明の働きが消滅して、輪廻的生存から自由(解脱)になれるとする立場に対して、私は否という立場です。

こころの根源には自己と世界、自己と他者を分別して捉える先天的な働きがあり、また現象世界の事物をそれぞれが独立した実体のあるものであると虚妄分別し、私たちはそれにとらわれてしまうため、そこに執着を生みます。この自己と世界の二元分裂的働きによる自己執着が、迷いの生存の根拠となります。また、この分別するこころの働きは、朝眼を覚ました時から、自己と対立するものとして世界(天井等)を捉える根源的なこころの働きであるのです。この無明の働きが、釈尊の説かれた縁起を信じることによって、その働きを無効化するものなのか。もし、そうであるならば、その根拠はどこに求めるのかが問われるのではないでしょうか。
★《たとえば大きな鳥が虚空の中天を飛んでいて 地に落ちもせず また何かの支えにとまっているのでもなくて ただ虚空の中天を飛び そこにも頼らず とりついてもいない。ちょうどそのように スブーティよ 菩薩大士は空性という暮らしによって暮らし 空性を熟知する》
=信によって 永遠の現在を 動態として 生きている。(支えなどないとも言える)。》

たしかに華厳経にも、「初発心時、便成正覚」ということばがあります。信が決定したら、それは正覚を成じたも同じであるという意味ですが、これは四弘請願の願を興し、どこまでも他者のために生きようと不退転の決意に立つことでもあります。実践を否定するものではなく、むしろ、実践の困難さのゆえに、その覚悟を促すものであり、その意味で大乗仏教にあっては、決定した信に立つことは、中途半端な気持ちで成就できるものではありません。補足にて御紹介された『八千頌般若経』における菩薩とは、六波羅蜜の修行を行なう菩薩の五十二位の修行の階梯でいえば、十地以上に達した段階の菩薩であると思います。願生の菩薩といわれていますが、願って地獄・餓鬼・畜生といった、わざわざ苦しみの多い世界に自ら赴いて、苦しんでいる人の力になりたいと願う菩薩です。まさに生死輪廻からの自由を獲得した菩薩で、これは般若波羅蜜の実践により根本無分別智という般若の智慧を獲得することにより、はじめて実現する境地といえます。一切皆空の悟達により、煩悩障と所知障を断じたがゆえに、説一切有部等の教えにおいては五位七十五法のダルマ(法)の実有を説き、法に対する執着が残るゆえに、三世の生死を縦横無尽に生きていく般若の智慧が現成しませんが、法に対する執着を消滅させたがゆえに、願生の菩薩の行為が実現できるものです。まず、仏の教えに対する信が肝要なのはもとよりですが、『八千頌般若経』の菩薩とは、「自分の身はどうなってもいい。どんなことをしてでも一切衆生を悟りの彼岸に渡らせ、真実の安穏を成就させよう。」という悲願の元に、六波羅蜜の修行を漸々に励んでいる菩薩です。『八千頌般若経』の思想的立場は六波羅蜜の修行が大前提にあります。
六波羅蜜の実践、わけても般若波羅蜜の実践によって体得できる境地であり、信のみによって到達できる境地ではないと思います。

★《問題は 因果関係が 人間にすべて 理解できるかどうかです。理解できないはづです。ブッダを除いて。ブッダの知恵は あらゆる縁起関係を知っているとすれば つまりその不死の境地は わたしたちにとって 信の中にあります。あると信じています。》

不死の境地というのは解脱(成仏)の境地ですので、自分の仏教徒の立場からいわせていただければ、何生かかるかはわかりませんが実現できる境地であると私は信じています。縁起の法とは、不死の境地(空性)における仏の智慧により覚知したものですが、この智慧は人により様々ではないかと思います。シャーリプトラはジャイナ教徒の間では「ブッダ」=「目覚めた人」と呼ばれて、『スッタニパータ』には釈尊(私)の後継となるべき人であると説かれています。解脱の境地にあったと思われますが、三明の悟りや縁起の覚知という点については、釈尊には及ばなかったのではないでしょうか。宇宙法界を貫く縁起の法の覚知と「不死の境地」の実現は、必ずしも不二であるとはいえないのではないかと思います。もし、そうであるならば、釈尊以外に解脱したものの存在がありえないことになり、釈尊の法を説いた意味が全くなくなってしまいます。シャーリプトラの実践修行も全く意味のないものとなり、六道を輪廻していることになってしまいます。

私たちの無明に対する仏道修行の実践の段階において、縁起というものが、実践者にどのように覚知されるかはわかりませんが、さしあたっては今まで、自分中心に生きてきた人が、自分の身近にいる他者のこころの痛みを、我がことのように感じられるようになるといった程度かもしれません。かりに、そうだとしても、その人の生命のベクトルの方向は、輪廻的生存の原因である自己と他者を対立的に捉える無明の働きの消滅化→生死への自由を獲得する境地に近づいているということはいえると思います。中道の境地を目指す仏道修行の中で、だんだんと他者のこころの痛みが分かち合える人が増えてきたとき、そこにのみ縁起共生の世界が現出するのではないでしょうか。《信のなかに「不死の境地」がある》ということは、信によってのみでも無明が消滅することができるということでもありますが、果たしてそうでしょうか。自分の身近な人に困っている人がいれば、親身になってその人の苦を除こうと努力するとき、このふたつの、生命と生命との関わりの中で、無明の働き、自己執着の働きが生命の具体的な現実相の中で、具体的出来事として徐々に消滅化していき、この営為の積み重ねの過程に、「不死の境地」も実現できると思います。

憎しみと紛争が渦巻く世界にあって、縁起共生による平和な世界を目指すならば、今の世界はそれとは程遠い世界であると思います。私たちとは遠い世界の国々で戦争により多くの命が失われている現実に対して、自らの命の問題としてこころを痛めるのが縁起を信じる人の本来の姿であると思います。しかし、私としても、観念的には、遠い国の人々の苦しみに思いを馳せることができますが、命の実感としては他人事ですましている、好きなアーティストのLIVEでも近づいているのなら、心がそれとは関係なく、喜びに満ちている命であります。しかし、そのような命であるゆえ自己を反省し、どこまでも縁起共生の命に近づこうと仏道修行に励んでいるわけです。
縁起共生への信は最も根本にあるものですが、世界は一人ひとりが自己の正当性のみ主張し、縁起共生とはかけ離れた世界であることは共通の認識であると思います。ゆえに法を説くことの大切さも生まれてくると思います。100人や200人が縁起共生の教えを信じたとしても、縁起共生とはおぼつかないないのが今の世界だからです。信のみで、どのように縁起共生の世界を現出するのか、別の言い方をすれば、どのようにしてすべての存在は他のすべての存在と相依って存在しているのであり、一人ひとりはかけがえのない存在であるとの自覚を、地球上の多くの人間にもってもらうようにするのかということですが、最高の慈悲の行為である法を説くという実践を離れては、縁起共生も絵空事となってしまうのではないかと思います。また、逆説的な言い方になりますが、縁起共生への信が深まれば深まるほど、今の世界のありように対して痛切な痛みを感じるこころとなり、必然的に実践への道を歩むことになるものと思われます。

無明とは自己を中心にして、自己に執着して生きていく生命といえます。この無明の働きを弱体化させ、最終的には明知として現成させなければ「不死の境地」も縁起共生も観念的なものに留まってしまいます。ゆえに、無明→明知という中道の境地を目指す修行実践が必要になると考えます。

「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。ところがこの世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。さて執着のこだわりを嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがあるということ>すなわち縁起という道理は見がたい。またすべての形成作用のしずまること、すべての執着を捨て去ること、妄執の消滅、貧欲を離れること、止滅、やすらぎ(ニルヴァーナ)というこの道理もまた見がたい。だからわたしが理法(教え)を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、わたしには疲労が残るだけだ。わたくしには憂慮があるだけだ。」(『律蔵』)

釈尊が法を説いた前提に、真理の実践とは社会と切り離された個人の抽象的観念にあるのではなく、社会的連関の中で実現されるべき真理であるということがあると思います。部派仏教においても瞑想や釈尊の教えに関することは、釈尊在世においては、ひとりの師に師事して修行僧は学んだようです。中村元先生の見方では釈尊にあっても人に法を説くことがなければ、自らの悟りの完成もないと考えたがゆえに、逡巡の後、法を説いてやまない遊行を行なったのであるとしていますが、縁起の法というものが、すべての存在との関係性を説くのであれば、自らの生命の姿、行動がその縁起の理法の理念に真に合一していなければ、悟った法というものも中途半端なものとなり、真の悟りの完成とはならなかったと思います。仏教における真理とは、あくまでも生命と生命との具体的な触れ合いの中にあるものだと思います。
私たち一人ひとりが、どのような人間関係を構築し、そこに現実の様態として、どのような縁起共生の世界を、命と命のつながりの上で、具体的に築いていくのか。この一歩一歩の具体的営みが世代にわたり、水嵩を増しながら営為に続く時、縁起共生の世界もやがては現出するのではないかと思います。

話は変わりますが唯識の専門家である横山紘一氏は、やはり唯識が御専門だからでしょうか、NHKライブラリーの『やさしい唯識』だったと思いますが、深層心に刻みこむ意味で、「わたしの命はどうなってもいい。
人々のために尽くして尽くして尽くしぬくぞ。」という言葉をこころをこめて毎日唱えているそうです。依他起性の縁起を信じるゆえに、どこまでもその理念を自らの命に染み込ませようとなさっているのだと思います。今は外のいて、手元に該当書がないので正確なことばではないかもしれませんが、そのような意味のことばでした。今まで信のみの立場に否定的なことを述べたかもしれませんが、横山紘一氏の生きかたを見ると、深い信に立脚すれば、おのずからその人の毎日の生きかたは縁起の理念に基ずいた所作となることと思います。その意味において、縁起共生の教えに信を置く生きかた(行為)の営みにおいて、共通の世界を生き(合っ)ているということにもなると思います。

今回の回答はAno.43と同一趣旨のもので、全くの繰り返しになります。無明という問題を中心に述べました。その意味でわたしの回答としてはもはや申し述べることがなくなったようにも思います。あらためてbrageloneさんとの有意義な対話をもてたことに、こころより感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。

この回答への補足

bonbonnierさん 長きに渡って とうといおしえをご教授いただき まことにありがとうございました。こころよりお礼申し上げます。みなさんにも 深くお礼のことばを申し上げたいと存じます。たいへん ありがとうございました。

未練があるとしますと 二点です。一つは 愚痴で もう一つは 前向きの新知見です。

愚痴から述べます。ここしばらくは あくまで 男女の対関係 なかんづくマーガンディヤーに対するブッダの振る舞いに焦点があたっています。
 覚りの低い段階の者が採る対処の仕方は もはやブッダは採らないのかという物言いです。
 ★《あらゆる有情を見捨てない》=九十九匹よりは一匹のほうを。
 ★《知恵の完成にまもられていながら 真実の究極を直証しはしない》=信によって永遠の現在が 成り立ち 動いている。信には 何もしないと言っても 闘いがあって それは 力と方向(志向)性があるからだと思われます。あるいは この力と志向とのはたらきとして 愛は むしろ 理論家なのです。(理論どおりに振る舞えるかどうかは 別だとしてもです)。

積極的な新知見は こうです。
 ブッダとキリストとの根本的な相違が 一つ 分かりました。前者は 歴史的な人間存在(応身)として 一人っきりではないということです。
 したがって そこから さらにどうなるかですが たとえば説き明かしておられるように《不死の境地》をめぐって 違いが現われます。
 わたしのほうでは 《最終的に死が滅ぼされる》というのは 一般に 生身の者にとっては 《将来すべきこととして臨むのが正しい》。これに対して 仏教では 一つの生涯で叶わなければ どれだけの生を経てでも その実現を見るのだというわけだと分かったのでした。
 これは おそらく ブッダが 歴史上に何人も現われうるということにかかわっているというように思ったのでした。

さらにこれを発展させるなら こうなります。仏教では 
  ゴータマ(人間)=ブッダ(絶対縁起)という存在の類型
が 決して 一人の秀でた者に限られるのではなく 万人が 実現しうる境地だというものです。
 キリスト信仰では なるほど キリスト・イエスがなぜ あれを為し これを考えるかについて わたしたちも理解するようになると言われるし また かれキリスト・イエスよりもさらに大きなわざを行なえるようになるとも聞くのですが 
  イエス(人間)=キリスト(絶対神)という存在
は かれ一人に限られたものであり〔また それすらも 虚構であると言ったほうが 現実的である(つまり 人間の言語表現というものに即している)とさえ思われ〕 わたしたちは それに類似した存在形式になるのみだというものだからです。

このような感慨をいだきました。(経験思考によって どうなるかは分かりませんが 観想・考察に値する問題だと考えます)。さらに前へ進まねばとも思いました。

そのことともども かさねてお礼を申し上げて ご挨拶とさせていただきとう存じます。まことにありがとうございました。

補足日時:2007/12/18 14:05
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仏教において経典を学習することは、在家としては時間が足りないような気がします。

仏教の中で「禅宗」というのが在りますので、是に付いてお答えします。但し禅宗の事に付いては師匠とする人は居ません。強いて云うならば、鈴木大拙先生とその書物に出てくる禅匠全てと云っておきます。仏教を宗教と呼んでいますが、これは別の見方からすれば、誤りといえます、言い方を替えれば、仏教は宗教といっても良いと思いますが、お釈迦様の教えは宗教ではありません。究極の悩み解消の心理学と言った方が、現在の世界中の人々に理解して頂けるものと思います。

「禅」的悩み解消方法の科学的説明
人間の悩みは心の矛盾がその元となっています、これは心が二つ在る事によります。左脳と右脳です、キリスト教では天国に一番近い人は幼子と言います。仏教の方でも子供の心で、と、そんなことを言います。これは科学で証明できる事なのです。子供の脳は左右の脳がまだ機能分化が完成されていないことによります。

アメリカのスペリー博士らの研究等によって左右の脳を繫いでいる脳梁の切断が、テンカンの治療の一環として行われた時代に、左脳と右脳の機能の違いがいろいろな実験によって、調べられました。それらの実験の結果。左右の脳には「それぞれ独立した意識、或いは意思」が在る。というものです。

悩みが生じる年代が有ります、正確に言うと何歳でも悩む事はあるのですが、一番多く悩み始めると言ったほうが良いかもしれませんが、いわゆる、思春期と言われる年代です。子供の脳が大人の脳に近ずく、つまり、機能分化が完成される頃と言えば良いかと思います。

悩みとは何であるのか。と言う事が関わってきますが、とりあえず心の矛盾と言っておきます。左脳の機能は論理的に物事を分別する事です。
右脳の機能は言葉によらない事、分別出来ないこと、芸術とかスポーツとかです。体を使う事全般、無意識界を統率している事などが考えられます。

その分別する機能が発達することによって左脳が主導権を持ってしまうことが考えられます。というのは左脳に処理出来ない問題が割り込んでくるからです。その時に左脳が問題を抱えて立ち往生してしまう事が悩みなのです。言い方を替えれば右脳に在る意識が自分の存在を左脳に教えてやって、自分がその問題を解決してやろう、とすることが、悩みなのです。

そこで「禅問答」なるものが有るわけです、これは左脳の分別、論理の上で答えを探しても見つかりません。分別の限りを尽くして、ついに尽くしきれない事が分かる時に、ついに右脳の出番が来るわけです。
その時は「大死一番」と云って「我」が降参したことなのです。
右脳の意識に対して我を捨てろと言います。その時に右脳の意識と左脳の意識が出会う事になります。その事を「見性」自分の正体を見るという事になります、他の言い方では悟りを開いたとも云います。

そのことによって、矛盾が解消される。矛盾が解消される事によって「絶対の安心が得られるそして心に平和が訪れる。」この事を涅槃と言います。お釈迦の教えは悩み解消の究極的な心理学と言った方が良いと言えます。その時には心が絶対肯定という足場を得る事が出来ます。神の思し召しのままに。と言う立場です。右脳は神仏そのものなのです。
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この回答へのお礼

tumaritouoさん ご回答をありがとうございます。
まづ 左脳・右脳の議論は あまり評判がよくないと言います。どうしたもんでしょうか。
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・・・言語など高次機能との関連においても左右の活動に差があることも示されてはいるものの、fMRIなどによる脳活動の測定はあくまで相対的な活動の増大を示すものであり、その部位がその精神活動を行う中枢であるとか、その部位がその精神活動を専門に処理しているといった根拠にはならない。
 また芸術などを対象とした脳機能イメージングでは右半球にも活動のピークがあるといった程度であり、多くの研究では左半球にも活動の増大が認められる。

・左半球全体が論理処理のために活動しているわけではない。また左半球だけが論理処理をしている根拠は無い。
・右半球全体がイメージ処理のために活動しているわけではない。また右半球だけがイメージ処理をしている根拠は無い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E6%A9%9F% …
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禅の真髄をご紹介くださるとありがたいです。わたしの場合 禅について ほとんど無知です。そもそも 修行ということをやったこともないですし。

★《「大死一番」と云って「我」が降参したことなのです》。
このとき 《「我」が降参した》と認識する《わたし》はいても いいのですよね?

★矛盾や悩みが解消された状態が 涅槃である
というよりは 問題に対して 共に解決へ向けて 知恵を出し合い 力を合わせて 考えたり動いたりしているときが 涅槃だという見方は いかがでしょう? 《神の思し召しのままに》です。

いまたとえば tumaritouoさんと一緒に 社会の中にあって 仕事するところを想像するのですが わたしの想像力の枯渇をおしえてくれました。精進してまいります。

お礼日時:2007/12/16 16:26

brageloneさん。

こんばんは。補足にて御質問があったので、それについて回答させていただきます。

実は回答する中で、お互いの信仰上の考え方の違いも、明らかになったように思います。

まず慈悲ついいえば慈悲とは愛と対立する概念ではありません。愛を超えたところの絶対的な愛といえるものです。Ano.42の回答の中で、慈悲とは母親の我が子に対する慈しみにもたとえられるとして、高層階から誤って転落した我が子を助けようとして、自らも身を乗り出し、我が子を掴もうと虚空に手を伸ばし、自らも転落されてしまった若い母親の話をしましたが、このような尊い慈悲の命は、男女間の愛情を否定することによって生まれるものではありません。おそらく、その母親は家庭にあっては、よき妻であり、よき母であったことでしょう。そのような慈悲深い命の人であったのなら、その若い母親には、夫への深い愛情というものは無かったということにはなりません。慈悲と愛を比較することは、別に問題ありませんが、仏教における慈悲を、愛と対極的な反対概念であるとする二元対立的思惟によって捉えることはできないと思います。それは、空を有の反対概念として捉える空論者と同じことになります。慈悲とは、愛憎の二元対立を超越したところに、はじめて生まれる命であり、したがって、愛は慈悲の中の中に包含されているといえるものです。中道の境地とは、決して有を否定するものではなく、有無を超えたところの境地であり、世俗諦としての有のあり方を否定するものではありません。しかし、慈悲は愛憎の二元対立を超えているがゆえに、どれだけ深く愛し、そしてその結果、たとえ裏切られるようなことになっても、憎むということの決してない命といえます。もし、それが相手の裏切りによって起こったものであったとしても、自らの苦しみを受け止めて、一切衆生を慈しむ慈悲の命の立場から、邪まな心が潜んでいた相手のこころを、どこまでも慈しんで止まない命を指します。慈悲とは真に他人の身になって考え、他人のために働き、他人のために尽くす命です。もとより、そのような行為は現実のわが心を省みると、むずかしいことでもありますが、愛憎の二元対立を超えた、相手の生命をどこまでも慈しむということに基づいた絶対的な愛、慈悲の実現に向かって精進するのが、仏教徒の生き方といえます。

「愛する者の愛する人はだれであろうとも、たといチャンダーラ(賤民の女)であろうとも、すべての人は平等である。愛に差別なし。」(『ジャータカ』)
「もし貞節にして、他人の威力に屈せず、夫の欲することに従順で好ましき妻であるならば、責むべきことでも、ほむべきことでも、秘密の事柄を妻にうち明けよかし。」(『Milindapanha』)
原始仏教においては、さまざまな物語を通じて、このような愛の純粋で尊いものであることを力説しています。しかし、その愛は憎しみの対極にある愛ではなく、愛憎を離れた絶対的な愛といえるものです。

欲望(性欲)の否定は、(女性の)身体の不浄観の教えに伺えますが、これは欲望のうちでもっとも根強いものは性の欲望であるという認識によります。部派仏教にあっては、やがて欲望そのものを断ずる灰身滅智の教えへと発展していきます。身体の不浄観の本来の目的は、身体の脆さ、無常の方を強調していたのですが、出家修行僧が多くなり、異性の誘惑を絶たせる教えが必要になると、不浄観そのものがしだいに強調されるようになったようです。これは、教団に女性の出家僧が増えてきたという、釈尊の教団の内部事情とも関連してくる教えであると思います。

「〔神はいった、〕なにが人を生まれさすせるのか。人のなにものが走りまわるのか。なにものが輪廻に堕しているのか。人はなにものから解脱しないのであるのか。」
「〔尊師はいった、〕妄執が人を生まれさせる。人の心が走りまわる。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から解脱しないのである。」(『サンユッタニカーヤ』)
繰り返しますが、釈尊は私たちの迷いの生存の根拠に、性欲に代表される愛執(妄執)=無明(根源的盲目的衝動)を覚知し、これこそが輪廻的生存の根拠であるという悟りを得られたわけです。《男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係》には、人間存在そのものの根源的な問題が潜んでいるのです。それを自らの生存に関わる問題として意識できないのが私たち凡夫であり、そこに苦しみの本質があると覚知するのが聖者であるといえるかと思います。

また欲望の消滅について、『スッタニパータ』469には、究極の境地にあっては欲望をことさら否定することなく、あるがままに認めてとらわれぬようになることが説かれています。大乗仏教においては、空用の働きにより、欲望そのものが如来蔵の命、すなわち仏の命となるとしています。

補足における空の三態についていえば、、龍樹の『中論』に説かれるものです。
「これに対して、われわれは答えよう。汝は空用(空の働き)を知らないし、空性(空そのもの)も、また空義(空の意味)も知らない。そこでこのように、いたずらに労するのである。」(『中論』)
空の三態の空用とは、すべての戯論(ことばの多元化、ひろがりの意識としてのさまざまなことばの展開)を止滅させることにより、一切の二元対立的思考や業、煩悩を止滅させることをいいます。
空性とは自内証の世界であり、分別や概念で捉えられず、分別思惟を超えた平等一味の絶対の真理であって、涅槃と同じものです。空義とは、空の本来的意味のことであり、したがって空とは戯論寂滅の涅槃の世界、真如を意味します。以上はチャンドラキールティの自内証の立場による注釈です。
しかし、大乗仏教においては、煩悩を止滅させることによって、生命の活動なにひとつとしてない無為の世界に住することではなく、この現象世界にどこまでも関わろうとします。この立場にたつバーヴァヴィヴェーカの実践の立場から空の三態を解釈すると、その場において念々に起こるところのこころ(=煩悩)は、空の働きにより我執化されたものとしての煩悩ではなく、普遍化したものとなり、私たちのこころに顕現します(Ano.36)。空用とは如来蔵の働きになります。空性とは主体と客体、有と無、愛と憎、善と悪、自と他、一切の分別を離れた無分別の智慧の働き、仏性になります。そして、空義とは無分別智の対象であるところの真如としての現象世界のことになります。
釈尊にあっても無明を覚知することによって、無明そのものが明知(仏智)となったわけです。したがってしたがって大乗仏教においては不浄観による欲望の止滅というような修行方法は、これを否定します。
四禅とは釈尊が考案した独自の瞑想法で、意識を生命の極限までに集中化して行なうものですが、意識の集中化の過程に四段階あります。

★《愛情は 仮りに起きている生活欲求であり その欲求から  自由になることが最も大事ですよと慈悲について伝え みづからもこの  慈悲の境地に向かって精進していますと明かすか 》
仏教というものが愛というもを否定したものではないことは、申し述べたとおりです。法を説く慈悲とは、『その欲求から  自由になることが最も大事ですよ』ということではなく、何度もいいますが、私たちは無明という根源的な欲望を生存の根拠としているという点です。《すなわち あとは 何もしない闘いの過程なので》ということは、釈尊にあっては、厳しい言い方になりますが、許されないことだったのです。釈尊が何のために法を説いたかといえば、一切衆生の苦しみを救うためです。苦しみを苦しみであると如実に知るのが聖者であり、苦しみを苦しみと知らず、楽しみであると捉えているのが私たち凡夫だと思います。自らが愛する人が、苦しみの生存にあると知る時、手を差し伸べてあげるのが、真実の人間愛であると思います。ひとえに、釈尊の悟りを信じるか、信じないかにかかっているのではないでしょうか。

★《善因楽果・悪因苦果を超えています。あるいは 因果応報から自由です。超えている / 自由ということは 因果関係が 善悪それぞれの区別されたかたちで 応報として 推移するということも含むものです。
早い話しが 神がまったく勝手に 因果を決めるというものです。(《神は自分があわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ》《風は気ままに吹く》という脱法爾です)。》

このあたりの人生観は仏法とは、まったく相入れないお立場であると思うのですがどうでしょうか。
仏教においては、もろもろの個物はもろもろの因縁によって作り出された諸要素の集合体にすぎず、それらを構成している原因がなくなれば、それらは必ず消滅するという立場です。
縁起とは因果の教えです。釈尊は自らの教説について『深遠な』といことばを使っているのは、この縁起(因果)の教えのみです。縁起を見ることは仏を見ることであり、縁起(因果)の教えを信じないことは仏を信じないことになるのではないでしょうか。

臨終の床を訪問した長老ヴァッカリに対して釈尊は、「ヴァッカリよ。もうそんなことはいいなさるな。やがては腐敗して朽ちてしまうわたくしのこの肉身を見たとて、なんになりましょう。ものごとの理法を見る人は、わたくしを見るのです。またわたくしを見る人は、ものごとの理法を見るのです。ものごとの理法を見ている人は、わたくしを見ているのであり、わたくしを見ている人は、ものごとの理法を見ているのです。」(『サンユッタニカーヤ』)


縁起思想の意義について鍋島直樹氏の論述を紹介したいと思います。


「それでは縁起思想を明らかにするために、仏教とは異なる四つの思想を見ておきたい。
【1 因尊祐説】
第一に、宇宙がたった一つの原因によって支配されているという見方(因尊祐説)を、仏教はとらない。因尊祐説とは、苦・楽・不苦不楽を感受する一切の原因は、自在神が作ったのものであるという主張である。たとえば、創造主であり唯一である神のような存在にすべての現象を収斂させるような立場を仏教はとらない。仏教は一人ひとりの意思と行為を尊重し、行為の結果や原因などを人間以外のものに求めない。あらゆるものは因となり縁となって相互に関係しあって存在しているからである。
【2 宿作因説】
第二に、人間がこの世で経験するどのようなこともすべて運命であるという見方(宿作因説・因宿命説)を仏教はとらない。宿作因説・因宿命説とは、苦・楽・不苦不楽を感受する一切の原因は、外在的な宿命、前世に作られたものであるという主張である。因なくして始めから果があったとする決定論的主張(無因有果説)とも似ている。この第二の立場は、すべての存在が始め(因)において結果が定まっているという宿命論のような見方である。もしも、すべてが運命によって定まっているならば、この世において善い行いをするのも、悪い行いをするのも、すべて運命であり、幸・不幸も生まれながらに運命によって決まっていて、運命の他に何ものをも存在しないことになる。運命論は、人々にこれはしなければならないとか、これはしてはならないという願いも努力もなくなり、世の中の協調や進歩や反省もなくなることになる。
【3 無因果説・無因無縁説】
第三には、因も縁もないとする見方(無因果説・無因無縁説)を仏教はとらない。無因果説・無因無縁説とは、苦・楽・不苦不楽を感受する一切には、原因も縁もなく、起こったものであるという主張である。原因と結果との連続性(因果関係)を否定する見方や、原因のなかに結果が存在しないという見方は、善因善果、悪因悪果を認めない思想となり、たとえば、呪術などで人間の運命を左右する立場を認めることになる。
【4 唯物論説】
第四には、すべてのものを物質的変化に還元して、精神的な価値を認めない見方(唯物論)を仏教はとらない。唯物論とは、ものごとの根源は素材としての物質のみとし、観念や精神の存在を認めない思想である31。この唯物論的な存在理解だけでは、人間の精神的な営みである苦しみを解決することはできない。この指摘は、物質還元主義による人間理解にもあてはまることである。この唯物論的な見方は、善い努力や行為が善い結果をもたらし、自他を害する悪い行為が悪い結果をもたらすといった、世界を連続的に見ようとする価値観がない。その結果、一人ひとりの生きる力を育てられず、人間社会の倫理も成立しなくなる。
これら四つの主張は、人の行為や努力を否定するため、仏教の縁起思想とは異なるとしたのである。
それでは縁起の真理の独創性は何であるか。
まず縁起の真理は、すべてのものは因と縁とによってたえず変化していく思想であり、人間の願いと努力によって、自他ともに苦しみから安らぎに導くことをめざす。縁起にもとづく生き方は、人間一人ひとりの自由と精励を尊重し、あらゆるものに対する慈悲や感謝の自覚を育むのである。この縁起という思想は、仏教独自の思想であり、西欧思想には見当たらない。
縁起の独創性は、「相依相成」「相資相待」(interdependent co-arising)、すなわち、あらゆる存在が、互いに相助け合い、依存し合って共に生じているという見方と、人間の行為と精進努力によって、自由に新しい因果が形成されていく見方にある。自己が、時空を超えて、あらゆるものとつながっていることに深く目覚めたとき、自己の拘っている小さな世界から自由になり、自己のいのちが相互依存の世界でかけがえのない意味を持っていることにめざめる。また自己と等しく、他のあらゆるいのちも唯一の存在として相互に支えあっていることに気づく。この縁起のめざめとは、一人一人が縛られている我執から解放されたとき、新たに開かれてくる自由な境地である。」(鍋島直樹『仏教生命観とは何か――縁起思想の意義』)


《早い話しが 神がまったく勝手に 因果を決めるというものです。》とは、仏教が否定する因尊祐説のように見えるのですが。

自らの行為が、自らの生命の形成の因となるという縁起の教えにおいて、仏教では自らの意思による行為の重要さを力説します。

「生まれによって 賎しい人となるのではない。生まれによって 聖なる人となるのでもない。行為(kamma)によって 賎しい人ともなり、 行為によって 聖なる人ともなる。」(『スッタニパータ』.136.142.650)
「多くの呪文をやたらにつぶやいても、人は生まれによってバラモンとなるのではない。内心は汚物に汚れ、欺瞞にたよっている。王族でも、バラモンでも、庶民でも、シュードラでも、チャンダーラや下水掃除人でも、精励してつとめ、熱心であり、つねにしっかりしと勇ましく行動する人は、最高の清らかさに達する。このような人々をバラモンであると知れ。(『サンユッタ・ニカーヤ』)

「ブッダは自らを「業論者」であり、「行為論者」であり、「精進論者」であるとしている。スッタニパータに見える「業(kamma)」とは人間の日常生活、生き方、行為を意味する。人間は何らかの行為(業)を離れては存在しない。ブッダは宿命論や因果関係を無視する無因無縁論などを批判するために、業、すなわち、人間の営みの大切さを説いた。人それぞれが、生まれによってではなく、業、つまり日々の日常生活、個々の生き方によって成長していくから、ブッダは、業、行為、そして精励に生きることを重んじたのである。」(鍋島直樹『仏教生命観とは何か――縁起思想の意義』)

「不死の境地」にあっては、生死への自由の境地であり、自ら生まれるに当たっては、いかなる姿において世界のために尽くすかという意味で、輪廻的生存からは超越していることと思います。しかし、ひとたび現象世界に生まれたのならば、縁起(因果)の世界に生きることは、どうしようもないことです。しかし、聖者にあってはあらゆる縁起によるところの因果については、まったくそこに捉われることなく、したがって業を形成することなく、自由自在の境地において振舞うことになるのだと思います。ある行為を成したのなら、縁起のゆえに、必ずや他のすべての存在に影響を与え、その結果としての反照作用も生じるのが縁起の世界です。身近な例でいえば、ある人に親切に振舞えば、その人は感謝の気持ちで、接してくるでしょうし、またそれが気に障ったのでしたら、冷たい態度をとられることになります。


★《(ちなみに 個人的には どうでもいいことですが その関係が 清浄のかすかな光を見せるのに 四十年ほど待ちました)。》

神を中心とした共同体の美しい人間共和の世界が想像できるのですが、仏教の縁起の世界とは違うように感じられもします。

「今、一つの燭台を真中にして、全部がそれに面を向けるような形で多くの鏡を設置するとします。燭台に火を点ずるとともに、すべての鏡がその火を映して一時に輝きだす。それと同時に、ひとつ一つの鏡に映る火が、他のすべての鏡に映り、各々の鏡が、すべての鏡に映った火を――自分自身に映る火が自分以外のすべての鏡に映っている、その火をも含めて――かぎりなく映していく。と、いう具合に、鏡は鏡を映し、火は火に照らし照らされて、その相互映発は、どこまでも続く。こうして、多くの鏡に映る一つの光が、無数の光に分れ、それらの光は重々無尽に交錯しつつ、無限の奥行きをもった光の多層空間を作り出していくのであります。」(井筒俊彦『事事無礙・理理無礙――存在解体のあと』)

華厳の縁起の法理ですが、存在論的には仏といえども、一個の存在が他のすべての存在と関係し合う縁起共生の世界を現出する一個の鏡あり、私たちの命もひとつの鏡です。仏と凡夫の違いは、この縁起の法を覚知したかしないかの違いといえます。釈尊が何度となく、「深遠な」と語った縁起の法は、瞑想の達人の国である当時のインドにあっても当時は深遠なものであったのですから、悟りの体として現れた生命という点では、現代における仏と凡夫とはそこに天と地以上の差があるといえます。しかし、諸法がこのような構造連関にあるとするのなら、一人ひとりの行為というものは真に大切になってきます。世界が調和の方向へ歩むこと、それは私たちの願いでもありますが、その因は、神の差配ではなく、私たちの行為そのものにかかってくることになると思います。

この回答への補足

bonbonnierさん お答えをありがとうございます。
正直に言って bonbonnierさんも 迷っておられるかにお見受けしました。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
★《いかに無我を実現するかは、私たちひとりひとりの生きかた、あるいは仏道修行の実践の仕方に委ねられると思います。この意味で「不死の境地」の上から、言語を使って自らの悟りの境地に導く道を自由自在に説いた、釈尊の教説を真理として信じることが重要であるように思います。》
――この文章は わたしの道筋と同じであるように思うのですが そのあと やはり 中道第一義諦のあり方を提出しておられると伺いました。これは 対立点なのでしょうか。いかがでしょう? (No.43)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ここが 議論の前提です。そして最後のところで少し触れている議論の出発点は あらためて 次です。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
《男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係なる縁起共生》 この表現をめぐってのもので 特には 《愛と慈悲》の問題です。(No.44)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
ただし ここで 《愛と慈悲》の差異などの問題は 解決しました。紹介いただいた中村元理論は 《絶対の愛》ということについて 舌足らずでした。つまりは――今度は わたしの表現が 舌足らずなのですが―― 《いかにして無我を目指すか / 不死の境地に対する信において生きている》という大前提に立っているそのことを 互いに共通としています。 
さらに具体的な違いについては
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
世間の愛情に対して
  ひとまづこの感情を受け留める(bragelone)か 
それとも
  中道(慈悲)という正面を打ち出す(bonbonnier)か
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
でしたが これについても 解決を見ました。  
★《中道の境地とは、決して有を否定するものではなく、有無を超えたところの境地であり、世俗諦としての有のあり方を否定するものではありません》
★《このような尊い慈悲の命は、男女間の愛情を否定することによって生まれるものではありません》
★《愛は慈悲の中の包含されているといえるものです》

もし細かく違いを見ようと思えば おそらく
★《慈悲は愛憎の二元対立を超えているがゆえに》
という正面の知恵を やはり打ち出すかどうかにあるかも知れません。ですが
☆《空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つ》
☆《何もしない闘い》
ということすらも 共通とすると わたしには 見えるのですが。《世俗諦を否定しない》のでしたら 《何もしない》でしょうし そのとき しかも《慈悲に立脚する》のなら 《俟つ / 闘い》があると言えるように思います。

問題は 因果関係――つまり縁起そのもの――についての理論です。
けれども これも 簡単な問題点です。

 人間の能力を否定するわけではないので いくら絶対他力と言っても やはりわたしたちの努力を否定したり怠ったりするということでもありません。《無因無縁論否定》は 経験合理性のかかわる限りで 基礎となります。人為的な行為としての業の錯綜する相依相即的な社会関係 これも基礎に見ています。
 問題は 因果関係が 人間にすべて 理解できるかどうかです。理解できないはづです。ブッダを除いて。ブッダの知恵は あらゆる縁起関係を知っているとすれば つまりその不死の境地は わたしたちにとって 信の中にあります。あると信じています。
 つまり わたしたちにとって信としての縁起関係は――問題点となる理解不可能のことがらに焦点をあてるなら―― 脱・法爾です。いえ 《脱》がいけなかったですね。やはり《超・法爾》でしょうか。つまり 《法爾》なのですが 分かりません。分かると思う瞬間もあるかも知れませんが 一般に 理解を超えています。《神が勝手に因果関係を決める》というのは ただこのことを おとぎ話のごとく表現しただけのものです。しかも 《理法》が 人格化されています。すべては 仮りの表現です。仮想の概念装置です。 

空の三態など おしえていただき ありがとうございました。全部にお応えできたか 不確かなところが残りますが 骨格と肉付けの基本は述べ得たかと存じます。ので ご返事とさせていただきます。  

補足日時:2007/12/15 21:57
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この回答へのお礼

お礼ともども補足です。
☆《欲望の消滅について、『スッタニパータ』469には、究極の境地にあっては欲望をことさら否定することなく、あるがままに認めてとらわれぬようになることが説かれています。大乗仏教においては、空用の働きにより、欲望そのものが如来蔵の命、すなわち仏の命となるとしています。》
これに呼応する文章を見つけました。梶山雄一が『八千頌般若経』を引用・解説しているところです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
『八千頌』第二十章はこの菩薩大士の巧みな手だてを・・・説いている。菩薩大士は空の瞑想にはいっていても その空をさとって それで終わりとして涅槃にはいってしまってはいけない。空の瞑想からもう一度立ち上がり 現象の世界に帰らねばならない。空と知りながら現象の世俗の世界に遊ばねばならない。ブッダはいう。
   スブーティよ 菩薩大士はすべてのすぐれた様相をそなえた空性を観
  察するのであるが しかし《私は直証しよう》と考えて観察するのでは
  ない。〔そうではなくて〕《私は熟知しよう》と観察するのである。
  《いまは熟知するときであって 直証するときではない》と考えて観察
  するのである。精神が集中されないときには 〔瞑想の〕対象に心をし
  っかりとつなぎ 《私は知恵の完成を会得するであろうが 直証しては
  いけない》と考える。その中間において 菩薩大士はさとりの〔七〕
  要素(覚支)を捨てはしないが かといって煩悩を滅尽させもしない。
  ただそれを熟知するのである・・・彼は知恵の完成にまもられていなが
  ら 真実の究極を直証しはしない・・・。
   スブーティよ たとえば大きな鳥が虚空の中天を飛んでいて 地に落
  ちもせず また何かの支えにとまっているのでもなくて ただ虚空の中
  天を飛び そこにも頼らず とりついてもいない。ちょうどそのように
  スブーティよ 菩薩大士は空性という暮らしによって暮らし 空性を熟
  知する。特徴なきこと(無相)という暮らしによって暮らし 特徴なき
  ことを熟知する。(つづく)
(梶山雄一:『般若経』1976 pp.177-178)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(No.44のお礼欄へつづく)

お礼日時:2007/12/16 13:40

brageloneさん。

お礼ありがとうございます。お礼と補足における御質問について、私の考えを延べさせていただきます。

★《たとえば どういうふうに要らないかと言いますと 四禅定の内容などですが この境地に達していなくとも 人との対話は出来ると思わせるものがあります。また 人のはたらきとしては 限界があってもよいのだという見方によるものです。》

釈尊が法を説いた目的は、輪廻的生存からの解脱であり、生活倫理のためだけに法を説いたのではないことは重々御存知だと思います。私は大乗仏教を信仰するものですが(宗学からの見解は控えせさていただいています)、目的は同じところにあります。但し、大乗仏教では無住処涅槃の見地に立ちますが。ただ四禅という禅定の修行により空性を覚知できるとすることは、我執が強く、また釈尊のようなお方が近くに存在しない末法の時代にあっては、不可能であると私は思いますので、現代における仏道修行として四禅には懐疑的です。しかし、釈尊在世にあっては、解脱への道は四禅しかなく、これを否定すれば鳥獣類や蛆虱といった下等動物への輪廻転生もその人の生きかた如何によっては可能性としては考えられ、そうなると人間的生存へ戻ることはもはや不能な事態にもなります。ゆえにそのような生命への深い洞察があるゆえに、釈尊や部派仏教形成以前の初期原始仏教徒は、法を説くことの大切さを今までの私の回答で述べたように説いたわけです。無論、人の働きとしては 限界は当然あります。しかし、仏教徒であるならば、空用・空性・空義という空の三態における、自らの生命にある可能性としての空用としての無縁の大悲という仏性の顕現、あるいはこころの深層に無尽にある煩悩が空用の働きによりすべて如来蔵という徳の宝庫ともなるということ(たとえば怒りと不正に対する強い正義感は煩悩の二面的な働きであるということ)、この自らの生命の無限の可能性を信じて信仰に励むのが仏教徒の姿であると思います。仏の智慧は無限でもありますので、私たちの生命の可能性も無限です。どこまでも自らの生命の清浄に励むのが仏教徒の本来のあり方ではないでしょうか。

「全世界は〔欲望の火が〕燃えたっている。全世界は焼かれている。全世界は焦がされている。全世界は揺らいでいる。」(『テーリーガータ』200)
「なんの喜びぞ、なんの喜びぞ。〔世間は〕つねに燃えているのに、汝らは暗黒に覆われている。どうして灯明を求めないのか。」(『ダンマパダ』146)

私たちが何不自由してない快適な暮らしをしていても、聖者にとっては火宅の人であり、苦しみの生存と映ります。そして、その人の生命の真実の姿は苦しみそのものであるのです。

★《このようであるとき わたしのこれまでの感覚では 仮諦=世俗諦(たとえば 愛欲)に直面して その中から空諦の香りが現われるという筋道を思っていたわけです。
 愛憎の二項対立を超えた中諦(つまり 慈悲)をもって その相手を包むようにして 相い対するというようにではなくです。》

空性とは「自性清浄心」と原始経典に説かれるように、別の観点から見れば、こころが清浄になることでもあります。我執が消滅し、こころが清浄になれば、今まで自分のことしか考えられなかったのが、自と他との関係性(縁起)に目覚め、自然と相手の命を慈しむ振る舞いとなります。天台大師の空の三諦は、中村
元先生の『龍樹』の中で、龍樹や般若経典に説かれた空の考え方とは違うと指摘されていますが、天台大師の空の三諦は一心三観により、空、仮、中の三諦を隔別に観ずるのではなく、すべての現象は空と仮と中道が渾然一体となって聖者の一心に観ずることができるとする法理であると思います。したがって空の三諦を観ずるためには止観の修行が大前提となります。

ただ、理論的に空仮中の三諦を信じているだけでは、空そのものも観じることはできないものと思われます。《その中から空諦の香りが現われる》とありますが、すべての現象には因も縁もないとする無因無縁論を否定するのが仏教の立場ですので、《空諦の香りが現われる》ためには、その原因がなければなりません。ひとりでに、《空諦の香りが現われる》ことはないわけです。また、《空諦の香りが現われる》ということを覚知するのは、主体としてのこころの問題でもあります。したがって、《空諦の香りが現われる》その直接の因とは、その人の生命が清浄となったか否かにあると思います。空についていえば、龍樹は八不中道の縁起を説いているのですから、空(性)とは、八不に代表される一切の二元対立、不増不減、不垢不浄、不大不小、不聖不俗等を離れた中道でもあります。空をどう捉えるかということは、あくまでも教学上の問題となります。止観の修行を離れて空の三諦を考えても、あるいは信じても、それは自我意識においてそのように信じているのみで、宗教的な信とはほど遠いものではないかと思います。空をどう捉えるかということと、自身の命の清浄性をどう実現するかということは、あくまで別の問題であるように思います。

ちなみに中村元先生は、天台大師は空を有(仮)に対する二元対立の一項として空(無)を捉えており、天台大師における中道とは、有(仮)と無(空)の中道を説くものであると解釈する。しかし、それは龍樹の八不中道の空の捉え方とは違うと述べておられます。これに対して立川武蔵氏は天台大師の捉えた空とは存在の成立基盤として空を捉えているとして、中村先生とは空の三諦の解釈が違っているようです。この辺のところは詳しくは知りません。


★《なぜなら みづからの菩提心のようなものは けっきょくブッダの知恵には 似ているけれども 不類似だという認識があり つまりはこれは 絶対の境地への信仰があるということでもあり したがって 究極においては あくまで信じたから共に生きるという生活になるという見方によるからだと思います。》

先にも述べましたが、《絶対の境地への信仰》があるゆえ、その境地を自らの生命に実現しようとする仏への信があり、そのための仏道修行があります。釈尊の教えとは石飛道子氏がHPで語っていましたが、自らの生命を清浄にすることの一点につきるといってもいいと思います。そこから、すべての可能性(空用)が生まれるがゆえにです。信とは究極的には実践につながるものです。釈尊の教えを実践しないということは、自らの価値観を信じているのであり、釈尊の教えを信じているのではないと思います。自身のこころを清浄にするための実践という点については、先の回答にも書いたようにいかに無我を実現するかということにつきると思います。それは各自の実践のあり方に(自らの責任の上で)委ねられることになると思います。たとえ般若心経の写経という修行といえども、仏の教えと拝してそこに思いを込めて取り組むなら三輪清浄の功徳により、何らかの仏因を生じ、新しい自分を発見することにもなると思います。三輪清浄とは、施者・受者・施物の三輪が清浄であり、無償の行為で見返りや何かの功徳を求めることなく布施することでもありますが、広くは自己と世界(経)と行為(写経)を無心になって行うことでもあります。横山紘一氏の唯識の本に、三輪清浄空の上から禅の修業には掃除なら掃除に徹しきって無心になって掃除を行うことが求められるそうですが、実践のあり方には、人それぞれいろいろな取り組み方があると思います。

★《しかも 信があります。この信によれば やはり永遠の現在(過程)なのです。》
信が生活行為の中で何かしらの実践に高められるときに、はじめてその人の生命は清浄になります。我執→こころの清浄への実践の過程こそが《永遠の現在(過程)なのです》といえるのではないでしょうか。問題は生命それ自体が《永遠の現在(過程)》という命そのものの境地にあるのか、あるいは無明(生命の本源的衝動)、あるいは妄執に支配された流転(非永遠化)の命であるかの違いにあるといえます。私たちの生命の根源は流転(非永遠化)の現在であるというのが釈尊の悟りです。釈尊にあっては、非永遠化の現在→永遠化の現在の転換に四禅による悟りがあったわけです。

「そなたは、根源から正しく注意しないために、思索に酔っているのです。根源によるのではない、正しからざる思索を捨てよ。戒律を捨てて退くことなく、師(ブッダ)と理法と集い(サンガ)とに関して、根源からしっかり想いつづけよ。そうすれば、そなたは、喜びに達し、喜びを楽しみ、歓喜に富む者となり、苦しみを終滅するであろうことは、疑いない。」(『サンユッタ・ニカーヤ』)
生命の根源はどす黒い欲望が蠢いているのですから、人間の理性というものは脆いものです。正しい教えを生命に染み込ませる努力(実践)が必要になってくるはずです。

★《もし(1)のように出家者でないとすれば しかし同じように 情念・愛欲そして愛情すべての世俗諦に直面し これを受け留めて そこから 空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つという現在動態だと思うのです。》

《空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つ》といいますが、無因無縁論否定の上で、《空諦の香りの薫る》その因を自らの内のどこに求めるかという問題に尽きると思います。《空諦の香りの薫る》のを観じるのはこころの認識の問題ですので、こころの有りよう(清浄への道を歩んでいるか、その結果少しでも清浄となったか)が、《空諦の香りの薫る》という結果を招来するための決定的な因となるはずです。
「中道によって、如来は法を説くのである。」とあるように中道の境地に自らがあるとするならば、すでにその人は仏です。そのようなことはありませんから、私たちはどこまでも仏の教えを信じて信仰実践に励み、中道の境地に少しでも近づくよう精進することになるのだと思います。我執→こころの清浄への実践の修行が《現在動態》としてあるといえると思います。

私の思うところを述べさせていただきました。お気にさわることがありましたらご容赦下さい。

この回答への補足

bonbonnierさん ただいまご回答を読み終わりました。お答えをいただいて たいへん ありがとうございます。風雲急を告げてまいりました。

まづ 《空用・空性・空義の空の三態》を勘違いしていましたし 今も――手元の辞典などになく――意味が分かりません。《空用》が 《無縁の大悲》につながるということは わたしの表現した《脱・法爾自然》にかかわった概念でしょうか。あと 《四禅》もほとんど知らずに使っていました。

今回のご質問は 特定されています。《男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係なる縁起共生》 この表現をめぐってのもので 特には 《愛と慈悲》の問題です。さらには ブッダが マーガンディヤーの側からのプロポーズを断わるときの表現形式にも 特化しました。

そして きわめて簡潔に焦点を合わせるならば 世間の愛情に対して

 〔bragelone:〕ひとまづこの感情を受け留めるか それとも
 〔bonbonnier:〕愛情は 仮りに起きている生活欲求であり その欲求から
  自由になることが最も大事ですよと慈悲について伝え みづからもこの
  慈悲の境地に向かって精進していますと明かすか 

だと思います。わたしの場合は そういう意味で――すなわち あとは 何もしない闘いの過程なので―― 脱・法爾自然のごとくに 縁起が推移すること しかも その感情を受け留めているということにおいて 共生であるということ これが特徴です。(ちなみに 個人的には どうでもいいことですが その関係が 清浄のかすかな光を見せるのに 四十年ほど待ちました)。
 慈悲の実践とその説明の場合も もちろん 共生ですが ほんの少しですが 冷たい感じがします。

★{《空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つ》といいますが、無因無縁論否定の上で、《空諦の香りの薫る》その因を自らの内のどこに求めるかという問題に尽きると思います。}
――このように おっしゃるとおりだと思います。そしてそれが 脱主観としての脱・法爾自然だと思います。《無為施》も《慈悲》も気にしていませんし 自分の人格じたいについての《清浄》のことは頭にありますが この対(つい)関係そのものにかかわって 清浄を目指すといったことは やはり 気にかけていないわけです。(気にかけても いいわけですが)。

善因楽果・悪因苦果を超えています。あるいは 因果応報から自由です。超えている / 自由ということは 因果関係が 善悪それぞれの区別されたかたちで 応報として 推移するということも含むものです。

早い話しが 神がまったく勝手に 因果を決めるというものです。(《神は自分があわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむ》《風は気ままに吹く》という脱法爾です)。

論理的には 《無因無縁論否定》を含みつつ 人間の主観による無因でもなく有因でもないというかたちだと思います。

ここまでは お応えとして お返ししうるかと思いました。果たして どこまで 仏教の中に入っていけるかは 天命にゆだねつつ bonbonnierさんからのお答えをお待ちしたいと存じます。 

もう一点 こう思いました。信においては すでに 自己の境地として 中道第一義諦にあるという信の内容以外ではないと 思っているのではないかと考えます。誰もがです。これが 案外 脱・法爾自然のことかとも思いました。(変な表現の仕方をしていますが さらにもっと何重にも信の中味を包むように表現したほうがいいかも知れません)。

補足日時:2007/12/13 23:58
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この回答へのお礼

(No.45お礼欄よりのつづきです)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  特徴なきこと(無相)という暮らしによって暮らし 特徴なきことを熟
  知する。願望を離れる(無願)という暮らしによって暮らし 願望を離
  れることを熟知している。しかも 仏陀の真理を完成せずに 空性 特
  徴なきこと 願望を離れることに陥ってしまいはしない・・・。
   スブーティよ 知恵の完成への道を追求する菩薩大士は 巧みな手だ
  てにまもられていて その諸善根が無上にして完全な知恵において充分
  に成長し 完全に発展するにいたらないかぎりは 最高の真実の究極を
  直証しはしないのである。

ものに執着しないという心の態度から ただちに煩悩を断じ真実の究極を直証して涅槃にはいりはしないという第二の段階にまで進んできて菩薩大士の巧みな手だては さらに発展して第三の段階にはいる。それはあらゆる有情を見捨てないということである。あるいむしろ あらゆる有情を見捨てないということが巧みな手だての目標であるから そのために ものに執着せず 涅槃にはいってしまわない という二つの決意がなされるのだ というべきかも知れない。
 『八千頌』第二十章はさらに言う。ある人に 菩薩大士の心がけを問われたときに 問われた菩薩が

   こう説明するとしよう。《菩薩大士は空性だけを心にかけなければな
  らない。無特徴だけを 無願望だけを 無作為だけを 無起だけを 無
  生だけを 無存在だけを 菩薩大士は心にかけなけれならないのであ
  る》と。もし彼が あらゆる有情を見捨てないという心を発(おこ)
  すというこのことを示さず 巧みな手だてをも説明しないならば スブ
  ーティよ このような菩薩大士は かの過去の 供養されるべき 完全
  なさとりを得た如来たちによって 無上にして完全なさとりから退転す
  ることはないと予言されてはいないのだ と知られるのである。それは
  なぜか。(つづく)
(梶山雄一:『般若経』1976 pp.177-179)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(No.38お礼欄へつづく)

お礼日時:2007/12/16 14:05

brageloneさん。

こんばんは。補足にて御質問をいただきましたので、私なりの意見を述べさせていただきます。

★《 《一切の言説は仮名にして実なく》=《絶対》は 仮想の概念装置であるゆえにこそ 《言に拠りて言を遣るを謂うのみ》としてでも さまざまにわたしたちは 世界を説明しようとするものではないでしょうか。 》

勝義諦の真理としての「不死の境地」に対しては、言葉というものは、それを指し示すことしかできません。しかし、言葉により指示しないのであれば、勝義諦の真理そのものを衆生に伝えることができないのも事実です。私たち凡夫は言葉の指し示すものに実体があると思い込んでそこに執着します。ゆえに聖者は、涅槃の境地の上から、仮名としての言葉を自由自在に操って、衆生を不生不滅の戯論寂滅の境地に導こうとします。私たちが、その教え通り実践し、戯論寂滅の境地に到達したとするならば、そこではじめてこころの奥底にある一切の言葉生成作用、言語による分別意識が止滅します。言葉とは、この言葉の否定に導くために仮設されたものであったことが、はじめてそこで明らかになるわけです。ここを『大乗起信論』は「言に拠りて言を遣る」と表現しています。仏の説いた経というものは、勝義諦の真理としての戯論寂滅の境地を直接に表現するものでは決してありませんが、これを仏の教えとしての真実の言葉として信じることにより、逆説的に、言葉そのものが言葉が否定される境地に導くものであるということを知ることになります。『言に拠りて言を遣るを謂うのみ』とは仏の金言としての言葉の有効性を説いたものです。

これは、井筒俊彦先生が述べていることですが、たとえば『真如』という言葉の場合、空性の境地を、「すべてのものを空じきった極限に『真如』が顕現する」と表現するとしたら、私たちは『真如』という語をキーワードにして、何かしら聖者の「不死の境地」をイメージ喚起することができると思います。これを荘子の『道』という語に置き換え「すべてのものを空じきった極限に『道』が顕現する」と表現すると、一挙に倫理的な響きとなり、私たちが歩んでいくべき倫理の道としての大道が現れるイメージとなります。これは私の場合ですが。長い歴史における文化的な土壌の中から生まれた言葉というもの、あるいは真実の言葉としての経というもは、私たちのこころと切っても切れないものであるということが、この一例からも理解できるように思います。聖者は、この言葉を「言説の極み(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)」として操り、私たちを言葉の否定の境地に導くわけです。『真如』と『道』では「それぞれの術語の背景にある言語的意味のカルマが違うからだ。」と語っています(『意識の刑而上学――大乗起信論の哲学』)。

世俗諦の世界においては、仮名としての言葉を使って、私たちは世界を語ろうとします。共同幻想の世界ともいえますが、その限りにおいては世俗諦の言葉としては真実ですので、世俗という限られた世界での言葉の真実があると思います。

最後には、あらゆる言葉の止滅した戯論寂滅の境地に立つわけです。
「この真如の体は遣るべきものあること無し、一切の法は悉く皆真なるを似ての故なり。亦立すべきものも無し、一切の法は皆同じく如(真如)なるを似ての故なり。」(『大乗起信論』25)

釈尊にあっても、『スッタニパータ』の中でもその最古層である『アッタカ篇』には、無所有処定の禅定を説き(1071-1072)、『パーラーヤナ篇』においては、一切の「識別作用の止滅」(1110-1111)、一切皆空(1119)による解脱を説きます。そして言語生成作用(「ひろがりの意識」、「多様な言語世界の名称」)の止滅を説き、一切の戯論が寂滅した境地(非有非非有想定)に弟子たちを導きます。
「どのように修行した者にとって、形態が消滅するのですか。楽と苦はいかにして消滅するのですか?どのように消滅するのか、その消滅するありさまを、わたしに説いてください。わたしはそれを知りたいものです。―わたしはこのように考えました。」(『スッタニパータ』873)
「ありのままに想うものでもなく、誤って想う者でもなく、想いを消滅したものではない。―このように理解した者の形態は消滅する。けだしひろがりの意識は、想いにもとづいておこるからである。」(『スッタニパータ』874)

原始仏教典籍においては、「八正道」と「四禅」と「縁起」は原始経典の散文部分に属しています。「四禅」の記述は「縁起」、あるいは「八正道」が説かれているところに一緒に説かれている教説ですから、釈尊が法を説いた本来の目的は、日常生活を正しく生きるという実践倫理だけを説くことにあったのではなく、言葉を使って言葉の止滅した世界、―それは無明の覚知ですが―この「不死の境地」に衆生を導くためのものということになります。『スッタニパータ』に説かれた一切の戯論寂滅の境地、それはまっすぐに龍樹の八不の覚りに繋がってきます。仏教における経の意義とは、言葉を使って言葉の止滅した世界に導くためのものといえるかと思います。戯論寂滅の境地とはそのまま現象世界の縁起の覚知でもあるわけです。

★《まだ聖者ではないわたしたちは この概念装置としての《慈悲行(大悲の実践)》のもとに――ある程度の思惟を介して―― 生き動き存在するのか それとも 聖者ブッダの存在ないし真理を信じることによって 信じたから語った動いた生きたということなのかです。《信じたから語った動いた生きた》ということのなかに 慈悲行につうじる愛欲や愛情があるのかです。母親の子への無償の愛の事例からいけば 後者を特におっしゃっているのか それとも 両方を視野におさめておられるのか。》

慈悲というも智慧の働きによるものですが、この智慧は、私たちのこころの奥深くで働くところの無明の止滅、原始経典の用語を使えば、「妄執」の止滅であり、「ひろがりの意識」、「多様な言語世界の名称」の消滅にあると思います。私たちは決定的に無明が輪廻的生存=苦の根拠となっており、したがって、仏道修行における実践において、「ひろがりの意識(多様な言語世界の名称)」=自他、主客、愛憎等の二元対立的を生み出す妄念を止滅させ、苦しみ(現在は幸せを感受していても仏の眼から見れば生存の根拠が無明のゆえにそれは苦しみである)を超克しようとするのが仏教の本来の目的です。この中道の境地において、はじめて愛憎の二元対立を超えた慈悲のこころの発露が生まれるものと思います。

現代日本仏教のほとんどの宗派では釈尊の仏像を拝し、仏としての釈尊の教えを実践する姿が見られます。あるいは、宗祖の教説を通して釈尊の教えを実践する形があります。それでは釈尊在世の弟子たちは釈尊に対してどのような姿勢で釈尊に接していたかが問題になります。生身の釈尊が実在しているのですから釈迦の仏像を拝することは当然ありません。それでは、釈尊を一切知者として接していたのか―それは日本の仏教徒が釈尊の仏像を拝する姿勢と同じだと思いますが―、あるいはシャーリプトラは自ら生きる上での資糧としてだけ釈尊の教えを捉えていたかということです。
ジャイナ教の『聖仙のことば』に収録されているシャーリプトラのことばには、釈尊を全知者と語っています。

「種々なる状態の生滅に関して全知者(=ブッダ)によってことばが語られた。」

「サーリプッタさんがいった、「わたしはいまだ見たこともなく、まただれからも聞いたこともない。―このようにことば美わしき師(ブッダ)、衆の主がトゥシタ天から来たりたもうことを。眼ある人(ブッダ)は、神々および世人が見るように、一切の暗黒を除去して、独りで〔法〕楽を受けられた。こだわりなく、偽りなく、このような範たる人として来たりたもうた師、目ざめた人(ブッダ)であるあなたのもとに、これらの束縛ある多くの者どものために問おうとして、ここにまいりました。」(『スッタニパータ』955-957)

『聖仙のことば』は『スッタニパータ』よりも古い文献を含むといわれていますが、シャーリプトラは釈尊を全知者=一切を知る覚者として拝していたことが伺われます。釈尊は永遠の理法への信を説くわけですので、釈尊への信を通して縁起の理法への信に立つことになります。

空性の境地である「不死の境地」において無縁の大悲がわが身に働くことを目指すのであれば、釈尊の説かれた教えを信じることが求められると思います。それでは釈尊の四禅の禅定を、我執の命の強い末法における私たちが実践して、果たして無明を覚知できるのかということが問題になります。息ができない苦しみを忘却するまでに意思を集中させる止息行においては、ついには耳から空気が出入りするようになり、最後には耳からの空気の出入りさえも遮断し、何度も仮死状態に陥ったといわれています。釈尊の意識を極限までに集中させる四禅の禅定は、この六年間の苦行における意思力の形成とは無縁ではないのではないかと思います。シャーリプトラ等の在世の弟子は、釈尊の禅定の指導もあり、三明の悟りまでは到達できなかったかも知れませんが、無我(空性)は実現されていたと思います。
いかに無我を実現するかは、私たちひとりひとりの生きかた、あるいは仏道修行の実践の仕方に委ねられると思います。この意味で「不死の境地」の上から、言語を使って自らの悟りの境地に導く道を自由自在に説いた、釈尊の教説を真理として信じることが重要であるように思います。当然、釈尊の到達した空性の境地は、龍樹の境地でもあり、空の三諦における空用とは、如来蔵であり仏性でもありますので、大乗経典も視野にいれるべきものと思います。

無縁の慈悲とは八不中道の境地において十全に顕現されるものと思います。初期大乗仏教徒の無為施の

★《母親の子への無償の愛の事例からいけば 後者を特におっしゃっているのか それとも 両方を視野におさめておられるのか。》

結局それは、縁起共生の世界において《 《まだ聖者ではないわたしたちは この概念装置としての《慈悲行(大悲の実践)》のもとに――ある程度の思惟を介して―― 生き動き存在するのか 》と同じことになるのだと思います。釈尊を信じることは縁起の理法を信じることになるからです。縁起の法を信ずる上で釈尊の生命の常住を信じることは、大きな励ましになるかと思います。龍樹が釈尊の仏像を拝していたのも、自らの禅定の修行と智慧による理論化作業の実践の中で、涅槃の不生不滅の境地を覚知し、釈尊の生命の実在についても絶対的な確信があったものと思われます。仏像への信仰というものでは決してなく、聖者と聖者との生命の対話(実際に行なわれたわけでは無論ありませんが)、報恩・感謝の行というべきものであったと思います。よく上座部仏教から大乗仏教の仏像崇拝は仏教ではないという意見がたまに聞かれますが、大乗仏教徒が釈尊の仏像に向かう姿勢と、シャーリプトラが釈尊に向かう姿勢は同じものと思います。

★《《相対の世界こそが 絶対(空)である》とすれば 我欲・性欲・独占欲・所有欲・支配欲あるいは思いやりなり共存共栄の感覚なり そのような情念・愛欲・愛情 その意味での愛の中に 慈悲の種子を捉えこれを芽生えさせ花咲かせることが ブッダの弟子の道ではないでしょうか。 》

聖者にとっては、この現象世界がそのまま涅槃の世界ですが、私たち凡夫は無明を輪廻的生存=苦の根拠としているのも事実です。その限定された世界の中で、美しい愛情で結ばれた世界も生まれることもありますが、たとえ慈悲の行為により苦しんでいる人から苦を取り除いたとしても、それは一時の楽にしかなりません。その人はいつまでも無明→苦の輪廻的生存に住しています。ゆえに苦しみの性起する原因を悟った釈尊は、弟子達に法を説くことに導くことになります。苦しんでいた人が、いままでの生きかたを省みて、おなじく釈尊の縁起の教えを信じて、縁起共生の道を歩む時、はじめてその人のこころが明知→苦の消滅の方向に向かい、慈悲を《芽生えさせ花咲かせること》ができることになります。

社会の安寧ということを考えれば、己ひとりの力ではあまりにも無力であり、その意味から法を説く自覚が生まれるものと思います。

「全き悟りを開いた人が他人を教えさとすのは、人のためを思い、憐れむからである。修行完成者は順応と反論とから解脱している。」(『サンユッタニカーヤ』)

最高の慈悲とは宗教的に最高のものを与えることに尽きると思います。宗教的に最高のものを与えるということは、釈尊が説いた教えを信じさせることでもありますが、そのほかにもその人をして他者への慈しみのこころを起こすことの大切さを何らかの形で示すというようなことも当然含まれると思います。他者がその自覚に生きる時、それは相依相即性の縁起のゆえに、自らの命へも影響を与え、自らの慈悲の念がさらに深くなる(ように作用する)ことでもあると思います。

この回答への補足

bonbonnierさん ご回答をありがとうございます。

今回は 一方で こころ深く沁み込む空性の境位が伺えて 垣間見たかのように 感じましたが しかしながら 正直に申しますと 他方で この境地が 幻想ではないはづですが この世に生きて行くには 高度すぎる内容で にわかには要らない知恵なのではないかという感覚も あったのでした。
 どうしたもんでしょう?

たとえば どういうふうに要らないかと言いますと 四禅定の内容などですが この境地に達していなくとも 人との対話は出来ると思わせるものがあります。また 人のはたらきとしては 限界があってもよいのだという見方によるものです。
 なぜ こういう反応が出て来たのか たぶん そういうかたちのわたしの我執なのかも知れません。頑迷な部分があったということかも知れません。

こういう考え方は 出来ないでしょうか。つまり 空仮中の三諦に触れておられましたが まづ
 
 空諦(真諦):あらゆる存在は実体のない空であるとする否定面
 仮諦(世俗諦):実体はないが縁起による仮りの存在とみなす肯定面
 中道第一義諦:空諦仮諦を現象面的でない空・仮を超えた本体的面
  (『岩波仏教辞典』1989)

(《本体》という言葉が出て来て 適切でないようにも思われますが いまは措きます)。
このようであるとき わたしのこれまでの感覚では 仮諦=世俗諦(たとえば 愛欲)に直面して その中から空諦の香りが現われるという筋道を思っていたわけです。
 愛憎の二項対立を超えた中諦(つまり 慈悲)をもって その相手を包むようにして 相い対するというようにではなくです。
 なぜなら みづからの菩提心のようなものは けっきょくブッダの知恵には 似ているけれども 不類似だという認識があり つまりはこれは 絶対の境地への信仰があるということでもあり したがって 究極においては あくまで信じたから共に生きるという生活になるという見方によるからだと思います。

ですから たとえば
★《最高の慈悲とは宗教的に最高のものを与えることに尽きると思います。》
 とおっしゃるとき そうではなく むしろ 機根に応じて 語り合うほうを基軸としていたわけです。
★《たとえ慈悲の行為により苦しんでいる人から苦を取り除いたとしても、それは一時の楽にしかなりません。その人はいつまでも無明→苦の輪廻的生存に住しています。》
 このとき 《一時の楽にしかな》らないのなら 自分の状態を含めて 相手の境地の問題ですから その時点ごとに あきらめます。さらに次の段階へという方向は保留しているわけです。しかも 信があります。この信によれば やはり永遠の現在(過程)なのです。
★無為施も 思惟を介しての慈悲行も 同じことになる
 というのは わかるように思いますが たぶん これまでのわたしの感覚では すでに触れましたように いわば中諦の《無為施》も《慈悲行》も 気にしていないということだと思います。信が先行している。そしてその意味は 仮諦=世俗諦にどこまでも直面しているという情況にあり しかも そうあり続けるということではないかと 振り返って 捉えます。
(その動態としての永遠の現在にあっては もし平俗に言うとしますと 何もしない闘いをおこなっていると言えると思います。中途半端な楽と覚りの状態なのですから 闘いがあります)。

これは だいぶ違いますでしょうか。そこのところは やはり 中道第一義諦を正面に現わすようなかたちで 対処されるのでしょうか。ブッダなら すでに 体得していますから わざわざ隠すこともないのでしょうが。

★《いかに無我を実現するかは、私たちひとりひとりの生きかた、あるいは仏道修行の実践の仕方に委ねられると思います。この意味で「不死の境地」の上から、言語を使って自らの悟りの境地に導く道を自由自在に説いた、釈尊の教説を真理として信じることが重要であるように思います。》
――この文章は わたしの道筋と同じであるように思うのですが そのあと やはり 中道第一義諦のあり方を提出しておられると伺いました。これは 対立点なのでしょうか。いかがでしょう?

補足日時:2007/12/10 23:33
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この回答へのお礼

補足&お礼になります。(20071212記)

No.42のお礼欄に マーガンディヤーのテクスト(抜粋)を引用しております。このブッダとマーガンディヤーの物語にちなんで 論議をすすめることが出来るのではないかと思いました。

ブッダが結婚の申し込みをことわった理由は 次のようだそうですね。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「われは〔昔、悟りを開く直前〕、渇愛と嫌悪と愛欲〔といった3人の魔女(天女?――引用者)〕を見ても、彼女らと交わりたいという欲望さえ起きなかった。大小便の詰め込まれたこの女(マーガンディヤー)が、そもそも何になるというのだ。われはこの女の足にさえ触れようとは思わぬ」 (『スッタニパータ835』)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
確認事項ないし論点として
 (1)出家者である=生殖を放棄した
 (2)天女の誘惑に負けるような境地ではない=性欲から自由である
 (3)天女に対しても靡かない者が この世の女(《大小便の詰め込まれ
  た女》)に靡くことはない=これは (2)の上塗りである
 (4)侮辱を受けたと思ったマーガンディヤーの復讐とそれに耐えてブッ
  ダが和解を実現する経緯 

ここで (3 / 4)は措きます。物言いは (1)を言えば すべて 分かると思われるところを わざわざ(2)までを言っていることに焦点があてられます。
 すなわち言いかえると 《(1)生殖を断念している》の説明をもって 世間の愛に 直面して 対処するのが ブッダの道だと思うのですが このときにも 空の知恵・慈悲の中道〔(2)以下の事項〕を 正面に押し出して 対処しているという点です。

もし(1)のように出家者でないとすれば しかし同じように 情念・愛欲そして愛情すべての世俗諦に直面し これを受け留めて そこから 空諦の香りの薫るのを 時を経つつ 俟つという現在動態だと思うのです。

これまでのわたしのあたかも習慣になったもののようですので このこと自体に 問題があるという可能性(おそれ)があります。

お礼日時:2007/12/12 12:10

brageloneさん、お礼ありがとうございます。

また補足について、回答しようとしましたが、王法と仏法の関係は、まだ私の手に追えるものでもなく、回答を躊躇していました。それでも私なりの考えを述べたいと思います。

★《男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係なる縁起共生は たしかに 仏法の 王法にたいする関係において 現われる側面もあると 現代では国際関係の視点から見ても 思われます。》

愛ということについて、中村元先生の解説をまず引用したいと思います。
「まず第一に愛の典型的なものと見られる恋愛、性愛は欲をともなっている。また恋愛は人間の生理的成長と不可分離であり、ある年齢に達するまではそのことがなく、またある年齢から以後はやはり恋愛から遠ざかる。だから人間の全生涯を通じて見られる現象ではない。
第二に、恋愛は相手に対する独占欲を強くもっている。だからもしも愛している相手に裏切られた場合には、愛は激しい憎しみに転ずることがある。愛はつねに憎しみを可能性として蔵している。愛が深ければ深いほど憎しみの可能性も大きくなる。それは愛が本質的に自己を愛することを中心としているからである。しかるに慈悲は、愛憎の対立を超えた絶対の愛である。ひとを憎むということがない。
第三は、愛ははたらく範囲の限定されたものである。疎い者よりも親しい者を愛する。自分の次には家族を愛し、その次には同じ組織の人間を愛し、同郷人を愛し、さらにひろげると同国人を愛し、世界の人々を愛するというのは最後の理想であろう。慈悲の理想はさらに深く、一切の生きとし生きるものを愛するというところまでに至る。」(『原始仏教の思想I」795P)

縁起共生とはあくまで仏教の慈悲の教えを基礎します。これに対して男女間の愛は憎しみと対立したものであり、慈悲は愛・憎の対立を超えた清澄なる心の発露であるといえます。
「聖者はなにものにもとどこおることなく、愛することもなく、憎むこともない。悲しみも慳みもかれを汚すことがない。あたかも〔蓮の〕葉の上の水が汚されないようなものである。」(『スッタニパータ』811)釈尊の組織した教団においても、中世カトリック教会やイスラーム教団などが血なまぐさい残酷な制裁を遂行してきたのと対象的に、全然権力による制裁を行なっていません。制裁・処罰は教団所属員の間の自治的な約束・協定であって、力でもって課せられることはなく、被制裁者はそれを自発的に受けるものとされ、もしも受けたくなければ教団の外に去ればよかったのです。これらのことも、「慈悲の実現の理念によるものと思います。

慈悲の思想とは、空性の悟りという実践の結果から、もしくはその過程における縁起共生の自覚から生まれるものだからです。空とは現象界においては、あらゆる他者との無尽の関係の中にあるという覚ですが、聖者の悟りの境地とは「不死の境地」、「不生不滅の境地」であり、その空性という涅槃の境地においては、他のあらゆる人々、あらゆる生きとし生きるものとのとの平等一体を覚知します。
『宝性論』の本頌11には、「あたかも無分別を本性とする虚空が、至るところにいきわたるごとく、心性という垢を離れた本性も同様にあらゆるところにいきわたる。」と説かれています。その注釈には、「かの凡夫・聖者・正覚者たちのもつ無分別なる心性なるもの、それは三種の位において、すなわち、順次に、過誤なる状態においても、徳ある状態においても、また、徳の清浄の究極性に達した状態においても、共通の特質であるから、虚空が泥土・銀・金の器に〔入り込む〕ごとく、〔三つの位に〕入り込み、浸透し、常に、いかなる場合にも平等であり、無差別なることを得ている。」とあります。すべての生きものとの平等一味を証するのが空性の境地といえます。

平等一体を証するとは自他不二の境地ともいえます。他人の苦しみ、悲しみが、たとえ遠いところに住んでいる衆生であろうとも、自分のこころにその苦しみなり悲しみが響いてくる境地といえます。慈悲とは母親の我が子に対する無償の愛とも比べられますが、究極的には自分を犠牲にしてまでも(それはあくまでも生命の自然の発露として)他者を救ってやまない命といえます。だいぶ前に、小さいお子さんがベランダに上って誤って高層階から転落する際、自分も思いあまって我が子を助けようと、子供の名を呼びながら自らベランダから身を乗り出し、子供を掴もうと虚空に手を伸ばし転落されてしまい、お子さんともども命を落とされた若い母親の記事がありました。仏教における慈悲の教えは、まさにこのようなものであると思います。縁起共生とは、ひとつの目標としての理念でもありますが、それは同時に、他者の苦しみが自分の心に響いてやまない、その苦しみを除こうとして、わが身をかえりみず実践してやまないこころの実現過程といえるかと思います。これは、相対立する自己と他者が、空性においては同一のものであり、今の姿はやがては対立もなくなるところの一時の現象にすぎないという空の論理を理論的根拠とするものです。慈悲行とは愛憎を含めた一切のニ元対立を超越したところから生まれる振る舞いといえるかと思います。

しかし、このような菩薩の実践は、自分を空しくさせて他者に奉仕する自己犠牲の精神とは相容れないものであることはいうまでありません。自らのこころは般若経で説かれた「清く輝くこころ」の法悦にあるのであり、同時にまたその「清く輝くこころ」が一切の衆生に備わっていることを如実に知見し、その平等一体を証するがゆえに、本来のいのちを知らない衆生に対して、おのずから慈悲行の実践となるのです。
「すでに、仏の本性は本来明るく輝いているが、客塵の煩悩と所知の厚い雲の網に普く障えぎられて〔見えない〕こと、太陽、空のごとくである、と説かれた。」(『宝性論』)
「心は本来清浄であるが、客塵なる煩悩によって染汚せられている。」(増支部I、5、第六経)


そこに働く智慧とは、自らはその法悦を味わうとともに、他者に対してはその悦びを味わわせるように働いてやまない命となります。聖者の自内証の世界ですので、私が知る由もなく、仏教書における理解からですが。仏法における慈悲の発露とは、相手に対する好悪の感情や同情心によるものではなく、智慧による自然な働きであるといえるかと思います。
「種々の法を受用し、肉体をもって顕現するから、清浄な大地から自ら流れ出る、衆生を利益する働きに倦むことがない。」
「勝れた徳のあつまりと智の宝の胎蔵たる道をすべて達成して、福と智の日光の注ぐ広大で辺も中もなき大空にも似た仏の本性が清浄な徳の伏蔵として、すべての衆生に差別なく在るのを観察して、諸々の勝者たちの、風のごとき〔大〕悲が、煩悩と所知の雨雲を吹きちらす。」(以上『宝性論』)

『宝性論』とは如来蔵思想の重書ですが、その説かれた目的は、「〔第一は〕我見をもつ徒で、最勝の義理を信解しないものたちである。かれらについて、世尊は、<空性を信解せず、外経の徒とかわらない>とおっしゃった。」とあるように、形而上学的原理としての我を信じる徒に対してです。また、「〔第ニは〕空見の徒で、しかもそれを自慢するものたち(空見の増上慢)。かれらにとっては、この教えにおいて、その空性という解脱の門において、空性に酔いしれて、空性そのものが捉われた見方となっている」とあるように、空を否定するものではなく、空性の境地という実践主体のありようを説き明かしたものです。

したがって、もっとも尊い慈悲行は法を説くことであると、部派仏教形成以前の最初期の仏教では考えられていたわけです。「じつに、人格完成者(ブッダ)たちは、〔かれらの〕教えを実践する多くの男女を益するために、〔この世に〕出現される。じつに聖者〔ブッダ〕は、かならず、〔究極の境地にいたると〕定まっているのを見たそれらの修行僧や修行尼を益するために、さとりを得たのである。眼ある人・太陽の裔であるブッダは、生きとし生ける者を慈しむがゆえに、四つの尊い真理を、みごとに説示された。」(『テーラガータ』1256-1258)
また、如来にとっては人々に法を説いて授けることが慈悲なのであると、『スッタニパータ』444には釈尊の固い決意として表明されています。

大乗仏教には法界等流という言葉があります。仏の教えである経とは真理から流れ出したものであるという意味です。法の研鑽と実践との問題ですが、あくまでも慈悲行の上からの法の研鑽の視点が重要であるように思います。自他ともに仏道を歩むことを願うのが菩薩の精神であると思います。

★《男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係なる縁起共生は たしかに 仏法の 王法にたいする関係において 現われる側面もあると 現代では国際関係の視点から見ても 思われます。
仏教として その方向性をたしかに含んでいるという視点を 明らかにするならば 大きな力になると思えるのですが これこそが 勇み足の考えでしょうか。》

今の仏教教団のあり方の問題は置くとしまして、大悲(慈悲)とは求道者が我執に染まった世間に出て、世間の我執を打破する働きといえるかと思います。般若(空)の智慧は主客、自他等のニ元対立を超克する無ニ智という出世間の智慧であるのに対して、大悲は「世間を清浄にする智」といわれています。空の智慧とは、私たちのこころの奥深くに巣食う先天的な一切の差別、対立といった分別的思惟を超越したところに生まれる智であり、したがって求道者の大悲の実践は、社会のあらゆる差別、対立を打ち破る働きになってくるという働きになります。その働きは、宇宙法界におけるあらゆる事物の相依相即性の縁起のゆえに、すべての事物に働きかけます。大悲の実践とは、実践者の本地は空性の境地、あるいはその過程にあるのであり、一切の差別・対立が否定された境地と言えます。翻って現象世界とは愛憎渦巻くニ元対立の世界です。この対立の視点が重要に思います。
チャンドラキールティが『プラサンナパダー』の中で、「中観派は、一つのものの空性を教示しようと欲しているのと同様に、一切のものの空性をも教示しようとしているのである。」と説いているように、人間と環境世界、国土は、すべて同じ縁起の世界に成立しています。したがって人間のこころと国土とは密接不可分な関係にあります。しかし能所(働くものと働かされるところのもの)の関係でいえば、人間の行為があくまで影響を及ぼすところのものであり、環境、国土は影響を受けるところのものといえます。事物相互間の縁起する法理の上から、実践の基盤である縁起共生そのものが、世間そのものを調和の方向へ導く理論的根拠となっていると思うのですがどうでしょうか。諸法実相の縁起とは、人間のこころに限定した縁起ではなく、あらゆる事物を貫くところの法理であるからです。華厳における法界縁起では、有為法、無為法を通じて一切法が縁起していると説かれています。中観思想の縁起との類似性は中村元先生の『龍樹』において指摘されています。これは、自然環境における具体的な事物のみではなく、その社会に通用している価値観、倫理といった抽象的な法や制度も縁起の世界における法であり、私たちの生命を含むあらゆる法と相依相関性の縁起の世界の中で存在しているものであるということが聖者の悟りであるからです。

★《――という視点も大事ですよね たしかに。そうすると どう捉えていいのやら・・・。なんらかの表象は得ているのでしょうか。ことばによる表現は無理なのでしょうか。》

共業についていえば、そのような慈悲の実践が、私たちのこころに何らかの形で印象を留めるとしたならば、日々の振る舞いが尊いものになるはずです。唯識派は瑜伽行の禅定の修行により、アーラヤ識なる心の働きを覚知したものですが、実践主体のこころの側面から縁起を観じたのですから、唯識派においては縁起とは阿頼耶識縁起(種子生現行・現行薫種子)とともに、アーラヤ識と他のすべての衆生のアーラヤ識との相依相即性の縁起を説きます(竹村牧男著『唯識の構造』)。以前、石飛道子さんのHPから、中観派(龍樹)と唯識派の輪廻転生の教えの違い(死から次の転生まで中有という期間があるか、ないのか)は、何故生まれたのかお聞きしたことがあるのですが、禅定という実践の仕方により見えてくる真理も違ってくるものだという趣意の回答をいただきました。真理が違うというのは、全く正反対の真理を悟るということではなくて、真理の側面が違うという意味です。高崎直道氏は『唯識入門』の中で、中観派も唯識派も如来蔵思想も、見る視点の相違でつまるところ同じ悟りにあるともいえると述べています。共業も、唯識派の禅定の境地によりはじめて見えたのではないでしょうか。理論物理学等の理論と拮抗することができるのは中観派の思想ではあると思いますが、あくまでも修道論の観点から、衆生のこころ、実際は人間のこころに焦点を当てたものです。アーラヤ識と他のすべてのアーラヤ識との縁起は、禅定による覚知と思いますが、共業とは、アーラヤ識間の相依相即性の縁起の覚知からの理論的要請から導かれた理論であるのか、それとも、何らかの禅定による覚知があったのかはわかりません。しかし、深層心理学の理論に照らしてみても、真理性をもつ教えであると思います。但し、ひとりの人間の死がいかなる理由によるものなのか、個人の業によるものなのか、共業の犠牲者であるのかは、だれも断定することはできないと思います。そのような共業に縁したということも個人の業ともいえるのでして。

《ことばによる表現は無理なのでしょうか。》
大乗起信論に、「一切の言説は仮名にして実なく、ただ妄念に随えるのみにして不可得(=コトバでは存在の真相は把握できない)なるを似ての故に、真如と言うも、また相(=この語に対応する実相)の有ることなし。言説の極み(=コトバの意味指示作用をギリギリのところまで追いつめて)、言に拠りて言を遣るを謂うのみ(=コトバを使うことによって、逆にコトバを否定するだけのこと)。」とあります(注釈は故井筒俊彦氏)。

真理を知る上で、言葉とはどんな意味を持つかといえば、心と言葉の関係を知る必要があります。私たちの心はさまざまな思考や観念が一瞬もとどまることなく念々に起こってきます。しかし、さまざまな思考や観念が起こってくるということは、言葉としてさまざまな思考や観念が喚起されてくることでもあります。ですので、言葉と心は現象世界においては分かちがたく結びついていることがわかります。仏教とは、こころを問題とするものであり、ゆえに、こころと密接不可分な言葉としての経の存在意義があるといえます。しかし、勝義の真理(涅槃)そのものは言葉では表現できません。釈尊にあっては自らの解脱の境地を不死、あるいは不老といい、龍樹にあっても不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去の八不を説き、あえて究極の真理を表現しようとするならば否定の言辞をもってしか表現することはできません。勝義の真理(涅槃)に対する経の意義とは「言に拠りて言を遣る」と説かれるように、言葉により言葉では表現できない真理を指し示す道しるべといえるかと思います。「言語習慣に依らなくては、勝義(の真理)は示されない。勝義(の真理)に到達しないならば、涅槃は証得されない。」(『中論』)言葉とこころが不二であるならば、聖者はその道しるべを、真理を指し示す手段として、こころのすべてを熟知しているがゆえに、正しい方向に導く言葉を私たちのために使うことができるのです。

王法と仏法の関係でいえば、私としてはあらゆる存在間の縁起を説く私たちの存在根拠である縁起そのものが、王法の中に仏法の教えが溶け込んでいく理論的根拠であると思います。

この回答への補足

おもしろいですね!! bonbonnierさん ご回答・ご講解をありがとうございます。お礼の言葉を忘れるほど この問い求めは わたしの内で たのしいものです。

もしわたしが仏教とは何かと問われたなら こう始めるかも知れません。

   ゴータマ・シッダルタなる人が 真理(空=縁起)に到達し ブッダ
  となった。
   空の覚りは 世界を 四方サンガ(縁起共生体)と言って 関係性
  (相依相即性)のもとに捉える。その空の覚りが世界をつらぬいており
  ブッダはそのことを見通している。
   関係性としても存在する人は 空の覚りとともに 大悲の実践を は
  からずしておこなう。慈悲は この世のあらゆる対立を超えているので
  その空観のもとに 人は すべて 平等であると見えているからには 
  人それぞれの持ち前の能力や特徴を発揮することができるように ほ
  んの少し 他人に対しても 声をかけたりするのだ。
 
説き明かしていただいたことすべてにすでに立脚して なお――どういうわけか いぢわるの種子が起きてくるのですが―― お聞きしてみたいと思います。
 
《終わりから始め》たいわけですが そうしますと 《一切の言説は仮名にして実なく》=《絶対》は 仮想の概念装置であるゆえにこそ 《言に拠りて言を遣るを謂うのみ》としてでも さまざまにわたしたちは 世界を説明しようとするものではないでしょうか。

《言葉とこころが不二であるならば、聖者はその道しるべを、真理を指し示す手段として、こころのすべてを熟知しているがゆえに、正しい方向に導く言葉を私たちのために使うことができるのです。》ゆえにです。

逆説としても捉え得るようです。わたしたちは まだ《聖者》ではないので やはり 仮想の概念を用いて 説明しあって進むという実態です。

しかも そこには 重大な事情が言われているように思います。真理に達した聖者の存在が 受け容れられるということは この真理ないし聖者の存在を わたしたちは 予感としてのごとく 捉えている。つまり 考えているのではなく(言葉による経験合理性にもとづく思考によるのではなく) その考えるを超えて信じているということだとなります。

《愛》をめぐる理論は そのような言語表現の限界を示すかのように なおまだまだ 狭く納まってしまっていると見られ勝ちです。
 《相対の世界こそが 絶対(空)である》とすれば 我欲・性欲・独占欲・所有欲・支配欲あるいは思いやりなり共存共栄の感覚なり そのような情念・愛欲・愛情 その意味での愛の中に 慈悲の種子を捉えこれを芽生えさせ花咲かせることが ブッダの弟子の道ではないでしょうか。
 《慈悲行とは愛憎を含めた一切のニ元対立を超越したところから生まれる振る舞いといえるかと思います》とおっしゃるとおりであるその反面で 言葉の限界もあるのではないでしょうか。《超越したところ》とは もちろん 概念装置として想定した言葉であり 《言に拠りて言を遣るを謂うのみ》の前提の上にありますが 今度はここで 次の問題にぶつかります。

まだ聖者ではないわたしたちは この概念装置としての《慈悲行(大悲の実践)》のもとに――ある程度の思惟を介して―― 生き動き存在するのか それとも 聖者ブッダの存在ないし真理を信じることによって 信じたから語った動いた生きたということなのかです。《信じたから語った動いた生きた》ということのなかに 慈悲行につうじる愛欲や愛情があるのかです。母親の子への無償の愛の事例からいけば 後者を特におっしゃっているのか それとも 両方を視野におさめておられるのか。

後者つまり 無償のある意味で止むに止まれぬ行為に及ぶという愛を 取り立てるのでしたら 慈悲という言葉は 一たん聞いてそのあとは忘れるくらいでなくてはいけないでしょうし。・・・(愛欲というスサノヲ語が――そのみづからの中から―― 慈悲なる実を結ぶようにアマテラス語化するという筋道を想定するのでしょうし)。

このような意味で わたしは 《男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係なる縁起共生》という表現を取りました。
 ただ ここから 《王法と仏法の関係でいえば、私としてはあらゆる存在間の縁起を説く私たちの存在根拠である縁起そのものが、王法の中に仏法の教えが溶け込んでいく理論的根拠であると思います》と同感すると同時に 理論は さらに――世俗諦の世界に入るからではないかと思うのですが―― 相対性の世界そのものに傾斜した経験科学に任せる部分も 出てくるようだと 今回 感じました。その部分は あくまで 土台の上の幹や枝葉になると思いますが。

ふたたび議論が始まったかにもなりましたが。・・・

補足日時:2007/12/09 13:53
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この回答へのお礼

マーガンディヤーのテクストです。(抜粋です)。
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 Magandiya was such a beautiful girl・・・.
 One day, as the Buddha was surveying the world, he noticed that Magandiya's parents were spiritually developed. All it needed was one statement from him to open their eyes to truth.
 
 When Magandiya's father saw the Buddha coming, he was moved with wonder by his physical beauty, calmness and noble manner. There could not be a better person to give his daughter to in marriage, the Brahmin thought. ・・・

 The family( husband & wife & their daughter) rushed over to the Buddha and the father called to him, "Monk, I'm giving my daughter in marriage to you." The Buddha turned down the offer, explaining that he had overcome all his worldly pleasures. He told how he had given up household life with all its enjoyment, and how he could not be tempted by even the beautiful daughters of Mara. He said that however beautiful the body may be, it is still full of impurities.

 Hearing this, the Brahmin and his wife understood immediately that the worldly life is miserable and not something to be attached to, no matter how nice it may appear. Both of them attained anagami, the third stage of sainthood.

 Unfortunately, proud Magandiya, who was not spiritually developed, could not understand the real meaning of these words.
http://www.buddhanet.net/e-learning/buddhism/lif …
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

お礼日時:2007/12/12 11:38

bragelone様 早々の補足・お礼を頂きまして誠に有難うございました。

さて、今更ながらお断りを申し上げるようですが、私はお坊様ではございません。実の所 これより先の正式なご回答をお求めであるなら、直接(特に密教系の)お坊様にお尋ねになるのが得策と心得ます。私自身はと申しますと 師と仰ぐお方こそ居り、その方のご指導を仰ぎながら様々な「行」こそ行えど、所詮 私の如き一般人には真似事しか出来ないのが現状です。さりとて、真言人として また 神仏のご加護を実感した者としては、遊ぶ童が仏を想い砂で塔(仏塔)を拵えるが如く、たとえその行為・効果が僅かであっても( 知り得た範囲でその事実を )伝える事は大事であろうとは思うのです。故に後になって気付けば間違っている事もあるとは思いますが、その点は先にお詫びを申し上げるとともに、都合の良い「方便」であったと(!)ご笑納頂けますと幸いです。前置きが長くなりましたが、それでは宜しくお願い申し上げます。

さて、「密教」とは取りも直さず「秘密の教え」と言う事になると理解しておりますが、この「秘密」も『 弁顕密二教論 ( 空海 ) 』に拠りますと、その「秘密」につきまして【 如来の秘密 ・ 衆生の自秘 】の二種類が記されておりますので下記に記します。これは修行体験の実践を前にした時に誇大な期待を抱く事を戒めるとともに、その都度しっかりと自らを省みる為にも必要な物の見方だと思います。ごく当たり前のようですが、日常生活にも大いに当て嵌まりますし、ご参考にされると良いと思います。

=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=

…「如来の秘密」とは何かと申しますと、密教は実践的なものがかなりの要素を占めているので、誰にでも同じように教えてしまうと相手のためにならないわけです。ちょうど小学生にウルトラCの体操を教えるようなものです。 … ( 中略 )… 小学生には小学生なりの体操を教え、プロになるとプロなりの高度な技術を教えていくのが良いコーチなのです。だから、小学生からハイレベルな体操を教えると相手のためにならない。如来の秘密とはそういうことです。相手がそこまで程度が進んでいないから、教えるとかえって相手のためにならないから秘密にしておくということ。これが秘密の一つの意味です。 … ( 中略 )… 教義的なものは少々高度な事を聞いても直接的な害はないが、密教は実践が伴う宗教ですから、そうはいきません。たとえばヨーガの法でも、最初から高度なヨーガを教えては、相手のためになりません。息をつまらせてしまいます。やはり少しずつ初歩から教えていかなければならない。だから実践的なものがからんでいる宗教は、いろいろな面で秘密ということがあるはずです。 … ( 中略 )… もう一つの「衆生の自秘」とは何かというと、すべてはオープンになっているのですが、受け取るほうの目がかすんで見えない、という意味です。何もかくしていないのだけれど、見るほうがそれを読みとれる段階までいっていないから秘密になっている。これを衆生の自秘といいます。責任は自分のほうにある。これは非常におもしろい考えかただと思います。自分の精神的な段階をもっと引き上げなければ見えるものが見えてこない。…

≪ 『 理趣経 ( 松長有慶 著 ) 』より ≫

=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=

それから【 加持 】につきましては以前に【 目覚めた涅槃のあとには何が? http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3442975.html 】の( ANo.1 )で触れました『 即身成仏儀 ( 空海 ) 』を典拠にご説明が必要と思います。先の投稿と合わせてお読み頂けたらと思います。

【 仏日の影衆生の心水に映ずるを「加」といい、衆生の信水よく仏日を感ずるを「持」と名づく 】

=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=

…密教を知るうえで重要なかぎとなる「加持」ということばについて、とくに説明しますと、これは、衆生に対して苦を抜き楽を与える大日如来の大いなる慈悲と、衆生の清浄な菩提心(信心)との関係をあらわしています。大日如来の、太陽にたとえられるほどの仏の徳(仏日の影)が、衆生の、澄んだ清水にたとえられる菩提心に、光映し輝くようにあらわれることを、「加」といい、行者の菩提心が、仏の徳をうけとめて感ずることを、「持」と名づけます。真言の行者が、この教えのめざすところ(理趣)を、深く心に思い念じて修行すれば、仏の三密と衆生の三密とが加持によって相応し一致するので、現実の生身に、たちまちのうちに、行者にもともとからそなわっている(本有)、大日如来の三身を顕現し、実証し、体得することができます。ですから、「速疾に顕る」と名づけるのです。…

≪ 『 金岡秀友 訳・解説 「 空海 即身成仏儀 」 』より ≫

=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=

(上記に)度々出て参ります【 三密 】に関しましても、 bragelone様に於かれましては既にご存知とは思いますが、同じ御本からの引用になりますが一応記します。

=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=

…「三密」というのは、一つには身体に表現される行為(身密)、二つには口に寄る言語表示(語密・口密)、三つには心に思念し安定させる行為(心密・意密)を指します。法身の実践活動である「三密」は、非常に深くて繊細ですので、密教以外の仏教で、仏陀にもっとも近い境地といわれる「等覚」や「十地」という位にたった菩薩たちでも、法身の「三密」を見たり聞いたりすることはできません。ですから、「秘密(密)」といいます。無数の仏たちがそれぞれにさとりの境地にあり、数しれない実践活動(刹塵の三密)をおこない、それらがたがいにまじり溶けあい(加入)、彼と此れとがしっかりとかかわりあい保持しあって(摂持)います。 衆生の全身的活動である身・口・意のはたらきも、四種曼荼羅の説明で述べてきたように、法身のあらわれを象徴していますので、これも「三密」であり、本質的には法身の「三密」のように、あるがままにたがいに溶けあい、保持しあっています。ですから「三密が加入摂持(三密加持)している」と名づけるのです。 もし、真言密教の教えを身をもっておこなう人がいて、この「法身の三密」と「衆生の三密」とがそのまま一致しているという真実を、明確に観察し納得してから、法身大日如来の全人格的行為として、手で印を結び、口に真言をとなえ、心を法身の統一境地と一致するように安定させれば、その「三密」は、法身の実践活動と相い応ずるので、たちまちに仏のさとりを成就する位(大悉地)を得て、衆生自身に法身大日如来を実現することができるのです。…

≪ 『 金岡秀友 訳・解説 「 空海 即身成仏儀 」 』より ≫

=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=・=

ただの写し書きに捉えられても構いませんが、過のような内容に付きましては(当然ですが)私如きが説明出来る物でもなく、何より間違いを無くさんが為のことです。また、ココまでお読みになられてもうお感じの事と存じますが、実践とその体験が皆無であれば、やはり本当の意味で知る事は到底無理…という事です。かく言う私自身も千年の大木( 事実としての神秘の大実在 )にしがみ付く雨蛙の如く圧倒されているのです。ココにしがみ付き、もがきながら生き抜く事が人生であるとも思いますし、千年の大木と共に懸命に生きて生きて生き抜くからこそ、その場が我が庭ともなり、委ねる事も、一つになる事も出来るのだと信じます。

お尋ねの(A)本有の加持感応(B)修生の加持感応の回答になったか甚だ疑問ですが、上記の引用を以って回答とさせて頂きますことご容赦下さい。また下記に付きましては、今少し投稿させて頂きます。大変恐縮ですが、今暫くお付き合い頂けますと幸甚です。


> やはり 問題は 《自内証の顕現》を ことばにして現わすという一点 ここにあると考えました。

○過去の投稿に於いて、唯識的な(手前勝手な…苦笑)理解と個人的な瞑想体験により幾度か申し述べて参りましたので殊更申し上げる事もないのですが、補足として付け加えますと《自内証の顕現》であると確認できるのは眼前の現象(不可思議なことから、ごく当たり前に映っていることまで総てのシンクロニティやタイミングの妙、そして思いの現実化力など)からのみだと思います。それにはよくよく注視して自分の過去から現在までの意識状態と、同じく過去から現在までの現象を観る(「見る」ではありません!)ことが求められると思います。そして、そこには総てではなくとも「(良くも悪くも)あぁ、自分の思った通りになっている(なっていた)わ…」とそら恐ろしく納得できる事は意外と沢山あることにも気付きますし、とどのつまり偶然という解釈の怠慢を戒めるべきだと私は思う訳です。繰り返しになるのでしょうが「総ての現象は自分に起因する」ということを知るに尽きると思います。


> 空海から直伝を受け継いだブッディストは いま いらっしゃるのでしょうか。その人たちに会うしかないように思えるのですが。(ちなみに 空海じしんは ゴータマ・ブッダから続く直伝を受けていないとすれば みづから覚ったということなのでしょうか)。

○この世に生を受けて、誰からも何一つ教わる事なくして「覚る」ことは不可能に近いのではないでしょうか?過去に於いて仏陀はゴータマ・シッダールタだけではありません。仏陀への道筋を照らすのは人類発祥以来の営々と受け継がれてきた英知の集積だと思います。また、師匠を得る(師匠は弟子を!ですが)のは「縁」に拠ると思います。来るべき「善縁」に備え、自らは日々精進( 出来ない人間が言うのもなんですが(大汗)、取り敢えず「掃除」・「読経」・「勉強」の繰り返し、徹底でしょうか )を重ねておくのが宜しいと思います。


> この【生かし合え いのち!】に わたしは 賭けます。みなが 同じ海に いま いるのではないでしょうか。

○先の【 生かせ いのち 】は高野山に参詣致しますとそこかしこに見受けられる文句です。私も素晴らしい事だと思います。


長々と大変失礼致しました。元々、あまり筆(と言いますか、タイピング?笑)は早くありません。返信が遅くなり申し訳ありませんでした(こんな時間だし!)。また、冒頭にも申しました通り、私はお坊様ではございません。正直、私自身がお坊様に知りたい事でもあるのです。そして、やはりと言うか文字(もんじ)による伝授の限界を盾にするようですが、恐らくこの辺りが潮時とも思います。実はこれが私( bonnnou03 )の限界と受け取って頂けますとありがたいです。最後までお読み下さり、本当に有難うございました!(謝)

この回答への補足

bonnnou03さん 今にも世間に踊り出るというところでしたが さすがに しっかりと 念には念を入れよというお言葉ではないかと まづ思います。ご回答をありがとうございます。

いま 同じ風を受け同じ波に揉まれて 共に海にいるという大前提がありますので ここでは 対立点を取り出して考えを述べます。

《衆生の自秘》につきましては こんなことが思い浮かびます。二点あります。
 まづ わたしの信仰遍歴です。経典の勉強をあまりしていなかったのですが 《三身常住》に いやに こだわっていまして 途中なのに 三位一体のほうに移り ミイラ取りがミイラになったということから起こします。
 仏教については 哲学とそして浄土門の信仰とというふうに おおまかに捉えてしまっていたのですが いま現在 正直を申しまして 浄土門については キリスト信仰でわかるという思いです。その他の哲学という方面については まづ 森を見ようとしていた分には けっこう わかったその反面で 中へ入ると むつかしいということになります。

 そして 実践ということで 腰を上げなければいけないかもと思った時には はなはな言いづらいことですが 昔読んだ《戸谷新右衛門伝》を思い出したからです。〔林基著・小室信介編『東洋民権百家伝 』(岩波文庫)所収〕。
 和歌山の一人の庄屋で 高野山へ年貢を納めるのですが 桝の量り方を 百姓に不利にされていて これが永年に及ぶと 一揆ではありませんが その是正を願い出て 最後まで――江戸幕府にまで出向いて直訴しました―― けっきょく一人で闘い 目的は達したのですが 僧侶の人たちによって 捕らえられ 石打ちと生き埋めにされ 犠牲となってしまいました。
 キリスト教などは この比ではなく 殺し合いばかりですが ただ 密教は生きていると言われても やはり わるいことをやっています。つまり この場合 高野山に一人でも 空海からの生きた密教としての後継者がいれば こんなことにはならなかったろうと考えさせられます。
 これが わたし自身の《衆生の自秘》です。

《如来の秘密》については こうです。
 要は その現在その情況においてそこにいる人びとの機に合わせて 適当だと思われる内容が 《自内証の顕現》として 説き明かされるのだと考えます。それより高度な内容は 体解できないか もしくは 出来ても まだ必要とされないかだと思うのです。
 つまりは 必要で適宜性に富んだ理論や知恵が 修行者のあいだから 提出されると捉えて差し支えないと思うのです。けれども この内容は 密教でない人たちの側からも出されます。つまりは その同じ海域で 互いにやはり主観を述べ合いこれを 適宜に共同化してゆくという縁起共生のあり方が 持たれてくるように思うのです。

 最先端の具体的な観想(テオーリア⇒理論)というのは 案外に うしろの人(迷える羊)の問題を扱うときに 出てくるとも言えるのではないでしょうか。そのような意味で 護送船団方式を考えました。
 (ということは――おまけですが というよりは 余分なことかも知れませんが―― 最悪の悪事に わたしたちは 注意を払うことも重要のように思われます。最悪・最後のことがらから 最先端の知恵が もたらされるように思えます)。

 ご賢察ご検討くださいませ。

補足日時:2007/12/03 13:51
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この回答へのお礼

補足欄の内容を補修します。

高野山のわるくちを言ったのではありません。わるくちを言ったことになると思いますが 真意は 密教が 他の宗派や 諸宗教と 特別にちがっていると信じるには にわかに こころが動かないというところにあります。同じスタートラインに立つと思いますということです。マイナス点をつけるためにではなく 特別のプラス点をつけるには まだこころ動きませんという意味です。

ただし キリスト教は ローマ教会にしろ プロテスタント各宗派にしろ やはり このまま生き延びるには あまりにもひどいことをして来たと わたしは考えます。人を殺し過ぎました。プロテスタンティスムのほうも カトリックから仕掛けられて 同じように 応じました。人の命を何と思っているのかと言わなければなりません。

出直しが必要だと考えます。いますぐ解体すべきだと思います。ガリレオさん ごめんなさいでは済まないと思います。二百・三百年ほど経って また再建しようということになれば そうすればよいと思います。

今年の初夏あたりには まだ わたしは 洗礼を受けるべきかなどと 悩んでいました。よろしければ(長いですが)どうぞ→《Q:水による洗礼は 必要不可欠なことですか》http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3013375.html

お礼日時:2007/12/03 15:02

bragelone様 ご無沙汰しております。

メッセージ有難うございました。また先日の投稿に付きましては、全く私自身の勢い余った不遜な態度であったと反省しております。どうか無礼をお許しください。正直後味の悪い感覚を覚えたままでありましたので、この場に投稿の機会を頂けますこと有難く思っております。また皆様のご投稿には私自身啓発される事が多く、とても有意義なスレッドに成られたと思っております。 bragelone様の探究心と皆様の渾身のご投稿に敬意と感謝を表しざるを得ません。有難うございます!

さて、ココから先は少しピント外れの投稿とは思いつつ、自らが思う所を述べさせて頂きますことお許し下さい。それでは宜しくお願い致します。

【 教理 】や【 経典 】の理解を進めるにあたり (1)頭のみ( 方程式を紐解くように認識論で済む。【 論・偈 】 )で行うか、(2)感覚で認識( イメージによる神経伝達物質及びホルモン等による身体感覚の変化。【 瞑想などによる観想 】 )するか、(3)行動とその体験及び結果から事実・自然現象として認識するか【 行 】…と大別した時に、この(1)(2)(3)のどれもが当人に取りましては現実その物でありますが、その現実を人様に伝える段になると途端に難しくなるのは世の常ですね。議論を尽くしても現実感が薄れたり、瞑想感覚を語っても変人(失敬!)と思われたり、体験を語っても他人事と受け取られたり(笑)してしまうものです。ですから実感としてそれを得たければ ご自身の意志と先達の指導により、先哲の体験を追体験するのが宜しいと考えます。特に密教では【 事相と教相 】として鳥の両翼の如くまた車の両輪のように両方が揃う事がを求められ、体験を伴った教理の理解が重要とされるとのことです。

折りしも、先日映画『 空海 』(昭和59年)を今になって新品で入手し(笑)、途中 気に掛かった箇所が幾つかありましたので、その一つご紹介させて頂きます。映画として製作されたものなので史実に基づくとしてもフィクションに成らざるを得ず、そのまま事実として受け取るのは無理なのですが、空海と最澄との間に起きた事象(理趣釈経事件・泰範事件)や性格の違い、密教観等をダイジェスト版として取り敢えず(!)掴む事が出来ます。詳しくは司馬遼太郎の『 空海の風景(上・下) 』がございますのでこちらも併せてお勧め致します。

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【 最澄 】 空海殿!

【 泰範 】 阿闍梨…

【 最澄 】 ご書状拝読致しました。理趣釈経をお貸し出来ないとは如何いうことですか?

【 空海 】 基礎的な経典はこれまで快くお貸ししたつもりです。

【 最澄 】 では、理趣釈経は何故?

【 空海 】 理趣経は違う。理趣経は真言密教の真髄です。

【 最澄 】 だからこそ…

【 空海 】 理趣経は読み方によっては恐ろしい事が述べてあります。例えば男女の肉欲、愛欲を本来 菩薩の境地と記してある。

【 最澄 】 …愛欲が菩薩の境地?

【 空海 】 密教は人間の欲望の存在を認めているのです。抑えても抑えきれない欲望をどうするか?密教は今までの宗教が目を背けていた性の一番奥底まで光を当てているのです。あなたはその様な教えを筆事…、単に経典を写し取られる事で極められと考えている。

【 最澄 】 誰でも経典を読み、写し学ぶ事によって仏の教えを悟る事ができるはずです。

【 空海 】 違う…。

【 最澄 】 日本はずっと文字(もんじ)で学ぶ事によって外来の文化を受け入れてきた。そうでしょう?

【 空海 】 だから日本は貧しい風景の中に立ち竦んでいるのです。物を伝える事は文字(もんじ)だけではない。言葉、色、身体、五感の総てを使ってやっと伝わるものです。私の密教は生きている。生きているものは筆で写すだけでは伝わらないのです。御覧なさい…(胎蔵曼荼羅の大日如来を観る)。この曼荼羅の世界を文字で記す事ができますか?仏がこの世に居ると観じるのは文字(もんじ)や言葉によってではない。あなたもその事が良くご存知のはず…。

【 最澄 】 解りました。では私の身体に伝授してください。

【 空海 】 あなたは天台宗を捨てられますか?

【 最澄 】 天台を…。なんと言う事を…。

【 空海 】 あなたにとって密教は天台宗の一部に過ぎぬのでしょう?。

【 最澄 】 確かにそうです。私は円禅戒密の四種五融( ※大事な箇所なのですが上手く聞き取れず違っているかも知れません。ご容赦下さい。 )を有し天台宗を誠の仏教として完成させるためにあなたの密教を学ぼうとしていたのです。

【 空海 】 密教は総てです。密教こそが総ての仏の教えを掲げているのです。

【 最澄 】 仏の誠の教えは法華一乗。それこそが総てです。泰範、帰ろう。もうここにとどまる必要は無い。比叡山に帰ろう。

【 泰範 】 お許し下さい…。

【 最澄 】 お許し?

【 泰範 】 どうか、私はここに残り、生涯密教を学びとうございます。

【 最澄 】 泰範!何を言うのだ!

【 泰範 】 私は空海様のお弟子になりたいのです。

【 最澄 】 泰範…。おまえは私を捨てる気か?

【 泰範 】 どうかお許しを…。

【 最澄 】 泰範!お前は天台宗の後継者ではないか?!

【 泰範 】 どうか破門してください。私はここに残りとうございます。

【 最澄 】 泰範…。

【 泰範 】 どうかお許しを!…。

【 最澄 】 空海…。あなたは私が一番愛するものまで奪ってしまうのか?

【 空海 】 …。

≪ 映画 『 空海 』 より ≫

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決して空海は最澄に意地悪をしようとしたのでは有りません。先日ご紹介致しました『 秘密曼荼羅十住心論 』にある見解から空海は真言密教を最上の教えとし、最澄は法華一乗として天台宗・法華経を最上とするが故に起きた事象です。また、伝授の仕方にも相違が見られるのも特徴です。真言密教については今少し補足として『 教理と行証 真言密教の基本 ( 三井英光 著 ) 』の冒頭文より引用させて頂きます。宜しければ下記をご参考にされてください。

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真言密教は、一言でいわば神秘体験の宗教であるといえる。心眼を開いて遍く観照する時、生きとし生ける、有りとし有らゆる、すべてのものを包み生かしている大宇宙は、それ自身絶対にして無限、しかも永遠に生き通せる大実在であることが体解出来る。しかしそれは肉眼や五官の感覚や知覚では到底捉え得ないから神秘といい、しかもそれは厳然と在って、すべてを生み出す本源として体験出来るから実在という。この大実在を心に深く知るを覚りといい、そこから魂の悦びも心の安らぎも生まれるし、またその境界に住して自他のために祈れば、真実の利益効験となって現成する。この大実在の内容を心ゆくばかり説き示したのが真言密教の教理であり、それを心にこなし身につけて自在に自らや他の幸福をもたらすための行法がその秘法ともなる。その教理は、人間の宇宙観人生観の至極を窮めており、生きがいある人生を生きぬくための要諦を尽くしている。随ってそれを知ると共にその内容を味わい、それを生活の中に生かせば、無限の喜びと幸福がわいて尽きないのである。・・・

≪ 『 教理と行証 真言密教の基本 ( 三井英光 著 ) 』の冒頭文より ≫

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思いますに如何なる教理も現実の生活に即さねば無意味であり、不毛であり、虚論の謗りを免れないと思います。故に私はあまり「信じる」と言う事は好きではないのです。それを打破し自らに顕現するのが体験であり「行」と言う事になると思います。本来であれば体験を先に積み、その体験が何であるか 先哲の「教理」に照らし、理解する事で初めて「智慧」となると考えます。反対に「教理」が先行する事は「~でなければならない!」「~のはずだ!」と視野を狭くし、妄信に繋がり、周囲との調和を乱す元に成るのでは?と考えます。

大切な事は自分と自分に縁する人々、そして自分を成り立たせてくれている森羅万象への布施(自利利他の実際行動とその体験)だと思います。その布施を通じることで、結果として自分自身である大宇宙の真理の片鱗を垣間見ることが出来るのだと思います。他のスレッドで投稿( 自由意志 ANo.17 お坊さんの話 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3286135.html )致しましたように総て現象は自内証の顕現です。どんな存在も愛おしいほど自分と関係しており、喜びと感謝の対象であり、且つ自分自身です。故に「法」を見過ぎて「人間」を観る事を忘れてはならないと思います。我々(我)は生きているのです。まさに【 生かせ いのち 】である!…と考えます。

つくづくお題とは掛け離れた投稿となってしまいました、どうかお許し下さい。また、この場を借りて bragelone様へのお礼の返信にさせて頂きました。本当に有難うございます。さらなるご活躍期待しております!

この回答への補足

bonnnou03さん よくぞ声をおかけくださいました。ご回答をありがとうございます。

なるほど!! これまでのbonnnou03さんのお立ち場が より明確・明快に説明されただけではなく 《これはぁ・・・〔ひょっとすると わたしもその修行体験をしてみなければならなくなるようだぞ。・・・〕》という力強さが感じられ たしかに いい意味で 議論はここまでと宣言していらっしゃるようです。

ううぅーん。と一息つかせてもらいます。

何も分かっていないなと言われるのを覚悟で このようにお応えします。
やはり 問題は 《自内証の顕現》を ことばにして現わすという一点 ここにあると考えました。(これは 過程的なことです)。

★《仏がこの世に居ると観じるのは文字(もんじ)や言葉によってではない》
――文字や言葉によってではなく 文字や言葉をとおして〔も〕ですが 問題はその観じたところを やはり 言葉に表現することにあると思います。伝えるということです。

★《物を伝える事は文字(もんじ)だけではない。言葉、色、身体、五感の総てを使ってやっと伝わるものです。私の密教は生きている。生きているものは筆で写すだけでは伝わらないのです。》
――《言葉》をとおしても 《筆で写す》こととしても 伝える努力が 大事だと思います。

もし そうでないと ブッダの覚りは ブッダひとりの覚りであって 何も伝えられなかったことになります。伝わったことは ブッダのおしえではないということになります。修行体験をとおして ブッダから 直接に伝授された人たちの系譜のみにわかっているという仏教になります。 

★《まさに【 生かせ いのち 】である!…と考えます。》
――この主旨に賛同する人が たくさん います。それぞれが 修行体験はちがえど 広く実践をしています。その人びとが 互いに声をかけ合い 実践内容を伝え合うことは 何にも増して ブッダのよろこぶところではないでしょうか。この【生かし合え いのち!】に わたしは 賭けます。みなが 同じ海に いま いるのではないでしょうか。

・こういうことを――やはり わたしは ミーちゃんハーちゃんなのでしょうか――お聞きしてもよろしいでしょうか。つまり 空海から直伝を受け継いだブッディストは いま いらっしゃるのでしょうか。その人たちに会うしかないように思えるのですが。
(ちなみに 空海じしんは ゴータマ・ブッダから続く直伝を受けていないとすれば みづから覚ったということなのでしょうか)。

補足日時:2007/12/01 20:07
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この回答へのお礼

bonnnou03さん 三井英光を読み始めました。《教理と行証》は図書館にありませんでした。

まだ最初のところを読んだ限りですが けっきょく 加持( adhisthaana )として捉えるとき

 (A) 本有の加持感応
 (B) 修生の加持感応

どちらから見ても ブッディスト一般にとっても わたしのようなキリスト者にとっても 同じ信(または心)の構造です。《本有》とは《法爾自然の あるがままの自然界や人間社会の現象をいう》(『加持力の世界』p.7)のであれば その加持感応として 縁起共生の世界であると確信せざるを得ないのですが。

わづかに その《本有》に至るための《修生》実践として 身密としての手指の結印 語密としての真言陀羅尼を欠くけれども まったく何も行なっていないというわけではないですから この修生の加持感応にしても 骨格と多くの部分の肉付けを同じくし おそらく 魂をも同じくしていると思うのですが。

あとのたとえ一パーセントの違いであっても それが 大きいのだ / 天と地をわけるほどなのだと言われてしまうかも知れないのですが。

でもとりあえず このような永遠の現在としての踏み出し地点(そしてこれが 動態であり 人生のすでにすべての過程である)を やはり当然のことながら 共通としておられるということを 蛇足としてでも 確認してまいります。

お礼日時:2007/12/02 15:52

blageloneさん。

お世話になります。補足について、補遺等があればということですので、王法と仏法について、唯識の観点から、少し私の考えを申し述べます。

その前に、blageloneに出会いしまして、私の考えが、回答を重ねる中で整理もでき、徐々に確固たるものになりました。本当に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。実は種証しををすると、西義雄博士の論文は鍋島氏の論文と中に紹介されているものです。鍋島氏の論文は、『仏教生命観からみたいのち/人間・科学・宗教ORC研究叢書 1』に収録されています。他のサイトのQ&Aの回答で紹介しようと思ったらネットショップでは品切れになっていたので、今も同じと思い書名の紹介はしなかったのですが。ネット上でもあったのですが、HPの変更と共に今はリンクされていないようです。その時のPDFファイルはあるので、何らかの形でネットに上
げられたらよいと思っています。その中で、もうひとつ印象深かった海野大徹氏の全時間的相依相生観についての一文を紹介したいと思います。

「相互に支え合う縁起のはてしないネットワークは、単に空間的にだけではなくて、時間的にもつながっている。縁起のつながりは、今までに行ってしまった人々と、これから後に来るであろう人々とをともに現在において人々を結びつける。そのような相互の結びつきを理解することによって、いのちに対する感謝の心は限りなきものになる。」

王法と仏法の理想的なあり方とは、この両者が深いところで合一する、知らず知らずに一つになる、すなわち社会的、国家的反映と人間の幸福が矛盾しない社会といえるかと思います。この辺のところは私はあまり詳しくは知りませんが、その理論的根拠は唯識思想の共業(ぐうごう)の教えにあるのではないかと思います。

釈尊の悟りが勝義諦の真理として「不死の境地」にあり、私たちの迷いの生存の輪廻的主体を「無明」に求め、そしてこの「不死の境地」を有と捉える立場から唯識、華厳の教えが展開されたことを中村元先生が『原始仏教の思想I」の中で指摘されています。唯識においては「不死の境地」とは「円成実性」であり、「無明」とはアーラヤ識を想定したものと思われます。但し、唯識の教えは、空性を覚知した実践主体のこころの問題を、認識の対象とした教えですので、存在論として捉えるべきではなく、あくまでも認識論として捉える必要があると思います。アーラヤ識というものが、こころの深層における現実的様態としての働き
として瑜伽行の実践の中で認識されたのですから、実践主体のこころの働きという側面においては「こころの深層にはそのような働きがある」といえるのではないかと思います。

生物の世界を見ると、ある固有の生き物については食物として対象となる草木でも、別の生き物にとっては毒となる場合があります。その生き物は毒となる草木を決して食べようとはしません。これは、その生き物が毒であるその植物を食べた経験が、次世代の同じ生き物に引き継がれたものです。トランスパーソナル心理学の岡野守也氏は『唯識の心理学』の中で、アーラヤ識にその生き物の固体情報(その草木を食べてよいか等)が存在すると説かれていますが、環境の変化とともに植物の形態も歴史的に変容していきますが、その過程の中で、ある植物が環境の変化により徐々に毒性の強い習性に変化していく中で、その生き物がその植物を食べて見たら何らかの毒性を感じた、その経験を次世代に引き継がなければ、その種は滅んでしまいます。一般に人間においてもDNA、あるいは遺伝子のようなものは、経験の蓄積に応じて変化するものではありません。このため現在の経験の受け渡しを、DNAや遺伝子に求めることはできないと思います。わたしは、人間を含めたすべての生き物のこころには唯識のアーラヤ識のような何らかの働き、機能があるものと考えています。

共業についていえば、唯識では各個人の経験は何らかの形で深層心であるアーラヤ識に種子(しゅうじ)として保持され(薫習)、その経験の集積が人格ともいえるかと思いますが、その人の生命の傾向性を形作っていくとしています。共業とは、共同体を構成する人々の経験の集積が共業種子としてアーラヤ識に保持され、その共同体における業(ベクトルの方向性)を作っていくというものです。
唯識では、こころの深層部(アーラヤ識)は相互相即性にあると説かれています。唯識では外界の事物の存在は識(アーラヤ識)が顕現したものであり外界の事物は存在しないという立場ですので、中観派が外界の事物に仮説されたものであるという限定された実体性を認め、その外界の世界の縁起を説くのに対して、唯識の場合は、アーラヤ識の縁起を説きます。こころの深層の相依相即性の集合する領域が共業となります。この場合も存在論ではなく、「働き」の観点からアーラヤ識の縁起なるものを考える必要があります。私たちの生命という主体から見るならば、どちらの教えでも同じことを言っていることになると思います。
この共業は、小さくは家族的な共業、さらには地域的規模の共業、さらには国家的、民族的規模の共業が形成されていくとされています。

ある民族にとっては首の長い女性を美しいと感じたりするのも、物理的現象の観点からは、DNAなり遺伝子に求めることになりますが、そのような固有情報の形成されていく過程を考えるとするとアーラヤ識における、その民族の経験の蓄積が共業となって、独自の民族性を生み出したものといえます。 blageloneさんから「コモンセンス」のお話がありましたが、まさにこの共業をいっているのだと思います。この教えの素晴らしい点、あるいは恐ろしいところは、ひとりの人生のあり方の中で、共業の影響が少なからずあるという点です。大乗仏教の信心は一切衆生への責任を生み出すものであると回答しましたが、私たちの行為は、新しい共業を作っていくことになります。ゆえに、この認識を知った上で信心に励むのですから、社会への倫理的な責任が生まれます。自らがいかに生きていくかの問いはは、他の人がいかに生きるかの問いに直結しているのです。平川彰先生の『仏教入門』の中で、災害等により不慮の死にあった場合、個人自らの業ではなく、共業の業によりその災禍を招く場合があるという趣旨の記述があったと思いますが、この一文はショッキングでした。清浄に美しく人生を生きていても共業による災禍というもはあるのでしょうか。この考えを発展させると、私の行為による経験の集積が、共業のひとつの要素となりわけですから、自らの行為は間接的な殺人行為ともなります。この辺のところは、だれも体験的に述べているのではなく、あくまでも説としての位置付けになるかとは思うのですが。

「一切の生きとし生けるものどもに対しても 無量の慈しみのこころを起こすべし。」
『スッタニパータ』の中の「慈しみの経」と言われるものの一部ですが、スリランカ、ミャンマー、タイ等にあっては、この「慈しみの経」を何か特別な日には、必ず皆で声をあげて唱えるそうです。中村元先生は、少なからず、それらの国の国民性を生み出しているひとつの要因ともなっていると言われています。これはまさに、「慈しみの経」の精神が共業となって、それらの国民の一人ひとりの深層心に存在しているのではないかと思います。王法が仏法に冥ずるとは、王法が仏法の教えと慈悲の精神に脈づいていて融合していくということですが、結局は、国家の制度等は人間の力(こころ)、智慧により作られていくものですか
ら、いかなる共業を作っていくか、言い方をかえれば、いかなる経験を共同体を構成する他の人々と共に積んでいくかに集約されてくるのではないでしょうか。縁起共生の教えや、慈しみの精神を信じる人間の日常生活における経験が、アーラヤ識の共業種子として堆積されていく中で、それは私たち共同体の共業となり、王法と仏法との冥合も自然の形で築いていくことができるのだと思います。

★《その点で――もし賛同いただけますなら―― キリスト信仰とも 共通の世界に息をしているとも思います)。》

「修行僧らよ。いかなる修行者(サマナ)またはバラモンでも、このように物質的なかたちを明らかに知り、このように物質的なかたちの生起するわけを明らかに知り、このように物質的なかたちの消滅するわけを明らかに知り、このように物質的なかたちの消滅にみちびく道を明らかに知り、物質的なかたちからの厭離・離欲・消滅に向かって実践した者は、よく実践した人々であり、かれらはこの法と律とにおいて沈潜しているのである。・・・・かれらは執着しないから解脱し、よく解脱しているのである。かれらは完成者である。』(『サンユッタニカーヤ)
中村元先生は、『原始仏教の思想I』286Pの中で、仏教外の一般の修行者(サマナ)やバラモンたちであっても、上のような道理を理解するならば、仏教を実践していることになるという釈尊の教えを紹介しています。仏教では宇宙創造神としての唯一絶対神は認めていませんので、そういった立場では相入れない面もあると思います。しかしキリスト教神学では、神という概念を宇宙の働きというように捉える考えも生まれてきているということも聞きました。縁起という宇宙永遠の理法に対する信が同じであるなら、共に息をしていることになると思います。キリスト教とというよりは、縁起なるものを信じようとなさる brageloneさんのようなお方の命とというべきでしょうか。

出発点は、釈尊が「一尋の身体」を貫いている現象世界における縁起を真如としたことですが、ここを理論的に突き詰めた結果生まれたのが、華厳における一塵の中に宇宙全体を見る法界縁起の教えであり、それは「乃ち是一草・一木・一礫・一塵・各一仏性・各一因果あり縁了を具足す」という天台教学の教えに繋がっていきます。中国の華厳の法理は理に走りすぎた面もありますが、華厳経は菩薩の三味(さんまい)から生まれたものと私は信じています。ここから、生命体と非生命の相即不二の理論になり、先の共業との関連でいえば、主体はあくまで生命体にありますので、生命あるものが清浄になれば、非生命体である国土も清浄になるという原理になります。(1)自然的存在としての国土と、(2)社会的存在としての国家制度、社会のしくみ、この二つが「共業」をキーワードにして私たちの行為(思想)・経験と繋がります。

補遺としては、少々長くなってしまいました。私の方は実践がおろそかになっているような気がします。
ともどもに縁起共生の世界を目指して生きていきたいと思います。

王法と仏法

この回答への補足

bonbonnierさん ご回答をありがとうございます。恩に着ます。

古いところから引くことから始めます。
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例えば 部分的には今日なお存続しているインドの太古的な小共同体は 土地の共有と 農業と手工業との直接的結合と・・・に 基礎を置いている。それらは自足的な総生産体をなし・・・。
 絶えず同じ形態で再生産され ときに破壊されることがあっても 同じ場所に同じ名称で再建される これらの自足的な共同体の 単純な生産的有機体は アジア的諸国家の絶え間なき崩壊と再建 および休みなき王朝の交替とにたいして 著しい対照をなすアジア的社会の不変性の秘密を解く鍵を与える。
(K.マルクス:『資本論』1・4・12・4 向坂逸郎訳)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
非常に古い文章を持ち出しましたが 王法に対して 仏法の領域である人びとの生活圏は あたかもこのように そしておしえていただいた《共業》をとおして――よくも悪くも―― その《社会の経済的基本要素の構造は 政治的雲上界の嵐によっては 影響されることなく保たれている》(マルクス:前掲箇所)と言える側面があると思います。

ですから 問題は――気が早いですが―― 王法(わたしの言葉で アマテラス圏)と 仏法≒市民社会(スサノヲ圏)とのあいだに 大きな溝があるかないか ではないでしょうか。ブッダとその衆生が ビンビサーラ(でしたか)王から影響を受けないことと 王に対して影響を与えるべきだと見ることとは 両立するように思います。

だから 階級関係うんぬんではなくて たとえば日本では 同和問題や在日韓国朝鮮人問題というように差別を受けていると言われる人びとも 芸能・スポーツ界としてのアマテラス圏に出世する機会が 自由に あると見られています。王法に対して 影響を及ぼしうるとも言えます。風通しがよい社会です。
 しかも どうも感じられることは 社会の第二階というべきアマテラス圏は 一階のスサノヲ圏とは 或る種の断絶があるようにも思われます。その距離と言いますか断層のような相互の疎外感は では どうして起こるのか また どうすればよいのか このあたりに 問題はあるように思うのですが。

でも 基礎は 一人ひとり《一尋の身体》からの縁起共生の世界への踏み出し――出世間というのでしょうか――にあるということは どこまで行っても 変わりないとわたしも確信します。

キリスト信仰(ちなみに 組織的にして慣習としてのキリスト教とは 別としています)では 隣人愛くらいしか持ち合わせていません。アーラヤ識における意味での共通感覚という言い方もしていないと思います。分析する観点を持っていないと思います。

共業もしくはコモンセンスをとおして 市民ブッダ圏を形成するとき これが 王法に対して どのような影響力を持つか これが 次の課題であるように考えます。ですが この質問からははみ出すことになるかも知れません。いかがでしょうか。

★災害等により不慮の死にあった場合、個人自らの業ではなく、共業の業によりその災禍を招く場合があるという趣旨の記述があったと思いますが、この一文はショッキングでした。清浄に美しく人生を生きていても共業による災禍というものはあるのでしょうか。
――これは 実は すでに唯識の方にお聞きしています。わたしもショッキングでしたので ただ頭だけで理解していたということが判明しました。でも むつかしい!!です。(仏教理解が かなり 内奥に入り得たと思っていた矢先でした。そんなものなのですね)。

★この辺のところは、だれも体験的に述べているのではなく、あくまでも説としての位置付けになるかとは思うのですが。
――という視点も大事ですよね たしかに。そうすると どう捉えていいのやら・・・。なんらかの表象は得ているのでしょうか。ことばによる表現は無理なのでしょうか。

補足日時:2007/12/01 01:16
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この回答へのお礼

余韻覚めやらず 随筆になりますが・・・。(20071207記)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
無神論は最初のうちまだコミュニスムであることから遠くはなれている。無神論の人間愛( Philanthropie )は だから最初はただ哲学的な抽象的人間愛にすぎないが

 * すなわち 現実が 一方に そして 全面に ある。つまりは現
  行の罪の共同自治において そのなかのアマテラス語(法治組織)
  は その観念的なよそよそしさによって 所々に 虚偽を伴ないつ
  つも その取りあえずの妥当性としては いよいよますます人間的
  となる人間愛 という現実がある。これに対抗すべく 無神論によ
  って 打ち出された  別種のまだやはりアマテラス語による人間
  愛 この抽象的にして経済即物的な人間愛にすぎないが

コミュニスムの人間愛はそのまますぐに実在的であり ただちに活動しようと緊張している。
(マルクス:『経済学・哲学草稿』 3・2)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
無神論でさえ こう言うのですから 仏教にも 静かな秘めた熱情が感じられるといいなと思ったりします。感じるのは けっきょく 同情です。気休めです。(一般論ですが)。
 
あるいはさらにマルクス自身も 《人間の人間にたいする直接的な 自然的な 必然的な関係は 男性の女性にたいする関係である》とまづ 捉え こうも言います。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
男性の女性にたいする関係は 人間の人間にたいするもっとも自然的な関係である。だから どの程度まで人間の自然的態度(スサノヲ人間語)が人間的(アマテラス語に裏打ちされた)となったかは 男性の女性にたいする関係のなかに示されている。(同上)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
男女の対(つい)関係を基礎とした人間関係なる縁起共生は たしかに 仏法の 王法にたいする関係において 現われる側面もあると 現代では国際関係の視点から見ても 思われます。

仏教として その方向性をたしかに含んでいるという視点を 明らかにするならば 大きな力になると思えるのですが これこそが 勇み足の考えでしょうか。

お礼日時:2007/12/07 10:53

blageloneさん。

お礼ありがとうございます。また、補足にて御質問されたことについて、私なりに回答したいと思います。

★《(a) 絶対者の想定のもとに 相対性の世界にあって むしろわれわれの行なうことは相対的・時間的な関係行為でしかないゆえに 無根拠において 彼岸のことなど分かり得ないゆえにこそ 永遠の現在という海をゆく。これが 出発点である。おそらく この出発点じたいが 動態であり過程である。すでに 安心していられる。》

「絶対者の想定のもとに」についていえば、あくまで相対性の世界がそのまま絶対性の世界であることを意味します。諸法実相であり、生死即涅槃となります。彼岸とは、現象世界を離れたどこか遠い世界ではなく、今この場所が彼岸(ニルヴァーナ)となります。部派仏教が生死からの自由を説くのであれば、大乗仏教は生死への自由を説きます。三世において現象世界を自由自在に活動してやまない命といえます。前回の回答における「わたしは主宰神のようになすであろう」という釈尊の言葉も輪廻から解脱した自由自在なる境地といえるかと思います。

聖者と同じ縁起共生の世界に生きているのですから、私たちの他者に対する働きかけは、ひとり特定の他者との閉鎖的な関係性の中での影響にとどまらず、全宇宙にもその波動を与えるものと言えます。存在間の相依相即性の縁起の覚知からそれを如実に知見するのが仏であり、そのことを知覚できないのが私たち凡夫といえます。

「この出発点じたいが 動態であり過程である。」縁起共生で生きていることの自覚の深化といえると思います。現象世界をバラバラの状態、対立した図式構図で見るのが凡夫です。

「大乗仏教における縁起思想とは、一つ一つの存在があらゆる存在の生命を維持している相互関係の壮大なネットワークの中に生存していることを意味する。この世界は、相互に結びつき、相互に働きかける、一つの協調的統合体であって、ばらばらで、対立している部分部分(パーツ)を寄せ集めたのものではない。」「縁起共生は、メタファーを用いて説明するとすれば、あらゆる存在が調和して一つの壮大な交響曲を奏でているようなものである。交響楽において第一に大切なことは、それぞれの演奏者が、バイオリン、チェロ、トランペット、フルート、オーボエ、ティンパニなどのそれぞれの楽器を演奏して、その楽器にしかな
い特徴のある音を奏でることである。この第一の点においては、一人一人の独自性、唯一性が重要である。交響楽において第二に大切なことは、その一つの楽器の音色は、交響楽全体の一要素であり、他の楽器の音色ととけ込むことによって、一つの大きな曲をうみだすことである。もし一人の演奏家がとても大きな音
で演奏し、他の演奏家の音をかき消してしまったら、全体の調和のあるハーモニーは失われてしまう。第三に、一人一人の演奏家が自分の音色を生かしながら、懸命に演奏することが、一人では生み出せないような美しい一つの共鳴をうみだす。一人一人の演奏家も生き生きとし、演奏者全員でうみだしたハーモニー
も生き生きとしてくるのである。すなわち、縁起共生とは、一つひとつの存在の独自性、唯一性を尊重し、それぞれが精励に努力して、他と支え合って生きることであり、その結果、一人ではできなかったようなすばらしいハーモニーを、他のあらゆる存在と共に奏でていくことができる。このように、人間を含めたと生きとし生けるもの、さまざまな自然は、それぞれの形態が異なっているけれども、一つ一つが他にはない特有の働きをもっていて、すべてが平等に認め合いながら共存しあうことを、縁起思想は示している。」
「宇宙におけるあらゆる物事は相互依存によって生起しているから、一つひとつの存在が宇宙の中心であり、かけがえのない存在である。そのかけがえのない一人の人間が他の存在を思いやって、宇宙の小さな一隅を照らすことが、ついには宇宙全体を調和のある支え合いの世界へと導くことになる。あらゆるものは時間的にも空間的にも相互に依存し関係しあっているからこそ、一つのひとつの存在が他の幸せにとって重要な因とも縁ともなる。あたかも多くの楽器で一つの交響曲を演奏して、人々を感動させるように、縁起共生とは、あらゆるいのちが宇宙の中心となって、他の存在の声に耳を傾け、他の命を思いやって支え合い、相互に響きあって大きないのちの交響曲を奏でていこうとする生き方を教えている。」(鍋島直樹 龍谷大学・人間科学宗教オープン・リサーチ・センター公開研究会 仏教生命観とは何か――縁起思想の意義より)

「あたかも、母が己が独り子を命を賭けても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の〔慈しみ〕のこころを起こすべし。
また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき〔慈しみを行うべし〕。
立ちつつも、歩みつつも、座しつつも、臥しつつも、眠らないでいるかぎりは、この〔慈しみの〕心づかいをしっかりと保て。この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。」(『スッタニパータ』)

釈尊は弘経の最初期の段階から、一切の生きとし生けるものに対しての慈悲を強調していたのであり、万人を友とする他者に対する働きかけこそ釈尊の真意であると思います。
これはシャーリプトラの言として次の言葉が「聖仙のことば」として伝えられていることからわかります。
「それゆえに、自分にも友にも敵にも〔平等に〕慈しみの心を起こすべし。慈しみの心をもって、〔全世界を〕あまねく充満すべし。これはもろもろの目ざめた人の教えである。」
「犀の角のようにただ独り歩め」という一連の教えは、後代には独覚のための教えとされましたが、釈尊在世においても、シャーリプトラの言を考えると、そのような意識の萌芽はあったものと思われます。

「〔われわれは〕すべて、尊い師〔ブッダ〕の子であり、ここにはむだなものは何も存在しない。わたしは、<太陽の裔にして、妄執の矢を打ち砕く人>(ブッダ)を礼拝する。」(『テーラガータ』)
「ここにはむだなものは何も存在しない。」とあるように、どんな人でも尊い師〔ブッダ〕の子であると説かれています。これは「自性清浄心」という、すべての人の本性は清浄にして清らかであるとする原始仏教の教えを反映するものであると思います。
衆生の本来の生命の姿を如実に見るからこそ、すべての存在は全く平等であるという真実の平等観が生まれてきます。すべての存在は縁起的存在であるというのも、すべての存在が法身において平等であるという生命の平等観によるものといえます。
伝教大師最澄の『山家学生式』に、「一隅を照らす、此則ち国宝なり。」とあるように、片隅におけるどんな他者への慈しみの行為は国宝であると説かれます。命の絶対的平等性のゆえに、ひとりひとりは、宇宙の中でかけがえのない存在であり、その自覚に立つところ「一隅を照らす」働きとなり、しかも、「一隅を照らす」働きにより、その人が幸福への方向を見出したなら、そのことは、縁起の世界のゆえ、他のすべての存在の幸福への因ともなり縁ともなります。ゆえに、「一隅を照らす」働きは「国宝」であると説かれています。相互関係性の根源にいのちの絶対的な尊厳性があります。


★《(b) この出発点にしろ 彼岸の問題にしろ われわれは 人を おしえ導くことはできない。(感化という事態はあるかも知れない)。言いかえると この世にあって あとは 彼岸への到達は いわば共同作業である。無根拠にそして互いに拘束することなく 連帯しあっている。》

「この出発点にしろ 彼岸の問題にしろ われわれは 人を おしえ導くことはできない。」とありますが、ここはどうでしょうか。仏の教えへの信の自覚に立って、人に法を説くのが在家信者の立場であると思います。そのことにより共同作業の水嵩も増えていくことになると思います。

★《共同体としての自由な連帯 つまりは社会全体を 一つのサンガと見なして そこで互いに協力するという方式は ありえませんか。》
竹村牧男氏は『仏教は本当に意味があるのか』の中で四方サンガ、まさに社会全体をサンガとする大乗仏教の四方サンガについて語っています。

大乗仏教では、サンガには現前サンガと四方サンガの二つがあり、大乗仏教徒は四方サンガの上に立っていたことが、平川彰先生の『インド仏教史 上』で紹介されています。現前サンガとは現実に存在する教団を意味します。四方サンガとは三世十方の諸仏・諸菩薩の根源的共同体のことです。

「サンガの秩序の根源である戒律は、現前僧伽で勝手に変更できないものであり、戒律は現前僧伽を超えた存在であった。またサンガの財産である僧園や精舎等も現前僧伽は利用が許されるだけであり、処分することはできなかった。この二つの理由から、現前僧伽を超えた高次の僧伽が考えられる。それが四方僧伽
(招提僧)である。四方僧伽は弟子の教団そのものをいう。空間的・時間的に限界を持たない三世一貫の常住僧である。地域的にもどこまでも拡大しうる僧伽であり、時間的には未来に永遠に存続してゆくべき僧伽である。この四方僧伽が、精舎等の常住物を所有し、戒律としての僧伽の秩序を代表するのである。」(87-88P)


自分の周りにいて苦しみを生む存在であるしかない人たちも、自分の仏道にとっては、さらに信心を深めていこうとする縁となる人たちでもあると思います。『大乗起信論』には、そのような方々はそのような姿を現して自分を仏道に導いてくれている菩薩であると説かれていますが、この立場に立つと、共同体を形成
するすべての人たちが四方サンガの一員となります。あくまでも縁起共生を信じる人の立場についてからですが。

竹村牧男氏は前著の中で、大乗仏教の縁起は「大悲の交響する宇宙共同体」と言われていますが、大乗仏教は宇宙に交響する縁起共生の共同体の自覚の上に立ち、自利利他円満の仏を目指して、この関係性を個人的にも社会的にも深化させていく宗教であると思います。その過程において、各個人にあっては、縁起共生の自覚がさらに深まり、この深まりはさらなる他者への働きかけへの展開すると思われます。そして、このような個の自覚の集積がやがては社会のコモンセンスとなっていくのだと思います。おもわず理想論のようになってしまいましたが、大乗の精神といえるのではないかと思います。

「大乗仏教の真実の縁起観は、禅定三昧中に分別識を滅した般若の直感として、総ての生命現象を体得する事である。従って其の直感内容は、生命の過去、未来に亘る全時間的相依相生観と同時に、全宇宙に関する相依相成観をも一時に明解に把捉するので、その般若に由る縁起観の所観の生命は、無限の過去から遠き将来に及ぶ内容と、全宇宙に関与する内容とを、摂含する実体としてである。此は般若の法空観なる万法縁起所生の「生命」観であるから、即ち大乗仏教の生命観となるのである。」(中央学術研究所特別論文集『いのちの原点―仏教からみた生命とは』所収の西義雄博士「大乗仏教の生命観」より)

「生命の過去、未来に亘る全時間的相依相生観」に基ずく縁起とは、戦争で亡くなった人たちの思いや、その人たちの命そのものが時間的・空間的限界性を超えて-これは戦争で亡くなった人に限定するものではありませんが-、今の自分の生命というものの縁起的存在として関係しているのであり、それに拠って自らの生命が成立しているのですから、自らの生き方の上においても、すべての亡くなった方々の思いや願いを反映させることが望まれるかと思います。法華経には「治生の産業は皆実相と相違背せず」と説かれ、天台大師はこれを受けて「一切世間の治生産業は皆実相と相ひ違背せず」と説かれています。これから生まれてくる人たちとの相依相関性を考えれば、よりよい社会で生命を営むことができるように、社会への積極的な働きかけも信仰者の責務となると思います。無論、今を生きる人たちとの相依相即性の縁起のゆえからも当然求められることだと思います。諸法実相とは相依相即性の縁起でもありますが、縁起共生の個々人の自覚は現実社会へも影響を与えるものと思います。
現実の営みは、極めて地道な歩みであると思いますが、「生命の過去、未来に亘る全時間的相依相生生観」による大乗の縁起思想によれば、無限の過去から永遠の未来におけるすべての人(の生命)が、四方サンガの一員であるといえるのでしょうか。

★《これが わたしたちが 現象として目指す縁起共生の世界ではないでしょうか。》
まさにその通りだと思います。

★《アマテラス語科学に裏打ちされたスサノヲ語が 望まれるでしょうし その大前提に プラス・アルファとしてのように 観想・瞑想としての智慧も望まれるということだと思われます。》
龍樹も「二つの真理(二諦)に依拠して、諸々のブッダは法(教え)を説いた。世間世俗の真理と勝義としての(真理との二)である。この二つの真理の区別を知らない人々は、ブッダの教えにおける深い真実を知らないのである。言語習慣に依らなくては、勝義(の真理)は示されない。勝義(の真理)に到達しないならば、涅槃は証得されない。」(『中論』)と説かれたように、釈尊は三世の生命の流転相をも、外側から覚知するところの絶対の境地としての「不死の境地」の勝義諦の真理の上に、縁起の教えが説かれたものといえます。

しかし、縁起そのものが、「不生不滅・不常不断・不一不異・不来不去」と説かれるのですから、最終的には縁起共生の自覚の深まりにおいて、そこに縁起の中に涅槃(勝義諦の真理)を見ることにもなってくるのだと思います。凡夫にあっては「不死の境地」の覚を目指すのは、順序が逆で、やはり縁起共生の働きかけの中で、自らの心の問題として、相依って存在しているということを命の実感としていく過程が、「不死の境地」に近づく道といえるのでしょうか。はなはだ遠い道のりではありますが。

縁起とはこのような理念になるかと思います。竹村牧男氏だったと思いますが、大乗における自らの信心は縁起のゆえに一切衆生に対する責任の自覚をもたらすものであるといったことが述べられていた記憶があります。責任とは倫理的責任とともに社会的責任もあると思います。

★《縁起共生の世界》に それこそ 踊り出る時が来れば 楽しいでしょう。
本当にそのような世界が実現するならばどんなにかよいことでしょう

この回答への補足

bonbonnierさん すごいですね。ありがとうございます。それにしても 原典や研究書に当たっていただいて 理論なり基本的な考え方なりをずばり おしえていただき ほんとうにありがとうございます。

仏教では 社会的な領域について 潜在可能性としてまたその人の度量として とうぜん 見解を提出するものと思っていましたが――ただしあまり理論のようなものとしては読んだことがなかったのでした―― たとえば高次の社会共生体としての四方サンガ このように ずばりその思想もあったのですね。恐れ入りました。というよりも その昔 こういう思想は 出会わなかったのでした。覚りと共に 真っ先に説き明かしていてもよいように思います。

鈴木正三がどうの あるいは本覚思想がこうのと 現実の社会生活と仏法との融合・不二が 説かれるところも知った記憶がよみがえりましたが こちらの場合は あまりにも 現実べったりの社会思想になってしまっているようにも思いました。カルヴァンだかプロテスタンティスムに喩えられるような仏教思想だというお話のようでした。

すでに 縁起共生の世界に立ってその出発点にも位置し得たとしますと 今回その理論的な裏付けを得て いつでも出帆することができるところまで来れたように思います。みなさんのおかげですし bonbonnierさんのおかげです。たいへんありがとうございます。

《わたし》にかんしましては とにかく この縁起共生の現実に その場にいるということで――絶対の上の相対ということで―― 通俗にいえば すでに 鬼に金棒だと思います。何の患いもないと思います。ひとこと このように告げるというだけでも 実践になるのではないかと考えます。ここには 推進力と安全装置が インストールされているように思います。(その点で――もし賛同いただけますなら―― キリスト信仰とも 共通の世界に息をしているとも思います)。

いくらか舌足らずのところがあったようです。これを調整して縁起共生の動態を生きるその現実に立ちます。不死の境地は 全時間的な相依相生観なる生命共同体とともに 〔その感得としては〕楽しみに あとに取っておいても いいのではないでしょうか。

★相対性の世界がそのまま絶対性の世界である。
★三世において現象世界を自由自在に活動してやまない命
★全宇宙にもその波動を与える。
★一切の生きとし生けるものどもに対しても 無量の慈しみのこころを起こすべし。
★万人を友とする他者に対する働きかけ
★どんな人でも尊い師〔ブッダ〕の子である。自性清浄心。真実の平等観。
★相互関係性の根源にいのちの絶対的な尊厳性がある。
★自分の周りにいて苦しみを生む存在であるしかない人たちも、自分の仏道にとっては、さらに信心を深めていこうとする縁となる人たちでもあると思います。・・・あくまでも縁起共生を信じる人の立場についてからですが。
――これは わたしの苦手とするところです。頭ではわかっていますが。
★現実の営みは、極めて地道な歩みである。
★二諦――世間世俗の真理と勝義の真理と。

補遺・微調整などありましたなら なおいましばらくお教え願えれば幸いに存じますが。
(王法・仏法の方面へは伸びないでも特に不都合はないですか)。

補足日時:2007/11/29 00:04
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この回答へのお礼

(No.44お礼欄よりのつづきです)。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  ・・・それはなぜか。というのは 不退転の菩薩大士には〔あらゆる有
  情を見捨てないという〕特殊な徳性があるのであるが その徳性を彼は
  示さず 明かさず 教えず 知らせず 質問されても説明せず 答えも
  しないし 不退転の菩薩大士にとっての階位であるべき その階位には
  いらせようともしないからである。

(梶山雄一:『般若経』1976 pp.177-179)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
以上です。
★《あらゆる有情を見捨てない》
=《九十九頭を放っておいても 見失った一頭の羊を探し出す》
=マーガンディヤーの両親が 菩提心に近い境地にあるからといって マーガンディヤーを見捨ててはいけない。両親のことは ほっぽりだしておいても マーガンディヤー一人にかかりっきりになるべき。
★《たとえば大きな鳥が虚空の中天を飛んでいて 地に落ちもせず また何かの支えにとまっているのでもなくて ただ虚空の中天を飛び そこにも頼らず とりついてもいない。ちょうどそのように スブーティよ 菩薩大士は空性という暮らしによって暮らし 空性を熟知する》
=信によって 永遠の現在を 動態として 生きている。(支えなどないとも言える)。
=★《知恵の完成にまもられていながら 真実の究極を直証しはしない》
=ただちに 中道(慈悲)を説くというのも 必ずしも決まっていない。相手と場とによるものと思われる。

以上のように 呼応するところが多い文章でした。

お礼日時:2007/12/16 14:20
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