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時代劇が好きでよく見るのですが、中には素人が考えても 「こんな時代に、それはないだろう」 と感じるシーンも多いです。

まず 「暴れん坊将軍」 のタイトルシーンに江戸城の天守閣が背景として映りますが、吉宗の時代には天守閣は大火で焼失していたはずなので、これは嘘だと思います。

それとか既婚女性のお歯黒ですね。 本当は真っ黒だったはずです。

遠山の金さんなんて、町奉行が桜吹雪の刺青をして遊び人として町に入っていたなんて、実際にはとても思えませんね。 ま、これはフィクションですから大嘘と言うのはかわいそうかも知れませんが ・・

あと、このカテでも西部劇で主人公が馬に乗って荒原を旅するシーンがありますが、実際には馬1頭で旅する事なんてあり得ず、予備の馬を必ず連れて行ったはずと聞きました。

時代や洋の東西を問わないで結構ですので、時代劇の登場する大嘘について教えて頂けないでしょうか?

A 回答 (43件中11~20件)

#23です、再度お邪魔します。



NHK大河に対しての素朴な疑問なんですけど、戦国時代を扱った作品で、武将たちがみんな月代を剃らぬ総髪ヘアーで登場することがしばしばですけど、あれも変ですよね。今の「風林火山」でもそうで、出家して剃髪した信玄や勘助など以外は全員総髪で出てます。元服しても月代を剃らないなんて森蘭丸みたいな特殊ケースをのぞけば普通に「ありえねー」でしょう。私が思うに、その方がカッコよく見えるじゃん的な理由で、現代の視聴者の美的感覚に迎合した結果なんじゃなかろうかと推測してるんですが…

あと「それを言っちゃおしめえよ」で時代劇が成立しなくなるので、言うのもヤボなんですが…悪代官と殺人事件多すぎ(笑)
少数の例外はあったかもしれませんが、代官選定には厳しい人物審査を行い、厳選された良材を送っていたので、私腹を肥やすような不埒なお代官は極めて少ない…どころか、立派な人がとても多かったそうです。
まあ江戸期の武士というのは幼少時から儒教モラルを叩き込まれ、滅私奉公を至高の正義と信じていた人たちですから江戸期には汚職が極めて少なかったというのも頷ける話です。もっとも私たちの水戸黄門タイムは歴史のお勉強のためじゃなくて、現代の悪徳企業や腐敗官僚への憤懣を投影し、勧善懲悪でカタルシスを得るお時間ですからどうでもいいんですけど。
あと、江戸時代は恐ろしく平和な世の中で、幕末はともかく殺人事件なんて十年に1件あるかないかだったと聞いたことがあります。話半分としても少ないですよね。文字どおり毎日殺人事件ニュースを目にする現代がいかに狂ってるか痛感します。

あとくノ一のコスチューム。何と素晴らしい大嘘でしょう! 私はくノ一フェチなので(恥)、由美かおるさんが考案したという、あのお約束くノ一スタイルは嬉しいのです(笑)

最後に#1の方の時代劇の反戦平和は勘弁してというご意見、大大大…賛成です!おそらくNHK大河を指していると推察しますが、現代の価値観を基準に歴史を判定・改ざんするのは現代人の驕りもいいところでしょう。個人的には私が唯一許せぬ種類の大嘘ですね。
例を挙げればキリがないけど、元寇を扱った「北条時宗」では、時宗が幕府の評定で「(戦争回避のために)自分の首を斬ってフビライに送れ」などと命ずるシーンがありました。噴飯もいいところで、見ていて恥ずかしくなりました。脚本家にしてみりゃ主人公はこんなに反戦平和主義者で立派な人だったんだよーん、みんな感動して~んって言いたかったんだろうけど、ドン引きしますよ。
去年の「功名が辻」も原作ファンなので楽しみにしてたけど途中でムカついて観るの止めました。あれも原作者への冒涜以外の何物でもないと思いましたね。
そのうち織田信長が「織田家は恒久の平和を念願し、諸大名相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸大名の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。よって武力による威嚇又は武力の行使は、紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄いたすゆえ、しかと心得よ!」とか言い出しかねないですよ。
そんなに反戦平和を訴えたきゃ現代モノで好きなだけ訴えりゃいいんで、歴史をいじくるなと怒鳴りつけてやりたいですね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
とても興味深く拝読しました。
まず代官ですが、どうも悪役の代名詞みたいになっていますが、本当はとてもモラルが高い人が多かったわけですね。
それと殺人事件が極めて少ない時代 ・・ 江戸時代って武士が刀を腰に差して歩いているし、一般人でも懐刀などの武器を身に着けていたでしょうから、何となく殺伐としたイメージがあったのですが、凶悪事件ってそんなに少なかったですか。 驚きました。
鬼平犯科長や大岡越前をテーマにした時代劇の影響で、押し込み強盗なんかで平気で人を殺める犯罪者が多かったようなイメージを持っていました。
でも実際には十両盗めば首が飛ぶと表現されていますから、厳罰主義が徹底して、とても治安の良い時代だったんでしょうね。
武士の反戦主義 ・・ こんな事を本当に唱えていたら、あっという間に隣国に領土を奪取されてしまいますよね。

お礼日時:2007/11/12 11:17

#21です。

#27さんに刺激されて、私も一言。

今でも日本の祭りは一日(月立ち)七日八日十五日二十三日など、妙に日にちにこだわっている理由が月の形にあることを最近知りました。昔は太陰暦だったのでこれが当たり前だったのですね。

古代の日本では正月が月立ちではなくて冬至後の最初の十五夜だったことのなごりが、いまでも東北地方の小正月を1月15日に祝うことに残っているとか。

太陽暦は外国との関係で便利かも知れませんが、父母たちが造り上げて来た自然を見る心を失わせてしまうと言う、悲しい側面もあるのですね。

質問者さんの趣旨からずれてしまいますが、質問の良さに免じてご容赦下さい。
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この回答へのお礼

有難うございました。
暦と月の形が連動しているというのは、考えてみれば随分風流ですよね。
その意味では、太陰暦の方が自然と調和した暦なんだなと感じました。

お礼日時:2007/11/12 11:06

「大衆時代劇のウソ・本当、を考えてもほとんど意味はありません。

」ですとお?
 この質問や多くの回答に意味が無い?
 こんな回答はこのサイトの規則で禁止されています。↓

【回答ではない】
・[批判目的]質問に対する回答を示さず、質問者や他の回答に対する指摘・批判を目的としているもの

 某さんがおっしゃるようなことは、質問者さんも他の回答者さんも百も承知です。その上での質問であり多数の回答だと思いますよ。みなさん楽しんでやってます。
 質問が気に入らなければ回答しなさんな。
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この回答へのお礼

有難うございます。
歴史の事実は事実、創作は創作とキチンを理解した上で時代劇を楽しみたいなあと思って質問させて頂きました。
もし、まだ「時代劇にはこんな嘘が混じっているよ」と思われる事があれば、教えて頂けるでしょうか。
とても勉強になります。

お礼日時:2007/11/10 09:13

 質問への直接の回答にはなりませんが、昔は、歴史と文学の間に明確な区別はなく、歴史上の人物や出来事からヒントを得た創作文学(大衆)がすべてといっても過言ではありません。


古事記、日本書紀、源氏物語 も然りです。
 大衆娯楽の時代劇では、その現代人の感覚に受け容れられやすくするため、現代流にアレンジされていたりもします。水戸黄門も、遠山の金さんもシエクスピアや近代の事件を取り入れているものがあります。
 したがって、大衆時代劇のウソ・本当、を考えてもほとんど意味はありません。作者の意図に従い、単なる娯楽番組とし、割り切って楽しめばよいと思います。
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この回答へのお礼

ご指摘、有難うございます。
古文書の世界はたしかに創作と事実の区別がつかなくて、後世の学者たちを悩ませているようですね。
でも、だからこそ、歴史の真実を理解した上で時代劇を楽しみたいと思って質問をさせて頂いたわけです。
皆様のお答えのお陰で、随分と映画のシーンなどで歴史を誤解しているんだなあと感じたしだいです。

お礼日時:2007/11/10 09:10

またまたすいません。

m(__)m
お礼についてです。
>何も騎士を相手にしなくても、歩兵が槍で馬のお尻なんかをブスッとやったら、騎士が一発で引っくり返るような気がしていた

その通りで、戦国時代の戦では、既に騎馬軍団による突破に対する防衛陣として「長柄の足軽」という部隊がありました。

通常よりはるかに長い槍を立てるか地面に伏せて一列に並べ、敵の騎馬隊が突撃してくると、指揮官の合図で穂先を相手に向けてあげ、石突を地面に突き刺して足で踏んで固めます。
そこに騎馬隊が突撃してきたら・・・みんな串刺しになります。

なので、騎馬軍団による突破は戦国時代には非常に特殊な作戦で、相手が長柄の足軽を用意してないとか、横からの不意打ちとか、特殊な機動に限られました。
正面切って行くと串刺しになるので、当然その前で馬から下りて槍を払いながら徒歩で突撃します。
もしくは騎馬隊に先行して長柄の足軽部隊を進めて相手の槍を叩き落してから騎馬隊が進みます。

では騎馬上での戦いは無かったのか、というと、源平の頃にはありました。
最初に敵味方の両方から腕に覚えのある騎馬武者が一人づつ進み出て名乗りをあげて渡り合います。
どっちかが倒れる度に次の武者が・・・という具合で数回やってるうちに騎馬隊が突撃して乱戦になる、という状態でした。
しかし、足軽が発達し、長柄の足軽などという特殊分業部隊が出るに及んで、騎馬突撃は非常に危険な行為となり、先に述べた特殊戦法に様変わりします。

普通の徒歩の兵隊が動いてる馬を突くのは非常に難しいですけど、一旦止まってしまうと巨大な馬は簡単に突けますので、おっしゃるような話になります。
従ってよほど突破力に優れた騎馬隊じゃなければ、最後まで騎馬で戦うのは無理で、やる時には通常は、一気に相手の陣地を駆け抜けて、相手の軍団を分断するというような使い方でした。
従って、騎馬同士が徒歩の兵隊の中で斬り結ぶ、などというシーンは存在し得ないわけです。
あるとすれば負け戦になって逃げる時くらいでしょうか。
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この回答へのお礼

騎馬戦の本当の姿を解説して頂いて、有難うございました。
映画のシーンなんかとは、全然違いますよね。
よく乗馬したまま、刀を片手で振り回すシーンがありますが、刀って結構重かったように聞いていますし、そもそも停止しているのですが、馬のお尻をプスッとやるのが一番効果的なように感じていました。
でも騎馬の集団が土埃を上げながら全速力で敵陣に突撃して行くシーンって、たしかに映像的に迫力あるので、嘘と分かっていても、いつの間にか今のようになってしまっているんだろうなと思いました。

お礼日時:2007/11/10 09:05

また失礼します。


本当は日本の歴史の方が好きなのですが、ちょっと毛色を変えて、西部開拓史の映画各種について。

必ずインディアンが悪者になって、それを白人ガンマンがカッコよく射殺してます。

しかし、初めてのアメリカ大陸移住者は、スペイン(だったと思う)の船の遭難者でした。
現地のアメリカインディアンの社会は、全くの外部からの侵入者であるにも関わらず、遭難者なので、救助し、手厚くもてなし、生活に必要な食料や住居を与えたり・・・至れり尽せりの大歓迎をしました。

ところがこの遭難者は銃で命の恩人たちを撃ち殺したり追い払ったりして土地を奪ってしまいます。
この成功談がヨーロッパに聞こえて次々に白人移民が大挙してくる事になります。

どうです?これを知ると西部開拓史を見る目が変わると思いますよ。
「フロンティアスピリット=虐待者魂」だと、私の高校の歴史の先生がのたまってました。
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この回答へのお礼

何度もお答え頂き、本当に有難うございます。
お蔭様で本当の歴史の姿が見えてきたような気がします。
アメリカインディアンも本来はそんなに攻撃的でも排他的でも無かったんですね。
白人=正義のイメージなんて、どうでしょうか、多分、ジョン・ウェイン辺りから出来たんでしょうかね。少数民族を悪者扱いにしても、誰もクレームしなかった時代でしょうからね。

お礼日時:2007/11/10 08:59

月。


昔は太陰暦を使っていたから、3日の出来事なら三日月が見えなくてはおかしい・・・しかし、舞台効果を狙ってか満月の中で本能寺の変とか(本能寺の変は六月二日なので、細い月でなくてはいけない)の映像があったりします。

大名行列。
「下に~ぃ下に~ぃ」は原則として御三家のみ。他の大名家は「よけろ~」という掛け声だったそうです。でも時代劇では、全ての大名行列が「下に~ぃ」ですね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
大名行列なんですが、これは初耳です。
他の大名家は「よけろ~」という掛け声だったんですね。
でも今の映画で本当にこの掛け声をやったら、観客たちはずっこけるでしょうね。 映画のイメージって強いですからね。

お礼日時:2007/11/10 08:53

どの時代劇と特定するわけではありませんが、「はい」という言葉。


英語の「Yes」にあたる言葉ですが、これは明治時代に広東語から輸入された言葉で、江戸時代にはありませんでした。(輸入したのは福沢諭吉です)
「然り」とか「左様」と言っていたんでしょうね。
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この回答へのお礼

有難うございました。
えーっ、「はい」という言葉は無かったんですか。
これは驚きました。
でも「然り」とか「左様」って、何となく武士が使う言葉のようなイメージがある(映画のせいでしょうね)のですが、これは町民とか農民なんかも使っていたんでしょうか?

お礼日時:2007/11/10 08:47

表札はなかったと聞いたことがあります。



先に「南町奉行所」表札への指摘がありましたが、さらに、一般の武家の屋敷や、大名の上下屋敷などにも表札は出ていなかったそうです。

なので、テレビに出てくる「尾張藩上屋敷」などという表札は、
・一般には「藩」という呼称は使っていなかった。
・そもそも表札を掲げる習慣がなかった。
の2点で「変」ですね。


また、諱と呼び名の指摘もありましたが、手元にある江戸中期から後期の書類を見ると、幕府の上司に提出する正式な書類などでも「呼び名(字)」の方を署名(花押と呼び名)しているところから、諱は滅多に使わなかったものと思われます。
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この回答へのお礼

有難うございました。
表札を掲げるという事は実際には無かったんですか ・・ ムムッ、よく映画なんかで誰かを尾行していくと、○○藩上屋敷と表札のある大きな門をくぐっていくシーンとかありますが、これも実際には × なんですね。 歴史の勉強になりました。

お礼日時:2007/11/09 15:33

NO.7です。


>最後のお話なんですが、男性も女性も家の中では下着姿だったんですか ・・ 何だかエロイ感じもしますね。 でも当時の人は当たり前の事として何にも感じなかったんでしょうね。
・・・そうです。昭和前半までの田舎では、男性がランニングシャツとステテコであれば、外出着としては立派なものでした。私はこの姿で自転車に乗ってタバコを買いに行きました。
 江戸時代は混浴だったらしいですし(昭和も前半のころまでは温泉の混浴は多かったです)、庶民は家の中では裸同然で暮らしていたと思います。女性は下半身は腰巻、上半身はオチチブラブラでしょう。
 大体着るものは物凄く高かったと思います。昭和に入っても、中国製が輸入されるまではそこそこの値段がしました。江戸時代は手動の機織り機でカタン、カタンですから、なかなかハカがいきません。そんなことも裸くらしに影響しているでしょう。

>蚊に食われるお話、不思議ですね。 蚊に分かったのでしょかね。・・・私の実体験で本当です。しかし科学的な証明はできておりません。蚊に刺されつづけると抗体のようなものが体にできて、それを蚊蚊が察知する(?)。

 「藩」という呼称について、NO.18さん、NO.21さんのどっちも合ってると思います。ずるいかな(笑)。
 ウィキペディアによれば、「藩と云う呼称は、江戸時代には公的な制度名ではなかったためこれを用いる者は一部に限られ、元禄年間以降に散見される程度だった(新井白石の『藩翰譜』、『徳川実紀』に散見)。明治時代に公称となり、一般に広く使用されるようになった。」とあります。
 また、「江戸時代には「藩」の語は儒学文献上の別称であって、公式の制度上は藩と称されたことは無く、「何某家中」のような呼称が行われていた。」ということだそうです。
 ウィキペディアでは以上の通りですが、たしか司馬遼太郎のエッセイで、「中村半次郎(後の桐野利明)は教養がなかったので、他藩の志士に向かって『尊藩』と言うべきところを、『弊藩々々』としきりに言ったので、相手は面食らった。」という意味のことを書いていました。
 司馬は、こんなところはウソを書かないと思いますので、幕末には新しい物好きの勤皇の志士達の間で、流行りかけていたのかも知れません。
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この回答へのお礼

有難うございました。
「藩」という呼び方にはそのような経緯があるんですね。 初めて知りました。 今では当然のように 「我が藩では ・・」 というシーンがありますが、実際には特殊な場合にしか使われてなかったんですね。

お礼日時:2007/11/09 15:30

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