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桶狭間について3つの疑問があります。

1・今川義元の上洛軍は「2万5千人」とありますが、これは実質戦闘員の人数なのでしょうか?例えば非戦闘員の「荷駄隊」も含むのでしょうか。それとも荷駄隊もいざとなったら戦ったので準戦闘員扱いだったのでしょうか。
2・これは仮定質問になってしまいますが、もし桶狭間奇襲が失敗したとして、上洛は可能だったのでしょうか?畿内には三好、六角勢力など健在なのでは?長期戦になった場合、地の利や領国の遠さを考えると長期滞在は無理なのではないでしょうか。
3・そもそも義元自身「上洛」と言う表現はしたのでしょうか?将軍からの上洛要請があったとか、○○将軍を担いでの入京ではないので「上洛」とは呼べないのでは。
と言うより単なる侵略侵攻ではなかったかと思いますが(あわよくば上洛も視野にいれようか程度の)どうなのでしょう。

A 回答 (5件)

1、に関しては・・・


2万5千というのは、出城や砦に出向いている数も含まれていますので、実際に義元と行動をともにしていた数はかなり少ないと思います。
この時代は、相手をビビらせるためにも、数を多くサバ読むのが常なので、正式な数は記録としては残らないでしょう。

2と3に関しては一緒に答えさせていただきます。
この時の義元には、上洛する気はまったくなく、信長の父の代から取ったり取られたりで、うやむやになってる領地をはっきりさせる事が第一目的で、状況によってはちょっと増やしてやろうというのが第二目的。
ですから、もし本当に上洛するなら、一度出直して準備をしないと、このまま上洛というのは、ムリだと思います。

http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/20 …
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この回答へのお礼

1・出城、砦の兵力を含むのですか。やはり元々少ないのですね。その少ない行軍の中にさらに正規の戦闘員は少ないのでしょうね。
2・信秀は結構強かったらしいですね。一度今川を破ったことがあるのでしたっけ。やはり上洛は考えていなかったのでしょうか。にしては兵力かけすぎなのは「海道一の弓取り」の誇示なのでしょうか?

またURLの正面攻撃説も拝見しました。豪雨ならありえますね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/10 22:41

1についてはもう既に答えが出ていますね。

ただ、「織田を制圧するだけならそんなに大軍勢は必要ないのでは?」という疑問もあると思います。その真意については義元に聞いてみないとわかりませんが、政治的デモンストレーションの意味もあったのかな、という気もします。
それまで今川勢と織田勢は取ったり取られたりという局地戦を繰り返していました。このままじゃラチがあかないと考えた義元が大軍勢によって織田方を圧倒することによって流れを一気に今川有利に持っていこうとしたのではないでしょうか。
戦国時代の大合戦て意外なことに長篠みたいに主だった武将が討ち死にするような殺戮戦は少ないんですよね。大抵「勢い」がモノをいっていて、合戦に勝つともう負けた側から勝った側に寝返る連中が続出するので負けた側が滅亡することが多いんです。
だから、三河、尾張の豪族連中が「もう今川で決まったな」と思えばそれで目的は達成されるわけです。

2については、どこまで本人に意志があったかでしょうね。ただ、東海道ルートだとなにしろ織田家に匹敵する斎藤家がまず美濃にいますし、六角、浅井を始めその他にも中小勢力がいっぱいいます。
ただ、尾張を制圧した後伊勢を回って鈴鹿ルートで京都に向かえば京都に行くことは可能だったかもしれないですね。

3ですが、ほとんど知られていませんが、あの上杉謙信も上洛して当時の将軍だった足利義輝に拝謁したりしています。謙信の場合はわずかな供を連れたほとんど「お忍び訪問」に近いものです。そういう意味で、先ほど書いたように鈴鹿ルートで上洛したとしてもそれはなんというか「観光旅行」に近いものになるかと思われます。関係者にお金を配って終わりでしょう。

じゃあなんであんな話になったのかというと、そのほうが小説として面白いからでしょう。
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この回答へのお礼

1・私の「後から疑問」の「何故に織田ごときに大軍が必要か?」に答えてくださりありがとうございます。私も可能性としてはおっしゃるように軍事的デモであったと思います。早く言ってしまうと「見せしめ」。今川家に楯突くとこうなるんだよ!と言う様な。もし桶狭間で織田に勝てば少なくとも近隣小勢力は先を争って今川に恭順の意を表すでしょうね。
2・鈴鹿ルートなら行く気があれば伊賀、甲賀、柳生など小勢力の通過で済みますね。
六角氏は一揆煽動というゲリラ戦法が得意なので意外と敵に回すとやっかいです。近江の勢力はバカに出来ないと思います。その先にはまだ三好勢がいます。京は正規ルートで行くなら遠い地です。
仮定ですが、鈴鹿ルートも面白いです。
3・物見遊山ですね。献上を多くして官位もついでに上げてもらうことも可能かもしれません。元々公家趣味の義元のこと、京にあこがれても不思議ではないでしょう。上洛とは意味あいが違うのが分かります。

歴史の教科書ではどうだったか覚えていませんが、何かの本、小説などで読んで「上洛途中で邪魔な織田をまず血祭りに上げる行動」だと勘違いして覚えてしまったのだと思います。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/11 19:23

1.当時の今川家の領地は駿河の本領の他遠江,東三河、半植民地化されていた松平の岡崎領を併せて80万石強。


留守部隊を残して、荷駄隊等の非戦闘員を含む一万石当たりの動員可能兵数は250から300人と言われていますから、2万5千という数字はほぼ当たっていると思います。

2.他の方も書かれていますが、この当時西三河刈谷の水野信元が織田と同盟関係にあり、孤立した鳴海城と大高城を救援する事と西三河の完全制圧が目的の出兵だったと思います。
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この回答へのお礼

1・80万石×300人で2万4千人でほぼ史実ですか。
この中に松平元康勢も含まれるのですね。戦闘員はやはり誇張されていたのでしょうか。
2・西三河完全制圧において、相手が織田勢ということで少し今川方の戦闘員は多すぎないですか?(やはり準戦闘員の比率が高いからか?)

織田相手に正面衝突となればもう少し手勢が少なくても良いような気はしますが。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/10 22:33

1.前提として、正確な人数は今川義元本人にもわかりません。

『北条五代記』に2万5千人とある人数が、当時の今川家の支配領域から考えて妥当、との推測でしょう。ちなみに信憑性が高いとされる『信長公記』には4万5千となっています。
  当時は百姓でも、普通に武装してますから非戦闘員はいませんが、荷駄などの準戦闘員が3分の2程度の比率だったようです。

2.今川の出陣は、織田に封鎖された大高城を救援するのが目的で、今川義元は上洛の準備を何もしていません。せいぜい尾張制圧くらいが目的でしょう。

3.まったくありません。
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この回答へのお礼

1・仮に全軍で2万5千としても2/3が準戦闘員として1万7千ほどが準戦闘員となりますね。残り7千~8千が正規軍。案外少ない正規軍ですが、わらわらと現れる敵が武装した連中(百姓含む)だったらやはり驚きますよね。織田軍は2千5百ほどなどの説があるのでそれでも敵は多いでしょうね。
2・3・準備もしていないとは、やはり上洛戦と呼べない訳ですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/10 22:25

今川義元が上洛のために尾張を攻めたというのは間違いです。


実際には尾張を占領することが目的で、上洛などは考えていなかったというのが真相でしょう。
軍勢はすべてが戦闘員ではないですし、数もかなり大げさになっています。
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この回答へのお礼

やはり非戦闘員もかなり含まれていたのでしょう。
上洛するには大義名分がなさすぎますね。普通に侵略戦争だったのですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/11/10 22:14

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