プロが教えるわが家の防犯対策術!

こんにちは。
先日大学の講義で学校制度の歴史が内容のVTRを見ました。


明治時代では現在のゆとり教育なるものとは異なり、生徒の基準をすべて試験で決めていたりとゆとりがまったくない状態で驚きました。(小学生で徹夜勉強など)

しかし明治時代でも「児童の工夫や努力を認める」「一人一人の個性を伸ばす」点で自由教育を一度は導入していたらしいですがすぐ廃止されたようです。

ゆとり教育で学力低下が騒がれていますが
「児童の工夫や努力を認める」
「一人一人の個性を伸ばす」
のも大事だとおもいます。
しかし
個性=学力 とみれば明治のような制度にするのもある意味正解なのかなとおもいました。

それとゆとり教育でも、教師の授業の工夫を取り入れれば、ゆとりの中に学力向上の方法が得られるのではないのか?ともおもいます。

そこで、皆様個人の意見でいいので、ゆとり教育か、学力か、そして教師の思う事を教えていただけたらなと思います。


乱文失礼いたしました。

A 回答 (5件)

私の意見としては…「ゆとり」は与えられるものではなく、自分の力で得るものであると解釈しています。



学習内容の削減や週5日制によって“時間的なゆとり”は得られても、本当の意味で「ゆとり」は得ることができません。毎日毎日必死で勉強をして、努力で積み重ねて身についた能力こそが、自分にゆとりを与えてくれるものだと思います。

例えば会社だと…正社員で入社し、自分の努力によって地位を上げていく中で、経済的なゆとりと精神的な豊かさ(達成感・満足感)を手に入れることができます。

学校では…授業を集中して取り組み、宿題はもちろん予習・復習をしっかりすれば学力が高まり、授業中はたくさん発言して自分の意見を自信もって出すことができますし、友達からも認められて、先生や親からも褒められます。勉強することは大変なことですが、自分の努力によって生活のゆとりと精神的な豊かさを手にいれることができます。しかし、“なまけもの”の子供は授業中の話は聞かず、忘れ物も多く、周りに迷惑をかけ、多くの人から怒られるといったことを通して周りとは異なった人間性が身につき、将来は生活に何らかの支障をきたし、ゆとりをもった生活を送ることがなかなか難しくなると予想されます。人間はそう簡単に変われない生き物です。

以上のことを踏まえれば、「ゆとりがあっての学力」ではなく、「学力あってのゆとり」だと思いますので、子供のうちはしっかりと学力を身につけさせる教育が必要ではないかと捉えています。明治時代のころのようでなくても、社会全体が『子供は勉強をするのが仕事だ』ということをしっかり教えていかなければなりませんね。

ただし、子供の仕事は勉強だけでなく、『遊ぶこと』が重要になってきます。ところが現在の子供は習い事や塾に通い、遊ぶ時間が無くなっています。友達と遊ぶことで社会性が育つ、友達の遊びのルールをつくることで規範意識が育つ、友達と遊ぶ約束をすることで信頼関係の築き方が分かる、などがあります。それが出来ないとなると、せっかく身につけた学力を生かせるところがなくなってしまいます。つまり応用力が育たないのです。大人であれば身につけた能力が会社で生かすことができますが、子供の場合は遊びこそが大切なのです。また、勉強漬けですとストレスが溜まりますので、遊びはストレスの発散ができます。さらに身体を動かすことで体力を身につきます。

学校では子供たちに「遊び方」についての指導を行っているところが多いと聞きます。また教師から「遊びなさい」と指示をされないと遊ばない(遊べない)子供もいるといった異常な事態が起きています。こういった状況を考えれば、今の子供には“遊べるゆとり”も必要になってきているのではないかと思います。

参考になれば、嬉しいです。
    • good
    • 0

学力低下と子供の自殺・鬱・イジメ増加はぴたり一致しています。



学校のルールも守れない人が社会のルールを守れるでしょうか?
学業に耐えられない人が職業に耐えられるでしょうか?

内申書を気にして先生の顔色ばかり伺っていることが生きる力になるでしょうか?
努力した内容が点数等の功績で明確に判断・評価されることの方が世の中では問われているのではないでしょうか?

自ずと答えは出ていると思います。

文部科学省の官僚の子供や公立小中学校の教師の子供はそれが分かっているから私立の中高一貫校に入れてる人が居て、全入時代の大学で意味のある上位校へ入学させようと必死になってます。(もちろん入れてない人も居ると思いますが、本音はお金さえ有れば入れたいと考えてるでしょうね)

道徳の教科化とか変なことしないでも良いのです。
トイレ掃除と老人介護等をボランティアで義務化すれば済む話です。
トイレは皆が使うが掃除をするには一番嫌いな場所だし、人は皆老いて人の手を借りることが多くなります。
その現実を見て体験することが足りないだけです。
当事者達と接したりコミュニケーションすることで人を思いやる気持ちは道徳の授業をするより遙かに有意義になるのではないでしょうか・・・。
    • good
    • 0

そもそもゆとり教育ってなんなんでしょう?


私には上っ面でしかないと思います。勉強時間を減らして
ただそれだけ。全然心にゆとりなんか芽生えず堕落する一方じゃ
ないですか?
その癖、金持ちの子はやれお受験だと塾や家庭教師で勉強しまくり、
何だか学力でも格差社会じゃないのとさえ思ってしまいます。

私はある程度は学校で勉強は学ばせる物だと思っています。
見せ掛けのゆとりは必要ありません。あまりゆとりゆとりと
言うから、最近の子は社会に出た時仕事が全然長続きしない
現状もあります。

またゆとりより相手に対する寛大さ等を学ばせる為に土曜等は
老人ホーム等に慰安やボランティアをさせるのも心にゆとりを
持つ大切な事だと思います。人間教育、学問、このどちらも
大切にする上でいろいろ今後のあり方を考えるべきでは?
    • good
    • 0

個人的な意見として、、、やはり学力が大切かと。


今の日本の現状としてアジア諸国と比較しても若者がとかくだらしがない。
平成4年から第2土曜日が休みになり平成7年には第2・4土曜日が平成14年から週5日制が導入されました。その頃小学校1年だった子供は大学4年生です。休み癖がついてしまい、労働意欲は薄れるばかり。。

ゆとり=休み 土曜日働く親にとって子供の休みは負担でした。結局塾に追いやられる子もいれば遊ぶ子も増える。学校サイドは週5日になり削った授業も数多いですよ。まず珠算・習字・音楽・図工・技術家庭科・体育・部活
この部分は学力に関係がないといわれますが、この教科こそが重要だと思います。学校が珠算を教えなくなると珠算塾も廃業するところが増えました。逆ならいいのです。学校で教えないのなら珠算塾が活躍してくれるとよいのですが、世の親は学校に右に倣えという習性があるから珠算をあきらめてしまう。ですから暗算で計算する子が減りました。
習字もそうです。字の汚い子、漢字がかけないこれはパソコンの普及でそうなっていることもありますが、、習字を習っていると書き順も正しくなるから字も整ってくるのです。戦中の人々の文字を見てもとてもきれいな字を書かれた方が多いですね。
また鉛筆をナイフで削れない子も増えましたね。技術でも鋸が金槌が、、
何も出来ない子が増えました。
ゆとり教育をはき違えて解釈しているのも事実です。

戦争でむだな死がなければもっと日本は発展したと思いますし、今のような親が子を子が親を殺すようなことは昭和時代は無かったように思います。学校の道徳授業を聞いていても机上論です。もっと実践的な地域を巻き込んで教える事をしないといけないと思います。

質問とはちょっと違ってしまいましたが、やはり3・5教科=学力ではないし勉強が出来ても社会に役立ててないのも事実です。4年間英文科出てても英語が話せない学生も多いし、建築大学出ても図面の書けない人も多いです。大学の勉強はもっと社会に役立てるような学問であって欲しいです。
    • good
    • 0

平成のゆとり教育とは、子供のゆとりを目的としたものではなかった、という説がありますね。

つまり土日の連休を得たい教師のためのゆとり…。ホントかどうかはわかりませんが。

それとゆとり教育の旗振り役だった文部省の役人は、某県の教育制度を崩壊させて少年犯罪を多発させた一方、自分は中学くらいから私立で東大に入っている、という経歴の持ち主だったという話もありますね。これもホントかどうかはわかりませんが。

そもそも文部省、文部科学省の“高級”官僚の子供は、ゆとり教育が蔓延した公教育を進んで受けさせているのでしょうか? このあたりのことを考えれば、ゆとり教育が愚民化を誘ったという説も信憑性を帯びてきますねえ。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!