アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

最近、馴染みの寺に行く機会があったのと
エホバの証人に属してる人との関わりがあったので
宗教について勉強しております。(私自身は無信仰者です)

宗教というのは元々、人間が頭が良すぎたため
死やらなんやら余計なことを考えたり
神的な物を創造し、お供え物をし翌年の豊作を願ったりと
人間の不安を取り除くような一種の保険的なものが
始まりだと思います。
これよりさかのぼると猿人とかになるわけなんですが
そうすると本能のみで生きていますよね?(腹がすいたから食べる、眠いか寝るなど)
てことは、余計な事を考える余地がないので
神などを創造する必要はないので
その時代には宗教はないことになりますよね?

俗にカルト教団と呼ばれる団体は
歴史が浅かったり信者が少ないからカルトに属されると思うんです。
しかし、キリストもヒンズーもイスラムも仏教も全て
元々の趣旨は上記で述べたような理由で
作られたものだと思います。
信者数や歴史が多い、古いからという理由で教科書で紹介されるほど
立派な宗教として確立されてますよね?
しかし、中立的な立場で考えると宗教全ては人類が創造した
カルト集団となると思うんですが、違うでしょうか?
それと
エホバの人と話すと世界は創世記の内容によって作られたとか
聖書の内容が真実だと思っています。(矛盾点は多々有)
正直、誰が何を信仰しようが勝手ですが
結論として宗教全ては人類が進化の過程において
心の拠り所として作ったということでいいんでしょうか?

宗教に中立的な方の意見をお待ちしております。
極度のクリスチャンや仏教徒などは、話がややこしくなるので
回答はご遠慮ください。

A 回答 (12件中1~10件)

ウィキペディアによるカルトの定義。


日本で言うカルト、アメリカのカルト、ヨーロッパのカルトなど、
定義の仕方によってちょっと変わってくるようです。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%AB% …

いずれにしても主流の宗教は、当初は異端だったかもしれませんが、
現代においてはカルトとは言えないでしょう。
反社会的でなくて、社会の側にありますから。

キリスト教は、イエスが出てきた頃は新興宗教で、体制側や既存勢力からしたら、困った存在だったでしょうね。
イエスがエルサレムの神殿で商売をしている人たちの店を、神殿で商売するな!と怒って蹴散らす場面がありますが、
ひえー暴れん坊!と思ってしまいました(^^;
だって今まで普通にやっていた生活の場に神の子と称する青年がやってきて店をひっくり返したら、かなりびっくりでしょう・・・・
まあ、イエスが力に訴えるのは珍しい行動だったのでしょうけど。

私も「神様って何だろう??」と思って本を買ってみたことがありますが、あまり頭に入っていません。
中沢新一さんは、好みが分かれるかもしれませんけど。
(基本的には好きなんですが、この本はあまり語り口が好きになれなかった。一人称に「わたしたち」を使い過ぎな気がして)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E7%99 …


他の方へのお礼コメントで進化論のことをおっしゃっていますが、
米国の保守派クリスチャンたちは、進化論を教科書に載せるかどうかを大真面目に議論しています。
学校で教えるのに反対な人もけっこういるみたいですよ。

#11の方がおっしゃるような面はあるようですね・・・・・
長い歴史を持つ宗教だと修行中の危険に対処するためのノウハウが培われているようですが、新興宗教でしかも慎重派でない場合はヘンな方向にハイになりやすいとか。

古い宗教は簡単に出家させてくれないんじゃないかな?
出家したいと若い人が言うと「考え直しなさい」とか「もう少し待ってみなさい」などと逆に止めたりします。
また、一人前になるのに年月もかかります。
そういうのがイヤだと、簡単にすごいことをやらせてくれるカルトに行っちゃう人もいるのかもしれません。

そういえば、ユングの集合的無意識という考え方はご存じですか?
神話的な考え方とか。

参考URL:http://www.ne.jp/asahi/village/good/jung.htm
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
私もまだまだ
科学的なことに未熟なので
さらに勉学に勤しみたいと思います。

ユングやニーチェなどの本を読んだりしてますが
他にも色々な書物を読もうと思います。

お礼日時:2007/12/05 20:42

 多くの方が人文科学、特に高校の教科で言うなら『倫理社会』的な面から言及されているので、自然科学的な面からコメントしたいと思います。



 人間は、元々群れで生活する動物として何百万年も進化を続け、遺伝子に組み込まれた群れを維持する多くの能力を持っています。
 これらの働きについては、私たちが普段の日常生活を送っている限り、「人間の個人の意識」が、『その存在』を強く確認することはほとんどありません。
 これらは、それほど当たり前のものであったり、潜在意識の底にもぐりこんで、活動していない状態であったりします。

 ところが、人間の生理状態を特殊な状態にすると、(例えば、長時間の不眠や過呼吸など、特殊な生理状態を続けると、一種の非常スイッチが入って、この潜在意識が活性化し、普段はありえなかった状態になります。例えば、マラソンのランナーズハイやヨガなどの、脳内麻薬が大量に出る状況がその一つです。)自己暗示性が急激に強くなり、集中力が格段に増し、世間で言う『オーラ』の出ている状態になることがあります。

 この状態をある程度続けることが出来ると、受験や会社の営業など、他人から見て驚くほどの成功を収めることも可能になります。

 原始宗教以外の教団を形成するほとんどの宗教は、この自己暗示性の活性化を大なり小なり利用していると思われます。 
 アジア系の仏教やヒンドゥー教では、自分でコントロールできる範囲で、比較的安全にこの特殊な生理状態にはいる方法として、ヨガや座禅などの手法を用いています。(安全≒劇的な効果が少ない場合が多い。)
 キリスト教の修道院生活は、禅宗の修行とほぼ同じ様な生活ですし、コーランの独唱は長時間続けると、特殊な呼吸法を続けているのと同じ効果があるようです。

 密教などの、修行時には弟子を必ず手元において直に教える『不立文字』なども、自己暗示性が強くなった時に暴走しないよう、目を離さない意味があると思われます。

 自己暗示性が強くなった時は、それまでの生活で、自分の心の底にあった「信じたいこと」や「拠り所」としていたものが、心の表近くに出てきて、『強い確信』になりやすい状態になります。

 普通の生活を送っていた人がこの状態になった時、一般的には「自己の存在を肯定し、人間としてのまとまりや社会貢献を良いもの」と確信することが多く、そばで見守るだけで良いことが普通です。(潜在意識に自己否定や社会否定があると、暴走することもあります。)

 この自己暗示性が強くなった時に、師となっている立場の人間が、自分の都合の良い方向付けを複数の人に行えば、カルト教団が出来上がります。

 このようなことを体験するのは、自分の体で人体実験をするのと同じで、極限状態を経験することのない現代では体験可能な場所・機会がかなり限られます。宗教施設以外ではほとんどないといえるかもしれません。
 体験者ならば、自己暗示性の強くなった状態での危険性は知っているはずで、安易に人に勧められるものではないと認識しているはずですが、カルト教団では積極的に勧誘し利用しますから(マインドコントロール)、世間ではマイナスイメージが強いかもしれません。

 人類が生物としての進化の過程で得た、貴重な能力なのですから、その活性化手法は失われない方がよいとは思いますが、悪用される可能性は常にあります。
 よく利く薬は、量を間違えれば常に毒薬となります。 
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。
別な観点からのご意見、大変参考になります。

人は知らず知らずのうちに誰もが洗脳されていますよね

お礼日時:2007/12/05 20:38

> その時代には宗教はないことになりますよね?


ラットの実験で、ラットが原始的宗教行為を行うことが確認されています。これを宗教と呼ぶかどうかは別として、人間にしか宗教が無いというのは一考の余地があるかと思います。

> 歴史が浅かったり信者が少ないからカルトに属されると思うんです。
いわゆるカルトかどうか、という私なりの定義ですが、

1.多大な金と労力の供出を強要する
2.階層主義である
3.教義は絶対であり反論することは許されない
4.信者にとって宗教が絶対であり、他のものは軽視する

という四つでしょうか。
例えばカソリックなどは、2.だけが当てはまりますが、その他には特に当てはまる点は無いので、カルトではないと思っています。
ただ、長い期間の中で淘汰されていった結果、いわゆるカルト以外の宗教が残った、ということではないでしょうか。

> 結論として宗教全ては人類が進化の過程において心の拠り所として作ったということでいいんでしょうか?
私はそう思っています。
ただ、新興宗教の一部には、信者にとっては心のよりどころかも知れないが、教祖(宗教の上層部)にとっての金儲けの手段として作られたものも少なくない、とも指摘しておきます。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
確かに最近できた宗教は元が儲かるから
やっていますよね。
しかし、信者はそれに気づかず信仰している人がいるのも現実ですね

お礼日時:2007/12/05 20:36

ぼくは本来無宗教の人間ですが、一度だけ神にすがる気持ちを持ったことがあります。


今年の春にぼくは病気をして手術を受けることになりました。手術の前に同意書を書かされる時、執刀の先生は若い先生だけど大丈夫だろうか? 全身麻酔をかけられる時は再び目が覚めなかったらどうしようと非常に不安でした。同意書には確率は低いけど事故がゼロでは無いと書いてありました。全身麻酔をかけられるのですから自分ではどうすることもできません。執刀の先生と自分の運を信じるしか無いわけでこれが宗教の根源だと思いました。ですから、宗教心そのものは人間の自然な気持ちだと思います。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
私も昔は神を信じていた時期がありました
なにかあると神様仏様でしたから。

頼るものがないから
すがるんですよね?
しかし、それは頭のいい人間だからこその考えではないでしょうか?
考える力がなければ死への恐怖なんてないんですから
すがる必要がないはずなんで。

お礼日時:2007/12/05 20:33

そもそも「カルトとは何か」がご理解頂けていない中で「宗教はカルトか」という質問自体が、さほど意味を成さないのではないかと思いますよ。



カルトというのは宗教とは大きく異なります。それは教祖がいるとか、金銭を求められるとか言う定義ではないのです。

カルトという時に第一の定義としては「極端な非社会性」が挙げられます。
つまり、オウム真理教の「出家」のような、一般社会との断絶がある訳です。信徒を一般社会から強制的に断絶させて、「一般常識的な判断力を奪う」訳です。
また、社会常識から逸脱した非合法的活動も多く見られます。

それから、脱会が困難である事もあります。
信徒が脱会を希望した時に、家族や他の信者などから「圧力」をかけ、脱会を断念させるのです。監禁をして洗脳を行う事もよくあります。暴力や薬物投与、財産を納めさせて社会生活を営めなくする方法もとられます。

こういう行動をとるのが「カルト」ですが、全ての宗教はカルトでしょうか?もう一度お考え下さいな。

ちなみに、旧来の宗派とは別に起きた新興宗派の内、カルトではない物を「セクト」と言います。カルトとセクトを混同されてはいないでしょうか?

ちなみに私は老荘思想の持ち主です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
7でお礼を言ったのと同じように
本来の意味でのカルトではなく
俗に言うカルトというものです。

厳密にいうとカルトといっても定義があると思います
しかし、私のいうカルトとは今現在で浸透している意味でのカルトです。
私の説明に至らない部分があったのは申し訳ありませんでした。

その俗にいうカルトだと
今現在は浸透している宗教でも始まりを考えると
当初はカルトだったのではないのか?
と、いうことです。

お礼日時:2007/12/05 20:28

心のよりどころですね。


宗教は自分に理解出来ないことを妄想で補った物ですから。
森羅万象なんて簡単に理解出来ませんからね。
押さえてもらいたいのは、古代の非科学の時代では一つの宗教が最先端の科学でもあり文化教養でもあったこと。

しかし、今は科学や文化教養が一つの宗教から離れていること。
昔は高い位置にありましたが、今は分かりやすい宗教に頼る必要が無い。
昔の宗教の役割は時代を経て移動しているのです。

日本では「道」として色んなモノに分けられてますね。
柔道はその道を失い役割が失われてますが。


カルトは定義しにくいですね。
ただ、宗教は力無き人間が心の不安を打ち払う為に編み出した心理であるので、それが無くなればその宗教はその存在を無くします。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。
カルトも本来の意味と
現在の俗に言うカルトでは違いますからね。

お礼日時:2007/12/05 20:44

ANo.3のものです。



>心の拠り所として作った

のではないのですよ。
太陽を神だと思っていた時もそれ以前も
それに頼るのではなく
畏敬や畏怖の対象だったわけです。
原始的な宗教特に自然と結びついたようなものは
現在においてもそうですが
あくまで畏敬や畏怖の対象で
そこにすがるための信仰ではないわけです。
確かにあなたが言うように
太古の人類は太陽の役割など知らなかったでしょう。
西から東に沈むことですら考えもしなかったでしょう。
がしかし
自然が畏敬や畏怖の対象であることを経験的に体験的に知っていたわけです。
ゆえに拠り所ではありません。
また当然あなたが言うようにそのころは神という概念はないわけですから
それを神だとは思ってはいないわけですが
今の我々の概念に当てはめて
それを信仰と言い
太陽を神だと思っていたと言うわけです。

少なくとも拠り所になるのは
もっと人類や宗教が社会的に文化的に発達した段階でのことです。
むろん、心の拠り所として作られた宗教もあるでしょうが、
それはくどいようですが
人類がある程度成熟した段階での話です。
また全ての宗教はさかのぼると
原始的な信仰の源流⇒太陽信仰などに少なからず影響を受けています。
そういった意味では
信仰の歴史は人類の歴史でもあるわけですが
以上のようなことから
全ての宗教をカルトという現在の思考の枠組みに組み込ませるのは無理があります。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

私の言うカルトというのは
本来の意味を全て受け止めてるではなく
現在で言うカルトの定義です。
オウムだとかパナウェーブだとか
俗にカルトと言われますよね?

しかし、教科書に載るような宗教でも
始まった当初は俗に言うカルトだったのではないのかと
思い質問した次第であります。
初めはマイノリティだったのが長い年月を得て
マジョリティに逆転されたので
当然なことになったのではないでしょうか?

お礼日時:2007/12/05 20:22

日本人の多くは「私は無宗教です」といいますが、それは単に宗教に「無関心」なだけであって必ずしも「確信を持って宗教を信じない」わけではありません。


例えば、病死すると多くの場合病院から遺族に献体をしてもらえないかと提案されます。しかし90%以上の確率で断られます。
また、自分のボロくなった車を廃車するにあたってどこかの業者が「使える部品を引き取らせて欲しい」といえばまあ断る人はいないでしょう。しかし、自分の家族がもう死ぬというときに臓器提供をしてくれといわれて首をタテに振る人もまた極めて少数です。人間は車とは違うという時点でそれは宗教的見解に他なりません。極めて科学的に考えれば車は鉄の塊、人はたんぱく質の塊に過ぎません。

「神や宗教指導者の言葉を妄信するのは愚かなことだ」と自称無神論者はいいますが、では本当に地球は太陽の周りを回っているのかきちんと計算した上で信じている人はごく少数でしょう。進化論を信じたとしても、生物学者なみに研究したわけでもありません。ただ、「学校で教わったことを信じている」だけです。そういう意味では宗教指導者がいうことを信じているのと変わりません。教科書を信じるのは「偉い科学者が書いているんだから間違いはないだろう」という信頼の元です。宗教を信じるのも「偉い人たちがそういっているんだから間違いないだろう」という点で同じです。

「科学で説明不可能なことを信じる人は愚かなことだ」という人もいます。ところが困ったことにこういう人は科学が「全てを説明できる」と妄信しているだけなのです。それは本質的に「神が全てを説明できる」と信じていることと全く変わりません。例えば、トンボがなぜ空を飛べるのか現代物理学はまだ説明ができません(仮説はありますが証明されていません)。しかし科学で説明できないから「トンボが空を飛んでいるのは目の錯覚だ」という人はいないでしょう。

くどくどとなにがいいたいのかというと、要はこの国の「無宗教論者」は「無宗教教」というのを信じているのに過ぎないんです。特に日本人のメンタリティには一神教はちょっと受け入れがたいものがありますからね。「宗教を否定も肯定もしません」なんていうのも極めて日本人的な回答ですよね。イエスともノーともいわず曖昧なところにしておきたいのです。
信仰っていうのはね、車みたいなもんですよ。車は便利で生活に欠かせませんよね。その一方で一歩間違えればとんでもない凶器にもなります。信仰を有益なものにするか、凶器にするか、それはその人次第なわけです。
ついでに蛇足ですけど、死んでから3日たって蘇ったとか病気の人をたちまちに治したなどという「奇跡伝説」は信仰の本質とは全く異なるものです。信仰は本来「奇跡が起きる(あるいは何か自分にいいことがある)から信じる」のではなく「奇跡を見なくても信じる」ことが本質だからです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

私は、全否定をしているわけではありません
確かに科学で証明できない部分も多々あります。
しかし、私的には信じていないので
死んでも位牌や葬儀やらをしてもらうつもりはありません。

正直、生まれてから色々な情報が飛び交っている現代では
本当に無の考え方をするのは不可能だと思っています。
何故なら生まれてからすでにマインドコントロールにかかっているからです。
親や学校でこれが悪いことだとか
教えられますけど、それがすでに洗脳だと思います。
所詮、人間の定義で決めたルールなので
それが正しいのかと思うとそれすら怪しいからです。
人を殺すのは悪いことだが
動物はOKだとか
動物も絶滅しそうなのは保護するだとか
それも人間の考えたルールですよね?

人間は頭のいい動物だから
どうでもいいことも考えてしまうんでしょうね
それは愚かなことだけど、それが人間にだけある
素晴らしいことでもありますよね?

お礼日時:2007/12/05 20:15

ANo.1です。



私は無宗教のため、神の存在を肯定も否定もしないのですが、人間に知能が無ければ、神はつくらないし、それに対して信仰もしないというのは、確かにそのとおりだと思います。

私は宗教に詳しくないため、どの宗教が正しくて、どの宗教は正しくない、ということはわかりませんが、強制的、あるいは半強制的に、信者から、少しでもお金を寄付させる宗教もその神も私は信じません。

皆が集まって、悩みや、不安なことを話し合い、心を助け合うことは私は良いことだと思いますが、その宗教の中身が、営利目的あるいは政治に利用するようであれば、悪徳事業くらいにしか私には思えません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

>皆が集まって、悩みや、不安なことを話し合い、心を助け合うことは私は良いことだと思いますが

私もそう思います
それが本当に利益のない
純粋なことならばですけど。

お礼日時:2007/12/05 19:14

無神論者で少々歴史をその筋の所で勉強したものです。



まずもって宗教に詳しいわけではないので
カルトの詳しい定義が分からないのですが。。。

キリスト教も仏教もイスラム教も
発生当初の信者が少数な頃は異端な感じだったわけですよね。
ということは今で言うカルトとその当時の状態は言えるかもしれませんが
千年単位の長き時間をかけて徐々に信者を獲得し信じて一般の伝統文化のレベルまで浸透してきたわけですよね。
なので今はカルトではないわけです。
一般的な日本人の信仰レベルを考えればよく分かるかと。。。
クリスマスやら初詣やらをカルト的な行事だと思って参加したり行ったりする人はいないわけですよね。

ようは仮に現在カルト的な宗教があるとして
これが
何千年の周期で伝統文化にまで浸透してきたらカルト教団も立派な宗教たりえるわけです。
つまりは現在カルトといわれているものは歴史が浅く認知もされていないんだと思います。
言葉を変えるなら異端と言う奴です。

それから
古代において
神は保険的な意味合いで創造したとするのはちょっと語弊があるかと思います。
世界各地に太陽神信仰などはあるわけですよね。
太陽を神だとしたのではなく
太陽を神だと思っていたのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます

>何千年の周期で伝統文化にまで浸透してきたらカルト教団も立派な宗>教たりえるわけです。
>つまりは現在カルトといわれているものは歴史が浅く認知もされてい>ないんだと思います。
>言葉を変えるなら異端と言う奴です。

私も同じ考えです。

>太陽を神だとしたのではなく
>太陽を神だと思っていたのではないでしょうか?
古代といいますが
それは文明が発達している
時代ですよね?
てことは太陽などの自然が生きていくうえで大事だとか
思っている人々がいるってことになりませんか?

もっとさかのぼって
殆ど本能で生きていた時代ならば
太陽がどういう役割をしているのとか
そんな疑問も抱かないはずですよね?
するとその時代には神的なものは不必要じゃないですか?

お礼日時:2007/12/04 21:22

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!