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ヘーゲルは、奴隷は労働において内面的な自由を獲得するとしましたが、それでは奴隷ではなく自ら進んで自然を対象とし、開拓していく様な人は真の自由を実現していると考えていいのでしょうか?

また、現在の労働者はシステムに隷属していると考えていいと思いますか?

また、ヘーゲルにおいて、外に向けた現実的な自由とはどのようなものなのでしょうか?
ヘーゲルがそれを示せなかったのだとしたら、他の哲学者の考えでもいいので教えて頂ければ幸いです。

A 回答 (4件)

どうも、harepandaです。



>> >>(だから、ヘーゲルには社会思想はあっても個人倫理はないと批判する人もいます。)
>>
>> これは、harepandaさんの意見ではないのを分かった上で喋ります。
>>個人の意志からスタートしてそれが一般意思になればハッピーというのは個人倫理とは違うんですか? 私の勉強不足のためかよく分からない批判ですね。

ヘーゲル的に言えば、個人の意志が必然的に普遍意志に一致するのが、理想国家です。個人の意志が普遍意志と一致するか否かが偶然でしかないのは、不完全な国家です。偶然と必然の概念については、またヘーゲルがこ難しいことを言っているのですが、個人がいかに生きるべきかという問題が通常の哲学者の間では倫理学の中心問題にすえられている以上、「ヘーゲルに倫理学なし」の批判はある意味、正しいと思います。特に彼の場合は観念論の傾向が非常に強く、人間が主体として概念を操作しているのではなく、主体は逆に概念の側にあって、人間の脳を媒介して概念が自分を変質させていくことを概念の自己運動として観察している以上、個人がいかに生きるべきかという問題は、完全にすっ飛ばされています。無論、彼は正義心の強い男ですが、倫理を具体的に語れといわれたら、「よき市民たれ」くらいしか言うことがないのではないでしょうか。むしろ、「社会のここがまちがっているから、これを直すべきだ」という時に、彼の正義心は爆発するのです。

>> >>私の議論は円熟期のヘーゲルを語っているものであり、若い頃のへーベルには、また違った側面があります。
>> 精神現象学」の頃ではなく「法哲学」の頃ということでしょうか。
私は「精神現象学」と「精神哲学」しか読んでいないのですが、次は、マルクスか「法哲学」を読むつもりなので参考になります。ありがとうございます。

精神現象学のころではなく、1814~1831年の、ビュルテンベルクにおける民会議事録についての論文(長すぎて正式タイトルは忘れました)、法の哲学、歴史哲学講義、英国選挙法論文などの議論を念頭に解答させていただきました。

ちなみに、若い頃のヘーゲルに自然法に関する著作があり、自然法の経験的扱いと、自然法の理論的扱い(だったかな?)の方法論について哲学的解釈と批判を展開しているわけですが、この自然法の経験的扱いについての議論、ルソーが何年も前に到達していた結論と全く同じなのですが、どうも若きヘーゲルはそれに気がつかなかったようなのです。ルソーはこんなことを言っています。「だれそれは、自然状態とはこのようなものであると述べた。だれそれは、自然とはこんなものだと語った。だれそれは、自然について、このような議論をした。だが、本当の自然概念にたどり着いた人は、だれもいない」。非常にするどい指摘です。

法の哲学を読むのであれば、ぜひ、あわせて岩波文庫のヘーゲル政治論文集を読んでみましょう。哲学者ヘーゲルが、政治家ヘーゲルに見えてくると思います。上記の民会論文(これ、特にお奨め!)と英国選挙法論文のほうに、彼の本音が載っています。法の哲学は、なんかオブラートに包んでいるようなものがありますが、序文は名文です。

あと、マルクスは法学部出身のくせに自然法理論を全く分かっていない(もしくは無視している)ので、トンチンカンなヘーゲル批判はスルーしましょう。観念論批判は分からないでもないですが。自然法が一線の政治哲学であったのは、せいぜいフランス革命の頃までの話で、マルクスの時代になると、社会科学でも実証主義的傾向が強くなって、自然法のような架空の理論は排除されていくんですよね。でも、自然法が分からないと、本当はヘーゲルは分からないのです。若い頃のヘーゲルは古代のギリシャ社会を理想化して見ていたという事情もあって、ヘーゲルが自然法理論に批判的な人間であるという見解が世間でも強いようですが、ヘーゲルがルソーの後継者であることからも分かるように、少なくとも後期のヘーゲルは自然法思想の強い影響下にあります。論敵のサビニーという法学者は、ヘーゲル「法の哲学」を、「ヘーゲルの自然法」と呼んでますよ、これ、知っている人、少ないんですけど。サビニーは後に、ヘーゲルの一番弟子ガンスと大論戦を演じることになります。

>>harepandaさん、長い文章、色々な事柄の説明のほど、本当にありがとうございました。
>> 非常に勉強になりました。

いえいえ、せっかくの知識も、普段はほとんど使い道がないのですよ。私も楽しませていただきました。ありがとうございます。
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この回答へのお礼

>>個人の意志が普遍意志と一致するか否かが偶然でしかないのは、不完全な国家です。

なるほど、普遍意思のみ、ということですね。

>>主体は逆に概念の側にあって、人間の脳を媒介して概念が自分を変質させていくことを概念の自己運動として観察している

観念論の意味がよく分かりました。ありがとうございます。

>>岩波文庫のヘーゲル政治論文集を読んでみましょう。(上記の民会論文)(これ、特にお奨め!)と英国選挙法論文

ありがとうございます。是非、読んでみます。

>>マルクスは法学部出身のくせに自然法理論を全く分かっていない

なるほど。共産党が、ファシズムにも負け、自由主義にも負けたのはその辺の理由もあるのかもしれませんね。

harepandaさん度々のご回答ありがとうございました。非常に勉強になりました。

お礼日時:2007/11/02 05:57

>奴隷ではなく自ら進んで自然を対象とし、開拓していく様な人は真の自由を実現していると考えていいのでしょうか?



 ヘーゲルにおける自由は専ら精神的・社会的なものです。それは例えば奴隷が例になっていることからも推論できます。なので答えは「いいえ。」になります。


>現在の労働者はシステムに隷属していると考えていいと思いますか?

 この回答はパスさせてください。


>ヘーゲルにおいて、外に向けた現実的な自由とはどのようなものなのでしょうか?

 harepandaさんの
「ヘーゲルの場合はより具体的で、普遍意志の現われである国家や国会の中で、さまざまな特殊意志や個別意志が入り混じり、社会全体がうまく回り、個人が社会生活の中で正当な承認を受けてハッピーである状態が、自由だということになります」
という説明はかなり妥当だと思います。
 もしも伝統的な英米の思想家ならば、自由とは国家などの制約をできるだけ排除するものとするでしょう。
 (国家あっての自由という考えはカントにもあったと思います。岩波文庫『啓蒙とは何か』収録小論か、『人倫の形而上学』だったような・・・。うろ覚えですみません。)
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この回答へのお礼

>>もしも伝統的な英米の思想家ならば、自由とは国家などの制約をできるだけ排除するものとするでしょう。

そうなんですか。日本の哲学科では英米哲学をあまり紹介しないのに咥えて、私の勉強不足でその辺りの事は全く知りませんでした。
ただ、日本で捉えられている「自由」は、その英米伝統思想に近いかもしれませんね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/02 06:00

「奴隷の内面的な自由」


内心の自由のことでしょう。しかし表現・言論の自由にはいろいろな制約がある状態。
「真の現実的な自由」
表現の自由、言論の自由のあるギリシャ的な自由のことでしょう。
ヘーゲルはソクラテスやプラトンの時代のギリシャを理想国家としていたのかもしれませんね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 確かに、奴隷には、表現、言論の自由などありませんね。 ギリシャ的な自由は、個の自由があまりないとかいう話を聞いた覚えがあるのですが、個の自由と、共同体の自由の両立、とは一般意思のようなものなんでしょうかね。 回答の程、ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/01 18:51

ヘーゲルは現実的な社会思想家であり、理想の国家・市民社会のありかたについて様々な見解を述べていることは、カントとの大きな違いであります。



しかし、カントもヘーゲルも、ルソーの意志論の後継者であるという点において一致しているのです。つまり、ルソーのいう一般意志(ドイツ哲学系の日本人、特にヘーゲル読みは、普遍意志ということが多いです)と、個人の意志が一致している状態こそが、自由だという主張です。自然を相手に作業をしているかどうかは関係ありません。ヘーゲル的に言えば、自然は本来的に不自由なものであり、精神こそが自由なものであるからです。そこにあるのは、主体と客体の関係だけです。

カントの場合は、個人の行動原理が一般意思と合致するように行動せよ、というのが倫理学の基本だという考え方になります。非常に抽象的な命題です。

ヘーゲルの場合はより具体的で、普遍意志の現われである国家や国会の中で、さまざまな特殊意志や個別意志が入り混じり、社会全体がうまく回り、個人が社会生活の中で正当な承認を受けてハッピーである状態が、自由だということになります(だから、ヘーゲルには社会思想はあっても個人倫理はないと批判する人もいます。)ちなみに、国家や議会が普遍意志の具体的な現われであるという考え方は、1814年に彼の祖国・ビュルテンベルクがナポレオンによる支配から抜け出し、国会を開いて新憲法を作ろうとした時に、議会の守旧派に対してヘーゲルが行った激烈な批判に、よく表れています。ハイデルベルクにおける彼の講義によれば(ベルリン赴任前)、普遍意志の表れである立法府を通じて実体が変化することこそ、ヘーゲルのいう革命なのです(まあ、平和革命ですが。ヘーゲルのいう実体概念は、別に勉強してください)。

ちなみに、ヘーゲルは1814年ごろは、自分の法理論のことを伝統的な用語法に従って自然法と呼んでいたのですが、上記の、「精神の自由、自然の不自由」というスキームの中で、自然法という言葉を掲げることに問題を感じたのか、『法の哲学』では、自然法ではなく哲学的法という語に置き換えています。

なお、私の議論は円熟期のヘーゲルを語っているものであり、若い頃のへーベルには、また違った側面があります。

現代の労働者はシステムに隷属していると言って良いと思います。ホリエモンの発言で、賛成できるのは、ただひとつ、「会社員なんかになっても仕方ない、搾取されるだけだ」というものです。その張本人が、社員を使い捨てにするほど過酷な労働と忠誠心を社員に要求し、結果として、社員が平均的には2年も持たずに入れ替わっていったというのが、彼の独善者たるゆえんです。
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この回答へのお礼

>>ルソーの意志論の後継者
なるほど! そういえば、そういった事を何かの本で読んだ覚えは有ります。 今、harepandaさんの説明でしっくりきました。 ありがとうございます。

>>個人が社会生活の中で正当な承認を受けてハッピーである状態が、自由だということになります

具体的には、そういうことなんですね。よく分かりました。

>>(だから、ヘーゲルには社会思想はあっても個人倫理はないと批判する人もいます。)

これは、harepandaさんの意見ではないのを分かった上で喋ります。
個人の意志からスタートしてそれが一般意思になればハッピーというのは個人倫理とは違うんですか? 私の勉強不足のためかよく分からない批判ですね。

>>ヘーゲルのいう実体概念は、別に勉強してください

長谷川宏さんの本で読んだ覚えはあるのですが、おそらく理解できないまま流してしまったと思います。また勉強しておきます。

>>私の議論は円熟期のヘーゲルを語っているものであり、若い頃のへーベルには、また違った側面があります。

「精神現象学」の頃ではなく「法哲学」の頃ということでしょうか。
私は「精神現象学」と「精神哲学」しか読んでいないのですが、次は、マルクスか「法哲学」を読むつもりなので参考になります。ありがとうございます。

>>「会社員なんかになっても仕方ない、搾取されるだけだ」

パートの正社員化云々の前に、そもそも、労働者の権利、労働環境、労働条件を適正化しないといけませんね。
私は基本的には、自由主義経済でいいとは思いますが(人類は完全に欲望を克服することはできないと思っているので)、それは労働条件を適正化した上での自由主義です。

harepandaさん、長い文章、色々な事柄の説明のほど、本当にありがとうございました。
非常に勉強になりました。

お礼日時:2007/11/01 18:48

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