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この前デカルトの我思う、故に我ありについて話していたのですが、
「僕は自我は真実だし疑うことはできない」といったのですが「自我、つまり意志は言葉を使う。言葉なしでは意志できない。言葉が嘘なら自我も嘘だ」といわれました。
僕もその通りかなと思ってしまいました。
これはデカルトの反論になりえるでしょうか?

A 回答 (3件)

なりえません



『方法序説』をお読みになれば理解できると思うのですが、
デカルトの「我思う、故に我あり」は

 ~仮に全能のデモンが私を(世界があるかのように)欺いているとしても、欺かれている私(の意思)は存在する~

と言う意味です。

言葉云々と言う反論をデカルト風に返すならば
「言葉と言う概念は嘘でも、その嘘を認識している私は存在している」

また、「言葉なしでは意志できない」の根拠は何でしょうか?
言葉を持っている人間の傲慢のようにも感じられます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
やっぱりその本人の著書を読まないとその人の思想っていうのはわかりませんね。
失礼しました。
そもそも僕は全てが嘘という状況があまり理解できていないのかも知れません。

>言葉を持っている人間の傲慢のようにも感じられます。
確かにその通りですね。
動物にも意志もありますし。

お礼日時:2007/12/05 04:14

>「僕は自我は真実だし疑うことはできない」


>「自我、つまり意志は言葉を使う。言葉なしでは意志できない。言葉が嘘なら自我も嘘だ」

自我は僕にとって真実ですし、僕は疑うことはできません。
これに言葉(狭義の文字通りの言葉)の使用、不使用は関係ありませんし、言葉は、僕が疑うことのできない自我に不可欠な要素ではありません。言葉を使わない画像系、イメージ系の思うで十分です。
僕には疑う余地のない自我であっても、僕の自我は彼にとっては疑う余地のある客体であるため、言葉(広義の言葉であらゆる伝達手段)が嘘があれば、この客体も嘘と認識されるということなのでしょう。
でも、これは視点がずれているので、正面からデカルトの反論にはなり得ないでしょう。
たとえ僕の言っていることが嘘であっても、彼には彼の自我があって、彼思うならば、彼には彼がある・・ハズですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
そう考えるとデカルトってプラトンと非常に近いところにあるのですね。

お礼日時:2007/12/05 04:26

なりえる。


なぜなら、我思う。故に我あるため。
自我、つまり意志は言葉を使う。とあるが言葉を使わない自我もあるのでは?
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/12/05 04:05

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