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この時代の天皇名はほとんど、諡号、追号、でそれぞれゆわれのある名前ですが、聖武天皇と娘の孝謙天皇だけは、生前の尊称になっています、つまり死後の諡号ではなく、天皇として活躍していた当時、皆から
尊敬をこめて呼ばれていた、名前を死後宮中の諡号の会議できめた
と解釈していいのでしょうか?(遺詔による諡号という解釈でもよいのでしょうか?)聖武とよばれていたようですが、聖武はなにからの出典ですか?

A 回答 (2件)

 天皇の名前、いわゆる諱についてはそれほど詳しいわけではありませんが、私の所蔵本に参考になる記述がありますので、丸写しで恐縮ですが以下に書かせていただきます。


 またあなたの知識と重複する箇所もあるかと思いますが、ご理解ください。まず聖武天皇の追号についてですが、

 没後の称号の種類と沿革
 天皇の崩御後の称号は、これを分けて生前の聖徳を称美するものを諡号、讃美の意を含まず。御在所名その他による称号を追号という。ただし両者を併せて広く追号という場合も多い。
 上古における崩御後称号の制はあきらかではないが、一代ごとに遷都する慣習を背景として、宮都の地名をもって称することが早くから行われた。仁徳天皇の難波高津宮天皇、欽明天皇の志貴島宮御宇天皇、用命天皇の池辺大宮治天下天皇、推古天皇の小治田大宮治天下大王天皇、天智天皇の近江大津宮御宇大倭根子天皇など、どの例は少なくなく、こと元明天皇が臨終に際し、崩後は其国其郡朝廷馭宇天皇と称すべしと遺詔しているのによると、この種の称号は準公定の追号という色彩が強い。
 しかし崩後称号をたてまつる制度が確立するのは、大宝・養老令においてである。すまわち公式令に天皇の諡は平出すべしとし、大宝3年(703年)持統天皇の大葬に当り、大倭根子天之広野日女尊の諡号を奉ったのを始め、文武・元明・元正・聖武・光仁・桓武・平城・淳名各天皇に相ついで和語をもってする和風諡号が贈られた。
 一方、この間に二字の漢語による漢風諡号も選進された。淡海三船(785年没)が勅を奉じて選進した神武以下孝謙ないし称徳までの諡号がそれである。そのうち聖武と孝謙・称徳は、これより先に奉られた勝宝感神聖武皇帝と宝字称徳孝謙皇帝の尊号によるものである。

 以上によると、首天璽国押開豊桜彦尊 勝宝感神聖武皇帝の追号である聖武天皇は遺詔によるものではないことが分かります。ついで聖武天皇の諱の聖武の出典ですが、

 御名・称号・雅号  命名と称謂の沿革
 天皇の御名すなわち諱は、仁明天皇以降はみな二字の佳字をもって命名されたが、淳和天皇以前の御名はいろいろな性格の称謂が諱とされた。ことに上古においては、神武天皇の神日本磐余彦を始め、美称とみなすべきものが多く、後世の諱とやや性格を異にする。ただしその称謂のなかに磐余彦のような地名による称謂を含んだものもあり、安康天皇の御な穴穂も地名によるものである。
 また生母の称謂をもって御名とした例には、舒明天皇の田村、弘文天皇の伊賀などがあるが、なかんずく御乳母の姓をもって御名とする慣習がしだいに定着した。崇峻天皇の泊瀬部を始め、天智天皇の葛城、天武天皇の大海人、元正天皇の新家、聖武天皇の首、孝謙天皇の阿部、平城天皇の小殿(のち安殿と改名)、嵯峨天皇の神野がその例で、ことに『文徳実録』には、嵯峨天皇の御名の由来を説明して、「先朝の制、皇子の生まるるごとに、乳母の姓をもってこれが名となす、故に神野をもって天皇の諱となす」と明記している。
 
 となっています。
 あなたの質問にぴったりの回答にはなりませんが、何かの参考になれば幸いです。なお、出典は 著者 児玉幸多 日本史小百科8「天皇」
初版 昭和53年11月25日 近藤出版社 です。
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この回答へのお礼

解説ありがとうございました、大変参考になりました、
整理すると、
1)古代の天皇にはとくに名前はなかった、
2)淡海三船によりまとめて、後世に諡号がつけられたので自分の
  名前が「天智」というような名前になることは、本人はまったく
  知る由も無かった、
3)聖武は例外で生前朝廷よりの「尊号」の中より2字を取って
  死後「追号」として「聖武」がおくられたので本人にもその
  認識は十分あった、
4)したがって、出典は「尊号」である、

お礼日時:2007/11/22 14:48

私も以前、ネット上でそのような内容の記事を読んだことがあります。


しかし、漢風も和風もどちらの諡号も、生前の事績に対して死後贈られたものです。

『続日本紀』神亀元年(724)2月、聖武天皇即位の記述に
天平宝字2年(758)、淳仁天皇が「勝宝感神聖武皇帝」と諡号したとあります。
また、没したとき(756)には、出家していたので「更に諡を奉らず」とあります。
出家して「沙弥勝満」と名乗っていたからだと思います。

『続日本紀』天平宝字2年8月の記述に
先帝(聖武天皇のこと)が大仏を造り奉ったとき、大仏の形はでき上がったが、塗金が足らなかった。なんとしても完成させたいという願いが天に通じ、「天、至心の信に感して、終に勝宝の金を出せり」とあります。
勝宝は、陸奥国で金が産出したことを指しています。
そして、「勝宝感神聖武皇帝」の尊号をたてまつったとあります。

「聖武」については、
岩波書店『新日本古典文学大系 続日本紀 二』で調べたところ、
「広嗣の乱などの平定を指す」と注記されています。

「天皇」ではなく「皇帝」と名乗ったのは、道教の教えと唐を意識したからだと思いますが、
難問ですね。

孝謙天皇については、『続日本紀』天平勝宝2年の記述に
宝字2年、「百官の上る尊き号を取りて称へまうす」とあります。
天皇ではなく「宝字称徳孝謙皇帝」ですが、
これ以上はまだ調べていません。
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この回答へのお礼

ありがとうございました、

お礼日時:2007/11/22 22:56

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